おじいちゃんの投網

「おじいちゃん、今日ね、湖上体験スクールに行ってきたんだよ」

小学四年生の宮田順平は、学校から帰るなり、ランドセルを放り出して祖父の孝太郎に言った。孝太郎は江戸時代から続く霞ヶ浦の漁師の家系だが、今は網生簀で鯉の養殖業を細々と続けてきた。しかし、十数年前、コイヘルペス病で大損害を受けてからは、元気がなかった。顔は赤銅色をしていたが、頭髪は白髪混じりで薄くなっていた。毎日午前中は、霞ヶ浦の鯉養殖場で給餌しながら、鯉の状態を確認した。昼食後の午後は自宅の縁側に座り、霞ヶ浦へと続く広大なハス田を眺めるのが習慣になっていた。孝太郎は、学校から帰ってくる孫と話をするのが楽しみだった。 

「ほう、湖上体験スクールか。何を勉強してきたか、おじいちゃんに教えてくれよ」

「うん、あのね。学校のクラスのみんなと担任の今井先生と一緒にバスで土浦の港に行ってね。それから遊覧船に乗って、霞ヶ浦の勉強をしたんだよ。水質も調べたし、プランクトンも観察したんだ」

 順平は、初めて遊覧船から霞ヶ浦を見たのだった。

「船の上から見ると、霞ヶ浦はね、とっても広くて海みたいだった。スクールの先生は、大昔の霞ヶ浦は海だったって、言ってたよ。おじいちゃん、本当なの?」

「そうだな。縄文時代や奈良時代は、霞ヶ浦は海の入り江だっぺよ。江戸時代の初め頃までは海の水が入ってきて、霞ヶ浦の水は塩辛かったんだぞ」

 順平は、目を丸くした。

「ふーん。おじいちゃんが船を出して、霞ヶ浦に行く時、カワに行ってくるって言うよね」

「このへんの漁師は、霞ヶ浦をカワと呼ぶんだよ。子どもの頃からカワと言っていたなあ」

「こんなに広いのに、カワって言うの、変だよね」

孝太郎は、目を細めて孫を見つめ、それから霞ヶ浦の方を見て言った。霞ヶ浦の湖面は、堤防の向こうに、水平に広がって見えた。

「大昔、霞ヶ浦は流れ海と言ったそうだ。流れがあったからだろうな。流れがあるから、カワと呼びやすかったんだ。それで今でも漁師はカワと呼ぶんだよ」

「ふーん。それでね、スクールの先生は、霞ヶ浦では百種類以上の魚がいたって言ってたよ。でも今は半分の五十種類くらいじゃないかって」

「昔は海とつながっていたから、海の魚が入ってきたんだっぺ。それに、昔は水がきれいだったから、いろいろな魚がいたんだ。確かに今は少なくなったが、スズキ、ボラ、ワカサギ、シラウオはまだ獲れるな」

 それを聞いて、順平の顔が輝いた。

「そうだ。もうすぐ夏休みだから、自由研究で霞ヶ浦の魚のこと、調べてみようかな。おじいちゃん、霞ヶ浦の魚のこと、教えて」

「おお、いいとも。おじいちゃんは霞ヶ浦の漁師だから、魚のことはよく知ってるぞ」

「やった。お父ちゃんは仕事のことばかりで、あまり教えてくれないんだ」

 順平の父は、近くに出来た工業団地に勤めていた。孝太郎は、諦めの口調で言った。

「順平の父ちゃんは、子どもの頃から霞ヶ浦に興味がなかったなあ。だから魚のことは、よく知らないだろう」

「おじいちゃん、魚を獲ってよ。僕はデジカメで魚の写真を撮るから。その写真に、おじいちゃんに教わった説明をつければ、すごい自由研究になるよ」

「なるほど。デジカメなら簡単だっぺな。グッド・アイデア」

孝太郎は、親指を立てて、順平に突き出した。

「うん、約束だよ」

順平は嬉しそうに、孝太郎とハイタッチした。

                 *

風がない晴れた日には、猛暑を予感させるように、霞ヶ浦の周りの台地の上に午前中から入道雲が出るようになった。小学校は夏休みに入った。土曜、日曜には、観光用の帆引船やヨットが湖上に出て、順平の家からも眺められた。

その日の宿題をやり終えた順平が、祖父に言った。

「おじいちゃん。そろそろ、霞ヶ浦に魚獲りに行こうよ」

「ああ、そうだったな。霞ヶ浦は広いからなあ。魚を獲るといっても簡単じゃないぞ。それに、沖にいる魚と岸辺にいる魚は違うからな」

 良平は勉強机から本を持ってきた。「霞ヶ浦の魚たち」というタイトルだった。

「この本、学校の図書館から借りてきたんだ」

「そうか。よーく、読むんだぞ。だが、まず自分の目で実物を見ることが大事だ。それに、魚の写真を撮りたいんだっぺ。わかった。明日の朝、漁師仲間の船に乗せてもらえるか、たのんでみっか」

                      *

 夏の霞ヶ浦の朝は、とても気持ちがいい。水面の向こうに朝日が昇り始める頃、漁師の昭雄の船がドックを出た。舟の上に順平と孝太郎の姿があった。順平はオレンジ色のライフジャケットを着用させられていた。昭雄は孝太郎より少し若いが、髪には白いものが混じり始めていた。赤銅色の顔には皺が刻まれていたが、人懐こい眼は順平に優しかった。

「順平。じいちゃんと漁に出られていいな。この船はな、これからワカサギを獲りにいくんだ。トロールで網を引くんだ。夏休みの自由研究に霞ヶ浦の魚を調べるそうだな。ちゃんとワカサギの写真を撮るんだぞ」

 昭雄の声は、高まるエンジン音にかき消されそうだった。

「これから沖に向かうぞ。船のスピードが出ると風が強くなるから、帽子が飛ばされないように、腰を下していろよ」

 霞ヶ浦は無風で、湖面は鏡のように凪いでいるが、澄んだ大気の中を突っ走る船上は爽やかな風が吹いた。白い航跡が船の後ろに長く伸びた。筑波山が遠くに見えた。順平の家がある集落は、湖面の向こうに遠ざかった。

「よし、このへんでいがっぺ」

 昭雄はエンジンを切って船を止めると、網をおろし始めた。孝太郎も網をおろす作業を手伝った。若いころは孝太郎もワカサギのトロール漁をやっていたので、段取りは骨の髄まで染み込んでいた。順平は、わくわくして写真を撮り始めた。孝太郎が言った。

「順平。水の中さカメラを落とさねえように、ちゃんと首からかけておけよ」

順平は素直に肯いた。孝太郎と昭雄のてきぱきとした動きに、順平は眼を見張った。

昭雄は網についている丸いオレンジ色の浮き玉と畳半分大の板を二枚、最後におろした。

「トロールの網は浮き玉で浮かせて、下からは錘で引っ張って、上下に拡げるわけだ。左右に開口板がついていて、水圧で板が右と左に分かれて、横にも網を拡げるんだ。今日はワカサギがたくさん獲れるぞ。夏のワカサギは、まだ小さいな。ワカサギは春の始めころに卵を産むのは知ってっか」

 昭雄は、素朴な茨城弁丸出しで、順平に言った。

「うん、本で読んだ」

「そうか、勉強してきたんだな。さすが、孝太郎さんの孫だ」

 順平は、昭雄に誉められて嬉しくなった。

「春に生まれたワカサギは、夏にはまだ小さいんだ。小さいワカサギを捕るから網の目も細かいんだ。さあ、網を引くぞ」

昭雄が再びエンジンをかけると、舟は勢いよく走り始めた。舟の後方に網の位置を示すオレンジ色の浮き玉が尾いてきた。孝太郎がエンジン音に負けないように大きな声で順平に言った。

「船のスピードが遅いと、ワカサギが逃げてしまうから網に入らない。スピードが速過ぎると燃料代がかかる。昭雄さんは長年のカンで、ちょうどよいスピードで船を走らせているんだ。それに、今日は、どのへんにワカサギがいそうか、よーぐ、わがってんだ」

二十分ほど、船を走らせると昭雄はエンジンを止めた

「さあ、網を上げてみっか。今朝はどれくらい入ったか。漁師は網を上げる時、一番ドキドキするんだ」

 昭雄と孝太郎は二人で手際よく協力して網を上げ始めた。網は水を含んで重く、入ったワカサギで大きく膨らんでいた。順平は、夢中でカメラを構えた。

 昭雄は網を船上に上げるとプラスチック製のコンテナの上で、網の先端のシドと呼ばれる部分を縛っていた細いロープを解いた。網に詰まっていたワカサギがコンテナに収容され、たちまち、四箱のコンテナが満杯になった。

「すごーい」順平は息を呑んだ。

「順平、写真撮るのを忘れんなよ」孝太郎が冷静に言った。

「あ、そうだった」順平は、あわてて何回もシャッターボタンを押した。

「まずまずだな」満足気に昭雄が言った。

「雑魚を除いても、正味四十キロってとこか」

 コンテナのワカサギの写真を撮っていた順平が言った。

「あ、透き通っている魚がいるよ」

 孝太郎がコンテナを覗きこんだ。

「ほう、シラウオだな。ワカサギ漁には、シラウオがよく入るぞ。三杯酢で踊り食いすると何とも美味いもんだ。朝から一杯飲りたくなるな」

「あっはは。孝太郎さんは酒が大好きだからな。あ、ほら順平、こっちのコンテナにはボラが入った」

「あ、ほんとだ、跳ねてる。元気がいい」

「ボラは、夏にトロールの網によく入るが、金にはなんねえ。猫のえさか畑の肥やしだ」

 順平は、また別の魚を見つけた。

「見たことない魚がいるよ。じいじ。これは何?」

 コンテナのワカサギに混じって、小さな鯛のような体型の魚がいた。

「ブルーギルだ。アメリカから来た魚だ。前はたくさん増えたが、今は減ったな」

「ふーん。これがブルーギルか。写真に撮って、友達に見せよう」

 獲れた魚を眼で確認していた孝太郎が、驚いたように言った。

「おっ、ペヘレイが入った。最近は珍しいな。以前はよく網に入ったが、最近はいないなと思っていた。まだ少し、いるんだな。ペヘレイは銀色の側線が目立って、きれいな魚だ。アルゼンチンから来た魚だ。ペヘレイも二十年くらい前はすごく増えて、ワカサギより獲れた時もあった。今はほとんどいなくなった。食べれば、クセがなくて美味い魚なんだ」

「でも霞ヶ浦ってすごいね。いろんな国の魚がいるんだね」

「すごいっていうか、困ったというか。人間の世界より、霞ヶ浦の魚の世界の方が国際化しているみたいだな。あっはっは」

 孝太郎は複雑な表情を浮かべ、苦笑いしながら獲れた魚を眺めた。

 気を取り直したように、昭雄が言った。

「さあ、せっかく船を出したから、もう一回だけ網を入れて、今朝は上がるとするか」

 昭雄はエンジンをかけ、船を移動させ、漁場を替えて、網をおろした。ひとしきり船を走らせてエンジンを止め、網を上げた。ほとんどの魚はワカサギだったが、一回目とは違う魚が入った。孝太郎が言った。

「ほう、ハクレンが入った。まだ、子どものハクレンだからいいが、大きなハクレンは力が強くて、網を破って逃げてしまうよな」

昭雄が相槌を打った。

「そうだ。三年前、一抱えもあるハクレンに網を破られて、大きな穴が開いて、ワカサギに逃げられた。網の穴を繕うのに手間暇かかって迷惑した。破れた網を修繕するのは漁師の仕事だから文句を言ってはいられないけどよ」

順平は上目遣いに大人たちを見て、聞いた。

「ハクレンって、食べられるの?」

孝太郎が応えた。

「食べられるぞ。中国では昔から食べているそうだ。でも霞ヶ浦のハクレンは、臭いが強くて食べる人はいないなあ」

「ふーん。中国から来た魚なんだ。ハクレンも写真を撮っておこうっと」

順平は、カメラのレンズをハクレンに向けて、構図を決めて、シャッターを押した。

昭雄が舟のエンジンをかけながら、言った。

「さあ、だいぶ陽が昇ったから、戻るとするか」

昭雄は舳先を港方向に向け、スピードを上げた。

                      *

夏休みも半ばを過ぎた。学校のプールから帰ってきた順平に、孝太郎が声をかけた。

「順平、プールはどうだった。だいぶ、泳げるようになったか?」

「うん、平泳ぎで二十五メートル、泳げるようになったよ。二学期が始まるまでに五十メートル泳ぐのが目標なんだ」

「五十メートルか。そりゃ、たいしたもんだ。ちょっと、こっちさ来て見ろ」

 孝太郎は、順平を掴まえると、半ズボンをおろした。順平の腰のところだけが白く目だった。

「ははは、尻だけ白いな。よく日焼けして、よろしい」

 孝太郎は順平の尻をピシャリと叩いた、

「やめてよ、恥ずかしいよ。そうだ。おじいちゃんは泳ぎの名人だよね。おじいちゃんは何メートル泳げるの?」

「そうさな、計ったことはねえが、若いころは一キロでも二キロでも泳げたもんだ。漁師は、もし船から落ちたら、助けが来るまで浮いているか、岸まで泳ぐしかない。だから、このへんの子どもはみんな夏になると、霞ヶ浦で泳ぎを覚えたもんだ。そのころ、学校にプールはなかったんだ」

「ヘー。すごーい」

「昔は霞ヶ浦にたくさん遊泳場があってな。そのうち、浮島や天王崎の遊泳場は遠浅の砂浜が広がっていたから人気があった。土浦の町から遊覧船に乗って遊泳場に行く人が多かった。このへんは霞ヶ浦がすぐそばだから、夏になると子どもらはパンツ一丁で、浅瀬で遊びながら泳ぎを覚えたんだ。親や先生は忙しいから、見張ってなんかいられない。上級生が、下級生が溺れていないか、見張っていたんだ。それでも深い砂利穴に嵌ったり、足に藻が絡まったりして、溺れてしまう子どもがいたんだなあ」

 順平は祖父の話に聞き入った。孝太郎は続けた。

「岸辺で、はだしで遊んでいると、足の裏にタンカイ(カラスガイ)が当たる。潜って採って、家に持ち帰ると、母親が煮付けにしてくれたもんだ。順平のひいばあちゃんだ。順平が生まれる前にひいじいちゃんも、ひいばあちゃんも亡くなったなあ。順平は知らないわけだ。シジミもたくさんいたから、ブリキのバケツに半分くらいはすぐ採れて、味噌汁になったんだ。いい味出たな。今じゃ懐かしい味だ」

「岸辺で、魚取りもしたの?」

「んだとも。岸辺には小魚がたくさんいて、網で簡単に取れた。ゴロやテナガエビは小さい子どもでも簡単にとれた。ゴロは佃煮になるんだ」

「知ってる。本で読んだよ。ゴロにはいろんな種類がいるんだよね。ヌマチチブとかウキゴリとか」

「よく知ってんな。小鮒やタナゴも取れた。タナゴは宝石みたいにきれいな魚だ」

「タナゴも知ってるよ。学校の水槽で飼ってるんだ」

「そうか。タナゴは今でもいるかなあ。なにしろ、タナゴが卵を産むタンカイがほとんどいなくなってしまったから、タナゴも減ってしまった。そういえば、順平の自由研究で、まだ岸辺の魚を取っていなかったなあ。明日にでも、浅場の魚を取りに行ってみっか?」

 順平は、孝太郎が自由研究のことを憶えていてくれたので嬉しくなった。

「うん、明日。きっとだよ。約束だね」

「ああ、分かった。それには、投網とタモ網を準備しておかなくてはなあ。久し振りに投網やってみっか。何が取れるかなあ。おじいちゃんもわくわくしてきたぞ」

「投網かあ。わーい、やったね」

「はっはあ、昔取った杵柄だ。まだ体が覚えているはずだ」

「ぼくは、魚を観察できるアクリル水槽を用意しておくよ。すぐ写真、撮れるように」

                    *

次の日、午前中から良平と孝太郎は、軽トラに魚取りの道具類を積み込んで、自宅近くの霞ヶ浦の堤防上に来た。霞ヶ浦は夏の陽光が満ちて、今日も穏やかな湖面を見せていた。孝太郎は軽トラックから降りて順平に言った。

「このへんは、じいちゃんが子どもの頃は砂浜があって泳げたんだ。今は堤防ができて砂浜はなくなったが、浅瀬になってるはずだから、ここで投網やってみっか」

「うん、投網を運ぶの、手伝うよ」順平は投網が入ったバケツを両手で持った。

「うわあ。重い。投網って重いんだね」

「そうだ。錘が鉛だから、けっこう重いぞ」

 順平と孝太郎は、堤防の下のコンクリートの平場に下りた。投網を取り出した孝太郎は、投網を投げる準備にかかった。孝太郎は、黒っぽいTシャツ姿だった。

「投網の投げ方は、親父に教わったんだ。親父は投網の名人で、春になると、のっこみの鯉や鮒を獲ったもんだ」

「のっこみって?」

「のっこみっていうのはな、春になって、水の温度が上がってくると、鯉や鮒が卵を産みに、草が生えている浅瀬や川に遡ってくることだ。大きな鯉や鮒がたくさんやってきて、浅瀬でばしゃばしゃとやっているのはみごとなもんだった。それを親父は投網で獲って、川魚料理屋に卸したり、赤ん坊が産まれそうな嫁さんがいる家に届けたりしてたな」

「赤ちゃんと関係あるの?」順平が不思議そうに聞いた。

「昔は、子どもが生まれそうな嫁さんは、栄養をつけるために、鯉をよく食べたもんだ。子どもを産んでからも、母乳がよく出るように、甘辛く煮付けた、切り身の鯉を食べたんだ。たんぱく質の補給だな。今みたいに豚肉や牛肉が簡単に手に入る時代じゃなかったからなあ」

「ふーん。そうなんだ」

順平は感心して、頷いた。

孝太郎は、投網のロープを手首に架け、次に網の部分を、腕を広げた幅ずつ手繰り寄せ、最後に網の下部を三つに振り分けて、その一部を肩に掛け、さらに残った網の束を左手と右手に持って、身構えた。

「さあ、投網の準備が出来たぞ。順平、じいちゃんの投網をよーく見ておけ」

「うん、見てるよ」

「何事でも腰が大事だ。野球のバッティングでも、腰がよく回っていないと打てないぞ。投網も同じだ」

 孝太郎は上半身を捻りながら、湖面に向けて一気に投網を投げた。白い投網はほぼ円形にきれいに拡がり、湖面に落ちた。投網は拡がったまま湖水に沈んだ。孝太郎は投網の錘が湖底に達したころを見計らって、すかさずロープを引いて手繰り寄せた。

コンクリートの平場の縁まで投網を引き寄せると、孝太郎は網部分を捻るようにしながら、水面上に引き上げた。引き上げる直前、網についた泥を、網を揺すって洗い流す動作をした後、一気に引き上げて、コンクリートの上にドサッと置いた。

 順平は、写真を撮るのを忘れて、祖父の投網の一連の動作を、息を呑んで食い入るように見つめていた。孝太郎が投網の裾を広げると、小魚がピチピチと跳ね回った。順平は歓声を上げた。

「わあー。おじいちゃん、すごーい」

 順平は投網に寄って、小魚を手掴みして、水を汲んでおいたバケツに次々と入れた。

 孝太郎は満足そうに言った。

「久し振りの投網だったが、少しは魚が入ったな。順平、それはオボソだ。クチボソとかモツゴとも言うが、漁師はオボソって言うな。佃煮にする小魚だ。それから、タモロコも獲れたな」

「おじいちゃん。へんな細長い魚もかかったよ」

 順平は、初めて見る奇妙な魚に興奮していた。

「そりゃあ、ヨドだ。ヨドもまだいたんだな。漁師によっては、サイレンボーと呼ぶ人もいるが、本当の名前はクルメサヨリだ」

「ふーん。クルメサヨリか。おもしろい形だね。頭がくちばしみたいに尖ってる」

「よっく見てみろ。ヨドは上ではなく、下のあごが長く尖っているんだぞ」

「本当だ。不思議だね。写真を撮らなくちゃ」

「写真は後でまとめて撮ればいい。まず、網にからまっている魚をバケツに移すんだ。魚は弱って、すぐ死んじまうからなあ」

「あ、ちいちゃいけど、きれいな色の魚がいたよ」

「おう、タナゴだ。タイリクバラタナゴが正式の名前だな。昔は、オシャラグタナゴとも言ったな。タナゴもまだ少しはいるな」

 順平と孝太郎は大騒ぎしながら、次々と投網にかかった小魚をバケツに移した。中には弱って、白い腹部を上に向けて浮いてしまった魚もいたが、多くは、元気に泳いでいた。

「ゴロもいたよ」

「ああ、こいつはずんぐりして頭が大きいだろ。黒っぽいし、ヌマチチブだな。このへんじゃ、クロゴロと呼ぶな」

「たくさん獲れたね。おじいちゃんは投網の名人なんだね。知らなかった」

順平は尊敬の眼差しで、孝太郎に言った。

「ははは。死んだ親父はもっと上手かった。親父には適わないな。さあ、もう一回投網をやってみっか」

孝太郎は上機嫌で投網を整えて、二回目の準備をした。準備が出来ると、一回目とは場所を替えた。順平はカメラを構えて、投網の動作を何枚も撮った。特に、投網が拡がった瞬間を撮りたかった。孝太郎の投網は二回目もきれいに拡がった。孝太郎は慎重に投網を引き上げて、順平といっしょに獲物を確認した。

「おじいちゃん、違う魚だよ。ひげがある。ナマズかな?」

「ああ、アメリカナマズだ。気をつけろ。とげがあるからな。指に刺さるとたいへんだ。ほら、背鰭と胸鰭にとげがある。このとげが網に絡まると厄介だ。ああ、やっぱり絡まった。こうなると困った。おじいちゃんはもう老眼だから、細かいところはよく見えないんだ。順平、注意してゆっくり網からはずしてみろ」

「うん、網の糸がこうだから、ナマズをこう廻して。うわあ、むずかしい」

「あせるなよ。あせるとだめだ」

「あ、ようやくはずれた」

「おお、よかった。アメナマは食べれば旨いんだがな。あまり売れないな。おじいちゃんも養殖していたんだが、売れないので止めた。仲間は今でも養殖しているがなあ。その養殖場からアメリカナマズが逃げたんだなあ」

「アメリカナマズって、増えてるの?」

「子どものアメリカナマズが定置網にたくさん入るから、増えてるんだろうな」

「おじいちゃんに聞いた話、忘れないうちに、あとでノートに書いておくよ」

「写真も撮るんだっぺ? 魚はすぐ弱るから、元気がいいうちに写真を撮ればいいぞ」

「あ、そうだった。じいじ、写真を撮るのを手伝って」

 順平は、アクリル製の水槽を取り出した。ペットボトルに用意してきた、きれいな水を入れ、次に魚を一種ずつ水槽に入れて、孝太郎に手で水槽を持ってもらい、写真を撮った。

「うん、よく撮れた」デジカメの画面で確認した順平が言った。

「そうだ、じいちゃん。僕にも投網を教えてよ」

「今はだめだ。順平の体が大きくなってからだ。この投網の大きさは大人用だ。小学四年生にはまだ無理だ。それに投網はよく注意しないと、大人でも危ないんだ。投網をやる時は、このTシャツのように、ボタンがない服を着ないと危ない。ボタンの服だと、投網の網の目がボタンにひっかかって、投網といっしょに体がもっていかれて、溺れて死んでしまうことがあるぞ。泳ぎが得意な人でも、投網が手足に絡まって、溺れっちまうんだ。それは怖いぞ。だから、中学三年生くらいになったら教えてやっか。おじいちゃんも、親父から教わったのは、中学生になってからだったな。分かったか。順平?」

「うん、分った。きっと教えてよ。約束だよ」

「ああ、順平とじいちゃんの約束だな」

「でも、タモ網なら、できるよ。ハス田の水路で魚取りやってみたい」

「そうだな。ハス田に行ってみっか?」

「うん、じゃ、ここは片付けないとね」

 順平と孝太郎は、急いで投網などを片付けて、堤防の反対側のハス田の水路に移動した。水路にタモ網を入れ、上流から棒で水をかき回しながらタモ網を入れた場所に近づき、タモ網を上げると、小魚、エビ、アメリカザリガニ、オタマジャクシなどがたくさん取れた。

「うわあ、大漁だ」順平が歓声を上げた。

 順平と孝太郎はタモ網からバケツに小魚を移した。その小魚をまたアクリル水槽に入れて、観察した。その中に見慣れない魚がいた。

「おじいちゃん。見たことがない魚がいるよ。これ、何だろう?」

「うーん。川にいるカマツカに似ているが、顔つきがちょっと違うようだな。じいちゃんも分からない。あとで水産試験場に持ち込んで、調べてもらうかな。順平、写真だけは撮っておけよ」

「うん、もしかして新種かな?」

「まあ、新種ってことはなかっぺよ。もし新種なら大発見だ。小学生、霞ヶ浦で新種の魚、発見か。新聞に載るな。はっはっは」

 孝太郎は相好を崩して、笑った。

                    *

 その晩、順平の家族が夕食の席についていた。祖父母、父母、順平の五人だった。一人息子の順平は家族の中心だった。順平が父親に言った。

「お父さん、今日ね。おじいちゃんと投網して、魚をたくさん獲ったんだよ。じいちゃんは投網の名人だよ。おじいちゃんが投網を投げると、網がきれいに丸く広がったんだ。そしたら、魚がたくさん入っていたよ。すごく、いろいろな魚が獲れたよ」

順平は、話しているうちに、日中の体験がよみがえって、目が輝いた。

レンコンの天麩羅をつまみに、ビールのグラスを傾けていた父親の真治が、怪訝そうに順平を見た。

「じいちゃんと投網? 親父、投網は封印していたんじゃなかったのか?」

真治の語調には、やや棘があった。

「うむ。久し振りの投網だった。体が投網の投げ方を覚えていたんだ」

 真治は、咎めるように言った。

「そういうことじゃなくて、なんでまた投網を?」

 やや間をおいて、孝太郎が答えた。

「順平が、夏休みの自由研究に、霞ヶ浦の魚を調べたいそうだ。それなら投網で魚を獲るのが一番てっとり早いからな」

 真治は、苦々しげに言った。

「親父はあのことを忘れたわけではないよな?」

「ああ、忘れてはいない。忘れるわけがないだろう」

「順平を危ないところに連れていかないでくれよ」

「危なくはない。大事な孫だ。俺がちゃんと視てる」

 孝太郎は息子から意見される筋合いはないとばかり、気色ばんで語気を強めて言い放った。順平はじめ、他の家族は当惑して、唖然とした。母の由美子も何が起きたのか分からず、あっけにとられた。祖母の節子が、冷静に言った。

「これ、家族団欒の夕食で言い争うでねえ。昔はいろいろあったけど、今は想い出すこともねえ。順平の教育に悪いでな」

 節子の一言で納まったが、気まずい雰囲気が残った。

                     *

 次の日、順平は、暑いさなか、庭の草取りをしていた祖母に聞いた。

「おばあちゃん。夕べ、お父ちゃんは何で怒ったの?」

節子は、順平を見ていった。

「そのことかい。じゃ、話がちょっと長くなるから、縁側に腰かけて話そうかい」

 順平と節子は、縁側に座った。節子は頭にかぶっていた農婦用の縁が広い麦わら帽子を取り、和手拭いで汗を拭いた。

「由美子は農協のパートに行ったから、順平、冷蔵庫から冷たいジュースでも出してきておくれ。今日も暑くて、喉が渇いたなあ」

「うん、おばあちゃん、ちょっと待ってて」

  順平は、台所に行って、二つのコップにオレンジジュースを入れ、お盆で運んできた。

「ほう。ありがとう、順平」

節子は、オレンジジュースを一口飲んで話し始めた

「ああ、冷たくておいしい。順平、夏休みの宿題は済んだのか?」

「うん、今日の分はもう終わったよ」

「そんなら話してやっか。あれは、ばあちゃんがこの家に嫁入りするちょっと前のことだ。ばあちゃんの実家は近所だから、事情を分かって嫁に来たんだ」

「事情って?」

「順平は賢いな。事情ってのは、じいちゃんのお父さん、つまりお舅さんの源治さんという人が投網の網を服のボタンにひっかけて、重い投網ごと水に引き込まれて、霞ヶ浦の深場で溺れて死んじまったのさ。源治さんは投網で鯉を捕る名人で、寒くなる頃、船の上から一人で投網していたそうだ。まだ、じいちゃんは若くて、漁師を継ぐかどうか迷っていた時だ。じいじは東京さ出て、会社勤めしたかったそうだ。まだ、このへんには勤め口が無かった頃だ。でも源治さんが急に亡くなったので、長男だから漁師の家を継ぐことになったんだ。その頃漁師は食うや食わずで、網元さんや加工場以外はみんな貧乏で、田んぼや畑も作ってようやく暮らしていたんだ。じいちゃんは帆引漁もやってみたそうだが、体が強くなかったから、あまり魚は獲れなかったそうだ。投網は源治さんから教わっていたけど、投網の事故で源治さんが亡くなったので、それきりやらなくなったんた。そのうち、霞ヶ浦に逆水門ができたので、漁師はみな補償金を受け取ったんだ」

「補償金て何?」

順平が、聞いた。

「海の塩辛い水が霞ヶ浦に入ってこないように防ぐ水門のことだ。逆水門が出来て、海と霞ヶ浦の間を行き来する魚が獲れなくなるから、国が漁師に補償金を払ったんだ。順平には難しい話だな」

「ううん、分かるよ。おじいちゃんも、お金をもらったんだね」

「ああ、じいちゃんは、そのお金で鯉の養殖の仕事を始めたんだよ。でも、霞ヶ浦の水が汚れてなあ、アオコが出て鯉が死んで、たいへんだったんだ。鯉の養殖に成功した人は、手広く仕事をした人たちで、じいちゃんの養殖場は小さいから、あまりお金にはならなかった。その頃、ばあちゃんはじいちゃんと一緒になったんだけど、苦労ばっかり」

 節子は、遠くを見るように言った。順平は祖母の横顔を見て言った。

「ばあちゃんは、どうして、じいちゃんと結婚したの?」

「あの人は気持ちがやさしかった。子どもの頃からよく知ってた。だから、大事にしてもらえるし、二人で頑張って暮らしていけると思ったんだよ」

「じいちゃんは、ぼくにもやさしいよ」

「んだな。それがあの人のいいところだ。でも暮らしは楽ではなかった。順平の父ちゃんが生まれても、食べるだけで精一杯だった。だから順平の父ちゃんは、子どもの頃から田んぼの仕事を手伝ったけど、霞ヶ浦や魚の養殖に興味がなくて、高校を出て、今の工場に勤めたんだ」

 順平は、父親が霞ヶ浦を見に行くこともない理由がわかったような気がして、頷いた。

「おじいちゃんは、孫の順平が霞ヶ浦や魚が好きだから、嬉しいんだべな」

「ふーん。おじいちゃんもお父ちゃんも、昔はたいへんだったんだね」

 節子は、順平の頭を撫でながら、しみじみと言った。

「そうだ。順平は賢い子だな」

                      *

 夏休みが残り少なくなった頃、孝太郎が順平に言った。

「順平、霞ヶ浦の魚の自由研究はどうだ?」

「うん、おじいちゃんから聞いたことや、図鑑で調べたことを書いて、魚の写真の説明に付けているんだけど、ほら、ハス田の水路で取れた魚の名前がまだわからないよ」

「そうだったなあ。よし、今日の午後、水産試験場で聞いてみるか。順平、あの魚の写真は用意してるか?」

「うん、お父さんのパソコンを借りて、デジカメからプリントアウトしてるよ」

「そうか、じゃ、昼飯食べたら、じいちゃんの軽トラでいこう」

「ワーイ。また軽トラでドライブだ」

                      *

 昼食後、祖母に見送られて順平と孝太郎は、軽トラックで出かけた。霞ヶ浦にかかる大橋を渡って、対岸にある水産試験場に行った。あらかじめ電話で、来意と時間を伝えてあったので、坂本技師がすぐ応対した。

「あ、どうも、坂本さん。孫の順平です。よろしく。順平、坂本技師さんにご挨拶だ」

「今日は。宮田順平です。よろしくお願いします」

 順平は、ぺこりと頭を下げて言った。眼鏡をかけ、グレーの作業着を着た坂本技師は、子ども好きらしく、親しげに聞いた。

「こちらこそ、よろしく。順平君は魚が好きなのかな?」

「はい、霞ヶ浦の魚のこと、いろいろ教えてください」

「僕が知っていることなら、何でも教えてあげるよ」

「ありがとうございます。この写真の魚、何ですか?」

 坂本技師は、順平から受け取った写真を、食い入るように、しばらく見ていた。

「写真がよく撮れてるね。この魚の特徴がちゃんと出てる。これは、ツチフキだね。泥っぽくて、波が弱い浅い場所に住んでいる魚だね。どこで捕ったの?」

「はい、霞ヶ浦のすぐ近くのハス田の水路です」

 坂本技師は、眼鏡の奥から、優しい目で順平を見て言った。

「なるほどね。実はこの魚は、近頃霞ヶ浦で少しずつ増えているようなんだ。琵琶湖から来た魚で、昔は少なかったから珍しい魚だったよ。この魚は泥っぽい場所で、泥の中のイトミミズやアカムシを食べてるんだ。この魚が増えてきたということは、霞ヶ浦の浅場で、泥っぽい場所が多くなってきたからかもしれないなあ」

「そうなんですか。琵琶湖から来た魚なんだ。珍しい魚なので、おじいちゃんと新種じゃないかって話していたんです」順平が少し残念そうな顔をして言った。

「ははは、新種の魚なら大発見だよ。もっとも、霞ヶ浦では時々、熱帯魚のような観賞魚が獲れることがあって、困ってしまうよね。アマゾンの魚が霞ヶ浦で獲れたらびっくりするなあ。もっとも、ほとんどは冬を越せないようだけどね」

 孝太郎が、言った。

「坂本さん。孫は魚のことなら何でも興味を持って、調べてるんです。いろいろ教えてやってください」

 坂本技師は、順平の肩に手を置いて言った。

「順平君、今から霞ヶ浦の魚の勉強をしたら、将来、お魚博士のさかなクンみたいになれるかもしれないよ。楽しみだなあ」

 順平は憧れの眼で、嬉しそうに坂本技師を見上げた。

                     *

それから二ヶ月ほど経った秋の日、小学校の朝礼の時間に担任の今井先生が言った。

「皆さん、嬉しいお知らせです。宮田順平君の自由研究が市のコンクールの四年生の部で最優秀賞に入賞したんだって。今朝、教育委員会から連絡があったのよ。すばらしいわね。順平君、おめでとう」

「順平君、すごーい。やったね」

 クラスのみんなから拍手で祝福された順平は照れくさそうに、はにかんで笑った。

                     *

 秋の終わり頃、市内の茨城県霞ケ浦環境科学センターで、夏休み自由研究コンクール入賞作品のポスター展示と授賞式が行われた。授賞式には、入賞した子どもたちの保護者や関係者も参列して賑やかだった。各学年の最優秀賞受賞者が壇上に招かれ、教育長から賞状と記念品を受け取った。順平の番が来た。

「大津小学校四年、宮田順平。作品名 霞ヶ浦の魚の研究。右は令和三年度、夏休み自由研究コンクールにおいて、最優秀の成績をおさめましたので、これを表彰します」

 順平は前に進み出て、教育長から賞状と副賞の盾を受け取り、お辞儀をした。それを後ろの席で見守った順平の両親と祖父、今井教諭、そして水産試験場の坂本技師は、他の参列者とともに惜しみない拍手を送った。母親の由美子はハンカチでしきりに涙を拭いた。

 懇親会の席で、坂本技師が言った。

「この度はおめでとうございます。ポスターコーナーで順平君の作品を拝見しましたが、まとめ方がとても分かりやすく工夫されていて、すばらしいですね。写真の大きさも、それぞれ違っていて、メリハリがありますね。ツチフキやクルメサヨリの写真が強調されていて、感心しました」

 孝太郎が、順平を傍にして言った。

「これも、坂本さんが、助言してくださったお陰です。本当にありがとうございました」

「順平君が霞ヶ浦や魚が大好きなのは、おじいちゃんゆずりでしょうね。好きこそ、ものの上手なれといいますが、続けることで自信がついて将来につながります。このまま、順平君をのびのびと伸ばしてやってください」

 おじいちゃんの影響と言われて、父親の真治は複雑な気持ちだった。漁師の家系を嫌い、親父に反発して工場勤めをし、嫁を迎えて一家を養っていることに、ささやかな満足感を抱いてきた。しかし、順平が孝太郎に可愛がられ、霞ヶ浦や魚との絆が深くなってしまうことを、どう考えたらよいのか、気持ちの整理がつかなかった。

 順平が言った。

「僕、これから霞ヶ浦や魚のことを勉強して、大きくなったら、坂本さんのような魚の専門家になって、水産試験場に勤めたいなあ」

 坂本技師は、相好を崩して応じた

「それは嬉しいね。霞ヶ浦は汚れてしまって、売れる魚が少なくなってしまったけれど、やがて蘇って、水産業が復活すれば、僕たちの仕事もやりがいが出る。水産試験場の職員も増えるだろうから、順平君が魚の専門家をめざすことはいいことだと思いますね」

 その言葉を聞いて、真治は少し気持ちが整理されたような気がしてきた。真治は確かめるように、坂本技師に言った。

「それには、まず霞ヶ浦をきれいにすることが先決ですね。そうすれば、いろいろな魚が獲れるようになり、漁師の仕事も成り立つというわけですか?」

「そのとおりです。霞ヶ浦をきれいにする方法を研究することがまず大事です。霞ヶ浦の環境改善は水産試験場だけでなく、この茨城県霞ケ浦環境科学センターが先頭に立って、県民と協力して総合的に行っています。環境改善は県民の理解と協力がなければ進みません。ですから、魚や水産の研究だけでなく、霞ヶ浦をどうしたらきれいにできるかを考えていくことですね、順平君たちのような若い世代に期待することはたくさんありますよ」

「なるほど。うちは代々漁師の家系ですが、私は、養殖の魚が死んで親父が苦労しているところや、アオコが湖面を覆って臭くてたまらない様子を見て霞ヶ浦から遠ざかり、別の仕事を選んだのです。しかし、坂本さんの話を聞いて、順平の希望が叶うように応援していきたいと思います。結局、私たちのように霞ヶ浦の傍に住んでいるものが、もっと霞ヶ浦に関心をもって、大事にしていくことなんですね。順平、もっともっと勉強して、大学に入って、難しいことも学んで、そして霞ヶ浦に帰ってこい」

 真治の言葉を聞いて、順平と孝太郎は嬉しそうに笑って、目配せして頷き合った。

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