こんにちは。ただ今ご紹介いただきました佐藤茂実です。きょうはよろしくお願いします。私は、昭和二十六年、山形県北の内陸の小さな町で生まれ育ちました。雪国の町です。十二月になると雪が降りはじめ、多い年は二メートル近く積もります。雪が消えるのは三月末か、四月はじめでした。学校の新学期が、まだ雪が残っている時に始まることもありました。子どもの頃は、真冬には幹線道路が除雪されず、毎年、陸の孤島のようになりました。
実家は魚屋でした。一年中、魚の生臭い臭いが家中に漂っていましたが、家族は慣れっこでした。冬には、道路が雪で通行止めになりますから、鮮魚が仕入れできず、干物、塩漬けのスジコ(鮭や鱒の卵)やブリコ(ハタハタの卵)、塩引鮭などを細々と商っていました。それでも春には塩漬けニシン、秋にはハタハタやサンマが入荷したのを憶えています。マグロ、カツオ、ブリ、タイなどの高級魚はめったに扱いませんでした。
山形県の内陸地方で高級魚といえば、鯉です。結婚式などがあると鯉の注文が入りましたね。鯉はたくさん卵を産むので、子孫繁栄で縁起がいい魚だと父親が言っていたのを思い出します。正月には、どこの家でも年始の挨拶に来たお客に鯉の旨煮を出したものです。でも、鯉が高級魚であることを知っているお客は料理に手をつけずに、歓談と多少のお酒と山菜の煮物等を味わうだけで帰りました。手つかずで残った鯉料理は、次ぎのお客に出しました。それでも残った鯉の旨煮は、指をくわえて待っていた家族のお腹に入ったものです。
父母は貧しくて、私たち子ども四人を食べさせるのが精いっぱいでした。私は三男坊で、将来を期待されたわけではないので気楽ではありましたが、なぜ貧乏なのか、考えたこともありませんでした。自分の家だけでなく、まわりの家も似たようなものでした。農家も、他の商売の家も、役所勤めの家も、みんな貧しかったのです。例え、切り身でも鮮魚を買って、食べられる家は少なかったのです。魚屋の息子でも、マグロやカツオの新鮮な刺身を食べたことはありません。刺身を売りさばいた後のアラなら、母親がアラ汁にしてくれたので、食べたことはあります。それはご馳走でした。また、カツオは燻製にしたものがほとんどでした。
同級生も、裕福な家はほとんどありませんでした。長い冬と短い夏の繰り返しで一年が終わってしまうのでした。高い山で囲まれた小さな盆地でしたから、日照時間が短くて、米も野菜もわずかしかとれません。雪が消え、山麓が薄緑になると、どこの家でも誘いあってというより競いあって近くの山に出かけ、ワラビ、ゼンマイ、フキ、タラノメ、アサツキなどの山菜を採りました。ワラビは、灰汁であく抜きした後、茹でておひたしで食べると、春の味がしました。ゼンマイは、軽く茹でて、筵や茣蓙に拡げて干し、次ぎの冬の間の保存食になりました。秋は、稲刈りと脱穀が終わったころに、キノコ採りにでかけました。ホウキタケ、アミタケ、ナメコなどです。キノコは毎年、同じ場所に出るので、採る場所は親兄弟にも秘密でした。
アケビ採りもしましたね。アケビは蔓になっていますから、高いところのアケビは小学生にはなかなか採れません。中学生になった兄貴たちが、竹竿の先にY字型の枝を取り付けた道具でひっかけて採ったものです。アケビの実の甘さは、子ども心にもうっとりするほどでした。今は街のコンビニで、スイーツコーナーにいろいろな種類の甘いものが並んでいますが、こんな時代が来るとは、子どもの頃は夢でも信じられないことです。
秋は薪拾いのシーズンでした。林の下草が枯れると地面に落ちている枝が拾いやすくなります。夏の間はやぶ蚊やブヨなどが多く、林の中に入るには勇気が要りました。それでも、カブトムシやセミなど、虫が好きな友達は勇敢にも虫取りに林に入り、お目当ての虫を捕まえて、翌日学校で級友に得意気に見せていたものです、
秋の台風が通過した後は、枯れた枝がたくさん落ちているので、競って拾いました。拾った薪は用意した縄で縛って、背負って家まで運びました。薪は竈で燃料になりました。そのころは、どこの家でも電気炊飯器やガス炊飯器などはなく、ご飯は竈で薪を燃やして炊きました。燃料に関しては、私の家は魚屋でしたから、魚を入れてきた木箱がたくさんありましたので、母親がそれを鉈で割って焚きつけにすることもありました。
キノコ採りと薪拾いが終わると、町内会で近くの温泉に湯治に行くこともありました。湯治は、大人も子どもも楽しみでした。そのうちに気温が下がり、空が灰色の厚い雲に覆われると間もなく初雪を迎えるのでした。まだ稲刈りが終わっていないのに、初雪が降る年もありました。大人たちはうんざりした顔をしていましたが、子どもたちは喜んで、雪が降る中に走り出て、口を大きく開けて、雪を食べたものです。雪が積もってくると、みんなで空き地に雪だるまやかまくらを作りました。子どもが作るかまくらですから小さいものでしたが、一年ぶりのかまくらなので、中に交替で入って遊びました。
雪が根雪になると、子どもたちも、雪遊びに飽きてというより、外は本当に寒いので、家の中で遊ぶようになりました。囲炉裏や炬燵のまわりに自然に家族が集まりました。火鉢は手を暖めたり、薬缶でお湯を沸かす程度です。それでも、秋のうちに拾っておいた山栗の実や祖母が近くの山で掘った山百合の根を熱い灰に埋めて、丁度よく焼けたころに灰の中から火箸で探って取り出して。フーフーと息をかけて冷まして味わったものです。とても甘くておいしかったですね。祖母は孫たちが喜ぶ顔がみたかったのでしょう。
栗の実は、火でそのまま焼くと爆発するのです。爆発というと大げさですが、要するに実が熱くなって、「ボン」と大きな音を出して、爆ぜて、囲炉裏から飛び出すほどです。「火中の栗を拾う」ということわざはここから来ているのですが、今の若い人には意味が分からないでしょう。当時は子どもでも知っていました。祖母が前もって栗の堅い実に包丁で切れ目を入れて、爆発しないようにしてくれましたね。
厳冬期の生活は厳しいものでした。一冬に何回か、吹雪の日がありました。真夜中の吹雪は、それは恐ろしいものでした。家の外では、ピューピューと雪混じりの風が強く吹き、家中の隙間から、粉雪が吹き込んできました。夜が明けると、枕元に雪が積もっていることもありました。
地元の小学校に入学したのは昭和三十三年です。ちょうど、長島茂雄さんが巨人に入団した年です。長島さんが川上監督や先輩から「シゲ」と呼ばれていることを知って、少し親しみを感じました。私も、親兄弟や同級生からは、「シゲ」と呼ばれていましたから。しかし、長島の活躍をテレビで見たのは、何年か過ぎて高学年になってからでした。少し裕福な級友の家で、プロ野球や大相撲をテレビで見せてもらい、ワクワクしました。大相撲では、山形県の英雄、柏戸が横綱になって、大鵬と優勝を争ったころです。
小学校では、家が遠い生徒は通学班を作って、一時間も吹雪の中を歩いてくるのです。ようやく学校に着くと、外套の中にまで雪が入り込んで真っ白になっていました。それを先に登校していた上級生や先生が箒で払ってくれました。私の家はそれほど遠くなく、子どもの足で学校まで十五分ほどでした。それでも吹雪の日はたいへんでしたが、そのころは、それが当たり前でした。
私の学校の成績は普通よりも少し下でした。家で教科書を開くことも、宿題をやることもありませんでした。本を読む習慣がなかったのです。その代わりに運動会や遠足が楽しみでした。夏になると、最上川の支流が近くを流れていましたから、水遊びから始めて泳ぎを覚え、アユ、ナマズ、ハヤ、オイカワ、カジカなどを捕りました。捕った魚を家に持ち帰ると、母親が焼いてくれたので、きょうだいで食べました。妹が美味しそうに笑顔で食べてくれました。
中学校に入ると、新聞配達で家計を助けました。兄たちも、そうしましたから、当然のように私も、朝早く起きて、駅の近くの販売店に行き、配達分の五十部ほどを抱えて配達に出ました。二時間ほど、受け持ち地区を歩いてまわって、配達しました。つらかったですね。それでも春から秋までは、まだいいんですが、冬の朝は、夜の間に積もった新雪を漕ぐように、かきわけるように進むのです。配達が終わった時には、体から湯気が出るようでした。まだ、アルバイトという言葉がありませんでした。
山田太郎の「新聞少年」という歌がヒットしたころでしたね。あの歌で励まされた新聞少年が多かったと思います。私もその一人でした。今でも、あの歌を歌えます。新聞を配達する地区には同級生の女の子の家もありました。その頃、ちょっと好きだった、その子の家に配達する時はドキドキしました。もしかしたら、その子が、玄関から顔を出すんじゃないかってね。でも全然そんなことはありませんでした。新聞配達は、早朝の仕事ですから、まだ皆さんが眠っている頃なんです。
実家は長男が継ぐものと思っていましたから、中学を卒業すると、集団就職列車で中学校の制服を着たまま、東京に出ました。青森発の急行「津軽」という夜行列車でした。先生や同級生らが見送りに来てくれました。担任だった先生の目に涙が浮かんでいたのを憶えています。翌朝早く上野駅に着くと、就職先のお店の女将さんが迎えに来てくれていました。ちょうど、井沢八郎の「ああ上野駅」の歌謡曲がヒットしたころです。高度経済成長が始まり、集団就職の中学生は「金の卵」といわれましたね。私は神田の老舗蕎麦屋の従業員に採用されたのです。昔の口減らし、丁稚奉公のようなものでした。
神田の蕎麦屋は格式がある和風の落ち着いた店構えで、本店ですから堂々としたものです。お店では、新しく入った者は、住み込みの小僧さん扱いでした。最初はお店の内外の掃除、食器の洗いもの、先輩の小間使いなどが仕事でした。お店でも、皆さんから「シゲ」と呼ばれ、言いつけられた仕事は何でもやりました。山形の田舎から出てきた私は、先輩方からみて、仕事は丁寧だが要領が悪く遅いと思われ、よく怒鳴られました。山形弁を馬鹿にされました。東京の言葉は早口で聞き取れないこともありました。聞き返すとまた怒られました。
忙しい時のお店の中は、戦場のようでした。戦争に行ったことはありませんから、想像するだけですが。私は一番下っ端でしたから、朝早くから、お客さんが退ける夜十時ころまで、休む間もなかったですね。まだ若かったからできたんです。夜遅く、仕事が終わると、屋根裏の三畳の部屋の自分の蒲団にもぐりこみ、朝まで死んだように眠りました。小さな窓があるだけの部屋で、もちろんエアコンなんてありません。山形の厳しい冬に比べれば、東京の冬は厚い蒲団だけでしのげました。夏は暑くて眠れませんでした。扇風機を買ってもらったのは、かなり後のことです。
お店につとめて、一年、二年が過ぎると、お店の周辺の様子がすこしずつ分かってきました。通りの名前、ニコライ堂のように目印になる建物、坂道、橋、神田やお茶の水や秋葉原の駅の方向、明治大学、神保町の古本屋街などです。街の様子が分かるようになると、出前に行かされました。実は、山形にいたころは、自転車に乗れませんでした。自転車の乗り方は、お店の先輩から教えてもらいました。自転車に乗れなければ、蕎麦の出前の仕事ができません。自転車に乗れるようになるまでは、近所から注文があると、オカモチという配達用の手提げ式の道具に、蒸篭に盛った蕎麦を入れて徒歩で配達しました。ようやく自転車に乗れるようになると、少し遠くの町角のお客さんからの注文を受けて、十人前くらいの蕎麦を積み上げた蒸篭を肩にかけて運びました。
ある時、自転車で蕎麦を片手運転で運んでいるとき、ふらふら歩いているお年寄りを避けようとしてバランスが崩れ、自転車ごと横倒れしてしまい、道路に蕎麦をぶちまけてしまったことがありました。情けないやら、摺り剥いた肘や膝が痛いやらで、泣きたい気持ちでしたが、我慢したものです。叱られるのを覚悟で店に戻ると、旦那さんも女将さんも、先輩たちも怒りませんでした。軽い擦り傷で済んでよかったと言ってくれました。後で聞くと、先輩たちも一回は自転車で転んで、蕎麦を路上に撒いてしまった経験を持っているのでした。その後、バイクで出前するようになりましたが、今では出前はやっていないようです。
旦那さんも女将さんも、私が独り立ちするまでは、親代わりで見守っていてくれていることを知りました。旦那さんのことを、常連のお客さんは、大将と呼ぶこともありましたが、私ども従業員は、会長さんと呼びました。会長さんは、どっしりと構えて、感情をお顔に出すことは滅多にありませんでした。
お店に就職して四、五年過ぎると、後輩が入ってきて、下働きの仕事を替わってくれるようになりました。それでも忙しい時は相変わらず自転車で出前に行きました。私は厨房に入ることを許され、蕎麦職人の仕事を見よう見まねで覚えました。
蕎麦の種類、産地による違い、蕎麦の実の挽き方、挽き方による蕎麦粉の違い、品質の良し悪し、そしてそば粉の捏ね方、蕎麦包丁での蕎麦の切り方、打ち粉のふり方、そして蕎麦の茹で方など、時間をかけて一通りを学びました。例えば、蕎麦の実は、丁寧にゆっくり挽くのがいいんです。重い石臼を使うんですが、力を入れて急いで挽くと蕎麦粉が熱をもってしまい、おいしくなりません。今では、電動の石臼を使うんですが、それでも回転スピードの調整が大事です。先輩職人の機嫌が悪い時は、全く教えてくれないことがありました。その時は、仕事を手伝いながら、技を盗みました。職人の技は盗むものと言う先輩さえいました。
蕎麦の種類はいろいろあります。蕎麦の実の黒い皮も一緒に挽いたものが、田舎蕎麦とか玄蕎麦とか言われるもので、見た目はやや黒いですが、素朴な味わいがあります。蕎麦粉百パーセントが十割蕎麦、つなぎ粉を二割程度入れたのが二八蕎麦ですね。更科蕎麦は、蕎麦の実の内側を使って、打つものですから、見た目が白っぽくて上品です。私が修行させてもらった神田の老舗蕎麦屋は一門の本店で、主に信州の蕎麦を代々使うのが伝統でした。
本店では、先ず蕎麦の実の一番外側の黒い皮、蕎麦殻とも言いますが、それを石臼で剥いで、次ぎの薄い甘皮を残して挽きます。そうすると、やや緑色がかった香りのある蕎麦になるんです。挽きたての蕎麦の香りは何ともいえない良いものです。その香りを大事にして、茹ですぎないことがコツでした。常連の蕎麦通のお客さんは、10月になると、新蕎麦を楽しみにお店に来てくれました。秋田や新潟の地酒を嗜みながら、新蕎麦をたぐり、鼻で香りを楽しみ、あまり噛まずに、蕎麦の喉越しを味わっておられる様子でした。そのお顔は幸せそのものでした。その後で、野菜や海老の天ぷらを美味しそうに食べておられました。そのお顔を厨房から見ながら、私たち蕎麦職人も幸せな気分になったものです。
難しかったのは、蕎麦つゆの配合です。蕎麦つゆだけは、会長さんが自ら配合していました。今で言う企業秘密です。会長さんの信用が厚い、のれん分け間近の先輩職人だけが、夜遅く残って、直々に秘伝のつゆの作り方を教わりました。私が教わったのは、相当後のことです。醤油は茨城産の辛口高級醤油です。昔、江戸時代、茨城県は常陸の国で、醤油醸造が盛んだったそうです。常陸産の醤油は樽に詰められ、霞ヶ浦、利根川、江戸川の水運で江戸まで運ばれたそうです。それで、醤油のことを、江戸前寿司の職人さんは、おひたちと呼ぶんですね。鰻の蒲焼のたれにも使われたんです。銚子や野田の醤油を使うこともありましたが、会長さんはいつもの伝統の味を出すのに、調合に苦労していたのです。出汁に欠かせないのは北海道利尻産の昆布と鹿児島県枕崎産の鰹節です。鰹節は、最高級の本枯節を使っていましたね。それを削り器で少しずつ丁寧に、手作業で削りました。削りたての鰹節の香りがつゆに移るんです。それは、いい香りですよ。
ある時、有名な落語の師匠が来店されたことがありました。私たちは、接客する女性従業員さんたちを花番さんと呼んでいたのですが、その花番さんがひそひそ話していたら、会長さんが腰を低くして挨拶されていました。その師匠は盛り蕎麦の大盛を注文されました。蕎麦の味を楽しむには、千切りの海苔も天婦羅も要らないということでした。師匠は、実に堂に入った所作で蕎麦をたぐり、ズズー、と小気味よい音を立てて、すすっておられました。じつに美味しそうに食べ終わると満足気なお顔で会長さんと世間話をしていました。後で、テレビでその師匠が蕎麦を食べる落語を見ましたが、その時の食べ方をそのまま演じていました。私たちは、それをお店でまじかに見たわけですから、得した気分になったものです。
年に二回、まとまった休みを取れる日がありました。盆と正月ですね。昔は藪入りと言ったそうです。やはり丁稚小僧から身を起こした会長さんや、蕎麦職人の中で一番弟子の兄貴がそう言ってましたね。お盆の前、初夏の頃は神田祭りです。今も昔も神田明神さまの夏祭りは、威勢がいいものです。田舎出の私は、江戸っ子の威勢のよさにびっくりしたものです。表通りはすごい人出で、うちの蕎麦屋にはお客がひっきりなしに入って来られて、まさにかき入れ時でした。
何といっても一番忙しかったのは大晦日ですね。前日から大量に蕎麦粉を挽き、捏ねて蕎麦庖丁で切って、打ち粉をふって、麺に仕上げておきます。そのままでは乾燥するので、ビニールで包んで、冷蔵庫で保存します。当日は、昼前からお客様がひっきりなしに来店されますから、茹でて温かい蕎麦、冷たい蕎麦で召し上がっていただきます。お客様は無事に年を越せる、蕎麦を食べて来年も無病息災を願って、蕎麦を食べるのです。除夜の鐘の音を聴くまで、大入り満員でした。うちの店で、年越し蕎麦を食べるのを習慣というか、年中行事にしているお客様も多かったんです
盆暮れの忙しさがひと段落した休みの日には、銀座・有楽町、浅草、上野、新宿、時には北千住まで、映画を見に行くのが一番の楽しみでした。ちょうど盆と正月に合わせて、高倉健さんの「網走番外地」や菅原文太さんの「トラック野郎」、渥美清さんの「男はつらいよ フーテンの寅さん」の映画が上映されていましたから、欠かさず見たものです。そうそう、きょうの私の話は、「蕎麦と寅さんと私」でしたね。でも、もう少し私の話を聞いてください。
集団就職で、十六歳で老舗蕎麦屋に入ってから、いつの間にか十五年ほどが経ち、蕎麦職人として、旦那さんや先輩方が一人前と認めてくれるようになったころ、仲立ちをしてくれる方があって、身を固めることになりました。お相手は、見合いで紹介された5歳下の群馬県出身の女性で、デパートにつとめていました。少し上背があって、すらりとした、愛嬌がある顔立ちで、一目で惹かれました。それが女房の和子です。私はいずれ独立して自分の店を構えるつもりでしたから、お見合いの席では、「客商売は苦になりませんか」と聞いたものです。和子はデパートに勤務していましたから、「接客は馴れています」と笑って答えてくれましたね。
それから、半年ほどお付き合いして、翌年の六月に神田川のそばの神田明神さまで、ささやかな結婚式を挙げました。山形と群馬から両家の両親を呼び、出席してもらいました。蕎麦屋の会長さんと女将さんには仲人をお願いしました。山形の両親は歳をとっていましたが、三男坊が東京で結婚式を挙げることを心から喜んで、上京してくれました。やはり夜行列車でした。山形新幹線が開通するのは、まだずっと先のことです。
結婚して新しい所帯を持ち、間もなく会長さんのお許しをもらって独立することになりました。暖簾分けですね。それまでに、蕎麦店を経営するのに必要なことは全て身につけたつもりでした。問題はどこに自分のお店を出店するかです。先ほども言いましたように、私は「フーテンの寅さん」の映画が大好きで、店を出すなら下町がいい。それも帝釈天がある葛飾区柴又にあこがれておりました。
そこで、たまの休みの日に女房と二人で、帝釈天の参道付近を散歩がてら、不動産屋を覗いて、居抜きのいい物件を探して歩きました。でもさすがに人気の観光地ですから、居抜きの空き物件はないし、あったとしてもとても新米の蕎麦職人が借りられるような、手頃の空き物件はないことが分りました。
隣町の金町駅周辺で探して、ようやく居抜きの物件を不動産屋の紹介で見つけて、女房と相談して借りることにしました。金町駅から歩いて五分ほどの商店街のはずれで、中小企業が多く、都心に通うサラリーマン向けのアパートや住宅団地が多かったころです。昼食時に、会社の社員さんたちやアパートに住んでいる方々が利用してくれそうでした。
金町駅は常磐線の駅ですから、千葉県や茨城県から通う人も多かったんです。しかも運がいいことに、まもなく地下鉄の千代田線が開通して、金町駅を利用する人が増えました。人が増えれば、駅周辺は賑わう道理です。現在では、ご承知の通り、金町駅周辺には高層マンションが建ち並ぶようになりましたね。開店した頃には想像もできなかった光景です。
居抜きの物件は、もとは居酒屋だったそうで、すこしリフォームする必要がありました。その工事費は、開店を急いでいたので、貯金から即金で払いました。毎月の家賃は、二人の貯金からではなく、蕎麦店の営業利益から払うことにしました。二人の貯金の取り崩しをしないで、頑張って店を切り盛りし、早く利益が上がるように頑張るしかないとお互いに言い聞かせたものです。
肝心の蕎麦は、神田の本店のように信州更科や戸隠産の蕎麦粉だけを使うことはできません。更科産は最高級ですから、とても高いのです。金町は下町で、勤め人が多く、蕎麦の味にそれほどこだわらず、「今日の昼は蕎麦にするか」と、気軽に来店される方がほとんどでしたから、故郷の山形産、福島産、茨城産、北海道産などの蕎麦粉を仕入れました。それぞれ特徴があって、それを引き出してあげれば美味しいものです。今では、蕎麦粉のメーカーが、蕎麦殻を覗いたものや、内側の白い部分だけを使うものなど、いろいろな蕎麦粉を出荷していますから、自家製粉、つまり自分のお店で、石臼で挽いた蕎麦粉を使うところは、少なくなっています。
蕎麦は中山間地で栽培され、痩せた土地でも一定の収量が上がります。戦後、満州から引き揚げてきた開拓農家が、山の斜面で栽培することが多かったのです。例えば福島県会津産や茨城県の金砂郷村産の常陸秋蕎麦は有名ですね。蕎麦は秋に収穫され、すぐ消費されますから、春には品薄になりがちです。そこで、季節が逆のオーストラリア・タスマニア産の蕎麦が輸入されるようになって、供給が一年中、安定しました。それでも、輸入の蕎麦は輸送費がかかりますから、それほど安くはなりません。
蕎麦は健康食品のイメージをお持ちの方が多いと思います。実はその通りなんです。糖質やカロリーは、米やうどんに比べて少なく、蛋白質が多いんです。食物繊維も多いですね。ビタミンB1、B2が多いことも蕎麦の特徴です。蕎麦の成分として有名なルチンは実はポリフェノールの一種で、血管を丈夫にする作用があるんです。ただし、これらの栄養素は茹でる時、お湯の中に溶けやすくなります。ですから、蕎麦を召し上がった後は、残ったつゆを蕎麦湯で薄めていただくのがいいんです。お歳を召した方は蕎麦が好きな方が多いですね。これは、蕎麦が長寿食である証拠とも言われたりします。大晦日に年越し蕎麦をいただくのは、おおいに根拠があるんですね。なんだか、蕎麦屋の宣伝みたいになってしまいました。ご容赦ください。
金町で開店した店は、幸い、二、三カ月が経つうちに、常連のお客さんが来てくれるようになりました。新聞の折り込みチラシで、神田の老舗蕎麦店の暖簾分けを遠慮なくPRさせてもらいましたし、実際に味が美味しいと言ってくださるお客さんが通ってくれるようになりましたね。本店の会長さんと女将さんには感謝ですね。お二人は、しばらくして、様子を見に来てくれました。お二人に盛り蕎麦を食べていただきましたが、まずまずの合格点をいただきました。合格点をいただけないなら、本店の名を汚すことになりかねませんので、あの時は緊張しましたが、お二人の笑顔をいただけて、本当にほっといたしました。
二年後には息子が、さらに二年後には娘が生まれました。二人とも可愛くて、仕事に張り合いが出ました。店の二階は六畳と四畳半の部屋になっていまして、子どもらはそこで育ちましたが、階段が急で、子どもがハイハイし始めるころは、特に注意しました。大工さんに特注して、下に降りる階段の前に動物園の檻のような柵を拵えてもらったものです。立って走り回るようになると、足を踏み外して階段の下に落ちて怪我をしないか心配しました。階段には手すりを付けましたね。そこは女房が常に気を配ってくれました。その頃には、貯金がある程度出来たので、家賃をローンで払い続けるよりも、この店舗つきの貸家をそのまま買うことにしたんです。それで、気持ちが固まりました。ここで頑張るしかないと覚悟しましたね。
子どもらが小学校に上がるころには、お店が忙しくなり、女房も私も勉強をみてやるどころではありませんでしたが、娘も息子も自分で勉強する癖がついて、学校の勉強は上位でしたね。たまの休みには、家族で水元公園、堀切菖蒲園、向島の百花園にいったり、柴又の江戸川のほとりで、家族で、女房の手作り弁当を食べたりしました。子育てはたいへんでしたけど、今思えば、その頃が一番楽しかったのかもしれません。
そうそう、京成線で千葉の稲毛や幕張、谷津遊園にも行きました。でも、東京湾の沿岸は埋め立てられて、海は汚れ、潮干狩りも泳ぐこともできませんでした。家族でがっかりして帰って来たことを思い出します。それでも、山形県の内陸地方に育った私は、海を見たことがなかったので、広い海辺の景色には感動しました。谷津遊園は、今のディズニーランドには到底及びませんが、いろいろな家族向きの遊具があり、バラ園がきれいでしたね。お店は週に一回の定休日をとるのが精いっぱいでしたから、遠くの観光地に行くのは難しかったですね。
子どもは二人とも地元の公立中学校から都立高校を経て、大学へ進学しました。中卒の私から見れば、夢のような話です。私は子どもの頃、本を読む習慣がありませんでした。本を読むようになったのは上京してからです。実は神田で、若い駆け出しの蕎麦職人の頃から、神保町の古本屋街に出かけて、安い実用書から映画の本、小説などを買ってきては、休みの日には読みふけっていました。先輩さんからは、蕎麦職人に学問は要らねえと時々怒鳴られましたが、中卒でも、お客さんに話題を合わせて、世間話をするには、日頃から勉強しておくことが大事だと思っていたんです。
例えば、プロ野球の話では、チームや選手の特徴や成績を知っていなくてはなりませんね。政治の話とか難しい話はしませんが、常識的なことは知っていないと、お客さんに馬鹿にされます。そんなわけで、必要に迫られて本を読むようになりました。金町の店の二階の小さい方の部屋には、本棚二つ分くらいの様々な本が並んでいました。子ども向けの本も揃えましたから、自然に子どもらも本好き、勉強好きになったのかもしれません。それから新聞は欠かさず購読していました。開店する前の掃除や仕込みが終わり、お客さんを迎えるわずかな時間にも新聞に目を通しておきましたね。すこし、むずかしい本を読みたい時は、休みの日に区立図書館にいくこともありました。
息子は大学から大学院まで進んで、研究室に残って、今では大学の先生になっています。お客さんからは、「鳶が鷹を産んだね」などと言われたものです。でも私は心の中で、江戸っ子風に言えば「何言ってやんでえ」という気持ちでした。それは、鳶に失礼でしょうということです。鳶も鷹も、大空を飛ぶ鳥に変わりはないですよね。鳶も鷹もプライドってものがあるはずです。ついでに言えば「カエルの子はカエル」と言ったりしますが、これもカエルに失礼ですよね。
息子はフランス文学を研究しています。サルトル、カミュなどの実存主義文学だそうです。実存主義といわれても、私にはよくわかりませんが、息子が言うには、親父は社会の中で自分の仕事を地道にやってきたから、社会に貢献しているんだそうです。社会の中で、自分の居場所で頑張っている人は、実存主義的に生きているというのです。誉めてくれているのか、馬鹿にされているのか、よくわかりませんでしたが、多分評価してくれているんですね。息子が父親の仕事を認めてくれているんですから、ありがたいことです。
息子には蕎麦屋を継いでもらえなかったのですが、仕方がありません。替わりに娘が店を継いでくれました。実は、ある時、常連のお客さんから頼まれて、近所の高卒の男の子を弟子にしました。この子は、もって生まれた職人気質っていうんですかね。細かいことを、気を抜かずにコツコツ身につけるタイプで、二~三年で、ひととおりの仕事を覚えてくれました。小さな店ですから、給金を出すのは経営的には苦しかったのですが、二人の子どもの教育費は、奨学金やアルバイトで、自分で何とかしてくれたので、従業員を雇えたのです。よく気がつき、体が動く弟子ができたことで、私も女房も楽になり、余裕ができましたね。
娘は学校が休みの時には、店を手伝ってくれていました。この男の子は娘にとって弟分の存在で、気が合っていましたが、だんだん互いに惹かれるようになり、娘は自分が店を継ぐ気持ちが強くなったようで、二人で結婚させてほしいと言ってきた時は驚きましたが、女房も私も嬉しくて、二つ返事でOKしました。婿さんを迎えて、後継者ができたんです。
それから二十年以上経ちました。私は七十歳になりました。おかげ様で女房も元気です。娘夫婦が店を継いでくれましたから、私らは年金暮らしになり、贅沢しなければ暮らしていけます。店の近所に中古住宅を買って、老夫婦で住んでいます。和食の代表の一つの蕎麦を作る蕎麦職人として、長寿食ともいわれる蕎麦を皆様に提供してこれたことは、私としてもとても嬉しいことです。常連のお客さん、ご近所さん、もう、だいぶ前に亡くなった神田の本店の会長さんご夫妻、お店の先輩たち、お世話になった皆さんに感謝、感謝です。結局のところ、私は幸せ者ですね。
一時間ほど経ちましたので、ここで休憩したいと思います。
*
では、お話の後半に入ります。前半で少しふれましたが、私は、山田洋次監督の「男はつらいよ フーテンの寅さん」の映画のファンで、盆暮れ、つまりお盆と年末年始には欠かさず観ました。シリーズの全作品を観ています。歴代のマドンナ役の女優さんの名前も全部分かります。それからおいちゃん、おばちゃん、隣の印刷所のタコ社長、御前様、妹のさくらさん、さくらさんの旦那の博さん、甥っ子の満男くん。懐かしいですね。
なぜ、「フーテンの寅さん」の映画が好きだったのかと、今、考えてみると、それは、寅さんがうらやましかったからでしょうね。一週間に一日、蕎麦屋の定休日しか休めない自分にとって、日本中を旅してあるく寅さんの生き方に憧れたんです。寅さんの映画を観ていると、自分も日本のあちこちを旅しているような気になりました。寅さんが訪れる場所は、山、川、湖、海がきれいな場所です。ちょっと難しい言葉ですが、山紫水明という四文字熟語があります。これは、日本各地の美しい景色を表現していますね。
せっかく日本に生まれたのですから、できれば各地のすばらしい見どころを訪ね、その土地の人々と出会い、名物料理を味わったり、美味しい名産の果物を食べたり、そうそう、それから温泉に浸かったり、したいじゃないですか。残念ながらそれは、現役で忙しく仕事をしている時は叶いませんでしたね。それを寅さんは、仕事をしながら、つまり露天商をしながら、旅から旅の毎日で自然の風景を楽しんでいるように見えましたから、いつかあんな生き方をしたいなあと思ったものです。実際は、露天商、テキヤ、香具師という仕事は不安定で、苦労があるんでしょうが、寅さん、つまり渥美清さんは、実にいきいきと、飄々と演じていましたね。
あるお客さんが、私が、寅さん映画が大好きで、よく観るということを知って。議論をふっかけてきたことがありました。中年のサラリーマンでした。その方は、寅さんの生き方をひどく批判しました。「人間はフーテンではいけない」と仰るんです。「人というものは、一か所にとどまって、置かれた場所で頑張らなければ駄目だ。その場所に根をおろしてこそ、きれいな花が咲く」と力をこめて、話されました。
それはそうなんです。私も金町の商店街の隅で蕎麦屋を営んでいた身ですから、そのお客様の話はよくわかりました。それでも、「寅さんのような生き方をする人がいてもいいんじゃありませんか。私は寅さんのような生き方はできませんが、うらやましいという気持ちはあります」と言ったら、その人は黙ってしまいました。その方も、時には息苦しいサラリーマン生活から解放されたいと心の底で思っておられたのではないでしょうか。そんなこともありましたね。
自分は寅さんになったつもりで、あるいは寅さんと一緒に各地を旅しているような気分で映画を観ていましたね。日本は山が多いですね。山を見ると私は気持ちが落ち着きます。盆地に育った人間の生涯抜けない習性みたいなものです。ですから、関東地方に長く暮らしていますが、平らで山が見えない風景は、なんとなく、今でも不安なんです。逆に、関東地方に生まれ育った人は、山国にいくと、圧迫感を感じて息苦しくなるという話を聞いたことがあります。もの心つく頃に見ていた風景が一生、その人の心の原風景になるというのは不思議な気もしますが、私にはよくわかります。
そして、山が美しいところは、ふもとにきれいな川が流れています。美しい湖があります。きれいな川が海に注ぐところの景色も美しいのですね。海辺の景色には、砂浜があれば、岩場もあります。離島や瀬戸内海のような内海の景色もすばらしいですね。そんな美しい景色が、寅さん映画の中に毎回出てきますから、私は旅に出たような錯覚で、観ていましたね。それは幸せな時間であり、空間でした。
今、私がはっきり思い出せる、寅さん映画の中の、美しい水辺の景色を挙げてみましょう。まず挙げたいのは、地元の江戸川の堤と河川敷ですね。緑の河川敷で草野球チームが練習していたり、堤防上で恋人たちが散歩していたり、川の中の取水塔の景色も印象的でした。取水塔で取水した水は金町浄水場できれいになって、東京の下町一円に水道水として送られています。この江戸川の風景は、葛飾区民として自慢したいですね。
江戸川河口の町、千葉県の浦安も、映画の寅さんシリーズ第5作で登場します。柴又の江戸川べりで、小舟の中で昼寝していた寅さんが、ロープがほどけて下流に流され、確か浦安の豆腐屋さんの娘に救われる筋書きだったと思い出します。浦安が登場することを憶えている方は、かなりの通といえますが、私同様かなりの年配者というか、人生の大先輩というか、あるいは後期高齢者という、お目出度いことになろうかと思います。
寅さん映画では、日本各地の美しい水辺風景が、ほぼ毎回登場します。思い出すままに紹介しますと、順不同ですが、天橋立、種子島、浜名湖、五島列島、三浦半島、東尋坊、網走、天草、津和野、唐津、小樽、沼津、たつの、大洲、平戸、佐世保、木曽、島田、紀ノ川、奥尻島、鳴門、対馬、小豆島、焼津、琵琶湖、佐渡、因島、枕崎、牛久沼、天草、式根島、下関、知床、伊勢志摩、島原、松島、袋田、鳥取砂丘、中津川、日南海岸、下呂温泉、琴平、奄美大島、沖縄の国頭村、等々。この他にもありますが、忘れているだけなので、ご存知の方は後で教えてください。ここも、寅さん映画で紹介されていますよってね。
こうしてみると、また、うらやましくなりましたね。寅さん役の渥美清さんはもちろんですが、山田洋次監督も、仕事といいながら日本各地を旅行しているわけでしょう。旅が仕事なんていいですね。でも、それは事情に無知な部外者の嫉妬というものでしょうね。実際は、撮影に最適の天気になるまで、スタッフといっしょに何日も宿で待機したりだったのでしょう。監督の意図にぴったりの景色を見つけるまで、ロケ地を現地で探したりしたんでしょうね。撮影が長引けば、それだけ製作費がかさみますしね。会計担当は気を揉んだでしょう。
映画を観た後では、そのロケ地に行ってみたいと思いましたが、蕎麦屋の仕事があるんですから、とてもとてもできません。それでも、映画を観ながら旅をしたような疑似体験に浸れるのですから、映画代は安いものかもしれません。旅行する時間もかかりませんしね。
ここで、寅さん映画の中で、私が水辺の名シーンと思っている場面を取り上げてみましょう。あれは第二十五作、「寅次郎ハイビスカスの花」というタイトルだったと思います。沖縄の国頭村の砂浜のシーン。抜けるように明るい沖縄の空と海。浅丘ルリ子がマドンナ役でした。旅回り歌手のリリーさんでしたね。寅さんとリリーさんが、沖縄の開放的で美しい風景に後押しされるように、ついに、いっしょに。ところが、柴又へ帰ってみると二人は情熱が醒め、夢を見ていたことに気づくというストーリー。恋が成就することがない寅さんとマドンナが最も近づいた作品で、私は今でもはっきりと思い出します。
それから、第四十七作で、マドンナ役として、琵琶湖の写真を撮りに来ていた人妻役の、かたせ梨乃がよかったですね。美しい琵琶湖の風景に彼女はぴったりでした。後半で、鎌倉の江ノ電の駅で、甥っ子の満男君に寅さんが恋の指南をするシーンがありましたね。いつも失恋している寅さんが真剣に甥っ子の恋を応援する姿を思い出します。その背景が、駅のすぐそばに広がる鎌倉の海でした。
他にも第十七作で、兵庫県たつの市を流れる川の美しい風景を背景に、地元の芸者、ぼたんを演じた太地喜和子の華のような艶姿。第三十六作で、伊豆・式根島で小学校の先生役を演じた栗原小巻と島の小さな港の光景も忘れられません。こうしてみると、本当に水辺の風景が寅さん映画の重要な要素になっていることに、改めて気づいていただけるでしょう。それが偶然なのか、必然なのか。つまり、日本中、どこへ旅しても美しい水辺が背景になるからか。それとも、美しい水辺風景を必ず取り入れたいという山田洋次監督の明確な意図なのか、考えてみるのもおもしろいと思います。
私が今も腑に落ちないのは、柴又から遠くない、茨城県の霞ヶ浦を背景にしたシーンが無かったことなんです。近くの牛久沼は、第三十四作で紹介されています。ところが、日本第二の湖、霞ヶ浦は寅さん映画に取り上げられていません。謎です。皆さんも考えてみてください。山田洋次監督にも伺ってみたいものです。
私は金町に蕎麦店を構えて、数年して落ち着いたころ、急に、予科練の歌、「同期の桜」で有名な霞ヶ浦を見たくなって、常磐線で土浦に行って、駅から近い土浦の港の遊覧船に乗ったことがあります。たしか、イルカのフリッパー号という遊覧船でした。土浦港は狭かったのですが、沖に出ると霞ヶ浦の広さを実感しました。筑波山を背景にした霞ヶ浦は確かに日本を代表する水郷風景でした。ただし残念だったのは、湖にアオコが出て、いやな臭いがしたことです。
今になって思うことは、霞ヶ浦がいろいろな排水で汚れ、観光客はじめ皆さんが霞ヶ浦に行かなくなって、山田洋次監督も霞ヶ浦をロケ地に選ぼうという考えが浮かばなかったのかなあということです。茨城県の方々だけでなく、常磐線沿線に住む都民の私たちも残念なことです。
でも、今は、水質が改善され、アオコが出なくなったという話をお客さんから聞いていましたので、昨年の九月に四十年ぶりくらいで土浦に行って、遊覧船に乗ってみました。フリッパー号は、もう退役して、今はつくば号やホワイトアイリス号という遊覧船が就航していました。私は二階建てのホワイトアイリス号に乗ってみましたが、アオコの臭いは全く無く、水質は良くなったなあと感じました。人々の努力が実を結んでいたのです。
山田洋次監督にもう一作、霞ヶ浦を舞台にした寅さん映画を作ってほしいとお願いしたいところですが、寅さんはもういません。渥美清さんはだいぶ前に亡くなりました。御前様、おいちゃん、おばちゃん、タコ社長も鬼籍に入られました。さびしい限りです。
先ほど申しましたように、寅さんの映画では毎回マドンナ役の女優さんが登場します。どの女優さんも美しい方ばかりですね。寅さんも相手役も、恋に落ちかけて、踏みとどまるというストーリーが定番でした。寅さんの映画では、登場する女性たちが重要なんです。母親、妹、おばちゃん、そして旅先で出会うマドンナたち。彼女たちは、丁々発止のせりふ回しで、生き生きと寅さんと会話するんですが、結局、寅さんを温かく見守っていることがわかります。
男というものは、さびしいもので、家族の大黒柱だと威張っていても、結局は奥さんに頭が上がらなかったり、尻に敷かれたりしています。皆さんはいかがですか。女がいない男たちは、孫悟空のように活躍しても、道を踏み外しがちです。そうならないように、女性たちは男の袖を引っ張ってくれているのです。あなた、そっちへ行ったら危ないよ、とね。
五年くらい前でしたか、山田監督は最後の寅さん映画を作りました。寅さんは行方不明で、日本のどこかで、神社の境内で地域のお祭りの露天商、つまりテキヤをやって頑張っているだろうという設定でした。お盆に皆さんが集まり、亡くなった方々を偲ぶ場面がありました。出演されたのは、さくらさん、博さん、満男君ほかの方々でした。満男君はサラリーマンを辞めて小説家になっていました。俳優の皆さん、お歳を召されましたね。まあ、人のことは言えないですね。私も歳を取りました。
さくらさんを演じた倍賞千恵子さんは良かったですね。自然体で歳を取られたさくらさんを、そのまま演じていました。柴又駅前の、寅さんとさくらさんの銅像は皆さんもご存知ですね。私は時々、二人の銅像を見たくなって金町駅から柴又駅まで京成電車に乗ります。エプロンをつけたさくらさんが、旅に出る寅さんを見送るシーンが再現されていますから、私は見るたびに心が熱くなり、涙が浮かんできます。寅さん映画は、私の人生にぴったり重なります。寅さん映画を観て、泣き笑い、励まされ、また頑張るぞという勇気をもらえました。自分のことよりも、まわりの人のことを考え、その人の役にたとうとする生き方。それが寅さんの生き方でした。
今、思うと、寅さんは天使だったのではないでしょうか。天使というと、背中に翼がある、かわいい幼子のイメージですね。赤ん坊の笑顔を天使のようだと言ったりします。あの渥美清の、えらが張った、いかつい顔から天使を連想できないかもしれませんが、私には寅さんは天使だったのかもしれないと思えます。天使は、天上からのお使いです。神様が、何かのメッセージを伝えるために、天使を地上に遣わすのです。寅さんの天使は何を伝えたかったのでしょうか。「家族、仲良く生きなさい」とか「地道な仕事は大事だよ」とか「人との出会いを大切にしなさい」とか、普通のあたりまえのメッセージかもしれません。でも、あたりまえのことが、なかなかできないのが、私たち人間なんですよ。
寅さん映画が終わった今、蕎麦屋を娘夫婦に譲った私は、これからどう生きていこうかと考えています。さきほど常磐線の土浦駅から、久しぶりに遊覧船に乗ったと申しましたが、実はその日その足で、常磐線で三つ目の石岡駅で降りて、有名な「石岡のお祭り」を見ました。実はそれに合わせて、茨城に行ったのです。石岡のお祭りは、想像していた以上に人出が多く、山車も町内会ごとに出て、若者中心の賑やかな、伝統あるお祭りでした。東京に出ている学生はじめ、石岡出身の人がこの日ばかりは地元に戻り、お祭りを楽しむのだそうです。石岡は昔、常陸国の国府でしたから、茨城県で一番古い歴史がある町なんですね。
石岡のお祭りでは、山車がたくさん出ていました。山車の上にはヤマトタケルのミコトの見事なハリボテ、きつね、ひょっとこ、おかめの面を被った町衆が乗って、町内を練り歩くのですね。きつねは、人を妖しく誘うようなしぐさで踊っていました。ひょっとこ、おかめは、見ているものを楽しくさせるユーモラスなものでした。祭りのお囃子は気持ちが浮き立つ、伝統的なリズムでした。
じつは、石岡のお祭りを見に行ったのは、露天商の中に、寅さんの面影を探したいと思ったからでした。寅さんのように、威勢のいい、淀みない啖呵売で、お客を呼んでいる人は残念ながらいませんでしたが、懐かしいお祭りの雰囲気を久しぶりに味わいました。地方の町の伝統的なお祭りというのは、例えば神社の幟旗、裸電球の光、焼きそばか、イカ焼きか、何かの食べ物のいい匂い、人々のざわめき、若い女性たちの浴衣姿、子どもたちの声、心が浮き立つようなお囃子のリズムなどがあり、ノスタルジーを掻き立て、非日常的と申しましょうか、どこか懐かしい異次元空間のようです。
石岡のお祭りは、佐原のお祭り、秩父の夜祭りとともに関東三大祭りの一つです。来年は寅さんを探して、佐原、秩父にも行ってみたいと思っています。「寅さんを探す」、それは私の残された人生のテーマとして、生き甲斐の一つになりそうです。
雪国の小さな町に生まれ育った私は、何かのご縁で、葛飾柴又の近くの金町で蕎麦屋を営みながら、地域の皆さんのお世話になり、家族を大切にして、寅さんに励まされて人生を生きてきました。平凡な自分は、とても寅さんのような生き方はできませんでしたが、寅さんは一方で私の分身だったのかもしれません。寅さんに、そして渥美清さんはじめ出演された俳優さん、山田洋次監督やスタッフの方々に感謝しています。
皆さん、蕎麦屋の親父の、とりとめもない思い出話を御清聴いただき、まことにありがとうございました。
―拍手―
―佐藤茂美さん、丁寧にご自分の人生を語っていただきまして、まことにありがとうございました。では、当実践講座では、単に講師の講演を聞くだけでなく、お話の後に、質疑応答の時間を設けております。ご質問がある方はどうぞ―
―お話、ありがとうございました。興味深く聞かせていただきました。佐藤さんが長く蕎麦屋の仕事をされて、一番嬉しかったことは何でしょうか―
そうですね。金町のお店の家賃をローンで払い続けるよりも、思い切って購入して、完全に自分の店になった時ですかね。それはサラリーマンの方が、戸建てのマイホームを手にいれた時の気持ちと同じでしょうね。蕎麦屋の主としては、お客さんや地域の方々に支えられて、大病することなく、健康で仕事を続けられたことが一番嬉しいことです。
―他に、質問がある方は、どうぞ―
―葛飾・柴又、そして寅さんの映画を取り上げていただいて、ありがとうございました。その寅さん映画に登場するマドンナ役の女優さんの中で、佐藤さんが一番印象に残っている女優さんは誰ですか―
その質問が出るのでは、と思っていました。私が印象に残っているのは、第十四作で出演した十朱幸代さんですね。十朱さんは優しい看護師役でした。その看護師さんが、草団子屋に遊びに来て、家族と談笑するシーンが好きですね。共演者の皆さんも本当に楽しそうで、生き生きとしていました。その看護師さんに惚れているのが、下町の合唱サークルで指導している髭面の青年、たしかおもちゃ工場の労働者でしたね。上條恒彦さんが純情な青年をうまく演じていました。その青年に、恋の指南をするのが寅さんでした。それぞれの名場面が今でも目に浮かんできます。他にも、吉永小百合、八千草薫、秋吉久美子、松坂慶子、大原麗子など、私が好きな女優さんたちが登場しました。夢を見ているような映画でした。あれからずいぶん時間が経ちました。既に天国へ旅立たれた方もおられます。天国で、寅さんとの共演シーンを懐かしく思い出しておられることでしょう。ご冥福をお祈りいたします。
―では、予定時間をだいぶ過ぎましたので、これで、葛飾区金町地区センター主催の令和四年度生涯学習実践講座「個人史を語る」第八回を終わります。なお、お話の内容はこれまで同様、録音させていただきました。センター職員がテープ起こしで原稿を作成し、佐藤茂美さんに推敲をお願いし、他の方の講演録を併せて、今年度中に冊子として発行させていただく予定です。頒価五百円ほどを予定しております。発行されましたら、ぜひお買い求めください。ありがとうございました―
了

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