「潮来は桜もきれいだね。水辺の桜は趣があるなあ。潮来は、あやめのイメージしか無かったけれど、見直したよ」
潮来駅近くのビジネスホテルのフロントで、篠原啓司と記名し、チェックインを済ませた男が、フロントの女性スタッフに話しかけた。彼女はルームキーを篠原に渡しながら微笑んだ。
「ありがとうございます。お客様のように、潮来の桜を見に来られる方が増えると嬉しいんですけどね」
「桜を見に来たわけじゃないけど、たまたま見られて幸運だったなあ。東京の知人に宣伝しておくよ」
頭にかなり白いものが混じった篠原は、ルームキーを受け取ると、エレベーターで3階の部屋に向かった。
三〇三号室に入った篠原は、窓のカーテンを開けて、常陸利根川を見下ろした。川に沿って、岸辺に植えられた桜並木が満開だった。ぼんぼりに灯りが点され、桜花を照らしていた。
篠原はショルダーバッグを置き、灰色のコートと黒の礼服の背広を脱いだ。黒のネクタイも外した。着替え用に用意してきたセーターを着て、再びコートを羽織り、夕食に出ることにした。一階のフロントにルームキーを預け、春の宵闇の中を、常陸利根川に繋がる前川のあやめ園に向かった。あやめは咲いていないが、前川沿いの桜並木がきれいだと、フロントスタッフから聞いていた。ライトアップされた桜並木は、やや肌寒い空気の中で、幽玄な華やかさを誇っているようだった。篠原の他に、桜を見物している人はほとんどいなかった。篠原はゆっくりと散策しながら、この日、参列した、古い友人猿田信次郎の葬儀を思い出していた。
四十数年前、旧姓が加東だった猿田は、M不動産の鹿島支店で二年先輩の同僚だった。M不動産は鹿島コンビナート開発で、地主から土地を買い上げ、進出してきた企業に工場用地を分譲する仕事を独占的に請け負った。当時、太平洋の鹿島灘に面した鹿島・神栖地方は、首都圏の近傍ながら農業県である茨城県の中でも貧しい地方だった。砂地の土壌は水持ちが悪く、水田稲作には適さず、辛うじて野菜やサツマイモなどが栽培されるだけだった。年間を通して、海からの風が強く吹いた。長い海岸線が延々と続いていたが、砂浜だけで良港はなかった。漁師は小型漁船でイワシやハマグリなどを細々と獲り、港がないので漁船は砂浜へ引き揚げた。農家や漁師の収入は少なく、子どもの高校進学率は県下でも最下位だった。
鹿島・神栖地方の開発は、戦後の茨城県政の大きな課題だった。県知事は、大きなコンビナートを誘致する大型開発によって、日本でも有数の工業地帯に発展させる構想を採用した。県議会でも多くの議員が賛成した。当時の県民所得は、全国でも下位を低迷していた。首都近傍に位置しながら、茨城県が高度経済成長の波に乗り遅れるわけにはいかなかった。こうして、後進県からの脱却を目指し、「農工両全」をキャッチフレーズに開始された鹿島開発では、使命に燃えた県職員、大手不動産業者、大企業の移転担当者らが現地入りし、農民や漁民との交渉にあたった。
東京生まれの篠原や加東らは、M不動産の若き営業社員として、現地支社に派遣され、連日、県担当者、企業の用地買収担当者、現地農家や漁師の三者の間に立って、工場用地の売買交渉にあたった。不動産会社にとって、現地農家との信頼関係を築くことが先決だった。
農家を訪問する時には、必ず高級ウイスキーなど土産品を持参し、カラー印刷のパンフレットを見せ、農家にとって土地の交換は決して損にはならないことを説明した。土地の交換は鹿島開発独特の「六・四方式」で進められた。それは農家が工場用地として四割の面積の土地を提供すれば代替地として六割の面積の別の安価な土地と交換するものだった。この換地によって工場用地がまとめて確保された。しかし農家の耕作地は遠方になり、やせた砂地で、軽トラで農作業に通うことになった。
農家の中には、先祖伝来の農地を手離し、工事現場の日雇い作業員になったり、単身赴任者用のアパート経営を始めたり、大型ダンプカーを購入して、工場用地造成の仕事にあたる者もあった。一度に広大な農地を売って俄か成金になり、屋根瓦に鯱を上げた豪邸を建てた者もあった。しかし、中には一度に大金を手にし、酒や女や覚せい剤に溺れて、身を持ち崩す者もあった。貧しかった鹿島・神栖地方は大きく変貌を遂げつつあった。M不動産の加東と篠原の若い二人は体力に任せて、こうした土地の売買交渉に、夜討ち朝駆けであたったのだった。
休日を取れずに仕事が続くと、さすがにストレスが溜まってくるのが分かった。鹿島・神栖地方には、飲み屋街のようなストレス発散の場所は未だ少なかった。二人は時々夜になるとタクシーを飛ばし、北浦の鰐川と呼ばれる狭い水域に架かる神宮橋を渡って、隣の潮来町まで飲みに行った。当時、潮来は水郷観光ブームが下火になりかけていたが、旅館、ホテル、居酒屋、バー、スナックが軒を並べていた。
加東と篠原は、「御食事処」と看板を出している居酒屋で腹ごしらえを兼ねて飲んだ後、バーやスナックを巡った。
ある夏の晩、いつもどおり、居酒屋で飲んで出来上がった後、二人は上機嫌で潮来の前川の近くの通りをぶらぶら歩いた。ネクタイを緩め、ワイシャツを腕まくりし、上着は肩にかけた。灯りに照らされた小さな看板が目に入った。紫色のあやめの花が描かれ、同じ紫色で『スナック・パープル・アイリス』と書かれてあった。
「おっ、ここは初めてだな。入ってみるか」
加東の言葉に促されて、篠原もその気になった。ドアを押して中に入ると、店内は紫色の照明で満たされ、ボックス席二つとカウンター席があった。カウンターには、黒のタイトスカートと紫のシルクのブラウスを身につけた、女盛りの三十代後半と見える女がいて、二人に笑顔を向けた。
「あら、いらっしゃい。カウンター席へどうぞ」
ほかに客はいなかった。二人はカウンター席へ座り、お絞りを使った。
「お客さん。ここは初めてですか」
加東が、お絞りで顔まで拭きながら言った。
「ああ、看板につられて入ってしまったよ」
「ありがとうございます。潮来はあやめのシーズン以外は、お客さんが少ないんですよ。それでも、アイリスという看板につられて入ってくれるお客さんがいるかもしれないと思って、お店の名前にしたんです。アイリスはあやめという意味ですから」
今度は篠原が言った。
「なるほどね。僕たちはあやめの花に飛んできた夏の虫ってわけだ」
「まあ、そんなところね。うふふ。ところでお飲み物は何を?」
「あはは。正直なママさんだ。そうだなあ、さっき居酒屋でビールをだいぶ飲んできたから、ウイスキーの水割りを」
「僕も同じで」
「はい、かしこまりました。オールドの水割りでいいわね」
女は棚から黒く丸いボトルを取り出すと、慣れた手つきで水割りを二杯、作りはじめた。グラスに氷を入れ、ウイスキーを注ぎ、タンブラーで軽く掻き回した。二人はそのしぐさと女の顔を交互に眺めた。
女は目が大きく色白で、かたちが良い腰にぴったりした黒のタイトスカートと胸元にフリルがついた紫のブラウスがよく似合った。ややカールした黒髪は肩に届く長さだった。
「そんなに見つめられたら、恥ずかしいわ。はい、水割り、どうぞ」
「ありがとう。ママさんは地元の人?」
加東が遠慮なしに訊いた。
「いいえ、流れ者なの。東京の江戸川区の小松川から流れてきたの。大利根の川下の潮来は観光客が多いと聞いて河岸に上がったら、あてが外れちゃったのよ。あはは」
女は、屈託なく笑った。
篠原が話をつないだ。
「小松川か。道理で茨城なまりがないと思った。実は僕たちも生まれ育ちは東京なんだ。僕は神田岩本町だ。お玉が池の千葉道場があった場所の近くさ。今は埋め立てられて、お玉が池はないけどね」」
「花のお江戸は、神田の生まれよ。鮨食いねえ、ってやつね。もっともここはスナックだから鮨はないけど、チーズとクラッカーなら、あるわよ」
「うん、後で頼むよ。そして加東先輩は、品川宿の老舗旅館の次男坊ってわけだ」
「二人とも、ちゃきちゃきの江戸っ子ね。あたしも東京の下町だから、何かの縁かしらね」
加東が、水割りのグラスを一口飲んで言った。
「僕らは、鹿島で土地関係の仕事をしてるんだ」
「あらそう。土建屋さんなの?」
「いや、土地を売買して提供する仕事。つまり不動産業さ」
「不動産屋さんね。今、鹿島、神栖は景気がいいんでしょ?」
「そこそこだね。県の役人と工場側と地主さんの間に立って、調整役を毎日やっているようなもんだよ。楽な仕事じゃないな」
「仕事となれば、何でもたいへんよ。ところで不動産屋さんなら聞きたいんだけど、このお店、いくらぐらいだと思う? 貯金下して居抜きで買ったんだけど」
「さあ、ぼくらは街角の不動産屋じゃないので、こういう店舗物件を扱った経験は残念ながら無いんだ」
「そうなの? 人の良さそうな地元の不動産屋を信用して買ったんだけど、おかげで、すっからかんになっちゃったから、ここで稼ぐしかないのよ」
思いがけずママと話が合った二人は、茨城の土地柄、県民気質、方言、食べ物などをひとしきり話題にした。
「鹿島の農家の人は、おやつのことを、こじゅうはん、とか、こじはん、というね。最初はなんのことか、分からなかったよ」
「ああ、それはね、漢字で書くと、小さい昼飯、つまり、小昼のご飯ということなの。きつい農作業を続けるとお腹が空くでしょう。だから、途中で、蒸かしたサツマイモとか食べないと、夕方までもたないのよ」
「なるほど、ママはよく知ってるね」
「潮来に来て、長いからねえ。ここには、農家の人もたまに来るのよ。農家の言葉も知っておかないと、商売できないわ。じゃあ、ごじゃっぺ、は分る?」
「ごじゃっぺも、よく聞くね。語感で何となく分るような気がするんだけど、本当はどうなんだろうね」
「ごじゃっぺ、は、分からずや、とか、馬鹿という意味らしいんだけど、もう少し、柔らかい、からかいの表現みたいね。大阪弁なら、アホ、みたいな感じかな」
「ママはさすがだなあ。僕らも茨城弁を使いこなせるようになったら、仕事がうまくいく気がするな。地元の人に溶け込めるからね」
「んだっぺな」
「うまい、その調子」
「うふふ」「あはは」
篠原と加東は、ママと笑い転げた。
料理の話になった。
「潮来は、川魚料理屋が多いのよね。鯉やうなぎはおいしいわね。それに小魚やエビの佃煮は保存が効くから便利ね」
「佃煮は東京の佃島や月島が本場だよね。ご飯によく合うから僕も好きです」
篠原が話を合わせた。
「茨城県のこのへん、つまり鹿島地方と行方(なめがた)地方は、併せて鹿行(ろっこう)と言うのよね」
ママが話を振ると、加東が返した。
「そうそう。最初は行方も読めなかったなあ。地名が読めないのでは、不動産業は務まらないから、最初は地図を眺めて、地理の勉強から始めたね。行方警察署は、行方不明者を専門に捜索する警察署かと最初は思ったよ」
「あはは。それは、このへんでは定番の笑い話よ」
篠原も応じた。
「歴史の勉強もしました。先日、東京の会社の顧客を鹿島神宮に案内したんだけど、鹿島神宮の歴史は意外に古いんですね。ヤマトタケルノミコトの伝説が残っているし、大化の改新の中臣鎌足の出生地として伝わる場所があったりしてびっくりだよ。江戸時代には松尾芭蕉も訪れているんだね。
東京から来た人間は知らないことばかりだよ。土地の歴史や文化や地理を勉強して、地元の人の話題についていくのは、不動産屋としては大事ですね」
加東は先輩顔をして言った。
「うん。僕らが地元の歴史を勉強してることが分ると、農家の親父さんから、ほうと感心され、一目置かれて、話に耳を傾けてくれるようになるんだ。土地売買の話は、頃合いを見て切り出せばいい。急がば廻れだね」
ママは部屋の隅に置いてあるステレオの棚で、レコードジャケットを探し始めた。
「なるほどね。二人とも、腕利きの不動産屋になるでしょうね。ところで、潮来から始まって、全国で有名になった流行歌は歌えるでしょう? レコードをかけて、景気づけしましょう。橋幸雄の『潮来笠』はどう?」
「レコード大賞の曲だね。いいね」
ママは、ステレオ装置にレコード盤をかけた。
狭い部屋に橋幸雄の歌が流れた。
~潮来の伊太郎、ちょっと見なれば、薄情そうな渡り鳥~
~田笠の紅緒がちらつくようじゃ~
~旅空、夜空でいまさら知った 女の胸の底の底~
ママが声を合わせて歌い出した。加東と篠原もつられて歌った。いいストレス解消になった。
「いい声だね。橋幸雄はいいね。これからますます売れそうだね」
加東が言うと、ママもうなづいた。
「そうよね。私、ファンなの。美空ひばりの『娘船頭さん』もいいわね。『娘船頭さん』の映画のロケの時、ひばりちゃんやロケ隊の人たちが泊まった旅館はすぐ近くなの」
「ふーん。水郷潮来は映画の町なんだね」
加東が腕時計を見て、腰を上げながら言った。
「篠原。夜もだいぶ更けたから、そろそろ引き上げようぜ。明日も仕事だしな。ママさん、お勘定」
「はい、ありがとうございます。これで」
ママは紙切れに書いた金額を示した。加東は紙幣を財布から出した。
「ではこれで。釣りは要らないよ。篠原、あとで割り勘だ」
「はい、加東先輩。ところで、ママさんの名前は?」
「あら嬉しい。名前を聞いてくれて。あたしは奈美子です。利根川の波に流されて来たからなみこなの。漢字は奈良の奈に美しいね」
「奈美子ママね。僕は篠原啓司です。気持ちよく飲ませてもらったからまた来ます」
「加東ちゃんに啓司君ね。これからどうぞ、ごひいきに。タクシー呼びましょうか?」
「いや、潮来で飲んだ時、定宿にしてる安ホテルが近くにあるんだ。そこの煎餅布団にくるまって寝て、明日の朝、タクシーで出勤だ」
「あら、豪勢な重役出勤ね。お気をつけて。またおいでくださいな」
「じゃ、奈美子ママ。おやすみ」
「おやすみなさい」
二人は千鳥足で、ホテルに向かった。篠原は、ふらふらしながらも「奈美子」という名前と、どことなく男を惹き付ける彼女の顔を思い出し、反芻していた。
二人はその後も、潮来に飲みに行く度に『パープル・アイリス』に顔を出した。奈美子ママは、歯切れのよい東京の下町言葉で遠慮なく話し相手になってくれた。時には若い男たちの悩みも聞いてくれた。ひとまわり近く齢が離れた奈美子は、姉さん役で相談相手になった。
二年ほど経った時、加東に縁談話が持ち上がった。相手は地元の地主の嫁き遅れた娘だった。加東は、地元でも特に広い土地を持つ猿田という農家と土地の交渉を担当していた。猿田家は、かつて名主を務めた有力者の家で、地元では人望が篤かった。この農家が土地の売買に応じてくれれば、他の農家も右ならえで一挙に交渉が進展するはずだった。
加東が支店長の綿貫とともに、スコッチウイスキーを手土産に、挨拶に行った日、平身低頭しながら、鹿島開発がいかに地元の発展につながるか、貧しい地域が豊かになるかを力説した。その言葉は茨城県の鹿島臨海工業地帯開発組合の役人の受け売りだったが、農家を訪問する度に何度も繰り返してきたので、淀みなく口から出た。
「これからは農家も豊かになります。今まではサツマイモなどの露地栽培が砂地の畑に適していましたが、これからは、必要な分だけ農業用水が使えますから、これまでのような広い土地は要らなくなるんです」
加東は必死に力説した。
猿田は納得がいかない表情だった。農家のリーダー役を担っている自負があった。不動産屋の甘言に乗らないぞという気構えが、厳しい表情に表れていた。
「農地を少しでも手離すことは、農家にとって大問題だ。それに、水はどこから引くんだ?この地方では、昔から水に苦労してきたんだ。元々鹿島灘の砂丘地帯だから、神乃池の近く以外は田圃は作れないんだ。砂地を掘り下げた田甫では、わずかな湧き水に頼るしかないが、年によっては、その湧き水も枯れてしまうんだ」
加東は、予想した質問が来たと思った。それに備えて、茨城県が作成した資料を読み込んでいた。
「水は、霞ヶ浦、北浦から供給されます。県は北浦の鰐川から取水して鹿島コンビナートの大きな工場に工業用水を供給しますが、農業用水は、常陸利根川から取水するそうです。
建設省が、海からの塩水の遡上をストップさせ、塩害を防ぐために逆水門を設置したので、霞ヶ浦、北浦、外浪逆浦、常陸利根川は完全に淡水になって、工業用水、農業用水、上水道水に使えるようになるんです。その水で農家は、ビニールハウスで付加価値が高い商品作物を作ればいいんです」
「ほう、ビニールハウスか。具体的には何を作ればいいのかな?」
「例えば、ピーマン、アスパラガス、キュウリ、トマト、イチゴ、それにメロンなどでしょう。砂地の農地には適していると思います。給水や肥料の管理も楽になり、計画的な栽培が可能になります。生産した野菜は清浄野菜として首都圏のスーパーマーケットに安定的に出荷して、都会の消費者に高く買ってもらえます」
「なるほど。イチゴやメロンが出来れば、高く売れるな。都会者の割に、農業も勉強してるな」
地主の猿田は当初は難しい顔をして応対していた。自分の態度が地域の発展に大きく影響することも認識していた。安易に不動産屋の口車に乗せられて後悔することになっては、地域の住民に申し訳ないと考えていた。
しかし、加東らの熱心な説得に、心が動き始めた。
「支店長さん、加東さん。お話はよく分かった。これも時代の流れだ。流れに棹さして逆に遡ることはできねえ。猿田家はこれまで地域で魁の役割を果たしてきたんだ。当家の言い伝えによれば、猿田家の守り神であるサルタヒコノミコトは、鹿島神宮の神様、タケミカヅチノオオカミの先導役を務めたといわれておる。その後も時代の節目で誤ることなく、荒波を乗り切ってきた。これからも鹿島・神栖地方の発展に逆行するような判断は避けなければならないだろう」
当主がここまで話した時に、和服を着た女が応接室にお茶を運んできた。
その女は、お盆をテーブルに置くと、丁寧にお辞儀をして、落ち着いた声で挨拶した。
「いらっしゃいませ」
「娘の真砂子です。しっかり躾けたつもりだが、嫁き遅れて家付き娘のようにならないように、心配しているところです。どこかいい縁談はないものかね」
「まあ、お父さん。初対面の方々にそんなことを・・・」
「いいじゃないか。しっかりした方々だから、言ってみただけだ。それに縁というものは思いがけないところに転がっているものだ」
真砂子は、落ち着いたしぐさで茶碗と和菓子をそれぞれの前に置くと、
「どうぞ、ごゆっくり」
と言って下がった。支店長はお世辞もふくめて言った。
「感じのいいお嬢さんですね」
猿田は気難しい顔から急に目尻を下げて、相好を崩した。
「そうじゃろう。大事な箱入り娘だ。誰か相応しい男はいないかね」
綿貫は傍らに控えている加東を見て言った。
「そうですね。当支店で独身の男といえば、まずこの加東君あたりですかね」
加東はそれを聞いてびっくりした。何と答えていいか分からず、下を向いてしまった。
「ほう、そうか。加東君はなかなか好青年のようだ。さっきの説明は、はっきりして分かりやすかった。気に入った。どうだね、うちの娘は?」
「はい、突然のことですので・・・」
「ははは、それはそうだ。まあ、ゆっくり考えてみてくれ」
上機嫌で猿田は笑った。
帰りの車のハンドルを握る加東に、後部座席から支店長が声をかけた。
「加東君、これはわが支店にとって正念場だ。猿田さんを落とせるかどうか。M不動産の命運がかかっているといっても過言ではない。加東君、猿田さんのお嬢さんと付き合ってみたまえ。これは業務命令だ」
「えー、支店長。本気ですか」
「ははは、半分は本気だ。君の昇進もかかっている。まあ、よく考えてくれや」
そう言って綿貫支店長は、連日の仕事の疲れが出たのか、座席にもたれて目を瞑った。
加東は困惑しながら、猿田家の娘の横顔を思い出していた。
数日後、猿田氏から加東に電話が入り、あらためて娘とつきあう気はないかと打診された。支店長席から綿貫が目くばせした。
加東は、近日中のデートを約束せざるを得なかった。義務的におつきあいさせていただいた後、丁重にお断りすればよいと考えた。
ところが、加東と真砂子が数回デートを重ねるうちに、お互いに引かれていることに気がついた。休日には、会社の車を借りて、大洗や銚子までドライブした。太平洋の大海原を眺めながら、人生観、仕事への姿勢、どんな家庭を望むかなど、話題はお互いに豊富だった。
数ヶ月、つきあううちに二人は結婚を決意していた。加東からそのことを打ち明けられた篠原は驚いた。
「猿田さんのお嬢さんと結婚するんですか。おめでたい話ですが、先輩は会社を辞めてしまうんですか?」
「いや、会社は辞めない。M不動産の社員として仕事を続けて、この地域の発展に役立ちたいんだ。地元に縁ができて、ここに骨を埋めるつもりで仕事をすれば、鹿島・神栖の地元の人に信用されて、土地の売買交渉が一気に進むかもしれない。その方が、うちの会社だけでなく、真砂子や猿田家にとってもいいことなんじゃないかな・・・」
「では、先輩は猿田家に婿養子に入ることに・・・」
「まあ、そういうことだ。僕は次男だからな。品川の実家の旅館は兄貴が告ぐことになってる」
「本当に驚きました。よく決心しましたね」
「人生、決める時には、決めないとな」
加東の引き締まった表情は、決断した男の顔だった。
次の年の六月、潮来の前川で、真砂子と猿田夫妻が乗った嫁入り舟が静かに運航された。
舟の前に座った花嫁の真砂子は、白い角隠しに白無垢打掛の衣裳で、まっすぐ前を向き、落ち着いていた。花嫁の両親として猿田夫妻は、黒の紋付袴と留袖姿で、舟の後方に、緊張しつつも満足気に控えていた。舟には、『壽』と赤く染め抜いた提灯が掲げられ、米俵、祝いの地酒「愛友」の菰樽が積み込まれ、小さな紅緒を付けたイグサ製の田笠に紺絣の娘船頭さんがゆっくり漕ぐ櫓が、リズミカルに水を切り、波紋が舟の後方に次々に煌めいた。岸辺には、白や紫色のあやめが咲き揃っていた。
岸辺のスピーカーから『潮来花嫁さん』が流れた。花村菊江のレコードを、篠原ら同僚たちが用意し、控えめの音量で流したのだった。
~潮来花嫁さんは、潮来花嫁さんは、舟でゆく~
~ギッチラ、ギッチラ、ギッチラコ~
~花も十八、嫁御寮~
水郷の潮来や佐原では、さっぱ舟での嫁入りは伝統的に行われていたが、イベントとしての『嫁入り舟』は、潮来の前川で始まっていた。篠原らは、先輩の加東の結婚式の演出に、取り入れたのだった。前川べりのあやめ公園で、あやめの花見を楽しんでいた観光客は、『潮来花嫁さん』の曲に聴き入り、曲が終わると一斉に拍手して二人を祝福し、美しい嫁入り舟の光景を楽しんだ。
このイベントには潮来の観光協会や遊覧船組合も試験的に協力していたが、関係者も大いに満足した。
盛大な結婚披露宴が川べりの老舗「阿や免旅館」を借り切って行なわれた。
披露宴に出席した篠原は、二人を祝福してできるだけ賑やかにふるまった。猿田家の当主や親戚、家族もおおいに盛り上がって、酔いつぶれる者もいた。綿貫支店長は「俺は河原のかれすすき、同じお前もかれすすき」と野口雨情作詞、中山晋平作曲の「船頭小唄」を渋い声でしんみりと、しかし、上機嫌で歌い、部下の門出を祝福した。
「加東君、真砂子さん。ご結婚、おめでとうございます。かれすすきではなく、これから人生の大輪の花を咲かせてください。そして鹿島の発展を祈念いたします」
加東家側の家族や親戚たちも、喜びを隠さない茨城風の素朴な結婚式にやや戸惑いながらも、潮来の水郷情緒と花嫁の美しさに感激し、祝福した。
篠原は、熱海温泉へ新婚旅行に出発する二人を、上司や同僚とともに見送ると、そのまま会社の寮に帰る気になれず、潮来の行きつけのホテルに泊まるつもりだった。梅雨時の長い一日が終わり、日が暮れるのを待って、『パープル・アイリス』に向かった。
「そう、加東ちゃんは幸せね。そんな綺麗な花嫁さんをもらって」
奈美子は、篠原から結婚式の様子を聞いた。客は篠原ともう一人だった。
「嫁さんをもらったというより、婿に入ったんだよ。これからは猿田さんだ」
「猿田さんねえ。鹿島や神栖の方の地元の名前なのねえ。まあ、いいんじゃないの。望まれて婿に入ったんだから。これから、鹿島は発展するでしょうからね」
「うん、加東先輩も、それは確信しているようだね。でも、結婚を決意したのは、結局は二人の気持ちが一致したからじゃないかな。最初は上司から勧められて渋々、彼女と付き合うようになったんだけど、しっかりした彼女の魅力に惹かれるようになったみたいだね。加東先輩が羨ましいな。先輩に比べて、俺なんか、仕事漬けでくたくたの毎日だよ」
「男性はたいへんね。がんばって」
そこへ、いきなり、もう一人の客が話しかけてきた。初老の男でかなり酔っているようだった。
「兄さんは何の仕事をしてるんだね」
篠原は、本気で男の相手をする気持ちは無かった。
「はあ、鹿島で不動産業をやっています」
「言葉使いを聞くと、地元の不動産屋じゃないな」
「はい、東京から来た不動産屋です」
それを聞いた男の表情が変わった。語気に苛立ちと怒りが込められているのが分かった。
「お前らが鹿島に来て、先祖からの土地を安く買い漁っているんだ。おかげで地元の人間は浮足立っている。地域がずたずたに分断され、人の心が荒れてきているんだぞ」
篠原も言い返した。
「でも、鹿島がこのままでいいとは思いません。鹿島は発展しなければいけないんです。鹿島の開発が進めば、地元に雇用が生まれます。農業も効率的になって、所得が上がるんです。そうすれば子どもたちも、希望の高校や大学へも進学できます」
「何が発展だ。地元の人間の中にはあぶく銭を手にして、酒や女やヤクに溺れてしまったやつが、いっぱい、いるんだ。田舎の素朴な人の気持ちが、すさんでいるんだ。自然も破壊されている。工場が建てば公害をまき散らすだろうよ」
篠原は冷静だった。
「茨城県は工場を監督して、公害対策をしっかりやるそうですよ。岩上知事がそう約束しています。大丈夫です。それに貧困のままでいいわけがないでしょう」
男はそれを聞いて逆上した。
「貧困だと。俺たちを貧乏人扱いするな。鹿島灘の砂浜に穴を掘って、生き埋めにしてやるぞ」
そう言うと、男は篠原に殴りかかってきた。男のこぶしは篠原の頬を掠めた。かろうじてかわした篠原は、男の腕を取って、後ろに捻じり上げた。
奈美子が金切り声を上げた。
「ここはあたしの店よ。暴力をふるうなら出てって。警察、呼ぶわよ。二度と来ないで」
「そういうことです。出ていってください。出ていかなければ、こうします」
篠原は男の腕をさらに捻じった。
「痛たた。もういい。分かった。腕を放せ。悪かった。帰る」
男はそう言って、代金を叩きつけるように払うと、フラフラしながらドアを押して、外に出ていった。
奈美子はすかさず、ドアに鍵をかけた。
「ああ、怖かった。女一人でやっていると、ときどき、ああいう酒癖の悪い、やくざっぽい人が来るの。お客さんだから、それでも最初は丁寧に接客するんだけど、図に乗る人がいるのよ。迷惑だわね」
「やくざというより、農家の後継者かもしれないですね。農家の人の中には、開発をよく思っていない人がいることは聞いていました。それはともかく、女ひとりで、こういうお店を切り盛りするのは大変だね」
篠原は深呼吸し、またカウンターの席に着いた。心臓の動悸がようやく収まってきた。奈美子もほっとして落ち着いてきた。
「見かけによらず、啓司君て、強いのね」
「それほどでもないよ。ただ、学生時代に合気道部にいたんだ。基本的な護身術を習ったんだよ」
奈美子の眼がやや潤んできたようだった。
「そうなの、頼もしいわね。用心棒に雇ってあげようか。あたしが女親分になって・・・。ここは天保水滸伝の地元に近いのよ。笹川の親分とか、飯岡の親分とか、親分衆が子分を大勢引き連れて、利根川を渡って潮来に飲みにくることもあったでしょうね」
冗談を言う余裕も出てきた。
「用心棒は勘弁してくれよ。奈美子ママ」
奈美子は、篠原が水割りのグラスを飲み干し、氷をカラカラと廻しているのに気がついた。
「水割り、お替わりね。あたしも何かいただいていいかしら? お酒、飲みたい気分だわ」
「ああ、なんでもどうぞ」
「そうね、梅酒のソーダ割りでいいわ」
奈美子は、二つのグラスを作ると、水割りを篠原に渡した。
「じゃあ、加東ちゃんの幸せを祝して、改めて乾杯」
「乾杯」
奈美子は篠原のグラスにカチンと合わせて、一口飲んだ。
「甘くておいしいわ」
篠原は前から気になっていたことを思い切って聞いた。
「奈美子ママは好きな人はいるの?」
「いいえ。ずっと空き家なの。でも、この歳になると、やっぱり寂しいわね」
「東京にいた時は、いい男がいたんじゃないの。男なら、ママほどの女をほっとけないよ」
「あら、うれしいことを言ってくれるわね。いい男はいたんだけどね。別の女を作って、私を裏切ったから別れたの。東京にいるのが辛くなって、潮来に来たの。潮来は江戸時代から遊郭があったりして、賑わっていると思ったのよ。昔は、股旅者のやくざや遊女もたくさんいたんでしょう。だから東京を忘れるには丁度いい土地なのよ。でも、今はあやめ祭り以外はお客が少なくて、あてが外れたのよ。
あたしは、潮来を花いっぱいの街にするといいと思うの。二月、三月は梅と水仙と連翹、四月は桜。染井吉野だけでなく、八重桜は花が咲く時期が少しずれるから、続けて楽しめるわ。五月は薔薇とさつきと躑躅ね。東京の根津神社の躑躅は見事よね。薔薇は、津田沼の谷津遊園で見たわ。それから六月はもちろん、あやめと紫陽花。あやめは葛飾区の堀切菖蒲園もおおいに参考になるわ。各家庭で、道沿いにプランターを置いて、あやめや紫陽花を植えて、訪れる人を楽しませているの。潮来でも、前川のあやめ公園だけでなく、商店街にもあやめや紫陽花のプランターを置くといいのよ。
七月と八月は、水連と蓮の花。9月は萩と女郎花。東京の向島の百花園の萩の花は風情があって、素敵よね。百花園は四季折々、いろいろな花を楽しめて、江戸時代から下町の人気スポットでしょ。十月、十一月は、やっぱり菊の花。ね、真冬は別として、ほとんどの季節で花を楽しめるのよ。公園だけじゃなく、商店街や各家庭でも、いろいろな花を植えるといいのよ。
潮来を花いっぱいの街にしたら、観光客が絶えないわよって、観光協会の人に何度も話したことがあったんだけど、旦那衆の男の人たちはだめねえ。女には興味があるけど、花には興味がないのよ」
奈美子はグラスを飲み干した。
「もう一杯いただくわね」
「いいけど、飲みすぎないように」
「大丈夫よ。これくらいで酔っ払ったら、スナックのママはやっていけないわ。でも昔の男のことを思い出したら、もっと飲みたい気分だわ。思い出させた啓司君のせいよ。責任取ってね。そうだ、とっておきのワインを開けましょ。あたしのおごりよ」
奈美子は冷蔵庫から赤ワイン、棚からワイングラスを二つ取り出して注いだ。
「チーズを切るわね」
奈美子は手早くチェダーチーズを切ると、クラッカーとともに皿に盛り付けた。
篠原はワインの香りを嗅ぎ、口に含んだ。
「いいワインだね。芳醇な香りが口から鼻に抜けるようだ」
チーズを一口齧った。
「おいしいね。ワインに合うね」
「これ、ボルドーの高級ワインなの。誰かいい人ができたら、開けようと思ってとっておいたのよ」
「えー。それって僕のこと? 光栄だけど怖いなあ」
「まあ、そういうことにしておきましょ。それに今日は祝い酒でしょ。うふふ」
奈美子は、ワイングラスを一気に空けると、篠原と自分のグラスに注ぎ足した。
「今晩はここに泊まっていけばいいわ。二階に小さな部屋があるから。もう店じまいするわね」
奈美子は看板の灯りのコンセントを外した。入口のドアの施錠を確かめると、ふらふらしながら篠原の手を引いて二階へ上がった。二階は四畳半の和室になっていて、布団が敷いてあった。
「遅くなった時とか酔っ払ってしまった時、夜道は恐いから、あたし、ここで寝て、朝になって酔いが醒めてからアパートに帰ることにしてるの。朝までここで休みましょ」
「しかし・・・」
「男でしょ。女に恥をかかせないで。昔から潮来はそういう街なの」
そう言って奈美子は自分から服を脱いでシルクのスリップ姿になった。白く薄い下着は奈美子の体の線にそって優美な女らしい曲線を描いていた。着やせするタイプらしく、意外に肉感的な体だった。
たまらず篠原も服を脱いで、思い切って奈美子を抱きしめ、唇を合わせた。奈美子の唇も体も柔らかく温かかった。微かに香水の香りがした。篠田は奈美子の白い胸に顔を埋めた。
「久しぶりだわ。男の体って、こんなに熱かったのね」
二人は蒲団に倒れこんで、お互いを激しく求め合い、抱き合ったまま眠った。
それから篠原は、時々、『パープル・アイリス』に独りで通った。他の客が帰って二人きりになってから、二階に上がり、奈美子の体に溺れるように、男と女の関係を続けた。奈美子を抱いた後、篠原はストレスが抜けて、男としての自信がつき、人一倍仕事を頑張れるような気がした。
翌年の三月、人事異動の季節になった。篠原は支店長の綿貫に呼ばれ、転勤の内示を受けた。
「おめでとう、篠原君。本社に栄転だ。鹿島支店でよく頑張ってくれた。人事考査で本社の人事部に、君の仕事ぶりを報告しておいたんだ。本社が君を評価して今回の異動になった。四月からは東京本社で活躍してくれたまえ」
「えっ。本社に転勤ですか」
「どうした。嬉しくないのか」
「いえ、そんなことは・・・」
「君は東京出身だったね。これから思う存分、東京で仕事をしてくれ。期待してるぞ」
綿貫は、当惑して複雑な表情の篠原の肩を叩いた。
猿田姓に変わった加東も篠原を祝福してくれた。
「篠原。おめでとう。東京で存分に頑張ってくれ。東京はやりがいがあるぞ。まあ、俺は、こっちで頑張るしかないな」
数日後の夜、篠原は『パープル・アイリス』にいた。
「そういうわけで、東京転勤が決まったんだ」
「そう、啓司君にとってはいいことじゃない? 東京に戻れるんだから」
「でも、奈美子ママに会えなくなる」
奈美子は、篠原をまっすぐ見た。
「男は仕事が大事よ。やり甲斐のある仕事ならなおさらよ。昔、潮来は河岸で遊郭があって、船乗りたちが立ち寄って女を抱いたのよ。東国三社詣の男たちも、息栖神社、鹿島神宮、香取神宮にお参りしたあと、精進落としで、潮来で遊女を相手に酒を飲んで、遊ぶのが楽しみだったのでしょうね。
江戸時代、ここは水戸藩の領地だったのね。それで黄門様も何度も立ち寄ったそうよ。そして船乗りたちから諸国の様子を聞いたというわね。水戸黄門漫遊記では、諸国を旅したことになってるけど、実際は船乗りたちからの聴き取りで、いろいろな話を知ってるから、諸国の事情に詳しかったらしいわよ」
「そうなんだ・・・」
「今も同じよ。鹿島、神栖、潮来には、男たちが仕事で立ち寄る。男たちには、思う存分に仕事をしてもらいたいわね。そして男たちが仕事に疲れたら、あたしがここで癒してあげる。でも啓司君が東京へいくなら、あたしは引きとめないわ。東京で頑張って」
「すまない。ママも元気で・・・。時々は潮来に寄るよ」
「いいのよ。あたしのことは忘れて。そのほうが啓司君にとってよさそうね」
「ママ、これまでありがとう」
「今日は最後の晩かしら。しっかり思い出を作りましょう。まず乾杯しなくてはね」
奈美子は、ブランデーグラス二つに、ブランデーを注ぎ、一つを篠原に渡した。
「啓司君、東京御栄転、おめでとう。乾杯」
二人はグラスをカチンと合わせた。
ひとしきり話が弾み、アルコールが回ったところで、二人は二階に上がり、最後の夜を水入らずで過ごした。
東京に戻った篠原は、社運をかけたもう一つの一大プロジェクトである東京駅周辺の再開発に同僚たちとともに取り組んだ。皇居が近く、日本の表玄関にあたる東京駅周辺は、堂々とした町並みにしたかった。
篠原が三十歳に近づいた頃、上司の紹介で見合い結婚した。
東京駅周辺の再開発が一段落すると、M不動産は、新宿駅、品川駅、汐留駅、恵比寿駅周辺の再開発を次々と手がけ、篠原は激務に追われた。家庭は妻に任せきりだったが、やがて男の子が二人、相次いで生まれ、たまの休日には家族サービスで、行楽地にでかける余裕もできた。潮来の奈美子のことは次第に遠い記憶になり、思い出すこともなくなった。
篠原は仕事の結果を出した。出世階段を着実に上がり、係長、課長を経て、部長に昇進したが、それ以上給料が伸びないこともあり、定年を三年ほど残して、関連子会社である倉庫管理会社の社長に出向した。社長には定年がなかったし、倉庫管理の仕事は比較的楽だったので、六十八歳まで勤めた。
その年、旧友の加東信次郎の訃報が伝わった。加東は猿田姓になり、婿入りした地元の農家の立場を理解しながら、鹿島・神栖地方の発展に貢献したのだった。やがて鹿島支店長を務めた後、定年退職した。退職後は推薦されて地元の区長などを務めていたが、七十歳になって進行性の膵臓癌が見つかった。すぐに手術を受けたが、癌細胞がすでに全身に転移しており手遅れだった。
猿田の訃報と告別式の日程は、M不動産の人事部の情報ネットワークから伝えられた。篠原は四十年前、鹿島、潮来で過ごした日々を久しぶりに思い出した。猿田の告別式に出席後に、鹿島コンビナートや潮来の街に行ってみたいと思った。
猿田の葬儀は地元の名士だけあって、市長や市会議員らも出席した盛大なものだった。祭壇には、地元観光協会や商工会議所、日本を代表する製鉄会社、船舶会社、化学メーカー、肥料会社、木材会社、倉庫会社、農協からの供花が並んでいた。M不動産関係者も多数参列していた。なかには昔、鹿島支店で一緒に仕事をした仲間の顔もあった。
猿田の妻、真砂子は気丈に喪主を務め、参列者に応対していた。
葬儀の冒頭、M不動産の鹿島支店の現支店長が弔辞を詠み、猿田の業績を紹介し、地元の発展に貢献した人生を強調した。
僧侶の読経が続く中で会葬者が次々に焼香した。篠原は、猿田の遺影の前で合掌し、焼香した。
会葬者の焼香が終わり、猿田の妻が会葬者に礼を述べた。猿田の棺は、篠原ら縁がある人々に運ばれて霊柩車に乗せられた。参列した会葬者らは、「ファーン」とフォンを鳴らしながら、火葬場に向かう霊柩車に頭を垂れ、合掌して見送った。
しめやかな葬儀後の会食の席では、会葬者は、ひとしきり猿田の思い出話で故人を偲んだ。
猿田は文字通り、地元に骨を埋めた。それは立派なことだと篠原は思った。猿田と自分の人生は鹿島、潮来で交わり、その後分かれたが、それぞれ充実していた。猿田も自分も何の後悔もない。ただ、あの奈美子ママはどうしてるだろう。
篠原は、猿田と一緒に行った潮来のスナック「パープル・アイリス」を鮮明に思い出した。
―この後、潮来に行ってみよう。前川のそばの「パープル・アイリス」はもうないだろう。あれから四十年も経っている。でも、あのスナックの場所に行って、あの頃を思い出したいー。
篠原は斎場を出ると、先ず、タクシーで鹿島コンビナートに向かった。巨大な工場群を一望できる港公園のシンボリックな展望塔に登った。高さ五十メートルの展望塔の上では太平洋からの強い風が吹いていた。
眼下には、世界一の人工掘込港である鹿島港、巨大な製鉄所、石油化学工場、火力発電所、赤と白に塗り分けられた多数の煙突、肥料工場、天然ガスの備蓄タンク、石油の貯蔵タンク、そして倉庫群が圧倒的な存在感で並んでいた。
鹿島灘に面した海岸線には、風力発電プラントが多数建設され、ブレードと呼ばれる巨大な風車が回っていた。鹿島港には、英語、漢字、ハングル文字などで船名が表示された大きな輸送船が何隻も横付けされていた。
四十年以上前、加東(猿田)信次郎ら同僚たちと用地確保に奔走した鹿島・神栖地方は、当時はまだ広大な砂丘地帯だった。鹿島灘から吹く強い風が砂を内陸まで飛ばした。クロマツの防風林がなければ、農地は砂で埋まってしまうのだった。それが、今は巨大な工場地帯に変貌を遂げていた。
広大な鹿島臨海コンビナートを目の前にした篠原は、地球上の光景とは信じられなかった。自分たちが青春をかけ、その結果、この光景を創り出したことに篠原は複雑な思いだった。少なくとも、鹿島コンビナートは、茨城県と鹿島・神栖地方の発展に貢献したことは間違いない。この地方が、いつまでも貧しい砂丘地帯のままでよいはずはない。心の中で篠原はそう自分に言い聞かせながら、浦島太郎の気持ちがよく分かると思った。
四十年前、鹿島支社勤務を終えて、東京本社に戻って間もなく、鹿島開発を題材にした映画「甦る台地」(石原プロ)が、東京の映画館でも上映された。その後、「さらば愛しき台地」(柳町光男監督)が製作され、鹿島開発の光と影に関心を持つ映画ファンに鑑賞された。しかし、現実主義的な篠原は、映画館に足を運ぶことはなかった。
篠原は、エレベーターで展望塔を降りると、待たせてあったタクシーで潮来に向かった。
鹿島市と神栖市の市街地の風景も、篠原が若い頃に見た記憶とは様変わりしていた。当時は風除けの屋敷林に囲まれた農家と周辺農地がかなり残っていた。養豚場もあった。しかし今は全国チェーンのファミリーレストラン、ドラッグストア、ホームセンター、スーパーマーケット、家電量販店、牛丼店、紳士服店、回転ずし店、ラーメン店、ガソリンスタンドなどがタクシーの車窓から次々と眺められた。鹿島セントラルホテル以外、高層ビルはないが、どこかアメリカ西部の、発展した開拓の町を思わせた。
これほどの変貌を遂げるとは、篠原自身も若い頃には想像できなかった。自然といえるものは、旧波崎町の砂丘、鹿島神宮の森、鹿島の城山くらいしか見当たらなかった。タクシーは北浦にかかる神宮橋を渡った。今は並行して新神宮橋も架橋されていた。潮来の市街地に続くまっすぐな道は、かろうじて記憶があったが、沿線の建物や店舗などの風景は全く様変わりしていた。
篠原は潮来駅前のビジネスホテルに宿を取り、夕暮れを待って、あやめ園と前川の散策に外出した。食事できる店も探すつもりだった。前川土手の桜は、潮来のホテル、旅館などの名前を染め抜いたぼんぼりに照らされ、冴え冴えとしていた。
六月のあやめ祭りのお客を載せる、さっぱ舟と呼ばれる小舟は、何艘も岸辺に繋留されたままだった。娘船頭さんの姿もなかった。枝垂れ柳はすでに薄緑色に芽吹いていた。
かなり暗くなってきた前川ぞいには、居酒屋、小料理店、川魚料理店、スナックなどのネオンサインが客を誘っていた。しかし、道を歩いているのは篠原一人だった。
少し歩くと、「パープル・アイリス」のネオンサインの文字が、ピンク色のシャワーを思わせる枝垂れ桜ごしに、篠田の目に飛び込んできた。あやめの花があしらわれた、宵闇に妖しく光る紫色のネオンサインだった。篠原は一瞬、四十年前に引き戻されたような気がした。
篠原は引き付けられるようにネオンサインに近づき、一瞬ためらったが、そっとドアを押してみた。ドアは軽く開いた。篠原は吸い込まれるように中に入った。店内はやや暗く感じたが、奥のカウンター付近が紫色に照明されていた。カウンターの向こうに、女性がにこやかな笑顔で迎えてくれた。髪はきれいにセットされ、濃い紫色のワンピースが女らしい体の線にフィットしていた。
「今晩は。いらっしゃいませ」
「今晩は・・・」
つられた挨拶した篠原は、近づいてきた女に促されるままに、コートを脱いでハンガーに架けると、カウンター席に近づき、女性の顔を凝視した。
「えっ、奈美子さん?」
篠原は思わず呟いた。その女性は、四十年前の奈美子によく似ていた。篠原の記憶にある目元、鼻、口元、あごのかたち、そして肩まで垂らした髪のスタイルまで、そっくりだった。
女性は、お絞りを手渡しながら微笑んだ。
「はい、奈美子です。うふふ」
「どうして・・・、あれから、奈美子ママは・・・」
女性は、慣れた口調で言った。
「うふふ。まず、おかけください。お飲み物は何を?」
「あ、ああ。じゃ、じゃあ、ウイスキーの水割りを」
「かしこまりました。オールドでいいかしら?スコッチもあるけど」
「オールドか。なつかしいね」
篠原は、女性の顔をあらためて見た。あれから四十年も経っているんだ。もし、この女性が奈美子だとしても、歳をとらない筈がない。この女性は、奈美子の亡霊か、それとも・・・。
奈美子と名乗る女は、ウィスキーグラスに氷を入れ、オールドの水割りを馴れた手つきで作った。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとう。ちょっと訊いていいかな。あなたは本当に奈美子さん?」
「はい、奈美子です。・・・実は奈美子は私の母の名前ですけど、お店では、母の名前を名乗っているんです。あたしの本名は奈津美です。奈美子の方が昭和っぽいし、スナックのママらしいじゃない? 母のファンのおじ様達が、あたしに母の面影を重ねて、そう呼ぶので、まあいいかと・・・うふふ。お客さんはこのお店、初めて? ではないわよね。母の名前をご存知ということは、母のお客さんだったのかしら」
篠原はようやく、落ち着きを取り戻していた。
「そう、もう四十年くらい前になるかな。その頃よくこの店に通っていたんだ」
「母は素敵だったでしょ」
「そうなんだ。奈美子さんに惹かれて、何度も」
「何度も・・・?」
「通ったんだ」
篠原は奈美子との関係を話しそうになって、唾を飲み込んだ。喉がからからになって、急いで水割りで潤した。
「ときどき、そういう方が来られるのよ。それを聞くと、少し母に嫉妬しちゃうんだな」
「このお店に二年半くらい通ったんだよ。そのころ、鹿島で仕事をしていた。その後、転勤で東京に戻った。それ以来だから、このお店は四十年ぶりだね。今日は、昔一緒に仕事をした同僚の葬儀が鹿島であったんだ。葬儀に参列して、その足で、懐かしくなってこのお店に寄ってみた。昔、その同僚とこのお店に来たこともあるんだ。お店の場所も名前も元のままなので、びっくりした」
奈津美は、篠原の顔をじっと見つめた。
「そうですか。ふーん。四十年ぶりねえ・・・」
「それでお母さんは元気ですか? 今はどうしてるのかな?」
「母は引退して、娘の私が後を継いだんです」
「今、お母さんは・・・?」
「母は認知症の症状が出て、老人ホームに入っていたんですけど、昨年他界しました。七十八歳でした。今の時代、女性の平均寿命からすれば少し早かったけど、母は若い時から苦労して、体も気持ちも、老いが早かったのかもしれないわね」
篠原は疑問が解けてきたので、少し落ち着いてきた。
「・・・そうか、奈美子さんは亡くなったのか」
「ええ、これがお葬式の時に、遺影に使った写真よ」
奈津美は、いろいろな酒壜やグラス類が並んだ棚の奥から、小さなフォト・フレームに入ったポートレートを取り出して、篠原に渡した。
そこには、初老の上品な女性が微笑んでいた。篠田の記憶にある奈美子より、やや歳を取った印象だが、東京の下町育ちらしい親しみやすさと男を惹きつける魅力は、そのままだった。
篠原は、奈美子の遺影に手を合わせて瞑目した。
「懐かしいなあ。奈美子さんはいい女だった」
「皆さん、そう仰るのよね。ちょっと妬けるわね。でもあたしが母に似ているせいで、このお店をやっていけるところがあるから、母に感謝よね。あら、グラスが空ね。お替わり、つくりましょう」
「ああ、たのむよ。ところで、さっき、奈美子さんは苦労して・・・と言ったけど・・・」
奈津美は、水割りのお替わりを差し出した。
「今の言葉で言えば、母はシングルマザーであたしを育ててくれたの。あたしは私生児。つまり父無し子。あたしを育てるのに苦労したのよ。子どものころは学校で苛められたわ。でも、母はあたしを庇ってくれた。何も恥ずかしいことはない。あたしが奈津美をりっぱに育てるって。胸を張って、自信を持って、勉強でも何でも頑張りなさいって。
あたしは川向こうの隣町の佐原の高校を卒業した後、美容師で自活しようと東京の専門学校を出て、しばらく錦糸町の美容院で仕事をしたんだけど、十年ほど前、母の体が弱ってきたので、潮来に帰ってきて、日中は地元の美容院に勤め、夜は母のお店を手伝うことにしたの。あやめ祭りのシーズンは、前川の嫁入り舟のイベントで、潮来花嫁さんの白無垢の衣装で結婚式を挙げるカップルが多いので、美容院は忙しいけど、他のシーズンは暇なのよ。
母が亡くなってからは、娘のあたしがこのお店を継いだかたちよ。まあ、カエルの子はカエルってわけね。東京よりも、潮来の水が合うのよね。母は東京生まれだったけど、あたしは茨城生まれの茨城女だから。あはは。
美容院が忙しい時は、頼まれて、花嫁さんの日本髪のヘアメイクや衣装の着付けを手伝うこともあるの。花嫁さんの日本髪のセットは難しいのよ」
篠原はさっきから訊きたいことがあった。
「それで、奈津美さんは今何歳?」
「あたし? あたしは三十九。ちょうど母があたしを高齢出産した歳に近いわね」
篠原は、その年齢を聞き、奈美子と別れて東京本社に転勤した四十年前に一致すると思った。そう考えると、あるいは奈津美は自分の娘ではないかという思いがしてきた。
そう思って、あらためて奈津美の顔立ちを見ると、目元や鼻筋などは自分に似ているような気がした。娘は父親に似るという。奈津美が自分の娘である可能性はある。それなら、どうすれば・・・。
逡巡しながら、篠原は訊かずにいられなかった。
「奈津美さんは、自分の父親を探そうとは思わなかったの?」
「そりゃ、父親がどんな人なのか、気になって母に尋ねたことはあるわ。でも母は、分からない、の一点張り。ある時、あたしがしつこく訊いたので、母が機嫌をそこねたことがあったの。それからは、母に訊く事はなかった。昔から潮来は、流れ者の吹き溜まりみたいな土地だから、よくあることなのよ。それにピッタリの歌があったわね」
そう言って奈津美は、カラオケのセットに、『おんな船頭歌』をかけた。
~うれしがらせて、泣かせて消えた~
三橋美智也の甲高い声が室内に流れた。練習用のカラオケだった。
~憎いあの夜の旅の風~
~思い出すさえ、ざんざら真菰~
~所詮かなわぬ、えにしの恋が~
~利根で生まれて、十三、七つ~
~かわいそうなは、みなし子同士~
篠原と奈津美は、哀愁を帯びた三橋美智也の声を聴きながら、無言でカラオケの画面と歌詞にくぎ付けになった。
その画面の中では、藍染めの絣の野良着で、いぐさで編んだ、地元でぼっち笠と呼ばれる田笠を被った娘船頭さんが、一人でさっぱ舟の櫓を漕いで利根川を渡っていた。利根川の岸辺は、アシやマコモが茂っているようすだった。川面をわたる風の音やヨシキリの声が聞こえて来そうだった。
ひとりぼっちの娘船頭さんの心情が画面と歌詞から痛いほど伝わってきた。
曲が終わると奈津美が、篠原を見つめた。
「このお店にも、渡り鳥がたくさん立ち寄ったんでしょうね。今は、鹿島開発も、水郷観光ブームも遠い昔の話よ。あやめのシーズン以外は、ホテルや旅館は閑古鳥が鳴いてるの。ほとんどが、バスで来られる日帰り客だからね」
「改めて考えてみると、僕も渡り鳥だったなあ。加東先輩は鹿島に骨を埋めたけれど」
「それはそれでよかったんじゃない?渡り鳥にもそれぞれの事情があったのよ。巣を作ったり、飛び去ったり」
「・・・・」
篠原は気になっていることを訊いた。
「奈津美さんは結婚してるの?」
「いいえ、そこも母と同じ。この歳まで独身よ。あはは」
「そうか・・・」
篠原は思わず深い溜息をついた。四十年前、篠原が奈津美の母と親密な関係になって、その結果、奈美子は妊娠し、奈津美が生まれた可能性があると思った。
そんな篠原を見て、奈津美が言った。
「母は私にとって、たった一人の大事な母だったけど、仕事に疲れた男たちにとっては、港のマドンナだったんでしょうね。そういえば昔、機嫌がいい時、母は岩崎宏美さんの『聖母(マドンナ)たちのララバイ』をよく歌ってたものよ。
マグダラのマリアは、聖母マリアに通じるっていうしね。潮来は、人生航路の男たちにとって、荒波に揉まれて、ちょっと立ち寄る港・・・。それでいいじゃない?」
「マグダラのマリアか。そうか、そういうものか」
篠原は少し気が楽になった。今回はこのまま東京へ戻ろう。これからのことはゆっくり考えようという気になった。
「じゃ、奈津美さん。お勘定・・・」
「はい、これだけ、いただきます」
篠原は紙きれに書かれた勘定を支払うと、奈津美にコートを着せてもらい、ドアに向かった。
突然、奈津美が篠原の背後から、小声でささやくように言った。
「お父さん。お元気でね」
「えっ」
驚いて、篠原が振り返った。
「ごめんなさい。あたし、感じがいい年配のお客様に、つい、お父さんって言ってしまうの」
奈津美の眼が潤んでいた。
「あ、そう・・・なんだ・・・。奈美子さん、いや奈津美さんも元気で・・・」
篠原は、かすれた声でそれだけ言うのが精一杯だった。篠原の心臓の動悸が早くなった。
奈津美に見送られて、スナック『パープル・アイリス』を出た篠原は、前川沿いの染井吉野と枝垂れ桜の並木を、ホテルの方向に、ふらふらしながらゆっくりと歩いた。まだ夕食を食べていないことを思い出したが、食べる気にはなれなかった。ホテルへ戻り、奈美子の冥福を祈ろうと思った。それに、今後の奈津美のことも考えたかった。
東京で地道に生きてきたつもりだった。社会人として、必要とされる仕事で頑張ってきたはずだ。夫として、父親として、合格点をもらえるはずだ。ついさっきまでは、自分の人生に満足していたはずだった。
しかし、『パープル・アイリス』の奈津美が自分の娘かもしれないと思うと、篠原は気持ちの整理がつかなかった。篠原の子どもは男子二人だった。二人とも結婚して別所帯を持っていた。
子どもは授かりものだが、篠原も妻も、娘が一人ほしいと思ったこともあった。しかし、子育てのたいへんさと、高齢出産になりかねないと諦めたのだった。
しかし今になって、自分にあんなに魅力的な実の娘がいるのなら、素直に認知したい気持ちがわずかに湧いてきた。
―DNA鑑定をやるようになるのか。妻や息子たち、そして奈津美さんはどう考えるだろうか。それとも、このまま、何もなかったことにして、過去はそっとしておく方がよいのかー。
加東(猿田)の葬儀に出席し、人生のひと区切りにしようと思って、思い出深い潮来に立ち寄ったが、篠原は人生の重い荷物をもう一度、背負わされた気がした。しかし、その荷物を投げ出して逃げることはできないのではないかと思った。
見上げると、闇の中でピンクや紫色のぼんぼりに照らされた名残の桜が静かに散りかかっていた。夜の前川の川面は、さざ波が立ち、風が出たようだ。
―加東先輩と奈美子さんが引き合わせてくれたのかなあ。それなら、あの時、加東先輩が地元に骨を埋める決心をしたように、僕も肚を決めなければならないのかもしれないー
篠原は、前川の川面を見ながら、独り呟くのだった。
了

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