霞ヶ浦周辺湿地は日本一のレンコン産地である。もともと、稲を作る水田だったが、昭和四十五年から始まった米の生産調整で転作奨励金が出たことや収益が稲作よりも良いこと、米作りほど手間がかからないことから、レンコン栽培が拡がった。
霞ヶ浦周辺の湿田で稲作を続けるには、農水省の補助を受けた土地改良事業で乾田化しなければ、トラクター、田植え機、コンバインの大型農機は使えなかった。大型農機の購入は、農家にとって負担となった。霞ヶ浦周辺の土地改良は、干拓地が多い旧東町、旧桜川村、旧新利根町、旧江戸崎町の稲敷地方で盛んに行われた。それによって、初夏にはさみどりの水田が遠くまで続き、秋には広大な黄金色の美田になった。しかし、土浦市、かすみがうら市(旧出島村、)、阿見町の水田は、蓮田として土地利用されているところが多い。
最盛期、レンコンの作付面積は霞ヶ浦沿岸で千七百ヘクタールに達した。レンコンは高値で取引され、反収は米作りの約三倍に伸びた。レンコン栽培は収益性がよく、レンコン御殿と呼ばれる豪邸にリフォームした農家も珍しくなかった。
蓮田は一年中湛水する。害虫の発生、雑草の繁茂が稲田に比べて少なく、殺虫剤、除草剤など農薬類の散布は最小限で済んでいた。蓮田では、タニシ、アメリカザリガニの子、オタマジャクシ、カメの子などが、よく見かけられる。しかし、最近はネモグリセンチュウ対策の農薬を使用することもある。
霞ヶ浦の水質保全にとって、蓮田の適正施肥が大きな課題となっている。レンコンは、稲に比べて施肥量が多く、流出した窒素やリンが、霞ヶ浦の湖水を富栄養化する原因の一つになっている。稲は、窒素過多になると茎や葉が茂り、倒伏しやすくなるが、レンコン栽培では、肥料分が多いほど、立派に太ったレンコンが収穫される。蓮田では過剰施肥になりがちだった。一方で、レンコンの品種改良が進み、白く太り、食味がよい品種が作付けされていた。
蓮根農家では畦畔を波板シートで補強して、蓮田の水が漏れないようにするなど、工夫していた。また、県の農業行政の指導を受けて、蓮田から流出した水が溜まっている水路の水を再度ポンプアップして循環灌漑を行い、肥料分を含んだ水が湖水にできるだけ流出しないように工夫していた。しかし大雨が降れば、蓮田の水は霞ヶ浦に流出せざるをえない。
霞ヶ浦地方では、お歳暮としてレンコンの詰め合わせを、専用の細長い段ボール箱で、都会に出た親戚やお世話になった人に贈る習慣が定着した。その段ボール箱にはレンコンの絵がカラーで印刷され、数節の太い立派なレンコンが三本くらい納められている。郵便局や宅配便の取次店には、レンコンの段ボール箱が山のように積み上げられている光景が年末の風物詩になっている。
首都圏向けに、段ボール箱入りのレンコンを満載した大型専用トラックが地元JAの集出荷場やレンコン専門問屋の駐車場を出発する。青果市場では、翌日早朝からスーパーや八百屋の仲買人が競りで高値をつけて買い取り、その日のうちに店頭に並ぶ。
レンコンは、輪切りにすると十個ほどの穴が現れ、それを目の前にかざすと、穴から向こうが見通せることから、縁起ものとされ、おせち料理や福神漬けには欠かせない。レンコンは歯ざわりがよく、出汁の味が染み込んで美味だ。近年は、ビタミンCはじめ、ビタミン類、ポリフェノール、ミネラル類、食物繊維が豊富なヘルシー野菜として人気が高い。地元JAの女性部でも、レンコンの消費拡大を狙って様々な料理を工夫し、そのレシピをパンフレットで紹介して、アピールしている。
十二月は出荷のピークだが、レンコンの掘り取り作業は過酷だ。広大な蓮田では、早朝から夫婦で腰から胸まで泥に浸かり、掘り取り作業に精を出す。年の瀬の蓮田の水は冷たい。冷え込んだ朝は蓮田に薄氷が張っていることもある。ゴム引きの潜水服のような黒い作業着を着てはいるが、最初の三十分ほどは身を切られるほど冷たく感じられる。それを過ぎると、泥の中の重労働のために、体が温まり、冷たさを感じなくなるのだった。
掘り取り作業は、水堀りといわれる方法で行われる。通常、夫が長く太いホースを使い、ポンプで汲み上げた地下水や水路の水を、ノズルから勢いよく蓮田の水中に吹きつけ、泥を柔らかくして、手探りでレンコンを泥から抜き取り、妻に渡す。妻はプラスチック製の橇の形をした田舟の上に丁寧に積み上げる。レンコンはずっしりと重く、積み上げると節のところで折れ易いから、慎重に扱わなければならない。田舟の上にレンコンがいっぱいになると、ロープで引っ張りながら、ゆっくりと蓮田の泥中を泳ぐように移動し、農道の傍の洗い場まで運ぶ。
それを二、三時間続ければ、かなりの量になる。洗い場には、強化プラスチック製の深い水槽があり、その中で柔らかいブラシを使いながら、泥を落として仮洗いをする。泥が落ちて白くなったレンコンは、コンテナに入れられ、傍に停めた軽トラの荷台に積まれていく。
☆
その一連の作業を、飯田章雄は去年の冬までは、妻の美那子とともに、もう十七年もやっていた。夫婦は互いに声を掛け合いながら、慣れた作業をこなした。
早朝から始めた掘り取りと仮洗いの作業を午前十時過ぎまでに終え、すぐに軽トラで農協のレンコンセンターに持ち込む。農家によっては、地域の集出荷場や蓮根問屋に持ち込む。レンコンはベルトコンベアで洗い場に運ばれ、細いシャワーを浴びて、さらに丁寧に洗われる。すぐに送風機で乾かし、係員が重量を測り、等級がついて箱詰めされる。
農家の夫婦は、昼にいったん自宅に戻り、昼食を取り、午後は翌日の作業に備え、作業着の洗浄、軽トラやポンプなどの機械類の整備、蓮田の見回り、農家同士の連絡などに追われるのだった。
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十七年前の初夏。レンコン農家を継ぐべきか、迷っていた章雄は、蓮田の農道を歩いて、春に植えつけた蓮の成長ぐあいを何となく眺めていた。蓮田では、蓮の大きな葉が天を覆うように伸びていた。大きな葉の下の薄暗がりでは、食用ガエルや水鳥のバンやカルガモの親子が生息していた。その光景は、章雄が子どもの頃から慣れ親しんだものだったから、特に珍しい景色ではなかった。
章雄は陰鬱な気分だった。昨年、父親が病で倒れてから、章雄が蓮田の作業をせざるを得なかった。母親が時々手伝ってくれたが、無理はできなかった。このまま蓮根農家を継げば、一生この蓮田の中で泥と格闘しなければならない。嫁さんだって来てくれるかどうか。こんな泥の中で仕事をするレンコン農家に来てくれる若い女がいる筈はないと思い込んでいた。農家の嫁の大変さは、地元では誰もが分かっていた。章雄は、農道にしゃがみこんで絶望的になった。
その時、「きゃっ」と女の声が聞こえた。
続いて、「ズボッ」と泥の中に落ち込む音がした。章雄が驚いて振り返ると、自転車が横転し、大きな白い帽子に白いワンピースの女が、蓮田の中に転げ落ちていた。
「大丈夫ですか」
章雄は急いで駆け寄り、手を差し伸べ、泥の中の女性の腕を引っ張ったが、女性の体は泥の中に半分沈んで、引き出せなかった。女性も章雄の手を引っ張った。引かれると思っていなかった章雄は体のバランスを崩して、農道から蓮田の中に、頭からのめりこんでしまった。
二人は大騒ぎしながら、互いに泥だらけの体を支え、泥に慣れている章雄が、女を農道に押し上げた。章雄もようやく泥から体を抜いて、農道に上がった。二人とも顔が分らないほど、全身泥まみれになった。
「怪我はありませんか」
女は口から泥を吐き出しながら言った。
「ありがとうございます。泥は柔らかいから大丈夫です」
女は、申し訳なさそうに言葉を継いだ。
「農道を自転車で走っていたんです。蓮の葉が一面に茂っているのを眺めながら・・・。それで前をよく注意していなかったんです。そしたら急にあなたが見えて、びっくりしてブレーキをかけて避けようとしたら、勢いでハンドルを取られてしまって・・・」
状況が呑み込めた章雄が応えた。
「こちらこそ、しゃがんで考えごとをしていたので・・・。すみません」
二人はようやく、お互いを見た。顔も髪の毛も泥だらけだった。両方とも顔の表情が分らないほど、泥がべっとり付いていた。女の白いワンピースも泥が付いて、濡れていた。女の顔は泥パックをしたようだった。
章雄は女の顔を見て、思わず笑いがこみ上げてきた。
「あはは、美人が台なしだな」
「こんなに泥がついたんですから、美人かどうか分らないでしょう?」
「泥から生まれたビーナスは美人に決まっているよ」
「あら、嬉しいことを仰るのね。でもビーナスは泥から生まれるのだったかしら?」
「とりあえず、そういうことにしておきます」
章雄は、我ながら気の利いた受け答えができたと思った。レンコン農家の息子だけに、初夏の気候では泥水も気持ちが良いくらいだった。それでも、女性を泥だらけにしておいてはいけないと思った。
「どこから来たんですか? こんな蓮田に」
女は、泥だらけを気にする様子もなく応じた。
「土浦の東崎町です。蓮田を見るのが好きなので、時々自転車で来るんです」
「へえ、町場の人が蓮田を好きだなんて、珍しいですね。ところで、そのままでは、町中へ帰れないよね。うちはすぐそこの農家ですから、寄ってください。顔と手足くらいは、泥を洗って、タオルで拭ってから帰ったらいいでしょう」
「ありがとうございます。そうさせていただきます」
女は丁寧に礼を述べ、自転車を押しながら、章雄の後について行った。
☆
「あらあら、泥だらけ。ちょっと待っていてくださいね。今、タオルを持ってきますから。章雄、玄関脇の水道で顔を洗ってもらって」
章雄の母、信子は、泥だらけの女をひと目見て事情を察した。数枚のタオルを抱えて戻ってきた信子は、顔を洗った女に、タオルを差し出した。
「さあ、これで顔を拭いてね。髪や手足も。せっかくの白い服が台無しね。クリーニング店に出せば、きれいになるかもしれないね。洗濯機で洗っただけでは、なかなか、元の白さにならないでしょう」
「はい、家に帰ったら、クリーニング店に出します」
女が顔や腕の泥を洗い、タオルで水気を拭くと、素肌が現れた。
章雄は女の白い透き通るような肌に驚いた。呆気に取られて、女の顔を見つめた。
「あら、あたしの顔に何かついています? 泥がまだ取れてませんか? それなら、鏡を貸してもらえます?」
「いえ、泥はもう取れました。泥が取れたら、本当に綺麗な方だと、びっくりしました」
「いいえ。とんでもない。ただ、外出の時は紫外線を防ぐファンデーションを塗って、つばが広い帽子を被って、なるべく日焼けしないように気をつけています」
「そうですか。鄙には稀なっていうか・・・。えーっと、まだ、お名前を伺っていなかったですね・・・」
美那子は仁義を切るポーズを取った。
「拙者は沼尻美那子と発します。以後お見知りおき、よろしゅう、おたの申します」
章雄と信子は、顔を見合わせて大笑いした。
「渥美清のフーテンの寅さんみたいだ」
「はい、私、『男はつらいよ』の映画が大好きで、ビデオを集めてるんです。特に、テーマソングがいいですね。『ドブに落ちても、根のあるやつは、やがて、はちすの花と咲く』って・・・。今日の私みたいですね。ウフフ」
「面白い人だね。僕は、飯田章雄です。こちらこそ、よろしくお願いします」
信子も挨拶した。
「章雄の母です。これを機会に、これからも気軽にうちに寄ってください。レンコンなら売るほどあるんだけど、あいにく今の季節、レンコンは端境期だから・・・。代わりに畑の茄子とトマトを手土産に・・・」
そういうと、信子は美那子を手招きして、家の隣の畑に連れていき、篭にいっぱいの茄子とトマトを収穫して、紙袋に入れて美那子に持たせた。
「ありがとうございます。母が喜びます」
「また、寄ってね」
章雄と信子は、自転車で土浦の町の方へ向かう美那子を、手を振って見送った。
☆
その日以来、美那子は天気が良い日に、時々飯田家に立ち寄るようになった。相変わらず、自転車で霞ヶ浦湖岸の葦原や蓮田の風景の移り変わりを楽しんでいるようすだった。
美那子と章雄は少しずつ打ち解けて、学校時代の思い出や今考えていることやこれからの夢を語りあうようになった。
章雄は父の恒雄が病弱なことから、レンコン農家を継ぐことになりそうだと言った。レンコン農家の農作業の過酷さも、後継者不足の問題も率直に話した。レンコンの収益性が稲作よりもよいこと、太い立派なレンコンを収穫した時の喜びも話した。高校卒業後、大学進学をめざしたが不合格になり、受験勉強をあきらめて、地元のガソリン・スタンドやスーパー・マーケットの店員のアルバイトを数年続けたが、父親が病気で倒れたことから、やむをえず実家の蓮根栽培の農作業を手伝うことになったことも、美那子から訊かれるままに話した。
美那子は聞き上手だった。農家の青年のインタビューをもとに小説を創作して、いつか文学賞を受賞して作家デビューしたいと思っていた。美那子は、高校時代は文芸部で、家事見習い中の今も小説の習作を書いていること、いつか蓮の花をイメージした作品を書きたいことを、章雄に話した。気が向くと、蓮田を観察して小説のヒントを探すために、自転車で来ているのだという。
「私、R女子大で文学を専攻したの。卒論を指導していただいた教授の先生はフランス文学がご専門で、サルトルやカミュの小説を教材に、実存主義を解説してくれたの」
「実存主義か。高校の倫社で習ったけど、難しくてよく覚えていないなあ」
「実存主義は、難しくないのよ。分かりやすくいえば、実存主義は、自分や周りの人を大切にしながら、置かれた場所で頑張りましょう、ということなの。例えば、蓮根農家なら、蓮根栽培に一所懸命に取り組んで幸せをつかみましょう、ということね。
ハスは、〝蓮田の環境がいや〟なんて言わないでしょう。運命として受け止めて、きれいなハスの花を咲かせ、立派なレンコンを作るわよね。ハスは植物だから意思はないけど、私にはハスの声が聞こえる気がするの。
蓮根農家も同じよ。世の中で、レンコンを美味しいと思って食べてくれる人がいるから、その人たちのために、レンコンを作るのね」
「そうか。蓮根農家も実存主義を実行しているというわけか。眼からウロコだなあ。美那子さんのおかげで勉強になった。少し元気が出てきた気がする」
「私は、いつか、蓮田や蓮根農家をテーマに小説を書きたいの」
そう言って美那子は、広大な蓮田を、目を細めて眺めた。そんな美那子を応援していきたいと章雄は思った。
☆
章雄が美那子と出会った翌年の6月上旬、霞ヶ浦地方でも梅雨入りしたと気象庁が発表した。蓮田では、4月に種蓮(発芽した蓮根)を植え付けて二か月が過ぎ、蓮の若葉が列を作り、次々に泥田の上に伸びてきた。この時期には、渡り鳥のシギやチドリの仲間が蓮田に立ち寄り、時には野鳥観察を趣味にする人たちが珍しい鳥を発見して話題になった。東京からバードウオッチャーたちが、足立ナンバーや品川ナンバーの車を運転して、霞ヶ浦にやってくることもあった。
彼らは地上用の望遠鏡に一眼レフカメラを装着して、シャッターチャンスを狙った。彼らの車が蓮田の農道に縦列駐車すると、軽トラの通行の邪魔になるので、農耕車以外の車の侵入を制限する立て看板が、あちこちに立っていた。
美那子は、梅雨の晴れ間の午前中から、蓮田の観察の途中で飯塚家に立ち寄り、昼食を頂いたのだった。また雨が降り出していた。しばらく雨宿りするつもりだった。
「美那子さん。雨の蓮田もいいものだよ。これから軽トラで見回るから、一緒に来ないか」
梅雨時の雨がやや強くなった午後、章雄は美那子を誘って、蓮田の様子を見回ることにした。軽トラのデートだった。
蓮田の農道をゆっくりと軽トラを走らせ、二人は狭い運転席と助手席から蓮の成長ぐあいを観察した。ワイパーが忙しく往復し、フロントガラスの雨をはじいて、かろうじて視界を確保した。
ウキクサが水面をびっしりと緑色に覆っていた。バンの雛たちが、親鳥の後を懸命に追いかけている場面に出会った。バンの親子は雨の中、餌を探しているか、雨宿りの場所を探しているようだった。
「今の季節、バンの親子連れはよく見るよ。バンは、蓮田の休耕田やあぜ道の草叢で巣を作るんだ」
章雄が、バンの親子を指さしながら説明した。
これまで美那子は、カルガモの親子に出会ったことがあったが、バンの親子を見るのは、初めてだった。
「バンの雛って、毛糸玉みたいでかわいい。元気に育ってほしいなあ」
章雄は、同感して肯いた。
雨脚が強くなってきた。雨が、大きな蓮の葉を叩く音が激しくなった。
「美那子さん。蓮の葉の上に雨水が溜まって、水玉がコロコロしてるでしょう。あの水玉をよく見て。ほら、水玉が大きくなると、蓮の葉が傾いて転げ落ちるんだよ。ほらほら、あそこの葉の上の水玉が落ちるよ」
「あら、おもしろい。あちこちの蓮の葉から次々に水玉が落ちるのね。今まで、雨が強い時は、蓮田を見に来たことが無かったから、初めて見るわね」
「ああ、蓮根農家じゃないと、なかなか見られないよ」
二人は、狭い軽トラから、飽きもせずに、蓮の葉の上の水玉のリズミカルな動きを観察し続けた。
☆
章雄は、美那子と付き合ううちに、彼女が嫁に来てくれるなら、レンコン農家を継いでもいいと考えるようになった。美那子が蓮田で泥まみれになった日から一年ほど過ぎ、蓮花の蕾がふくらみ始める頃になった。
その日の昼過ぎに、美那子は蓮田の観察の途中、飯田家に立ち寄っていた。章雄の母が冷たい麦茶を勧めた。この地方では砂糖を入れた甘い麦茶が定番だった。
章雄は麦茶を飲み終わった美那子を、蓮田の農道での散歩に誘った。
「美那子さん。今日は大事な話をしたいんだ・・・。俺、ようやくレンコン農家を継ぐ決心が着いた。兄貴と姉さんは、家を出てもう所帯を持っている。考えてみれば俺しかいないんだ・・・。レンコン農家は農作業がきつくて大変だけど、幸い、収入はいい。これから頑張っていけると思う。
美那子さん、うちに嫁に来てくれないか・・・。町場の人には農家の生活は、最初は馴れないと思うけど、俺が美那子さんを守るから」
美那子は章雄の目を見返して、しばらく沈黙していたが、その顔が喜びで輝いた。
「章雄さん。うれしい・・・。ありがとうございます・・・。私のような、世間知らずの文学少女上がりでよかったら、ぜひ、お嫁さんにしてください」
「俺が美那子さんを幸せにするよ」
二人は、誰も通る人がいない蓮田の農道で、互いをしっかりと抱きとめた。蓮の蕾の先端から白い花弁が少し覗いていた。
☆
美那子の実家では、両親が大反対した。公務員の父親、専業主婦の母親は、農家の嫁の立場のつらさや、蓮田の農作業の過酷さを強調して、美那子が結婚を断念するように説得した。しかし、美那子の決心は固かった。美那子の気持ちの強さを確認して両親はついに根負けし、結婚を認めた。
結婚式は、土浦市内の土浦港に接したウオーターフロントに建っている、霞ヶ浦が眺められる結婚式場で行われた。両家の親戚、JA土浦のレンコン部会の役員やレンコン農家の仲間たち、章雄と美那子の学校時代の親友たちが出席して、賑やかで和やかに挙行された。
新郎の両親は、息子にようやく嫁が来てくれたことで、喜ばしい気持ちが表情に表れていた。新婦の両親は、めでたい席で苦い表情を続けるわけにはいかず、時おり作り笑いのような複雑な表情で、親戚や知人に応対していた。
☆
飯田家に嫁いだ美那子を待っていたのは、農家の嫁の忙しさと重労働だった。特に蓮田での作業は体全体の筋肉を使って、泥田の中で作業しなければならず、また一度ゴムの作業着を着ると、尿意を感じても、すぐトイレに行くことは叶わなかった。トイレを我慢すると、膀胱炎や腎盂腎炎を発症しやすい。
農婦達は、蓮田の作業がある日は、前日から水分を摂ることを控えなければならなかった。水分を控えた食事では通じが悪く、便秘になりやすい。便秘は大腸癌の誘因といわれていた。また、膀胱炎になりやすく、腎臓には結石ができやすい。しかし、レンコン農家の嫁になったからには、泌尿器系の疾患や大腸癌を怖れていては、仕事にならなかった。
新婚の夢のような時期はあっと言う間に過ぎて、美那子も、秋が深まる季節には、レンコン掘りを手伝った。日焼けを防ぐために、つばが広い農婦用の帽子を被り、手の甲も腕カバーで被った。日焼け止めのクリームもしっかりと塗った。茨城県南の平野は、筑波山のみが山岳で、朝早くから太陽が、蓮田を照らすのだった。ゴムの作業着は重く、蓮田に入ると美那子は泥の中で、身動きが取れなくなった。章雄がホースで地下水を吹き付けて周りの泥を柔らかくすると、ようやく少しずつ進むことができた。章雄が泥の中から収穫するレンコンを抜き取ると、太った白い蓮根が現れた。
「まあ、きれいなレンコン。本当に美味しそう」
レンコンを彫り上げる度に、美那子は歓声を上げた。
それを傍で聞いた章雄は、
「レンコンを掘る度に感激していたら、仕様が無いなあ」
と呆れた。それでも、喜んで蓮田の作業を手伝う美奈子に感謝した。今時、レンコン農家に嫁ぐ女性は、なかなか見つかるものではなかった。
プラスチックの田舟に、掘り上げたレンコンが小山のように盛り上がると、美那子は田舟に付けたロープを引いて、農道の傍に設置した強化プラスチック製の水槽までゆっくりと泥の中を泳ぐようにゆっくりと運んだ。畔に着くと美那子はレンコンを折らないように、水槽に漬けて、柔らかい毛ブラシで丁寧に仮洗いした。洗ったレンコンは側に停めた軽トラックの荷台に載せた。
その作業を十数回繰り返すと、正午近くになった。章雄と美那子は、掘り上げたレンコンを満載した軽トラックに乗って、JAのレンコンセンターに出荷した。
JAのロゴが入った野球帽を被った、顔見知りの受付担当者は、まぶしそうに章雄夫婦を見て、
「章雄さん。奥さん。新婚さんが掘ったレンコンは、特別においしそうだねえ」
とからかった。
夜、軽く晩酌しながら一家で夕食を済ませ、風呂から上がると、章雄と美那子は、離れの夫婦の寝室で、心地よい疲れの中でお互いを求めあった。日焼けに注意している美那子の肌はレンコンのように白く肌理が細かかった。太股はすべすべして、章雄はそっと愛撫しながら昂まっていくのだった。二人はこの上ない幸福感を感じながら、新婚の日々を過ごした。
☆
翌年の初夏、早起きした章雄と美那子は、自宅の傍の蓮田の農道を散歩した。美那子は妊娠していたが、身重になる前に、できるだけ軽い運動をしたかった。
湿潤な空気が霞ヶ浦と蓮田を覆い、深呼吸すると、肺が心地よかった。蓮田では、5月に植え付けた種蓮が新芽を伸ばし始め、浮き葉と立ち葉が直線状に並んでいた。立ち葉はまだ背丈が低く、見通しがよかった。
美那子は章雄に顔を向けて言った。
「気持ちがいいわねえ。朝早く、蓮田を散歩するのはレンコン農家の特権ね。心も体も蓮田に融けこんで一体になった感じだわね」
章雄も肯いた。
「空気が新鮮だね。蓮の葉が作ってくれた酸素が体に浸みこんでくるようだなあ。蓮の葉は、これから夏にかけてどんどん伸びて蓮田を覆うから、葉の下は暗くなるけど、今の季節は景色が明るいなあ」
「本当ね。蓮田の景色は、それぞれ特徴があって、季節感があって、どの季節も好き。でも特に、初夏の季節が好きかな。夏に入って、白やピンクの花が咲き誇る景色はもちろん一番好きだけど、今の季節も好き」
やや遠くの蓮田から、数十羽の小鳥の群れが飛び立った。
「あ、ほら。ハマシギの群れだよ。今の季節だけ、蓮田に立ち寄っていくんだ」
「小さな白い天使たちが、飛びながら、空中で舞い踊っているようね。生きる喜びを体全体、群れ全体で表現しているのよ。蓮田は生き物たちの天国かな。それに、私のおなかにも、小さな天使が宿ってくれたのよ」
「美那子はすごいな。綺麗な表現だよ。さすがに文学を勉強しただけのことはあるね。小さな天使が生まれてくるのが楽しみだね」
二人は、農道に佇みながら、そんなことを語り合った。章雄は美那子のおなかに耳を当ててみた。天使の微かな鼓動が聞こえたような気がした。
☆
その年の八月、長女の香奈が生まれた。蓮田では、白いハスの花が咲き誇っていた。母子ともに健康だった。香奈は色白で、よく笑う赤ん坊だった。
生後、半年を過ぎた年末年始頃は、レンコンの掘り取り、出荷の最盛期で、レンコン農家の繁忙期だった。美那子は、授乳やオムツ交換で、蓮田の作業に出られないので、義母の信子が息子を手伝った。信子にとって、蓮田の作業は馴れたものだったが、還暦が近い身では無理できなかった。
午前中の作業を終えて、自宅に戻った信子に美那子は声を掛けた。
「お義母さん、すみません。ご苦労様でした。お疲れでしょう。お昼は用意してありますから、ゆっくり召し上がってください」
「ああ、美那子さん、ありがとうね。レンコン掘りは長年やってきたから馴れているけど、さすがにこたえるねえ。午後は、ちょっと、体を休ませてもらおうかねえ」
「はい、ほんとにそうですね。そう、なさってください。レンコン掘りは、若い私でも疲れて体が痛くなりますから・・・」
祖母の顔を見て、香奈が笑った。
「あら、あら。香奈ちゃんが笑った。ほんとに可愛いねえ。どれ、お祖母ちゃんがだっこしてあげようねえ。おや、香奈ちゃん。また重くなった。もう、生まれて半年だものねえ」
信子は孫娘が愛しくて仕方がなかった。
年が明けて、出荷のピークが過ぎたころには、レンコン掘りの作業も少しずつ減り、美那子も育児の合間を見ては、蓮田に出て、章雄を助けるようになった。
☆
さらに二年後の春、順太郎が生まれ、一家の団欒が賑やかになった。病弱だった、章雄の父、常雄は、家族が増えたことを喜びながら、寝たり起きたりの生活だった。美那子は信子を助けて義父の世話もこなした。恒雄は最後の一年ほどは車椅子の生活だった。天気が好い日には、美那子が車椅子を押して蓮田の農道を散歩した。
美那子が恒雄に話しかけた。
「お義父さん。お義父さんは、若い時からレンコンを作ってきたんですか」
恒雄は、記憶をたどるように遠くを見る表情で、絞り出すような声で、途切れ途切れに言った。
「いや、俺が親父から田圃を継いだ時は・・・、稲を作る水田の方が多かった。この辺の水田はドブッ田、汐入田とも呼ばれて・・・、昔は水害が多く、良い米は穫れなかったんだ・・・。それが、昭和四十年代の半ばくらいから・・・、どんどん蓮田に替わったなあ。昭和の終わり頃には、ほとんどが蓮田になった。・・・米は、レンコンでもうけた金で・・・買うようになったんだ」
「農作業は楽になったんですか」
「いやあ、もともとこの辺は湿田で・・・、泥の中の仕事だから、大変なことには変わりがなかったなあ・・・。それでも、レンコンの方がもうかるので、蓮田にしたんだ。もうかるから、頑張り過ぎて体をこわしてしまった・・・。今思えば・・・、ほどほどにしておけば良かったのかもしれないが・・・、子どもたちのためにと頑張ったんだなあ」
「そうですか。ご苦労様でした。おかげ様で、今、章雄さんも私も幸せに暮らしています」
「それなら・・・、親としては安心だ。章雄には、兄と姉がいるが・・・、二人とも農家を継がないで・・・、東京へ出ていってしまった。農家の大変さを知っているから、仕方がないんだ。章雄は、末っ子で・・・、貧乏くじを引いた格好だけど、まあ、よく頑張っているなあ・・・。美那子さんという、しっかりした嫁さんが来てくれたから・・・、気持ちに張りが出るんだろう」
「あら、お義父さんから、そう言っていただいて、私も嬉しいです。ありがとうございます」
美那子は、夕暮れ近い農道で、恒雄の車椅子をゆっくりと押しながら、蓮の花期が終わりかけた、広い蓮田を眺めた。
舅の恒雄の容態が急変したのは、それから間もなくだった。還暦を五年ほど過ぎた時に他界した。
常雄が逝って一周忌が過ぎ、再び一家に平穏が戻ってきた。二人の子どもは、姉は母親に、弟は父親に似て、すくすく育った。あまり手がかからない姉と弟だった。姉と弟は両親が忙しいことを十分に感じながら、自分のことは自分でするようになっていった。
☆
ある年の秋、章雄と美那子は午前中のレンコンの掘り取り作業を終え、軽トラに積み込んで一休みしていた。農道に座り込んで蓮田を眺めた。
もう、蓮の花は無く、立ち枯れた葉と茎が蓮田に林立していた。蓮の花は花托になっていた。茶色で堅い花托には穴がいていて、ハスの実が乾いて残っているものもあった。美那子は花托を手に取って眺め、章雄に語りかけた。
「来年の夏まで花は見られないね。あたしね、蓮の花が大好きなの。あたしは土浦の町場育ちだけど、霞ヶ浦の傍の蓮田でたくさん咲いている白い蓮の花を見るのが好き。ピンクの蓮の花もいいんだけど、白い花の方が凛として、穢れなさを表しているような感じがするの」
章雄は、気乗りしない生返事で応じた。
「ふうーん。農家にとって、レンコンは作物だから、特に花が好きとかはないなあ。白でもピンク色でも気にしたことはないよ。花を楽しむ品種なら、もっと濃い赤い色の花もあるけど、食用の蓮の花は白か薄いピンクだから、特別に綺麗だと思ったことはないなあ。なにしろ子どもの頃から見慣れているからね」
「農家の人はそうなのね。あたしは夏になると、よく霞ヶ浦の傍まで自転車で来て、蓮の花を眺めていたの。レンコンを食べるのも好きなの。柔らかく煮たレンコンも、天麩羅にしたレンコンも食感がいいし、実際美味しいでしょ。だから一年中、蓮の花やレンコンに囲まれて暮らせたら、どんなにいいかしらと思っていたくらいなの」
章雄は、美那子を見て、少しからかい気味に言った。
「うちに嫁に来て、美那子の夢が実現したことになるのかなあ。今は俺と蓮と、どっちが好きなの?」
「あら、章雄さん。蓮の花に妬いてるの? うふふ。自分と蓮を較べるなんて可笑しいよ・・・。私にとって、旦那様も蓮も、両方とも大事だから較べようがないのよ。章雄さんは、あたしをとっても大切にしてくれるし、蓮に囲まれて暮らせるし、あたしは世界一幸せかも・・・。あまり幸せすぎて、怖いくらい・・・。この幸せが突然終わるんじゃないかって、心配してしまう。そんなことないわよね」
章雄は、一瞬不吉な予感がしたが、すぐ頭を振った。
「そんなこと、あるわけないよ。俺たちの幸せなんて、考えてみれば平凡なものだよ」
「そうよね。何せ、神様は公平なんだから。でもね、人生は何が起きても不思議じゃないわ。昔から一寸先は闇っていうじゃない? だから、あたしは今を楽しむ。精一杯生きることこそ、大事なことだと思ってるの・・・。そりゃ、五年後にこうなればいい、十年後にこうなればいいって思うよ。でも一番大事なのは、未来じゃなくて、今を生きることだと思う」
「汝、煩うことなかれ。野の鳥を見よ、野の花を見よか。彼らはなんと楽しげにさえずり、美しく精一杯咲いていることか。昔、誘われて時々通っていた近くの教会の日曜学校で教わったんだ」
「あら、聖書の一節ね。聖書には良いことが書いてあるわよね。全くそのとおりだと思う。だから、あたしは何が起きようと、そのまま受け止めようと思うの」
章雄は、それを聞いて、悪戯っぽく続けた。
「じゃあ聞くけど、俺が浮気したらどうする?」
美那子は即座に言った。
「それはいやよ。あたしがいるうちは、いや。でも、あたしがいなくなることがあったら、章雄さんは、後妻さんを迎えてもいいよ。レンコン農家には、よく働く女手が必要よ。新しい幸せを見つけるのよ。当然じゃない? 過去に縛られることはないわよ」
章雄は、慌てて言った。
「ごめん。美那子がいなくなるなんて考えられない。俺には美那子だけだ」
「うれしい。あたしも章雄さんと蓮の傍にいるから、他のことは考えないようにする。これが幸せなのかな・・・」
章雄と美那子は、それきり沈黙した。お互いの顔を見ることが少し怖かった。
☆
美那子は農閑期には農協の女性部で、他の農婦たちとともにレンコン料理のレシピを工夫した。地域の集会所には厨房の設備があった。
農婦たちは、レンコンが入った筑前煮、酢レンコン、レンコンと挽肉の甘酢炒め、レンコンの磯辺揚げ、レンコンのきんぴら、レンコンの天麩羅などの定番の料理に加えて、麻婆レンコン、レンコンとベーコンとほうれん草の野菜炒め、挽肉にみじん切りにしたレンコンを入れたハンバーグ、スライスチーズをレンコンの輪切りではさんで鉄板で焼いたレンコンステーキ、レンコンカレー、レンコングラタン、レンコンサラダなどを工夫し、レパートリーが広がった。
きれいに、おいしく出来たレンコン料理の写真を撮った。レシピとともに、次ぎの版の料理パンフレットに載せる予定だった。
料理が完成すると、彼女達はさっそく試食して味を確認し、反省会を行った。反省会といっても結局は、おしゃべりの会になった。
ひとしきり話に花が咲くと、カラオケ大会になるのが恒例だった。集会所には、映像付きのカラオケの設備もあった。
「美那ちゃん。テレサ・テンの唄、歌って」
美那子のカラオケの十八番は、テレサ・テンの唄だった。
「リクエストにお応えして、テレサ・テンの『時の流れに身をまかせ』を歌います」
美那子は、マイクを取って、体でリズムを取りながら歌い始めた。その美しい歌声に、皆はうっとりとして聴き入った。優しく透明な、伸びのある声だった。
もしも あなたと逢えずにいたら
わたしは何を してたでしょうか
平凡だけど 誰かを愛し
普通の暮らし してたでしょうか
時の流れに 身をまかせ
あなたの色に 染められ
一度の人生それさえ 捨てることもかなわない
だから お願い そばに置いてね
いまは あなたしか 愛せない
歌が終わった。
感極まった農婦達が一斉に拍手した。
「美那ちゃん。最高。綺麗な声だね。いつ聞いてもほれぼれするよ」
「ありがとうございます。私もテレサ・テン、大好き」
他の農婦達が交代でカラオケを楽しみ、また、美那子の番が来た。
「じゃ、またテレサ・テンで、『別れの予感』です」
美那子は、語りかけるように歌いだした。
泣き出してしまいそう 痛いほど好きだから
どこへも行かないで 息を止めてそばにいて
身体からこの心 取り出してくれるなら
あなたに見せたいの この胸の想いを
教えて 悲しくなるその理由(わけ)
あなたに触れていても 信じること
それだけだから
海よりもまだ深く 空よりもまだ青く
あなたをこれ以上 愛するなんて
私には出来ない
農婦達は、歌詞の一つ一つに聴き入った。歌が終わった時に、再度、盛大な拍手が起こった。
「そういえば美那ちゃんは、顔もテレサ・テンに似ているよ。ふっくらして、やさしくて」
彼女達は、こうして時々集まっては、農家の嫁のストレスを発散するのだった。
☆
美那子は、ハスという植物を活かした地域おこしについても、農協のレンコン部会のメンバーに積極的に呼び掛けた。インターネットでいろいろな情報を得て、参考になりそうなものは、プリントアウトして、ファイルにした。
それらの情報を自分なりに整理して、アイディアがまとまると、土浦農協の事務所の会議室で開催されたレンコン部会の集まりで紹介した。
「食品としてのレンコンは、料理のレシピを工夫すれば、まだまだ可能性があります。すでにレンコンパウダーを小麦粉にまぜて、サブレに焼いて販売する洋菓子店もあります。どら焼きの餡にレンコンの輪切りを挟んで、甘さと歯ざわりが調和する食感を工夫している和菓子屋さんも地元で有名です。レンコン麺も製品化されています。
さらに、パン屋さんと連携して、レンコンパウダーと小麦粉をいろいろな比率でまぜたレンコンパンを焼いてみたらどうかと思います。実は、全粒パンとかライ麦パンとか、レーズンパンとか、堅いバゲットつまりフランスパンなど、いろいろなパンがあります。私たちが普段食べている食パンは、日本独特で、柔らかくもちもちした食感が特徴です。
レンコンは、ミネラル、ビタミン類、ポリフェノール、食物繊維が豊富なので、栄養面で優れたレンコンパンとして売り出せるかもしれません。最近では、家庭でも作れるパン焼き機が普及してきたので、まず、レンコン部会の女性会で工夫してみようかなと考えています。
私は、さらに蓮の葉茶の開発を提案します。ネットで調べると、すでに中国と日本で、蓮の葉茶は製品化されています。でも、それほど有名ではありません。霞ヶ浦地方では、こんなに広い蓮田がありますが、蓮の葉は利用されずに、刈り取られ、秋には立ち枯れてしまいます。この大量の蓮の葉を資源として利用しないのはもったいないです。
このファイルに蓮の葉茶の製法はじめ、情報を整理しましたので、部会の役員さんにぜひ、検討していただきたいと思います。
もう一つは、蓮の葉の長い茎、つまり葉柄の活用です。ミャンマーのインレー湖という湖の傍では伝統的に、蓮の葉柄から細い繊維を取って、糸を紡ぎ、それを織り機にかけて布地を織っています。その写真がこれです」
美那子は、インターネットで集めたカラー写真を出席者に回覧した。
「その布地の風合いはとても滑らかで柔らかく、素朴ですが上品でもあるそうです。実は、日本でも、東京の町田市にある福祉作業所で、その蓮糸と絹糸を縦糸と横糸にして、布地を織って、ショールや匂い袋を作って地元の名産品にしています。そこでは、古代ハスで有名な大賀ハスを栽培しています。また、布地を染めるために紅花の栽培も行っています。
こうした情報は、インターネットで簡単に集めることができます。それらを参考にして、この霞ヶ浦でも、いろいろ工夫して、今以上に地域おこしに活用できればと思っています。
ミャンマーのインレー湖に視察に行くのは、今すぐにとはいきませんが、東京の町田なら、近いですから、みんなで視察にいきませんか」
出席者は、美那子がさまざまなアイディアを寄せてくれたことに感心し、口々に意見を出した。
「レンコンパンのアイディアはいいね。語呂もいいね。問題は食感だね」
「蓮の葉茶の開発はそんなに難しくないんじゃないかな。まず、いろいろ試してみたいね」
「実は先年、中国旅行した時に、蓮の葉茶を試飲したことがあるよ。日本の緑茶とはまた違った味わいだったなあ。でも、乾燥や焙煎のやり方を工夫すれば、日本人の味覚にも合う蓮の葉茶を作れると思う」
「蓮糸で布地を織るのは、相当の熟練技術や道具類が必要だろうなあ。でも、百聞は一見に如かずというから、部会長、今年の研修旅行の行き先は、町田市ということでどうですか」
「うむ、それもいいね。みんなでさらに検討してみよう」
部会員はそれぞれ、意見を出し合いながら、美那子がよく勉強しており、いろいろなアイディアを出してくれることに感心し、感謝の表情を浮かべた。
☆
毎日が充実していた。穏やかな日々が続き、章雄と美那子の出会いの日から早くも、十七年が過ぎていた。
美那子は、秋から冬にかけてのレンコンの掘り取りがひと段落し、新年を迎えた頃から体の不調を訴えた。ひどい便秘が続いた。便秘が収まると、血便になった。さすがに美那子本人も驚いて、JA連合会が設立した地元の総合病院の消化器内科を受診した。担当医師は、内視鏡やCTスキャンによる大腸の精密検査を行った。
医師は数日後に美那子と亜章雄を診察室に呼んで、検査結果を告げた。
「率直にお伝えします。大腸癌です。ステージⅣです。肝臓とリンパ節に転移しています。
大腸の癌は手術で除去できます。肝臓とリンパ節に転移した癌は、放射線治療と抗癌剤と併用してみましょう。放射線は、ピンポイントで患部に照射します。抗癌剤はいろいろな種類がありますが、一番効果がありそうな薬を使いましょう」
美那子は、冷静に言った。
「先生、ステージⅣというのは、末期癌ということですね。覚悟はできています。私の余命はどれくらいですか」
「手術で、原発部位のがん組織を除去しても、転移した癌に放射線照射と抗癌剤の効果が現れなければ、余命は・・・・、1年というところです」
「そうですか。可能な治療は受けたいと思います。奇跡が起きることを信じたい気持ちです。子どもたちもまだ、学校に通っています。母親が必要です。それに、蓮根農家の嫁は夫を助ける役目がありますから、今、死ぬわけにはいきません」
美那子は、医師に、気丈を装いながら言った。
章雄は、動揺していた。涙声になった。
「先生、何とか妻を救ってください。私の一番大切なひとなんです」
「わかりました。ご主人も奥様を支えて頑張っていただくことになります。できる限り、手を尽くしましょう」
「よろしくお願いします」
一週間後、美那子は同病院で、大腸の外科手術を受けた。患部を大きく切除し、人工肛門を着けた。章雄と姑の信子が交替で、病室につめて身の周りの世話をした。
放射線と抗癌剤治療は副作用が強く、食欲がなくなり、痩せて体重が20キログラム減った。頭髪は大部分が抜けた。ニット帽を被って、頭部を冷えから守った。リンパ節や肝臓に転移した癌細胞は一時縮小したが、脳へ癌細胞が転移していた。抗癌剤を一時中断すると、転移部位の癌が大きくなった。進行が速い悪性の大腸癌だった。
☆
亡くなる一ヶ月前の五月、入院中のベッドで、美那子は章雄の目を見つめた。章雄は午前中、レンコンの植え付け作業を終えてから、午後に病院に妻を見舞った。
「章雄さん、レンコンの植え付け、手伝えなくてごめんね。今、忙しいでしょう?」
「ああ、でも植え付けはマイペースでゆっくりやれるから、なんとか大丈夫だ。年末の掘り取りの方がずっと忙しいなあ。それまでには美那子が元気になって、いっしょにまた作業できるよ」
それを聞いて、美那子は悔しそうな表情で、涙を浮かべた。
「そうだといいんだけど・・・。でも、無理かもしれない。自分の体だから、よくわかるの」
章雄は、美那子を見つめた。
「気持ちをしっかり持つんだ。強い気持ちで病気を追い払うんだ。弱気になったら、だめだよ」
「ありがとう。でも、この際だから言うけど、私が死んでも、章雄さんはまだ若いんだから、できれば後妻さんをもらって、家事や農作業をやってもらってね。農家は細々した仕事が多いから、奥さんがいないと、やっていけないよ・・・。子どもたちも、まだ学校の卒業までには間があるし。あなた一人じゃ、それこそ病気になっちゃうでしょ」
章雄は、一気に涙が溢れそうになるのをこらえた。章雄は主治医から、妻の余命が僅かしかないことを聞かされていた。
「何を言っているんだ。そんなことより、今は自分の体を治すことに専念しなければ・・・」
「私、本気で考えたの。章雄さんに望まれて嫁に来て、最初は慣れない作業がたいへんで、家事もとても多くて、夜は疲れて辛かった・・・。でも、あなたが、いろいろ気を遣って労わってくれたから、耐えられたのよ。夜はあなたの腕の中で眠れたから、翌朝は疲れが取れて、また元気が出て頑張れた」
「俺も、美那子が嫁に来てくれたから、ここまで来れた気がする。俺は本当に幸せだ。それにしても二人でよく頑張ったな。親父の蓮田を継いで、梨園も順調だしな」
梨園の話になって、美那子は一瞬、微かな笑みを浮かべた。
「梨の花の人工授粉は楽しかったなあ・・・。真っ白い花がたくさん咲いて、花粉がどの花にも万遍なく付くように、梵天(耳掻きの形の受粉用具)の毛で、優しく撫でてやるのはとても好きだったわね。摘果して、残った梨の実がどんどん大きく成長して、秋の初めの収穫が楽しみだった。梨の瑞々しい甘い味、シャリシャリした食感、何とも言えないわ」
蓮根農家の中には、章雄のように後背地の大地で梨園も経営する家がある。
「今年の受粉作業は終わったけど、また来年できるよ」
美那子は、視線を章雄から外し、病室の窓の方を見て言った。
「そうなれば本当にいいんだけどね」
「大丈夫だ。美那子。早く元気になって、また、レンコン掘りも、梨の受粉作業も一緒にやろう」
「ありがとう、章雄さん。何だか小説みたいね。こんな小説を書いてみたかった・・・。今思うと、私自身が物語の世界で生きてきたのかなあ。現実の方が小説を超えているのかなあ」
章雄が思い出したように言った。
「そういえば、嫁に来る前、小説を書いているって言っていたなあ。農家は忙しくて、小説を書く時間が無かったなあ」
「ううん。いいのよ。小説より、今を大切にして生きて、楽しむ事が大事よ・・・。ところで、香奈と順太郎はどうしてる?」
「ああ、変わりないよ。二人とも学校で、勉強や部活に頑張っているようだよ。次の土曜日には、お母さんの見舞いに行きたいって言っていたな」
美那子は、ほっとした表情になった。
「そう、それなら安心ね。もう、高校生と中学生だから、しっかりしてきたね」
「うむ、おまえがしっかり育ててくれたからな」
「ううん。あの子たちが私たちを見て、自分で育ってくれたのよ。私たちは、良い子どもたちに恵まれたわね」
章雄は肯いた。
「そうだな。子どもたちの成長が楽しみだなあ」
「本当にそうね。子どもたちが、私たちの命を繋いでくれているのね。ハスの花も、命が繋がっているからこそ、毎年、きれいな花を咲かせる・・・。私、女だから、子どもを宿したからこそ、実感できるの。小説は書けなかったけど、小説に替わるものを生み出せたかなあ」
美那子と章雄は、病室の窓から見える、暮れなずむ土浦市街と遠くの筑波山の景色を見つめた。
☆
それから一ヶ月後、美那子の容態が急に悪化した。
病棟の個室に移された美那子の周りを家族が囲んだ。香奈が母の手に触れ、呼びかけた。
「お母さん・・・。お母さん・・・。香奈よ。分かる?」
美那子は薄く目を開けて、弱々しくほほ笑んだ。
「香奈ちゃん・・・。来てくれたのね。嬉しい・・・。もう、高校生だから、しっかりしてきたね。小さな、かわいい赤ちゃんだったのに、こんな、きれいな娘に成長してくれて、ありがとう・・・。頑張って、自分の人生を生きてね。お母さんは、蓮田の・・・、白い蓮の花になって、みんなを見守るからね・・・」
「そんなこと言わないで、お母さん。いかないで・・・。もっと生きて・・・。私と順太郎は、お母さんが生きていてほしいの・・・」
順太郎も傍で泣きながら言った。
「お母さん、僕はまだ中学生だよ。お母さんにもっともっと生きてほしい。お母さん・・・」
「順太郎・・・。泣かないでね。お母さんが・・・いなくなっても、お父さんを・・・助けてあげてね」
章雄は、涙があふれてくるのも構わず、美那子の耳元に顔を近づけて言った。
「美那子・・・。ありがとう・・・。俺のところに嫁にきてくれて・・・ほんとにありがとう」
「章雄さん・・・私こそ、ありがとう・・・。私は、白い蓮の花になって、いつも傍にいて・・・、みんなを見守るからね・・・。さびしくないからね・・・。ほんとうに・・・ありがとう・・・」
美那子は、目を閉じて眠ったようだった。
主治医が脈を取り、心電図とバイタルサインを見て、静かに告げた。
「ご臨終です」
病室に、香奈と順太郎の「お母さーん」という声と、皆の嗚咽が溢れた。
☆
美那子はまだ若かったせいか、癌細胞の勢いが勝り、生きたいという意思も、章雄ら家族の生きていてほしいという願いも打ち砕いた。
土浦市内の市営斎場で行われた葬儀には両家の親族、近所、農協のレンコン部会員、親しい友人たちが参列した。ささやかな葬儀の後、美那子は白いお骨になり、白銀色の骨袋の中の白い骨壷に納められて、自宅に戻った。
姑の信子は、まだ若い嫁の死を悼んで、皺が刻まれた顔を涙で濡らした。香奈と順太郎は母の死をどう受け止めてよいのかわからず、戸惑いながら涙が枯れるほど泣いた。最愛の妻を失った章雄は何日も呆然自失の態で過ごした。
初七日が過ぎ、四十九日法要を、新盆を兼ねて、菩提寺の住職にお経を上げてもらう頃には、ようやく一家は落ち着きを取り戻していた。
骨壺を納めた六角の骨袋を胸に抱いた章雄を先頭に、戒名が書かれた真新しい位牌を胸の位置で持った香奈と順太郎、飯塚家の家族と美那子の実家の家族らが、蓮田の傍の道を墓地へと歩いた。蓮田では、白やピンク色の蓮の花が盛りだった
盂蘭盆会でお参りに来る檀家対応で忙しい住職が、時間を割いて飯塚家の先祖代々の墓石に美那子のお骨を納骨するのを見とどけると、般若心経を静かに読経した
章雄は、墓地で納骨を済ませると、美那子の位牌を子供たちから受け取り、胸に抱えて、蓮の花が浄土世界の象徴のように咲いている蓮田の傍の道を、自宅に向かい、参列者の先頭に立って歩いた。四十九日が過ぎたことで、皆は何となく、ほっとした気持ちだった。位牌には、「浄美田白蓮大姉」と書かれていた。それは、生前、美那子が自分で考えて希望した戒名だった。
☆
美那子は死期を悟ると、意識がはっきりしているうちに自分の戒名を付けたいと言い出した。自分の戒名を自分で付けるなんて聞いたことがないと皆が驚いたが、菩提寺の住職は、死を覚悟した人は自分の戒名をつけてもかまわないと理解を示した。美那子は住職と相談しながら、その戒名に決めたのだった。
蓮田で、最初の蓮の花が咲き出す頃、美那子は主治医から一時帰宅する許可をもらった。その機会に菩提寺の住職を招いた。住職の前で、章雄に支えられながら、布団から身を起して美那子が言った。
「和尚様、今日はわざわざおいでいただき、ありがとうございます。ぜひ、和尚様にお話ししたいことが・・・」
住職は、落ち着いて応えた。
「はい、受け賜りましょう」
「千葉県の検見川の二千年前の泥の地層から、植物学者の大賀一郎博士が蓮の実を発見して、それを栽培して、古代ハスを蘇えらせましたよね」
「はい、私も聞いたことがあります」
「その古代ハスは今では各地で栽培されて、きれいな花を咲かせています。茨城県でも、石岡の常陸風土記の丘公園の蓮池で、夏になると美しい花が見られます。土浦市の霞ヶ浦総合公園の花蓮園でも栽培されています。私も章雄さんを誘って見にいきました。それは、美しい花でした。蓮は時を超えて、命を繋いでいます」
「なるほど」
「私たちも、二人の子宝に恵まれました。私の命も子どもたちに受け継がれています。子どもたちは、これから立派に成長してくれるでしょう。もし、私が死んでも、命が無くなったわけではないのですね」
「仏教では、命は連続していると教えています。現世では苦しくとも、仏になれば救われ、やがてこの世によみがえるのです」
美那子は、肯いた。
「和尚様・・・。蓮田は泥ですけど、それは諸々の命が朽ちて再生する場、つまり生き物が死んで、いったん分解されて、それから蘇える場でしょう?」
老住職は、柔和な顔で答えた。
「いかにも、そのとおりです」
「蓮田は自然の営みの場ですよね。穢れを浄めようとして、バクテリアたちが働いてくれるから、有機物が分解され、栄養分になり、結局きれいな蓮の花として、生命が蘇えるのですね。蓮は浄土の花でしょう?・・・。 それなら、蓮田は浄土そのものではありませんか?」
住職は、あらためて美那子の顔を見つめた。
「驚きましたな。実は般若心経には、この世は穢れているとか浄化されているとか言うが、それは無意味であると書かれています。それは同じものの裏表のようなもの。穢れは時が移ろえば浄化されるものなんです。それをあなたが見抜いておられるとは、たいしたものだ」
美那子は微笑んだ。
「それでは、私が死んだら、私の戒名には『白蓮』という字を入れていただけませんか・・・。私はいつも蓮田の中にいて、夏になれば白い美しい花を咲かす蓮になりたいのです」
老住職はしばらく沈黙した後、大きく頷いた。住職の眼には涙が光っていた。袂から白いハンカチを出して、涙を静かに拭った。
「坊主の眼にも涙ですな。分りました。そのようにいたしましょう・・・」
住職はしばらく考えて言った。
『浄美田白蓮大姉』ではいかがですか」
「『浄美田白蓮大姉』・・・。素敵な戒名です。ありがとうございます」
美那子は傍の章雄とともに深く頭を下げた。
☆
住職が帰ると、美那子は蓮田と霞ヶ浦が見たいと言った。章雄は軽トラの助手席に美那子を載せて、蓮花の蕾が出始めた蓮田を見回った後、湖岸の堤防の上の道をゆっくりと走った。蓮田は堤防の外に広大に拡がり、内側には、望洋とした霞ヶ浦が見えた。葦原のオオヨシキリはすでに子育てを終えたらしく、もう囀る声は聞こえなかった。霞ヶ浦の湖面には漣が立ち、夏の陽光をキラキラと反射させていた。対岸の稲敷台地の上には入道雲がいくつも立ち上がりつつあった。
美那子は、抗癌剤の副作用で頭髪が抜け、白い頭巾で頭部を覆っていた。顔の色はますます白くなり、頬の肉は落ちていた。眼だけが大きく、ゆっくりと動いた。
「あ、ほら。美那子。牛久大仏が見える」
章夫が対岸の台地の上を指さした。
「あら、牛久大仏・・・」
美那子は、かすれ声でようやく言った。
「まるで、私たちを見守ってくださっているようね」
「ああ、そうだな」
章雄はそれ以上の言葉が出なかった。無言で、助手席の美那子の体を抱いた。二人の眼が涙で潤み、霞ヶ浦も、筑波山も、牛久大仏も見えなくなった。
☆
納骨を終えた章雄は美那子の戒名の経緯を思い出していた。今後、人に戒名の由来を尋ねられれば、躊躇わず説明しようと思った。章雄たち参列者は自宅に着いた。章雄は、仏壇に美那子の位牌を納めると、改めて蝋燭と線香を点し、お鈴を鳴らして合掌した。
仏壇には、香奈と順太郎が蓮田から切ってきた白い蓮の花を供えた。遺影写真の美那子は、農作業時の農婦用の大きな帽子を被り、にこやかに微笑んでいた。レンコンを掘り取る作業着姿だった。姉と弟は遺影の前で手を合わせた。
香奈が言った。
「お母さんは、蓮の花の精だったのかもしれないね。だって、白い蓮の花があんなに好きだったんだもの」
順太郎も、母の写真を見ながら言った。
「僕もそんな気がする。お母さんは誰にもやさしかった。神様が遣わした蓮の花の天使だったのかもね。お母さんは天使だから、天国に戻ってしまったのかもしれないね」
香奈も順太郎も、母が蓮の花の精霊や天使だったのなら、母が天国に帰るのは仕方がないのかもしれないと思い始めた。そう考えれば、ようやく母がいないことを受け入れることができそうな気がした。
「そうか。美那子は天上の神様が遣わした天使か、阿弥陀如来が遣わした菩薩様だったのか。そういえば住職様は、菩薩とは、常に悟りを開こうと努力する人のことだと言っていた・・・。美那子は努力家で、明るく、いつも周りの人を気遣っていた。美那子こそ、菩薩だったのか・・・。そんな美那子がどうして俺のところに嫁に来てくれて、こんなにしっかりした子どもたちを遺してくれたのだろうか・・・」
章雄は、美奈子との最初の出会いを、反芻するように何度も思い返した。
☆
美那子の四十九日が過ぎて、秋風が立つ頃になっても、章雄は蓮田に出る気になれなかった。一雨ごとに気温が下がり、強い風に吹かれて、蓮の大きな葉は枯れて千切れ、葉柄が折れて、破れ笠のようになった。レンコンの出荷時期が迫っていた。美那子がいなくても、レンコンの掘り取りを始めなくてはならなかった
章雄は、斡旋業者の紹介で技能実習生を雇うことにした。紹介されて、やってきた中国人実習生は自己紹介した。
「こんにちは。私の名前は劉長江です。中国の河北省から来ました。武漢という大きな町の近くの村で生まれました。傍を長江が流れています。長江の流れのように、長く力強く生きるように、父が名前をつけてくれました」
まだ、たどたどしい口調で、そのようなことを話す劉に、章雄は好感を持った。
握手しながら、章雄が言った。
「いいお名前ですね。私は飯田章雄です。これから農作業が忙しくなりますが、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
東京の池袋の日本語学校に半年通ったという劉は、二十代後半の、がっしりした体格の好青年だった。お金を貯めて、日本の大学に入り、農学を勉強したいと夢を語った。
☆
翌日から劉は、章雄と一緒にレンコン掘りの作業に入った。劉は、意外に馴れた様子で作業をこなし、午前中に予定した分のレンコンを掘り取り、水洗いも済ませ、軽トラックに積み込んだ。時間に余裕が出来た章雄は、農道で劉に話しかけた。
「劉君、お陰で早く作業が済んだよ。レンコンの掘り取りは初めてなんだろう?」
劉は、頭を振って答えた。
「いいえ、初めてではありません。河北省の家は農家で、父のレンコン掘りを手伝ったこと、あります。長江が近くなので、水田や蓮田は多いです。中国では、ホースで水を出して掘ることは、まだしていません。鍬で掘ります。力が要りますから、たいへんです。疲れます」
「そうだったか。道理で泥の中の作業に馴れていると思ったよ。これは願ってもない人に来てもらったなあ。ありがたいよ」
「飯田さんを、お父さんと呼んでもいいですか? お父さんの方が呼びやすいですから」
「ああ、いいよ。でも何だか照れくさいな」
「大丈夫、私の中国のお父さんも、飯田さんと、同じくらいの歳です」
「それにしても、たった半年で、日本語、上手になったね」
「日本語、もっとうまく話したいです。だから、お父さんにもっと話していいですか。おかしな日本語だったら、よい日本語に直してください」
「ああ、いいとも」
「お父さん。三ヶ月前、お母さん亡くなったと聞きました。かわいそうです。でも大丈夫。私、お母さんの分も働きます。よろしくお願いします」
章雄は胸が熱くなった。中国から来た実習生が心優しく励ましてくれる。相手を思いやる心は同じだと思った。
☆
次の日も章雄と劉は蓮田に出て、レンコンを掘った。泥の中から現れたレンコンは、ホースで水を吹き付けると、女性の白い太股を連想させた。章雄は、劉が傍で作業を手伝っていることを一瞬忘れて、美那子の白い肌のきめ細かさと温もりを思い出し、章雄の腕に抱かれて美那子が甘い吐息を漏らした夜が脳裏をよぎった。思わず「美那子」と呼びたくなって吾に返り、不思議そうな顔をしている劉に、照れ笑いで誤魔化した。
広い蓮田で、孤独な辛いレンコン掘りを覚悟していた章雄だったが、助っ人のお陰で、掘り取り作業は順調に進んだ。劉の故郷や家族の話を聞き、時には章雄の方から美那子の思い出話をすることもあった。レンコン掘りの相棒がいることの有難さを、章雄は改めて思った。
☆
大晦日の前日まで仕事を続け、掘ったレンコンを出荷した章雄と劉は、お互いを労った。
「劉君、お疲れ様。お陰で助かったよ。本当にありがとう」
「お父さんこそ、頑張りました。私も頑張りました。いい仕事しました」
「全くだな。こうして仕事ができることが幸せなんだなあ。劉君、年末年始は、どう過ごすんだい?」
「アパートの部屋を共同で借りている仲間と忘年会をやります。新年は、横浜の中華街に行って、中華料理と紹興酒で新年会をやります。でも、中国では、春節という旧正月の方が賑やかです。街は人がいっぱいです。爆竹を鳴らしたりします。龍の仮装も出ます」
「ああ、テレビで見たことがあるよ。ところで、わが家でも、一月四日にささやかな家族会をやろうと思うんだ。劉君も来てくれるね」
「はい、喜んで。そうだ、私、餃子作ります。餃子の皮を作ってきますから、お父さんは、レンコン、キャベツ、ニラ、ニンニク、生姜、豚の挽肉を用意してください。胡麻油も、お願いします。レンコンが入った餃子です」
「おう、そうかい。レンコン餃子か。これでレンコン料理の品数が増えるな。楽しみだ。じゃ、劉君、良いお年を・・・」
「お父さんも、良いお年を・・・」
「ありがとう」
☆
章雄一家は、新年といってもまだ喪中なので、年賀状も届かず、お互いにおめでとうと言い合うこともなく、静かな正月を迎えた。三ケ日は例年のように近くの神社に初詣にいくこともなかった。家族は仏壇にお参りすると、悲しみがこみ上げてくることもあったが、数ヶ月の時間が少しずつ、心を癒してくれていた。
一月四日の午前、劉が手作りの餃子の皮を携えてやってきた。控えめに挨拶した劉は、香奈と順太郎を助手役にして、台所で餃子を作り始めた。劉が冗談を連発して姉と弟を笑わせているらしく、楽しげな笑い声が時折、居間にいる章雄の耳にも届いた。
「順太郎君、レンコンをすり下ろす時。あまり力を入れすぎると、粗くなるから、丁寧にするね。香奈さんはニラとキャベツを刻んでみて。そうそう、上手。私はニンニクと生姜をすりおろすね」
香奈が言った。
「この餃子の皮。劉さんが作ったの?」
「そうです」劉が肯いた
「すごい。プロみたい」
「中国の田舎では、誰でも作るよ。今度、餃子の皮の作り方、教えるね。今日作る餃子は、焼き餃子じゃなく、水餃子ね。蒸して作るよ。中国では水餃子が普通よ。焼き餃子は、余った水餃子を、薄く油をひいたフライパンで、焼いて作るよ」
順太郎が目を丸くした。
「へえ、そうなんだ。餃子といえば、焼き餃子が普通だと思ってた」
皮に包む材料が揃うと、劉はそれをボウルに入れて、持参のオイスターソースに胡麻油、醤油、塩、胡椒を入れて、手で捏ねて混ぜ合わせた。よく混ざった材料を小さなへらで取り、丸い皮で具を器用に包んで、へらを使って次々に耳の形にした。
「うわあ。きれいな形。美味しそう」
普段から料理が好きな香奈は歓声を上げた。
「私もやってみたい。教えて」
劉は、香奈に、へらを渡した。
「へらに、これくらい取って、左手の皮で包んで、右手のへらで形を作るね。そう、その調子。おうー。香奈さん。上手い。上手い」
「僕もやってみたい。やらせて」
「どうぞ、やってみて。難しくないよ。そう、その調子。順太郎君も上手い。初めてじゃないみたい」
ワイワイ言いながら、五十個ほどの餃子が出来上がった。劉は蒸し器を借りると、底に水を入れ、さらに穴がたくさんある中敷に餃子を丁寧に並べて、ガスレンジにかけた。最初強火で、盛んに蒸気が上がった後、弱火で十五分ほど蒸し上げた。
「そろそろ、大丈夫かな」
劉が呟いて、蓋を取り、菜箸で一個餃子を取り出して、少し冷ました後、味見した。
「ハオチー」
「何て言ったの?」
「おいしいって言ったよ」
劉は笑顔で答えると、火を止め、蒸し器を下ろした。それを居間に持ち込んで、湯気が立つ水餃子を中皿に取って、待っていた章雄と信子に勧めた。
「お父さん。お父さんのお母さん。レンコン餃子、出来たよう。食べてみて」
「レンコン餃子か。珍しいな。どれどれ、醤油、ラー油、酢を混ぜて、それに漬けて食べればいいんだね。おうー、うまい。焼き餃子もいいけど、水餃子もいいね。おいしいよ。どう、母さん?」
信子も、一口食べて言った。
「うん、具のレンコンの味があっさりしておいしい。歯ざわりがいいねえ。皮は厚くて柔らかく、もちもちしてる。油っこくないから、私は焼き餃子より、この方が好きだよ」
劉はそれを聞いて嬉しくなり、香奈と順太郎にも勧めて、一緒に箸を取った。章夫も続けて二個目を口に入れた。
「これは、本当にうまい。農協のレンコン料理のパンフレットにも、レンコン餃子を取り上げてくれるように提案しよう。新メニューだ」
家族は、それぞれ腹いっぱいになるくらい、餃子を食べた。
「残りは明日、焼き餃子にして食べてみようよ」
順太郎が言った。
章雄の母は思わず、ポツリと漏らした。
「美那子さんにも食べさせたかったねえ」
一家は一瞬、沈黙したが、香奈が言葉を継いだ。
「本当ね。お母さんなら、喜んですぐ自分のレシピに入れたと思う。お母さんの替わりに私が得意料理にして、時々作ってあげるよ」
章雄は香奈の気遣いに感謝して言った。
「香奈も大人になったなあ。うれしいよ・・・。時々、レンコン餃子はいいね。水餃子でも焼き餃子でもいいから、食べたいなあ。今日は、劉君、本当にありがとう。これからも、よろしく頼むよ。レンコン掘りは、春まで続くからね」
「はい、お父さん。頑張ります」
劉はおどけて、ガッツポーズを作った。
その仕草が可笑しいと、一家の笑い声が居間に満ちた。仏壇の中で、遺影写真の美那子も微笑んでいるようだった。
章雄は窓から蓮田を眺めた。正月の蓮田は静寂だった。蓮根を掘る農家の人の姿もなく、大きな葉が立ち枯れ、折れていた。しかし、農道にはホトケノザやオオイヌノフグリなど早春の野草が咲き始めていた。堤防の向こうに見える霞ヶ浦の湖面は、さざ波が立ち、太陽光を反射してキラキラ輝いていた。
章雄は春が近いことを感じた。春になればレンコンの植え付けが始まる。真夏には美しい白蓮の花が咲くだろう。
了
(400字詰 原稿用紙換算枚数 93枚)

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