浮島は、かつて茨城県霞ヶ浦の湖中の島だったが、戦前から周囲で少しずつ開始された干拓が戦後本格化した。現在は甘田入、野田奈川、西ノ洲、本新島の各干拓事業により、陸域に繋がった。干拓地は水田、ハス田、牧草地、畜舎、宅地などとして土地利用されている。
浮島の北側の広く長い砂浜は、昭和四十年代半ばまで遊泳場として賑わい、土浦方面からも大勢の遊泳客が観光船で訪れた。かつて黒松林の中にバンガローが並び、霞ヶ浦の名所の一つだった。しかし、今は高いコンクリート堤防が築かれ、水質悪化と相まって遊泳が出来なくなり、寂れてしまった。
浮島が日本史に登場することは、郷土史家以外では地元の人でさえ、ほとんど知らない。古墳時代初期には神聖な島として、小さな古墳群が作られた。記紀時代に景行天皇が東国巡幸の折り、息子のヤマトタケルノミコトの戦跡を訪ね、浮島に行在所を造営したと伝えられている。
中世には、崇徳上皇の保元の乱に連座した責めを負い、京の都から追放された藤原教長が浮島に遠島の量刑を受けて、数年間滞在したといわれる。
戦国時代には佐竹氏の軍勢に攻められた地元の豪族、浮島弾正の滅亡に際し、舟で湖上に逃れた美しい姫が、館が炎上して焼け落ちるのを見て悲観し、湖水に身を投げ、来ていた小袖が浜に流れ着いたという伝説が残っている。その浜は今も小袖ケ浜と呼ばれ、小袖の小紋のような模様の小石が拾えるのだという。
江戸時代には、霞ヶ浦利根川水系は高瀬船の水運で賑わい、その船頭たちは沖合いから、霞がかかる湖上に、鯨のように浮かんで見える浮島を眺めながら、行き来したのである。
そのような浮島の歴史に、那須啓三が詳しいわけでなかった。啓三は今年で四十八歳。栃木県の鹿沼市に住み、月に一度、週末を利用して、霞ヶ浦に鯉釣りに行くのが楽しみになっていた。
海無県に住む啓三は、子どもの頃から、広い水辺に行きたいと憧れていた。小学生の頃は夏休みになると、茨城県大洗町にある海の家で開かれる臨海学校に参加した。啓三は、この臨海学校が何より楽しみだった。太平洋の水平線の向こうにアメリカがあると教えられて感動し、丸い地球を実感した。海水浴場の海水はとてつもなく塩辛く、沖合から繰り返し寄せて来る波は驚きだった。寄せてくる波から逃れようと、級友たちとともに砂浜を駆け回った。
背が立つ安全な場所で、先生たちの監視のもとで、級友たちと、水をかけ合い、はしゃぎながら、泳ぎの練習をした。泳ぎ疲れると、熱く焼けた広い砂浜にシートを敷いて寝そべった。濡れた体はすぐ乾いた。砂浜でいろいろな面白いかたちの貝殻を集めた。ヒトデを見つけた時は歓喜した。海の家の食事では、近くの大洗漁港に水揚げされたタイやスズキなどの新鮮な地魚の刺身が特に美味しかった。汐の匂いが濃厚な浅利汁を初めて食べた。
夏が終わり、栃木に戻ると、啓三は来年の臨海学校が待ち遠しくなるのだった。大人になったら、海辺の町に住みたいと思った。
しかし、中学校を経て地元高校の商業科を卒業すると、親から懇願され、隣の宇都宮市が誘致した大手自動車メーカーの下請けの部品製造工場に就職した。高校在学中に簿記検定の一級に合格し、地元新聞で紹介されたことを評価され、総務部経理課に配属された。
おとなしい啓三は地味な仕事が好きだった。様々な伝票の整理、帳簿への記入は苦にならなかった。複式簿記で、月末にぴったり帳尻が合うと快感さえ覚えた。経理課では、社員の給料計算、労務、銀行口座の入出金、社員出張経費の精算、工場の光熱費、原材料の納品や製品の出荷の管理も全て帳簿に記録され、管理されていた。
総務課、人事課、営業課、財務管理課、工務課から照会があれば、即座に数字を示して、経常利益や人件費の状況を正確に報告した。年度末には財務諸表を正確に作成し、部課長会議、取締役会を経て、株主総会で承認された。そうした業務に啓三は欠かせない人材になっていった。
堅実で几帳面な啓三の仕事ぶりが次第に認められ、入社して十年が過ぎた頃に、上司から、系列会社の受付にいた今市由美子を紹介され、数ヶ月のお付き合いの末に結婚した。由美子は啓三より三歳年上の姉様女房になった。啓三と由美子は、鹿沼市内のアパートに住み、共稼ぎで頑張っていたが、由美子は長男の出産を機に退社した。やがて長女も生まれ、思い切ってローンで庭付きの一戸建住宅を購入した。
啓三は係長に昇進し、経理の仕事の全てを任されるようになった。経理課長は三年ほどで交替する管理職なので、会社生え抜きの啓三が実質的な経理の責任者だった。仕事の傍ら、長年の実務経験と独学で公認会計士の資格を取った。次の目標として、社会保険労務士の勉強も少しずつ始めた。
数年前、営業課の社員が巧妙に偽造した伝票で出張経費を水増し請求するという不祥事が発覚した時、それを見抜けなかった経理課の責任が問われたことがあった。不正請求の被害金額は四十万円程度で多額ではなかったが、厳格に経理の仕事に集中してきた啓三にとって、大きなショックだった。このトラブルに対応するうちに、啓三は胃潰瘍を発症し、体調を崩すようになった。
医者の指示で数日間、会社を休むことが重なった。会社側は、それまでの啓三の会社への貢献度を高く評価し、課長補佐に昇進させることで、係長の重責を解いた。年齢的にも四十代後半になって老眼が始まり、帳簿の細かい数字やパソコンのモニター画面を眺めることに、支障が出始めたことを自覚していたので、好都合ではあった。仕事では数字を入力する細かい作業は部下に任せ、時折、入力結果をチェックしたり、部下に経理という仕事の重要さを説いたり、相談に助言したりすることが多くなった。
仕事がやや楽になり、子どもたちも成長して高校生と中学生になり、教育費は相変わらずかかるものの、子育てが一段落していた。妻の由美子は、もともと社交的な性格を生かして、PTAや町内会の役員を務めていたが、今は老人福祉に関わるNPO団体の会員として熱心に活動するようになっていた。
啓三はまだまだ老け込む歳ではなかったが、少しだけ時間に余裕ができたことがありがたかった。定年まで約十年あったが、定年後の第二の人生で何をするか、模索し始めていた。公認会計士事務所を開く夢はあるが、まだ先のことだった。仕事だけでなく、何か趣味を持ちたかった。それを考えるために、会社や家族から開放されて、一人で過ごす時間が欲しかった。
そんな啓三に、子どもの頃、茨城県の海辺で過ごした思い出がなつかしく蘇えってきた。週末だけでも栃木県から離れ、広い水辺をのんびり眺めながら、これからの人生を考えてみたくなった。水辺でのんびりと過ごすには、釣りをするのがよいのではと思った。とはいえ、大洗の磯は荒波が打ち寄せ、岩場では足場が悪く危険だった。大洗港から釣り船に乗って大きなシイラを釣るのもよいが、のんびり釣るというわけにはいかない。船酔いの心配もある。渓流釣りや鮎釣りなら栃木県内でもできるが、のんびりした釣りにはならないし、体力も必要だ。
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啓三は、市内の老舗釣具店の主人に相談した。
「のんびり、釣りを楽しみたいんだけど、どんな釣りがお勧めですかね」
初老の親切そうな店主は眼鏡をかけ、あご鬚を蓄えたインテリ顔の柔和な表情で言った。
「そうだね。ため池や近所の川なら、鮒釣りはどうかね」
「うーん。鮒釣りは子どもの頃、やったなあ。釣りは鮒釣りに始まり、鮒釣りに終わるというよね。鮒釣りはもっと歳を取ってからの楽しみに取っておきたいですね。今は、広い水辺で大きな魚釣りに挑戦したい気分なんです」
「それなら、野鯉釣りがお勧めだね。野鯉釣りは、餌団子をつけた針を遠くに投げて、鯉が食いつくのを辛抱強く待つだけだ。鯉はなかなか釣れないが、釣れた時の引きは凄いんだ。鯉と格闘する感じだね。野鯉なら豪快な釣りを楽しめるよ」
店主はおだやかに言った。啓三はそれだと思った。
「野鯉釣りか。何だかわくわくして来ますね。でも栃木県内でいい釣り場はありますか?」
「無いことはないが、広い水辺で野鯉釣りを楽しむなら、隣の茨城県の霞ヶ浦周辺だろうな。釣り雑誌でいい釣り場が紹介されてるね」
「そうですか。霞ヶ浦はちょっと遠いけど、遠征気分でチャレンジしてみようかな」
「それなら、うちで講読している釣り雑誌のバックナンバーで調べておくよ。霞ヶ浦のどこのポイントがいいか。インターネットでも調べられるけどね」
「よろしくお願いします」
啓三は釣具店の店主とそんなやり取りをして、店内の鯉釣り用の釣竿を物色した。カーボンロッドの軽くて丈夫な竿はかなり高価だったが、次のボーナスで買えない額ではないことを確認して安心した。
*
帰宅した啓三は、家族に、今年の夏頃から霞ヶ浦に通って、鯉釣りをしたいと相談した。
「お父さんは、これまで仕事と家庭の両立を大事にして頑張ってきたんだ。母さんも子どもたちもそれぞれ頑張ってくれて、世間並みのいい家族だと思う。ただ、ここへ来て少しだけだが疲れてきたよ。定年まであと十年あまり頑張るには、少しのんびりしてみたくなった。のんびりして、定年後の生き方を考えてみたくなったんだ。それにはみんなに迷惑をかけない範囲で趣味を楽しむ生活を始めてみたいんだ」
「お父さんの趣味って何?」
高校二年になる長男の康太が言った。康太が生まれた時、啓三は、子どもの頃に見た太平洋の広さに感動したことを思い出し、海のように広いおおらかな心を持った男の子に育つように太の字に健康の康を合わせて、康太と名付けたのだった。
「うん。お父さんは仕事が趣味みたいなものだったが、いろいろ考えて、茨城県の霞ヶ浦で鯉釣りに挑戦してみたいんだ。釣りは小学生の時以来なんだけど、お父さんは広い水辺の風景の中で過ごしたいとずっと思っていたんだ。これまでは仕事が忙しかったり、おまえたちが小さかったりで、家族を大事にしてきたんだけど、ようやく気持ちに余裕が出来た。霞ヶ浦で鯉釣りと言っても、毎週というわけではないぞ。先ずは月に一回くらいのペースになると思う。お前たちには迷惑をかけないよ」
「いいんじゃない。お父さんも好きなことをやる権利があるよ。今まで頑張ってきたんだから」
中学三年の夏海が、学校で習ったばかりの権利という言葉を使って賛成した。夏海の名前は、大洗の夏、海がキラキラ輝いていたことをイメージして命名したのだった。妻の由美子も同意した。
「お父さんは生真面目だから、時々は息抜きも必要なのね。お父さん、家庭を大事にすることはこれまで通り、優先してね」
「ありがとう、みんな」
啓三は笑顔で家族に感謝した。
*
その年の八月、霞ヶ浦に面した稲敷市浮島の堤防上に啓三の姿があった。朝早く鹿沼を出発し、東北自動車道と圏央道を利用して午前十時頃には浮島に着いた。釣具店の主人が釣り雑誌やインターネットで調べてくれ、浮島の和田岬周辺が鯉釣りのポイントであることが分ったのだった。啓三は、鯉釣り用の釣竿をはじめ、大型魚用のタモ網、クーラーボックス、折りたたみ椅子、パラソル、釣り用ベストと帽子、サングラスなどを買い込んだ。
ワンボックスカーは、以前に家族で遠出する時のために購入し、子どもたちが成長してからは通勤用になっていた。その車に泊り込んで、一夜を過ごせるように、キャンプ用の調理器具、シュラフ、毛布、クッション、懐中電灯も買い揃えたのだった。そのために、八月に支給された夏のボーナスの一部を、由美子にOKをもらって使ったのだった。
啓三は浮島の和田岬の堤防上に車を停め、車外へ出ると両手を上に挙げ、深呼吸した。栃木県とは違った、湿った香りがした。
「うーん。この広い湖は栃木にはないんだよなあ。空がドームのようだし、水面は鏡のようだなあ。汐の香りはしないけど、少し泥っぽい匂いも悪くない」
啓三は独り言のようにつぶやいていた。堤防上には先客がいた。白いワゴン車が停まり、その近くに三本の釣竿が竿立てに立てられていた。竿の先からは、ラインが長く湖面の方向に真っ直ぐ伸びていた。釣り人の姿が見えなかったので車に近づき、中を覗き込んでみると、一人の男性が車内で寝ているようだった。啓三は挨拶したかったが、男が熟睡しているかもしれないと思い、自分の車に戻った。
啓三は、車からおもむろに釣竿、折りたたみ椅子、パラソルなどを取り出し、釣りの準備を始めた。竿を竿立てに立てると、ロープが付いたバケツでコンクリート護岸から湖水を汲んだ、その水で練り餌を捏ねた。耳朶ほどの丁度良い硬さに捏ね上げると、ピンポンボール大の団子を作り、その中に、鯉釣り仕掛けの四本の釣り針を埋めこんだ。針の先は団子の表面の方を向くように仕込み、鯉が餌を吸い込んだ時に、外向きの針が鯉の口に突き刺さる仕組みだった。
鯉釣りの仕掛けが出来上がると啓三は、太い釣竿を肩口から振りかぶり、できるだけ遠くへ針付き餌団子が到達するように、キャスティングした。団子はコンクリート護岸から三十メートルほど離れた沖の水面にドボンと着水し、沈んだ。ラインが釣竿の先からシュルシュルと伸び、やがて撓んだ。啓三はすかさず釣竿を抱え、リールでラインを巻き取り、ピンと張った。
ここまでの動作は、休日に暇を見つけては自宅近くの空き地で何度も繰り返し練習したのだった。何日もかけて練習すると、ようやく安定して遠くの狙った目標までキャスティングできるようになった。練習の甲斐あって、思ったとおりに餌団子を投げ入れたことに少しほっとして、啓三はパラソルを立て、椅子に腰を下ろした。竿の先から気持ちよく真っ直ぐラインが伸びていることを再度確認し、視線を湖面や上空に移した。自分もこの広い霞ヶ浦で釣りをする一人になれたことを次第に実感した。
気持ちよい南東風が湖面を吹き渡り、小さな波が立っていた。日差しは強かったが、パラソルの陰りの下では、風を心地よく感じた。啓三は竿の先につけた小さな鈴に注目していた。もし、鯉が餌団子を吸い込み、針が口元に刺されば、鯉は針から逃れようと暴れ、泳ぎまわる。鯉は強い力でラインを引くので、竿がたわみ、小鈴がチリン、チリンと鳴って、釣り人に知らせる仕掛けだった。
小一時間が経過した。鈴が鳴る気配はなく、対岸の台地の上にモクモクと入道雲が成長していた。ふと啓三が隣の釣り人の竿を見ると、一本の竿の先が曲がり、ラインがピンと張っているのに気付いた。竿先には鈴が無く、車内の釣り人は気付いていないと思った。啓三は釣り人にアタリを教えてやろうと車の方に歩みよろうとした瞬間、ドアが開いて、初老の男がダッシュしてきた。
男は先がしなった竿を鷲掴みにすると、リールをものすごい勢いで巻き始めた。ラインはさらに張りつめ、ラインの先が左右に移動していた。男はそれに合わせて、リールの巻き方に強弱をつけながら、慎重にラインを巻き取っていった。ラインをかなり巻き取ると、かかった魚が弱ってきたらしく、水面近くに黒い魚体が見えてきた。男はいつの間にか、釣り竿の近くに用意してあった大型魚用のタモ網を手に取った。三十センチメートルほどの大きさの、ひげが特徴的な黒い魚は、ぐったりとして、丸い網の中に収まった。男は釣れた喜びを顔に表すことなく、冷静に魚の口から針を外すと、コンクリート護岸の下の犬走りと呼ばれる狭い足場に無造作に転がした。
「また、アメナマか。食えば美味いんだけど、釣るたびに食うのは飽きたなあ。今回も放してやるか」
男は呟くように言って、その魚を霞ヶ浦に放流した。
「アメナマって、アメリカナマズですよね。初めて見ます」
啓三は、ネットで、霞ヶ浦ではアメリカナマズが増えて、鯉釣りの外道として、よく釣れるという情報を得ていた。
「アメナマが初めてか。じゃあ、霞ヶ浦の釣りはビギナーってわけだな」
「はい、そうです」
「ふーん。どこから来たんだい」
「栃木県の鹿沼です」
「なるほど。栃木県の人はよく霞ヶ浦に釣りにくるんだよなあ。霞ヶ浦は広いから、釣れても釣れなくても、いい気分転換になるんだろう?」
「そうなんです。先輩はどちらですか」
「俺は近くだ。千葉県の佐原。今は合併して香取市だ。ここから三十分も車を走らせれば家に着くよ」
「そうですか。ここからはもう千葉県が近いんですね」
「ああ、俺は佐原で家業の米屋をやってるんだ。伊能米店といえば、佐原では誰でも知ってる。だが、今はスーパーでもコンビニでも米を売ってる。米が値上がりして、高止まりだから競争が大変だ。うちは、お年寄りの家庭とか、老人ホーム、給食センター、地元資本のファミリーレストランなどにできるだけ安くした米を車で配達して、ようやく商売してるんだ。もうけは薄いけど、普段は結構忙しいなあ。今日は久しぶりの休みだから、こうして鯉釣りに来られるよ」
伊能と名乗った男は、商売人らしく気さくな人柄とみえた。
「佐原の伊能さんですか。有名な伊能忠敬と関係があるんですか」
「その伊能忠敬はうちの先祖らしいんだ。もっともうちは直系じゃなく、傍系になってると聞いてるんだ」
「へえー。すごいですね。江戸時代に正確な日本地図を作ったあの有名な伊能忠敬の親戚なんですね」
「まあな。俺は只の米屋だけどな。たまの休みに霞ヶ浦で鯉釣りをするしか、能が無いんだ。伊能は伊能でも、能無しの伊能だ。あははは」
「そんなこと、ありませんよ。伊能忠敬は五十歳を過ぎてから、家督を息子に譲って、第二の人生で測量術を学んで日本全国を旅して正確な地図を作った有名な人ですよね。我々中高年のお手本になる人ですよ。米屋の伊能さんだって、きっと只者ではありませんよ」
「あはは、じゃ、そういうことにしておくか。ところでお宅さんの名前は?」
「私は那須と言います。那須高原の那須です」
「なるほど、栃木県の鹿沼市の那須さんね。憶え易い名前だね」
「これからよろしくお願いします。鯉釣りの秘訣を教えてください」
「あはは。いいとも。しかし、もう昼近いなあ。昼飯を食べてからにしないか」
「そうですね。じゃあ私はレトルトのパック御飯とカレーをキャンプ用のコンロで温めて食べます。途中のコンビニで買ってきたんです」
「ほらほら、それだから、米屋は上がったりなんだよなあ」
「すみません」
「那須さんが謝ることじゃないけどな。俺は嫁が作ってくれた握り飯だ。商売物に手をつけたわけじゃない。自家用の米は別に買っているんだ。特級米を特別価格でな」
「なるほど美味しそうですね。では私はレトルトを温める準備をします」
啓三はキャンプ用品のセットを車から取り出した。アルミ鍋にペットボトルの水を移し、レトルトの御飯と、やはりレトルトのカレールーを入れ、コンロで温めた。ほどなくお湯が沸騰し始め、五分ほど温めてから、プラスチック樹脂のカレー皿に盛り付け、スプーンで食べ始めた。啓三はカレーライスを食べながら、気になっていたことを伊能に尋ねた。伊能はとうに食べ終わり、持参のテルモスのお茶をカップに注いで飲んでいた。
「伊能さん。さっきアメリカナマズがかかった時、なんで分ったんですか。竿の先に鈴がついていないのに、伊能さんは気付いて車から出てきましたよね」
「ああ、それはセンサーで分るんだよ」
「センサーですか」
「うむ。俺の竿のリールをよく見ろよ。小さなセンサーがついていて、アタリがあるとラインの張りを感知して、無線で車内のFMバンドのモニターにピーピーという音で知らせてくれるんだ。だから寝ていても、アタリが分る。そういう仕組みだな」
「ほお、進んでますね」
「何言ってんだ。竿の先に鈴をつけるなんて一昔前のやり方だぞ。俺も鯉釣りを始めた時は鈴を使ったもんだが」
「そうなんですか。いやあ、行きつけの釣具屋の親父がこれを奨めてくれたんです」
「まあ、ビギナーにはいいかもしれないなあ」
そう言って、伊能は啓三の竿に眼を遣った。竿は微動だにしないで立ったままだった。
「那須さんよ。昼飯食べたら、竿を上げてリールを巻いてみな。きっと餌団子がバラけているぞ」
「分りました。急いで食べます」
「早飯は体に悪いぞ。ゆっくり食べてからでいい」
それでも啓三は、カレーライスをあわただしくかきこむように食べた。食べ終わって、コーヒーを淹れるつもりだったが、まず竿を取って、リールを巻き始めた。リールはまるで手ごたえなく、するすると巻き取られた。最後にラインの先についた四本の針が水面上に現れた。啓三はようやく針を手に取って、伊能と目を合わせた。
「やっぱり、言ったとおりだろう。餌団子は投げ入れて三十分もすれば、水でふやけてばらばらになり、水に溶けてしまうんだ。だから、三十分に一回はリールを巻いて餌団子を付け替えるしかない。だが、ばらけた団子は無駄にはならない。撒き餌になって鯉を寄せてくれる。だから、釣れなくとも何度も餌団子を同じ場所に投げ込むんだ。根気がいるぞ」
「分りました。勉強になります。餌団子を作り直して、またキャスティングします。その前にコーヒーを淹れましょう。」
そう言って啓三は、キャンプ用コンロに点火し、ヤカンをかけた。ほどなく湧いたお湯でドリップコーヒーを淹れた。香ばしい香りが風にのって漂った。啓三はカップのコーヒーを伊能に勧めた。
「どうぞ、伊能さん」
「いい香りだな。鯉釣りで淹れたてのコーヒーが飲めるとは思っていなかった。いただくよ」
伊能は、小さな折りたたみ椅子に座ったまま、カップに口をつけた。
「おお、美味い。広い霞ヶ浦を見ながら飲むコーヒーは、格別に美味いなあ。あははは」
「私は釣りしながら、コーヒーを飲むのが夢だったんです。夢が叶いました」
啓三と伊能は、霞ヶ浦の湖面とその上の雲を見ながらコーヒーを飲んだ。午前中の雲は対岸の台地上に出た入道雲だったが、昼過ぎには入道雲の上部が水平に広がり始めていた。
「あの雲の下が灰色になって、さらに暗くなれば夕立になることもあるんだが、今日はどうかな」
伊能は、つぶやくように言った。
「ところで、那須さんよ。餌団子の練り餌はどんなものを使っているんだい?」
「釣具屋で買った普通の練り餌です。それを霞ヶ浦の水で捏ねただけです」
「それでも釣れるだろうが、俺はさらに自分で工夫しているんだ。例えば、摺り下ろしたにんにく、サナギ粉、蒸かした薩摩芋を入れたりしている。サナギ粉は、蚕のサナギを粉にしたもんだ」
「ほうー。そうなんですか」
啓三は感心した。
「よかったら、俺の練り餌を使ってみるかい」
「はい、ぜひ」
伊能は自分の小さなバケツに入った練り餌を差し出した。啓三はそれを手に取り、団子状に丸めると自分の四本の針を丁寧に針先を外側に向けて埋め込み、さらに表面を撫でて滑らかにした。
「じゃ、これでキャスティングしてみます」
啓三は伊能から離れ、伊能の釣り場所とは別の方向にキャスティングした。
「キャスティングは様になってるなあ」
「はい、何度も練習してきました」
伊能も三本の竿のラインを交互に巻き戻ししては餌団子を付け直し、キャスティングした。
啓三と伊能は、また釣竿の先から伸びるラインの方向をじっと眺めた。
十分、二十分、三十分と経ったが何の当たりも無かった。
「じゃ俺は車の中でまた昼寝しているから」と言い残して伊能は自分の車の中に入っていった。
さらに十分ほど経った時、啓三の竿先がしなり、鈴が鳴り出した。啓三は、はやる心を抑えながら竿を取り、リールを巻き始めた。かなり強い抵抗があり、ラインがピンと張った。水中に入っているラインの先はゆっくりと動いていたが、やがて近づき、コンクリート護岸から五メートルほど先のところで、黒い魚体が見えてきた。
いつの間にか伊能が後ろから声をかけた。
「アメナマだな。ゆっくりリールを巻いて確実に取り込むんだぞ。そうだ。その調子」
伊能は、傍に用意してあったタモ網を啓三に手渡した。啓三は、ぐったりしたアメリカナマズの下にタモ網を入れ、魚体を網に取り込み、護岸の足場上に上げた。
三十センチほどのアメリカナマズが口を開けながら、コンクリート上で跳ねた。
「気を付けろ。アメナマは背鰭と胸鰭に棘があるぞ。手に刺さったら厄介だ。注意して針を外すんだ。針外しは持ってるか?」
「はい、今持ってきます」
啓三は道具箱から針外しを取り出し、慎重にアメリカナマズの口に入れて針を外した。
「よし、上出来だ。アメナマはどうする? 持ち帰って調理して食べるか。霞ヶ浦に戻すか。あるいは、そのまま、コンクリートの上で日干しにして捨ててしまうか、野良猫の餌になるかだな。アメナマは特定外来種だから別の川や沼に放流できないんだ。法律でそう決まっているんだ」
「そうなんですか。鹿沼に持ち帰るのも大変だし、第一家族が食べてくれるかどうか。迷いますけど、死なせるのも可哀想ですから、霞ヶ浦に戻します」
「まあ、任せるよ。アメナマには何の罪もないんだ。アメナマは、霞ヶ浦で養殖されていたものが逃げて、繁殖しているんだ」
伊能は苦笑いしながら言った。啓三は慎重にアメリカナマズを霞ヶ浦に戻した。アメリカナマズは弱っていたが、次第に泳ぎだし、水に潜って見えなくなった。
「釣りで外道がかかるのはつきものだ。しかし、霞ヶ浦の鯉釣りでは、外道はもっぱらアメリカナマズだから困りものだな」
霞ヶ浦周囲の台地上の雲が厚くなって、陽射しが翳ってきた。やや風が吹き始め、湖面の漣が沖まで続いた。伊能が言った。
「夏の霞ヶ浦では、午後は夕立が来ることがあるんだが、今日も来るかな。明日は仕事だし、そろそろ引き上げるか」
そう言って伊能は慣れた動作で三本の竿を次々に片付けた。竿を車の後部に積み込むと啓三に声をかけた。
「那須さんはこれからどうするんだい?」
「はあ、もう少し様子を見ます。今晩は車の中で寝て、明日またトライしてみます」
「そうか。夜の堤防上は物騒だから、夕方になったら車を和田岬公園の駐車場に移動させるといいよ。もともとキャンプ場だから、トイレや水場も近いんだ。幹線道路沿いにはコンビニもある」
そう言って伊能は車の方へ行きかけて振り返った。
「俺は月に二回くらい、ここで釣りしてる。縁があったらまたご一緒しましょう」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
伊能米店とボディに印字がある白い車は、「ブロロロー」と軽快なエンジン音を残し、堤防上を走り去った。
あとには、やや強まった風が湖上から堤防方向へ吹き、黒松林の枝が揺れ出していた。
腕時計は午後三時過ぎを示していた。啓三は初日に幸先良くアメリカナマズが釣れたことに満足し、無理せず上がることにした。堤防の上に展げていた釣り道具一式、キャンプ道具一式をゆっくり車に収納した。今夜は車中泊を覚悟しているので、寝床にあたる空間を確保して、道具類を片側へ寄せた。寝床にはキャンプ用の銀色の保温クッションシートを敷く予定だった。
啓三は運転席に座り、エンジンキーを廻した。エンジンは簡単に始動し、サイドブレーキを外し、アクセルペダルに足先を移すと車は静かに動き出した。伊能の車が走り去った後を追うように、堤防上を走ると、ほどなく和田岬公園の駐車場に着いた。二十台ほどの駐車スペースがあり、数台の車が停まっていた。
啓三はエンジンを切り、カーラジオをオンにした。ラジオは土曜日の夕方のトークと音楽の番組をやっていた。芸能人らしい早口のトークが煩わしく、啓三はラジオもオフにした。持参の音楽CDを聴く気にもならず、しばらく運転席で眼を閉じていた。
朝早く栃木を発ってきたためか、眼を閉じると間も無く睡魔に襲われた、睡魔と闘いながら座席をリクライニングの位置にし、万一に備えてドアをロックした。
*
啓三が目覚めた時には、長い夏の陽がとっぷりと暮れていた。駐車場の薄暗い照明が灯っていた。駐車場に停めている車は啓三の車だけになっていた。ドアを開け、外気にあたると湿った空気に包まれた。物音は何も聞こえなかった。啓三は背伸びをし、車の周りを廻った。特に異常は無かった。安心すると空腹を感じた。キャンプ用具で自分で夕食を作ることは面倒だった。伊能が幹線道路に出ればコンビニがあると言っていたことを思い出した。
啓三は車に戻るとエンジンをかけて、幹線道路方向へ走った。コンビニは幹線道路に出る交差点にあった。明るい照明にホッとしながら店内に入り、雑誌を立ち読みした後、弁当やおにぎりを物色した。迷った末、焼肉弁当と缶コーヒー、そして翌日の朝食用にカップヌードルを買った。焼肉弁当は電子レンジで温めてもらった。
和田公園の駐車場に車を戻した啓三は、後部に敷いてある保温シートに胡坐をかき、ゆっくりとコンビニ弁当を食べた。夕食はいつも自宅で家族と一緒に食べる習慣だったから、車中で一人で食べている自分が不思議な気がした。気楽だが、何やら淋しさも感じた。家族から離れ、一人で夜を過ごすのは、いつ以来だったか想い出せなかった。これから子どもたちが成長し、進学や就職で親元を離れる日が遠からず来ることを考えた。
そうなったら、妻と二人で残りの人生を過ごすことになる。いずれはどちらかが先に旅立つのだろうが、今は現実感がなかった。夫婦二人で余生を過ごせることは、ありがたかった。一人で老後を過ごすなんて、考えたくもなかった。結局、今のところ、そしてこれまでも自分は幸せなんだと思えた。
夕食を食べ終わると、缶コーヒーを飲みながら、カーラジオを聞いた。夜のラジオを聞くのは何年ぶりだろうか。高校生の頃は受験勉強の合間によく聞いた。就職して実家に暮らしていた時には、家族と居間でテレビを見て過ごした。
結婚してアパート暮らしを始めた時には、ボーナスでテレビを買った。子育て中は、子ども番組や芸能番組を中心に楽しんでいた。通勤途中の車内では、通勤時間が片道三十分程度なので、カーラジオで天気予報やニュースを聞くだけだった。
啓三は、ラジオ放送を楽しむ生活からは遠ざかっていたことに気が付いた。あらためてラジオを聞くと、しっかりとしたNHKラジオの構成や民放の娯楽番組の面白さに感心した。これなら夜も退屈せずに過ごせそうだった。
和田公園の駐車場は夜でも暑かった。霞ヶ浦の湖面はやや風が吹いているようだったが、高い堤防に遮られて駐車場までは届かなかった。クーラーを作動させたかったが、ガソリン代がかかるので、少し窓を開けて持参の団扇でささやかな風を作り出した。
公園の周りは湿地があり、蚊が多かった。車内にも蚊が入っているらしく、車内灯を消し、ラジオも消すと、プーンという蚊の羽音が気になってきた。こんなこともあろうかと用意してきた香取線香に点火した。その煙が車内に充満すると流石に蚊の羽音はしなくなったが、臭いが籠り、さらに肺や喉にもよくないのではと気になった。寝る前に車内の空気を入れ替えた。入れ替えるとすぐドアの窓を閉めた。完全に閉めると風が全く入らないので、少し隙間を開けた。
ドアをロックし、後部に敷いたマットの上に着の身着のまま横になり、毛布を体にかけた。枕は用意してきた座布団を折って、頭に当てた。シュラフは夏用だったが、暑そうなので諦めた。夕方、短時間睡眠を取ったせいか、今度はなかなか寝つけなかった。薮蚊が侵入してこないか、夜間、暴漢に襲われるのではないかとか心配し始めると頭が冴えてしまった。公園の街灯とトイレの灯りは近くに点っていたので、完全な暗闇ではなかったが、音は全くなかったので、かえって不安になった。
それでも、夜半過ぎに、啓三は眠りに就いた。浅い眠りの中で啓三は夢を見た。霞ヶ浦の大きな鯉が啓三の餌団子の近くまで泳いできて、餌団子に気付いたが、なかなか呑み込もうとせず、それを啓三がヤキモキしながら眺めている夢だった。鯉は餌団子の臭いを嗅いだり、ひげで触れたり、口に入れてみるのだが、すぐ吐き出した。
「お前はどうして喰いつかないんだ。せっかく作った美味しい団子だぞ。腹が減ってないのか?」
啓三は夢の中で思わず、鯉に話しかけていた。
「どんな餌団子なら食べてくれるんだ。教えてくれ」
鯉は両の眼で啓三をジロリと眺めると、プイと視線を外し、悠々と泳いで遠ざかっていった。
「ああー。いかないでくれ。餌団子を食べてくれー」
啓三は寝言で眼を醒ましたようだった。起き上がって車の外を見ると、短い夏の夜がやや明るくなりかけていた。車内は蒸し暑かった。窓ガラスを思い切って開け、次いでに運転席と助手席のドアも開け放すと涼しい空気が車内に入ってきた。
啓三は車外に出て、すぐ傍の公衆トイレで小用を済ませた。手洗いで顔を洗った。完全に眼が覚めてしまったが、その日の活動を始めるには、早すぎた。まだ四時を少し廻った時刻だった。啓三は車に戻って二度寝することにした。ドアをロックし、マットに横になり、眼を閉じると今度は気持ちよい軽い睡魔が襲った。
*
次に眼が覚めた時には、時計は六時過ぎを示していた。この時刻ならいつもの起床時間だった。啓三は、これ以上は眠れないと思い、朝食の準備をゆっくり始めることにした。キャンプ用のコンロでお湯をたっぷり沸かした。そのお湯でカップヌードルを作り、ドリップコーヒーを淹れた。これ以上ないくらいの簡単な朝食だった。その朝食をカーラジオを聞きながら、車外で折りたたみ式の椅子に座って食べた。味気なかったが、よく眠れなかったせいか、体を動かしていないせいか、あまり食欲がなかった。
二日目は、朝の涼しいうちに釣り始めて、水温が上がる真昼になるまでに釣れなければ、今回は諦めて早めに栃木に戻る予定にしていた。釣具屋の主人の話では、夏の鯉は水温が高くなる日中は喰いが鈍くなるので、水温が低い朝か夕方がいいということだった。夜釣りもいいが、夜間は危険で、トラブルが発生しやすいので、避けたほうがよいだろうと言われた。それもそうだと、啓三は、二日目は午前中だけの釣りにしようと考えた。
朝食を済ませると啓三は、車を発進させ、昨日の釣り場に戻った。朝の八時を過ぎていた。そこにはすでに先客がいた。地元の土浦ナンバーの車だった。その先客は竿を三本立て、その先からラインが湖水へ真っ直ぐに伸びていた。その傍に派手な色のパラソルが立ち、その下で中年の男がじっとラインの先を見ていた。
その男は、啓三が車を近くに停め、車外へ出ると、啓三を見た。啓三が先に「お早うございます」と挨拶すると、その男も軽く会釈して「あ、お早うございます」と返した。啓三がその男に近づき、話かけた。
「今朝は何時ごろから釣っているんですか」
「六時頃からかな。夜が明けるとすぐ、土浦から車を飛ばしてきたんだ。鯉釣りの日は、早く目が覚めちまうんだ。あっはっは」
男は機嫌よく笑った。
「前の晩から、竿やら練り餌やら、釣りの仕掛けを準備していると、遠足の前日の小学生みたいにワクワクしてくるんだな。これがいいんだっぺ。んだから、一日ねばって釣れなくても、まあいがっぺ。一日楽しませてもらったんだから・・・となっちまう訳だ。しかし、今日は何とか大物を釣り上げてえとこだなあ。ところで、俺は沼尻というんだが、お宅さんはどこから?」
「僕は栃木の鹿沼です。那須といいます」
啓三が応えると男は、大きく頷いた。
「ああ、鹿沼土の鹿沼か。盆栽や家庭菜園の土に鹿沼土を混ぜるといいんだっぺ。土が適度に軟らかくなって、水持ちと空気持ちが良ぐなっから、根が良ぐ張っぺ。俺は園芸も好ぎなんだ。鹿沼土つうのは火山灰と軽石から出来ているんだっぺ?」
「はあ、そうです。私の知り合いに鹿沼土を出荷している業者がいます」
人懐こそうな男は、啓三を話し相手に、もっと喋りたそうにしていた。啓三は自分もその日の釣りの準備を手早く始めながら、相槌を打った。
男がまた口を開いた。
「栃木や群馬の人はよく霞ヶ浦に釣りに来るんだよな。俺は、何人も知ってっど。海無し県の人は、広い水辺に憧れてんだっぺ」
「実はそうなんです。僕も子どもの頃から大洗の臨海学校に行くのが本当に楽しみでした」
「気持ちは分るなあ。ところで、おめえ、あんまり訛ってねえなあ。U字工事の栃木弁はおもしろいけどなあ」
「すみません」
「別に、あやまることはなかっぺよ。茨城弁もけっこう難しいど。今では年寄りしか本物の茨城弁はしゃべれねえからなあ」
「はあ、そういうものですか」
啓三は、土浦から来た沼尻という男と話しながらも、鯉釣りの仕掛けを手早く準備し、湖水で練り餌を作り、四本の針を丁寧に埋め込んで団子を丸めた。掌で団子の表面を撫でながら、表面の凸凹を滑らかにした。そのやり方は鹿沼の釣具店の店主から教わったものだった。きれいに丸く団子を仕上げることで、水中の団子がふやけるのを遅くし、長持ちするのだという。
啓三が餌団子を作る様子を見ていた男が手を出して言った。
「その餌団子をちょっと見せてみろ。うーむ。ちょっと硬すぎないけ。あまり硬いと餌がバラけないから、撒き餌効果が弱いど。釣り始めの時間帯では適度にバラけたほうが、鯉を寄せるんだっぺ」
「はあー。そうですか。なるほど」
啓三は目からウロコが落ちた気がした。
「次から少し柔らかめにしてみます」
そう言って、啓三はその日の第一投目を、三十メートルほど先にキャスティングした。
啓三が折りたたみ椅子に腰かけ、じっと竿先から伸びるラインを見つめていると、沼尻は三本の竿を十五分くらいの間隔を空けて、次々にリールを巻いた。ラインの先の餌団子は溶けてしまっていた。沼尻は餌団子を付け替えて再度キャスティングした。
そのうち、沼尻の竿の一本に当たりがあった。
「おー、来たか」
沼尻は緩急をつけながら、リールを巻いた。啓三は自分の竿をそっちのけにして、見守った。
「うん。大丈夫だ。針がしっかり食い込んでいるべ」
沼尻は一気にリールを巻くと、黒い魚体が水面近くに現れた。丸い口が見えた。
「やった。鯉だ。那須さん、タモを取ってくれや」
那須が、傍に用意してあったタモを沼尻に渡した。沼尻はリールをさらに巻き、竿を立てた。リールが逆回転しないように固定すると、水面に顔を出した鯉の下からタモをあて、掬い取った。
「やれやれだ。けっこういいファイトだった。夏の鯉は生きがいいんだ。でもちょっと小ぶりだっぺ」
沼尻は、やや不満そうだった。
「けっこういい型ですよね」
「なあーに。俺は大物狙いなんだ。これは一尺くらいだっぺな。それに体高が高くてずんぐりしてる。これは網生簀から逃げた養殖鯉だろうな。養殖鯉は警戒心が薄くて、すぐ餌に食いつくから釣りやすいんだ。
俺が釣りたいのは三尺の野鯉だ。霞ヶ浦の主だ。三尺超えの鯉はここ何年も誰も釣ってねえべ。誰かが釣れば、すぐ自慢気にネットに写真を載せたりすっからよ。鯉釣り仲間にはすぐ噂が広がるから、分るんだっぺ」
そう言うと、沼尻は鯉の口から針を外すと、コンクリート護岸の岸辺から湖水に魚体を静かに戻した。鯉は何事もなかったかのように泳ぎ、深みの方向へ消えていった。
沼尻が那須の方を見て言った。
「鯉釣りは一日一寸と言うんだ。知ってっか」
「いえ。それは、どういう意味ですか」
「一尺の野鯉を釣るには、一日一寸、十日で一尺。つまりよ、一尺、三十センチの鯉を釣るには、十日かかるということだ。釣り場に十日間、通うことが必要なんだそうだ。俺に鯉釣りを教えてくれた師匠の言葉だ。それだけ、野鯉はなかなか釣れねえんだ。大きな鯉を釣るのは難しいということだっぺ」
「なるほど。気を長くして鯉を釣ることなんですね。勉強になりました」
「それとよ、夢だっぺ」
「夢ですか」
「うん。じっと待っていればいつか大鯉が釣れる。男はその夢で、頭がいっぱいになんだよ。鯉釣りの時間だけは、日頃の忙しさや心配ごとを忘れられるんだっぺ。男のロマンだっぺな」
「それ、いいなあ。憧れるなあ。なんか、人生に通じますね。いつか僕も大鯉、釣りたいですね」
「それには、釣れなくとも何日も通う、忍耐つうか、じっと我慢が必要だっぺ」
「はい、沼尻さん。ありがとうございます」
那須は感激していた。
「ははは。それより、那須さん。そろそろリールを巻いて、餌が残っているかどうか確認してみたらいがっぺ」
そう言われて啓三は竿を取り、おもむろにリールを巻き始めた。ラインは何の抵抗もなく巻き取られ、餌がとろけて針だけになった仕掛けが水面上に現れた。
「餌がとろけて丁度いいんじゃないのけ。俺なんか、釣りに出かけない日は、自宅で練り餌を作り、餌団子を丸めて、水を張ったガラスの水槽に入れて、何分で餌がとろけるか時間を計って研究したこともあっど。そうして三十分くらいで餌がとろけるような餌を作るコツがつかめたんだなあ。
鯉釣りには忍耐力はもちろんだが、そういう研究心も大事だっぺ。研究して分かったことを、時々釣り雑誌に載せてんだ」
啓三は感心した。どこにでもいそうな中年男にしか見えない沼尻が只者ではないかもしれないと思った。
「はあー、そうなんですか。尊敬しちゃうなあ。沼尻さん、僕の鯉釣りの師匠になってください」
「師匠なんて柄じゃねえけど、知ってることは何でも教えてやるよ。近頃は鯉釣り仲間が減ってるしなあ」
「ありがとうございます」
二人でそんな話をしているところへ、堤防上をオレンジ色のジープのような車が走ってきた。二人は慌てて、堤防上に置いていた釣り道具を傍に寄せた。オレンジ色の車は徐行しながら通り過ぎ、遠ざかった。沼尻が言った。
「国交省のパトロールカーだ。一日一回、ああしてパトロールしてんだ」
「何をパトロールしてるんですか」
「多分、堤防が破損していないか。いろんな施設が壊されていないか。粗大ゴミの不法投棄がないか。釣り人やレジャーボートが危険なことをしていないかなどだっぺな。普通、日曜日は来ねえんだが、今日は珍しいな」
「霞ヶ浦は国の管理なんですね」
「んだ。けんど、俺らから見ると、国のお役人は釣り人のことなんか、あまり考えてねえんだよな」
啓三はびっくりした。
「どういうことですか」
「うん。例えば近年あちこちに粗朶とか石を積んだ波消しの施設を国交省が作ったんだ。沿岸の葦原を守るためだというんだ。でもよ、波消し施設を作った場所は鯉釣りのポイントだったところが多いんだっぺ。あちこちの鯉釣りの良いポイントがダメになった。だから、鯉釣りを諦めてしまった仲間を何人も知ってっど。
もともと、葦原が減ったのはコンクリ堤防を浅瀬に作ってしまったからでしょうよ。だけんど、水害防止のためにはコンクリ堤防はやむをえねえべ。それはしかたなかっぺ。問題はよ、それに輪をかけるように消波施設が要るのかどうかだ。あれは霞ヶ浦の広々とした景色をダメにしちまった。
葦原を増やすには砂地の洲を作ればいいんだっぺ。簡単なことでしょうよ。霞ヶ浦本来の沿岸の姿に戻すだけでいい。そこに植物は自然に生えんだ。それが本当の自然再生だっぺよ。もっと、地元の人間の意見を聞けばいいんだっぺ。ところが、国交省は、霞ヶ浦をよく知らない学者の意見しか聞かないんだ」
「なるほど。行政は、学者を権威付けに使いますからね。人間は霞ヶ浦をいじり過ぎているんですね。同感だな」
沼尻は大きく頷いた。
「そうでしょうよ。那須さんとは、なんか気が合いそうだな。もっとも俺も地方公務員だから、行政側の人間だから、国には何も言えないんだけどよ。心の中は不満でいっぱいなんだ」
「わかります。僕も会社員ですから。つらいところですね。じゃあ、もう一回、キャスティングしてみます」
啓三は、乾かないようにビニール袋に入れていた練り餌でまた餌団子を作り、針を埋め込んで仕掛けを作った。仕掛けが出来上がると、竿を持ち、思い切り振ると、シュルシュルとラインが気持ちよく伸びて、餌団子はやはり三十メートルほど先にズボッと落ちて沈んだ。
「餌団子が水面に着水する時の音を聞き分けんのも大事だっぺな」
沼尻が師匠顔で言った。
「バシャとかズボッという大きな音の場合は衝撃が大きくて、餌がすぐバラけてしまう可能性があるべ。音で鯉がびっくりして逃げてしまうかもしれねえべ。軽くポシャンという音がいいんだな。それには餌団子が着水する直前に、リールに指をかけてラインを押さえるんだ。つまりよ、ブレーキをかけるんだっぺよ。最初は難しいから練習するしかねえんだ」
「なるほど、師匠、勉強になります。練習します」
そんな会話の後、啓三と沼尻は、しばらくじっと湖面を眺めた。夏の太陽がジリジリと照りつけた。啓三はパラソルを車から出して、立てた。沼尻は車に入ってエアコンを効かせて、センサーがアタリを知らせてくれるのを待った。
二人の竿にアタリがないまま、また三十分が過ぎた。
*
沼尻が車から出てきて、独りごとのように言った。
「アタリが無えなあ。真夏の霞ヶ浦は水温が高すぎんだ。表層では三十度を超えるからなあ。深いところは少し水温が低いが、酸欠になりやすい。そんな時は、鯉はあまり動かず、餌も食べないんだっぺなあ」
午前中は風が全く無かった。霞ヶ浦の湖面はさざ波も立たず、ねっとりとした油を流したようだった。
「午後から風が出るかもしんねえ。けんど、午前中いっぱいはこんな感じだっぺ。釣り師は観天望気が大事だど」
「カンテンボウキですか?」
「つまり、天気や地形を読むことだ。自然に溶け込むことだっぺ。自然と一体になればよ、魚の気持ちも読める。それが釣り師の極意だど。そこまでいけば名人だな。魚が釣れればいいってもんじゃなかっぺ。人間修行っていうかな。俺なんか、まだまだだけどな」
「はあー。師匠はたいしたもんですねー」
「だから、師匠じゃないでしょうよ」
「すみません」
「はは、まあ、いがっぺ」
昼近くになっても、二人にアタリは無かった。啓三が言った。
「午後は栃木に帰るので、そろそろ仕掛けを引き上げます」
啓三はまたゆっくりリールを巻いた。しかし、半分ほど巻いたところで、リールが止まった。啓三はドキっとした。もしかしたらアタリかと思った。
「沼尻さん。もしかしたら、鯉がかかったのかも・・・」
「いや、鯉がかかったのなら、鯉が右に左に泳ぎまわるはずだど。ラインが動かなかっぺ。多分、根がかりだな。つまり、底のゴミや流木に針がかかってしまったんだど。どれ、竿を貸してみろ」
沼尻は、啓三から竿を受け取ると、リールを巻いてみた。しかし、まったくリールは巻けなかった。ラインがピンと張った。沼尻は堤防の上を行ったり来たりしながら、リールを巻こうとしたが、巻けなかった。
「だめだな。これはラインを切るしかねえ。鋏で切ったらいがっぺ。鋏、持ってっか」
「はい、あります」
啓三は釣具の小道具を入れた手提げボックスを開けて、鋏を取り出し、ラインを切った。
「ラインがゴミになりますね」
「まあな。最近は分解が早いラインも開発されてるんだけんどよ、俺はまだ使ったことはねえなあ」
啓三は竿を片付け始めた。
「沼尻さん。いろいろ教えていただいてありがとうございました。今日はこれで帰ります。九月には、また土日にかけて霞ヶ浦に来てみようと思います」
「そうけ。俺は、月に二回くらいは鯉釣りに来てるんだ。また会えるっぺな。とは言っても、いつも浮島で釣ってるわけじゃない。その日の気分によって、麻生の天王崎や美浦村の大山で釣ることもあるんだ。江戸崎の古渡の小野川河口もいいな」
「僕は浮島が気に入ったので、次もここで釣ってみようかと思います」
「まあ、納得がいくまで、同じ場所にこだわってみることもありだな」
「そうですね。またご一緒したいですね」
啓三はそう言いながら、釣り道具を手早く片付け、車に積み込んだ。釣り場に忘れ物がないことを確認して、車の運転席に乗り込んだ。啓三は窓から顔を出して言った。
「では沼尻さん。これで失礼します」
「ああ、栃木まで気をつけて。また浮島で会うべよ」
啓三の車は、軽快なエンジン音を残して、徐行しながら堤防上を走り去った。
*
啓三は、一般道と高速道を使い分け、コンビニやサービスエリアで、飲食を兼ねて休憩しながら、夕暮れまでに鹿沼市の自宅に到着した。
「意外に早かったのね。お魚、釣れた?」
釣り道具を車から降ろしている啓三に、出迎えた由美子が声をかけた。
「ただいま。うん。アメリカナマズが一匹釣れただけだ」
「アメリカナマズ?霞ヶ浦には聞いたことがないお魚もいるのね。まあ。お魚の話は夕食の時に詳しく聞くとして、お風呂に入るといいわね。疲れがとれるから」
「そうだね。ありがとう」
「すぐ、浴槽にお湯を張るわね」
「そうか、じゃ、釣り道具を片づけたら、風呂に入るよ。康太と夏海は?」
「康太も夏海も、もうじき帰ると思うけど」
啓三は車庫に車を戻し、釣り道具を抱えて自室に入り、釣竿をはじめ、簡単に手入れをした。
「あなた、お風呂どうぞ」
「ああ、じゃ、お先に入らせてもらうよ」
啓三は浴室で衣類を脱いで、脱衣篭に入れると、先ずシャワーを浴びた。温水で汗を流すと、浴槽に体を沈めた。二日ぶりの風呂だった。心地よい温水の中で、体の中から疲れが抜けていくのが実感できた。夏の入浴だから体を温める必要が無い。啓三は短時間で浴槽から出た。洗い場で体と髪を洗い、シャワーで流した。
さっぱりした啓三は、由美子が用意したバスローブを羽織ると、ダイニングのテーブルで缶ビールを開けた。
「クー。喉が渇いていたからビールが美味い」
啓三は帰途、コンビニで購入しておいた塩味が効いたポテトチップをつまんだ。
「あら、ビールとポテチね。あとで御飯が入らなくなるわよ」
「うん。でも我慢できないんだ。大目に見てくれよ」
そんな話をしていると、子供たちが帰ってきた。
父親を見て康太が嬉しそうに言った。
「お父さん。お帰り、早かったんだね。茨城県からだから、もっと遅いかと思った」
「おう。康太。今は高速があるからな。意外に早く帰れるんだ」
夏海は啓三の顔を見て言った。
「あ、お父さん。日焼けしたね」
「そうかあ。パラソルを立てて、帽子も被っていたんだけどなあ。霞ヶ浦からの照り返しが強いんだな」
「日焼け止めクリームを塗るといいのよ」
「大丈夫。少し日焼けしたかったから丁度いいんだ」
「霞ヶ浦で、鯉、釣れた?」また康太が聞いた。
「鯉はまだ釣れないなあ。鯉釣りは難しいんだ。替わりにアメリカナマズが釣れた。これくらいの」
啓三は両手でサイズを示した。
「ふーん。結構大きいね。三十センチくらい?」
「ああ、そのくらいだ」
「アメリカナマズって、アメリカから来たの?」
「ああ、そうだよ」
夏海が首を傾げた。
「ふーん。アメリカから海を泳いできたのかな?」
「まさか。夏海はおもしろいことを言うな。さすが、お父さんの娘だ。アメリカナマズはな、残念ながら太平洋を泳いできたのではなくて、霞ヶ浦で養殖していたものが逃げ出したらしいんだ」
「ああ、なるほど。アメリカナマズって美味しいの?」
「お父さんも食べたことはないが、美味しいらしい。でも釣れたアメリカナマズは霞ヶ浦に戻しちゃったなあ。霞ヶ浦周辺の川魚料理屋さんでは、アメリカナマズ料理を出してるそうだから、今度、食べてみて、どんな味だったか、夏海に報告するよ。そうだ。今度は魚が釣れたら、デジカメで写真を撮っておくよ」
そんな、父親と子どもたちに由美子が言った。
「さあ、みんな揃ったから、御飯にしましょ。康太と夏海は手を洗って、手伝ってちょうだい」
「はあーい」
*
夕食後の家族団欒を楽しんだ後、家族はそれぞれの部屋に引き取った。啓三と由美子は夫婦の寝室のベッドに体を横たえながら、就寝までの時間を過ごしていた。
「今度の釣り旅行はいい気分転換になったようね」
「ああ、仕事のストレスが抜けたみたいだ。また明日から会社で頑張れるな」
「霞ヶ浦ってどんなとこなの?」
「うん、一言で言えば、広い水辺空間といったところかな。これは栃木にはないものだねえ。気持ちがのびのびして来るのが分るんだ。体の中の老廃物が抜けていく気がする」
「へえ、ずいぶん気に入ったみたいね」
「ああ、高速を使えば遠くないから、車の運転もそれほど疲れない」
「じゃ、これからも時々霞ヶ浦に行くの?」
「時々といっても、月に一回くらいかなあ。九月と十月に一回ずつ行ってみようかなあ。寒くなって冬になれば、鯉は餌を食わなくなって、冬眠に入るから釣れなくなるそうだ」
由美子が心配そうに訊いた。
「車に泊まるのはどうだった?」
「それだけど、やはり慣れないから熟睡はできなかった。姿勢が悪いまま寝るから、体が少し凝っているかもしれない。風呂に入って、だいぶ楽になったようだな」
「無理しないでね」
「ああ、ありがとう。今回、鯉は釣れなかったけれど、霞ヶ浦の自然の雄大さを楽しめたし、鯉を釣り上げたいという気持ちも益々強くなったよ。また来月でも都合がよい日を選んで、霞ヶ浦に行ってみたいなあ」
「あなたが良い趣味を持って、気晴らしになるなら、いいんじゃない。これまで家族のために働いてくれたんだから」
「そう言ってもらえると嬉しいなあ」
啓三は、腕を由美子の体に伸ばした。由美子の体はあたたかく、いい匂いがした。
*
翌日、啓三は会社に出勤した。休日の鯉釣りで気分転換してストレスが抜けたせいか、職場の建物風景が新鮮に見えた。顔なじみの守衛に声をかけ、駐車場に車を停めて、通用口から経理課の部屋に向かった。
「那須さん。おはようございます」
部下たちから挨拶され、課長補佐の自分の席に着いた。部下のほとんどが出社していていることを目で確認した。勤務開始時間まで十分ほどあるので、給湯室のコーヒーサーバーから自分でブレンド・コーヒーを淹れた。以前のように、女子社員がお茶を淹れるお茶汲みの習慣は廃止されていた。霞ヶ浦の釣り場で、広々とした風景の中でコーヒーを淹れて飲んだことが脳裏をかすめた。
淹れたてのコーヒーを飲みながら、パソコンを立ち上げた。モニターにOSのロゴマークが現われ、パスワードを入れると、様々な仕事上のデータのアイコンが表示され、啓三の頭は、すぐに仕事のモードに入っていくのだった。それでも、充実した休日を過ごしたせいか、どこか気持ちに余裕を感じていた。
午前中は、部下が入力したデータを丁寧に確認し、細かい指示を出した。午後は課長とともに、部課長会議に出席し、経理上の数字を正確に示して、会社の現状を報告した。
*
次の週の休日、啓三は行きつけの釣具店の店主に霞ヶ浦での釣行の報告をしていた。
「鯉釣りは、ゆったりとアタリを待つ釣りなので、僕に合っているようです。それに他の釣り仲間と情報交換を兼ねて、いろいろ話ができるのも楽しいですね」
店主が応じた。
「そうだろう。鯉釣りは大人の釣りなんだね。じっと待つのも釣りのうちだ。人生と同じだ。あせっても駄目なんだ」
「まったくですね。霞ヶ浦で鯉釣りを始めて正解でした。それに、餌の配合とか、いろいろ工夫するのも面白そうなんです」
「鯉釣りの餌は奥が深いぞ。那須さんはどんな餌がいいと思う?」
「はい、鯉は雑食性なので、動物性の蛋白質も試そうかと。薩摩芋にうどん粉を加えて粘りを出し、魚肉ソーセージをすり潰して混ぜたらどうかなと思います。
「魚肉ソーセージか。案外いいかもしれないなあ。安いし。うちの店で扱っている製品にも、サナギ粉やパン粉、麩、米糠が配合されているものがあるから試してみるといい」
「はい、次の釣行までに、何種類が餌を工夫します」
「研究熱心は、釣りの腕を向上させる上で不可欠だな」
「ところで、鯉釣り用の竿をもう一本欲しくなりました。霞ヶ浦の釣り人は竿を三本使って、次々に餌団子を投げ込んで釣っていました。いい竿がありますか?」
店主が啓三の懐具合を見透かすように言った」
「あるにはあるが、かなり値が張りますよ」
そう言って店主は、ケースに入った新品の振り出し竿を棚から取り出して啓三に見せた。
「これなら、大物が釣れても絶対に折れることはない」
啓三は値段のラベルを見た。
「うわ。二万円近い。リール代の六千円を含めると二万六千円か。趣味にかけるにはちょっと高いなあ。まだまだ子どもらの教育費がかかるから、嫁さんの許可待ちだなあ。次のボーナスが出た時に考えます」
店主が慰めるように言った。
「少しは値引きしますが、まあ、無理しないで。家庭円満が一番だ。釣りの費用も馬鹿にならない。こういう商売をしていると、お客さんの中には釣りにのめりこんで、家庭不和になり、離婚してしまった例も見てきているからなあ」
「はあ、まずはあまりお金をかけないで工夫してみます」
その日、啓三は鯉釣り用の餌袋を買った。
*
九月半ばになった。啓三は今度こそ大鯉を釣ろうと、霞ヶ浦の浮島の堤防上に立っていた。先月同様、土曜日の正午前だった。その日、鯉釣りの釣り人は啓三だけだった。天候は申し分なく晴れていたが、やや風があった。上空では筋雲が何本も高く真綿を引いたようにかかっていた。
今回は魚肉ソーセージ入りの特製餌を試そうと、小型のすり鉢持参だった。魚肉ソーセージをみじん切りにし、それを摺り鉢で粘りが出るまで摺った。それに市販の粉餌と蒸かした薩摩芋を混ぜ、よく捏ねた。自分の耳たぶの柔らかさとねっとりした粘りが出たことを確認し、思い切って大きめの餌団子を丁寧に丸めた。その団子の中に針を四本、針先が外側に向くように埋め込んだ。
ここまで準備が出来たので、啓三はおもむろに立ち上がり、キャスティングしようとした時、若い男が傍に立って、こっちを凝視しているのに気がついた。その男は、野球帽を被り、チェックの長袖シャツを着て、筆記具と何かの用紙を挟んだバインダーを手にしていた。啓三はびっくりして、その男に言った。
「すみません。これから餌をキャスティングします。危ないので少し離れていただけませんか」
その男は、やや険しい、苦い表情をしていた。それでも妨害する気はないらしく、数歩後ろに下がった。啓三はそれを確かめて、思い切って、竿を振った。餌団子は三十メートルほど先の水面に落ちた。期待したほど遠くには達しなかったが、一投目だから仕方ないかと思いながら、竿を竿立てに固定した。それにしても、背後の男は何だろうと、啓三は訝しげに振り返った。
その男は、言葉は丁寧だが、いきなり話しかけてきた。
「ちょっとお聞きしたいんですが、今の餌は何グラムくらいですか?」
啓三は質問の意図が分らなかったが、無視するのもおかしいので、
「さあ、量ったわけではないですが、五十グラムくらいでしょうか」
と丁寧に応じた。
「その餌を一日に何回ぐらい投げますか?」
「その日によって違いますが、多い時で十回ぐらいですかねえ」
「そうすると、仮に一回で五十グラムとすると、十回ですから、一日で五百グラム。つまり一人で一日、五百グラムの餌を霞ヶ浦に撒くことになりますね」
啓三は当惑していた。
「はあ、計算上はそうなりますかね」
その男は勢いづいた。
「霞ヶ浦は広いですから、一日で少なくとも百人くらいは鯉釣りの人が来ているでしょう。そうすると一日で五十キログラムの餌が霞ヶ浦を汚していることになりますよ。どう思いますか?」
いつもは温和な啓三でも、詰問されているような気がして憮然とした。
「べつに汚しているつもりはありません。私はただ鯉釣りを楽しんでいるだけです」
男は、きつい表情を見せて言った。
「しかし、結果的に霞ヶ浦を汚しているんです。そこに気がついて欲しいんですよ。特に鯉釣りの人には・・・。チリも積もれば山となるというでしょう」
若い男から無遠慮にたしなめられた気がして、さすがの啓三もムッとした。
「あなたにそんなことを言われる筋合いはないでしょう。僕は栃木から鯉釣りを楽しみに霞ヶ浦に来ているだけなんだから。それに餌は魚に食べられるんですから、水を汚してはいないと思います」
若い男は、啓三の反論にややたじろいた。
「すみません。釣り人の皆さんにも、霞ヶ浦の汚染問題を考えてもらいたかっただけです」
「君はどこの誰なんだ?」
「私は霞ヶ浦の水質をよくする活動をしている環境保護団体の者です。鯉釣りの実態調査をしています」
「だからといって、趣味を楽しんでいる人間にいきなり、難癖をつけていいのか。場所と場合をわきまえたらどうだ」
啓三は、若い男の目をまっすぐに見ながら、やや強い口調で抗議した。
若い男は啓三の心理を察したらしく、視線を外した。
「申し訳ありません。お楽しみのところ、失礼しました」
そう言って男は軽く一礼して堤防上を遠ざかっていった。
*
啓三は、憮然とした気持ちを抑えながら、ようやく竿先を観察する余裕を取り戻した。竿先はピンと張ったラインに引かれて、かなりしなっていた。鈴もチリンチリンと鳴っていた。啓三は慌てて竿を取り、腰を据えてリールを巻き始めた。
ラインの先にかかった魚は沖に向かって一直線に走った。かなり強い引きだった。啓三はリールを巻く力を弱めて、ある程度、魚を泳がせた。その後すぐに力を入れてリールを巻き始めると、魚は横に泳ぎ始めた。啓三はここだと思って、さらに強くリールを巻いた。魚は、かなり疲れたらしく、しだいに岸に寄せられた。岸辺から五メートルほどに近づくと黒っぽい魚体が見えてきた。魚は水面に顔を出し、口を開けた。その顔を見て啓三は思わず言った。
「鯉だ。とうとうやったぞ」
啓三は心臓がドキドキするのを感じながら、冷静にタモ網を取り出し、魚を脅かさないように手前から静かに水中に入れ、魚体の下からすくい上げるようにして、ようやく網でその魚を確保した。
啓三はホッとしながら、ゆっくりと魚体を堤防の足場上に上げ、針を外した。改めてその魚を観察した。魚はバタバタとひとしきり暴れた。大きさは三十センチメートルほどだった。その姿は鯉によく似ていたが、少しほっそりしているような気がした。色は黒鯉系統のようだが、少し青みがかった黒だった。口ひげは無かった。
「これは鯉ではないかもしれない」
啓三は自分に言い聞かせるようにつぶやき、今回は家族に釣れた魚の写真を撮って見せることにしていたことを思い出した。急いで車に戻り、デジカメを手にすると、魚の写真を急いで撮った。大きさが分るように、魚の傍にボールペンを置いて写真を数枚撮った。
魚がやや弱ってきたので、啓三は用意してきた網袋に入れ、網の口元を縛り、堤防の傍の木杭に結わえた。しばらく岸辺の水中で活かしておこうと思った。もしかしたら、霞ヶ浦の魚に詳しい人が通りかかるかもしれない。
啓三はほっとすると同時に、息切れするほど疲れていることに気がついた。餌のことで見知らぬ青年に難癖をつけられ、その後すぐに見たこともない不思議な魚を釣り上げるのに苦闘した。啓三は自分の心臓の拍動が聞こえるような気がした。大きく深呼吸を何度かするとようやく気持ちが落ち着いてきた。
折りたたみ椅子に座って、啓三が湖面をしばらく眺めていると、見覚えがある車が堤防上に停まった。中から初老の男が降りてきて、親しげに話しかけてきた。
「おや那須さん。来てたんだ。ひと月ぶりかな。鯉、釣れた?」
「あー。伊能さん、しばらくでした。お元気そうで何よりです」
「うん、那須さんこそ、元気そうだねと言いたいところだけど、何か疲れていない?」
「はあ、何とか大丈夫です。それはそうと、さっき釣れた魚を見ていただけますか。私は初めて見る魚なんです」
そう言って、啓三は護岸の傍で湖水に漬けていた網袋を取り寄せ、慎重に中の魚を取り出して伊能に見せた・
「この魚なんですが・・・」
伊能は一目見るなり言った。
「あー、これはアオウオだ。まだ小さいほうだ。大きくなると一メートル七十センチくらいになる魚だよ」
「えー、アオウオというんですか。初めて見る魚です」
「うん。栃木県にはいないだろうな。霞ヶ浦、利根川、江戸川水系の中流、下流にしかいない魚なんだよ」
「もともと日本の魚なんですか?」
「アオウオは中国の魚だそうだ。戦時中に日本人の蛋白源として、ハクレン、ソウギョ、コクレンと一緒に、日本のあちこちの川に放流されたんだね。ところが揚子江のような大きな川に住んでる魚なので、日本では利根川水系でしか繁殖していないんだね。食べれば美味しい魚だそうだよ、私は食べたことはないけどね」
「へえー。そうなんですか」啓三は感心した。そのとたん、啓三の手からアオウオがするっと抜けて、霞ヶ浦の水面にドボンと水音を残し、魚体は水中に消えてしまった。
「アオウオは霞ヶ浦でもたまに釣れるよ。またいずれかかるんじゃないかな」
伊能は落ち着いて続けた。
「利根川では巨大アオウオ釣りは人気だよ。めったに釣れないから期待感が高まる。遠くからアオウオ目当ての釣り人が利根川や江戸川の良いポイントに集まるんだ。私も一時、巨大アオウオを釣りたくて、利根川べりの神崎や木下あたりで粘ったことがある。なかなか釣れなかったなあ。巨大アオウオを釣った連中は、自分とアオウオが写った写真をネットにアップしてる。喜色満面の顔をしてな。うらやましいけどな。アオウオ釣りの連中はアオウオクラブとかいう愛好者団体を作っているくらいだ」
「はあ、そうなんですか。アオウオも鯉釣りの外道ですか?」
「狙った魚以外の魚が釣れると外道と言うけれど、アオウオを外道と言ったらアオウオに失礼だよ。利根川の王様の魚のひとつだよ」
「なるほど。そうですね」啓三は肯いた。
「ところで那須さん。アオウオを釣った時の餌は何だね?」
「はい。サナギ粉が配合されてる市販の餌に魚肉ソーセージを摺りおろして混ぜてみました」
「それだよ。サナギ粉とか魚肉とか、動物性の餌を混ぜると、アオウオが釣れるんだ。アオウオはタニシとかカワニナとか貝類が好きらしい。だから市販の餌に、最初からタニシの粉を混ぜているのがあるくらいだ。アオウオの釣り師はそういう餌をよく使うなあ」
「はあ。そうなんですか」
「うん。まあ、鯉やアオウオは雑食性だから、動物性の餌が入っていればよく釣れるから、正解なんだよ」
「ええ、行き付けの釣具店の店主のアドバイスなんです」
そう言いながら、啓三は次の餌団子を練り始めた。伊能も、車から釣り道具を取り出して、鯉釣りの準備を始めた。啓三と伊能は、それぞれの竿をキャスティングし、ラインを竿先から直角にピンと九十度に張ると、椅子に座った。伊能は三本の竿を立て、啓三の釣り場からやや離れて陣取った。
「鯉は非常に敏感だからな。大声で話したり、岸辺で足音をたてると、逃げてしまうんだなあ」
伊能は啓三に届くように大きな声で言った後、人指し指を口の前に立てた。
「分りましたあ」
啓三も大きな口を開けながら小声で返事した。
「今日は、少し遅かったんですね」
「ああ、朝一番で精米を百キロ届けてきたんだ。老人ホームだ。朝早く精米したんだ。精米したての米は美味いから、注文を受けて精米して、すぐ届けるようにしてるんだ」
「そうですか。米屋さんもたいへんですね」
「なあに。霞ヶ浦に鯉釣りに行きたくて、うずうずしながら仕事してるからな。むしろ楽しんで仕事してんだ。人様の腹に入る米を届けることで、こちらも飯を食わせてもらってるんだ。人間、生きてる限り、飯は食うからな。お陰で米屋は飯の食いっぱぐれは無いんだ。あっはっは」
伊能は、自分のジョークに自分で可笑しくなり、目じりに笑い皺を作って大笑いした。しかし、その眼はセンサーがついた竿先をしっかり眺めていた。
*
三十分ほど二人は湖面と竿先を交互に眺めていたが、竿先がアタリを感じて撓むことは無かった。二人はリールを巻いて、餌団子を付け替えた。キャスティングをやり直すと、伊能は、啓三に声をかけて、車内に戻った。
初秋の霞ヶ浦は湖面にさざ波が立ち、柔らかい涼風が吹いていた。その風は浮島の黒松林の枝を騒がせるほどではなかった。啓三はふだんの経理の仕事から解放され、霞ヶ浦の風景を楽しんだ。鯉が釣れても釣れなくても、どちらでもよい気がした。伊能も同じような気持ちなのだろうか。伊能が車から出てきたら聞いてみたい気がした。
啓三の竿も伊能の竿も全然アタリがなかった。昼が来た。
「あー。つい眠ってしまった。まあ、アタリがあったらセンサーが報せてくれるから、眠っていても大丈夫だけど、鯉釣り師としては失格だな」
ぼやきながら伊能が車から出てきた。
「そろそろ昼時だな。那須さんは昼飯、どうするんだい」
「はい。お湯だけ沸かしてカップヌードルを食べようかと」
「それなら、握り飯を一緒に食べないか。誰か鯉釣り仲間と食べてもいいと思って、嫁さんに言って、少し多目に作ってもらったんだ」
「ありがとうございます。それなら遠慮なくいただきます」
伊能は釣り竿をそのままにして、車から握り飯の包みを取り出した。
「さあ、どうぞ」
伊能は海苔で巻いた大きな握り飯を差しだした。
「うわあ、おいしそうですね。ではいただきます」
「具は何が入ってるか、わからんぞ。嫁さんまかせだ」
「あ、これは何かの佃煮です」
「それは、アミだ。霞ヶ浦で取れるイサザアミを佃煮にしたもんだ。潮来や佐原には佃煮屋が多いんだ。昔から白い飯にぴったりだな。おう、俺の方はワカサギの佃煮だ。甘辛く煮付けてあるんだ」
「それに御飯が素晴らしく美味しいですね。何というか、つやがあって、きめ細かくて、もちもちして冷めていても美味しいです」
「そうだろう、米はミルキークィーンだ。アミロースの含有量が少ない品種だ。アミロースが少ないと粘りがあるモチモチした食感になるんだ。このへんの茨城県の稲敷地方や千葉県の香取地方で多く作付けしている。ブランド米だぞ。うちは米屋だから、美味しい米が売るほどあるんだ。あっはっはー」
伊能はまた楽しそうに大笑いした。啓三もつられて笑った。
「米屋さんって、意外に楽しい仕事なんですね」
「地味な仕事だと思っていたんだろう? まあ、地味なことは確かだが、そこに楽しみを見つけないとな」
「本当ですね。私は会社の経理の仕事ですが、帳尻がぴったり合った時は快感なんです。それが仕事のやりがいですよね」
「そうだな。米屋と経理屋さんに共通点があったとは新発見だな。あっはっは」
伊能はまた笑った。啓三は、よく笑う人だと思いながら、午前中に餌団子のことで難癖をつけてきた青年のことを伊能に話したくなった。
「話は変わりますが、午前中、伊能さんが来られる前に、鯉釣りの餌が霞ヶ浦を汚しているとわざわざ意見しに来た若者がいたんです。なんでも環境保護団体の会員だとか」
「ああ、また来たか。時々、彼らは交替でこの辺を回って、アンケートをとる振りをしながら、鯉釣り師に議論をふっかけてくるんだよ。俺も去年やられたことがある。迷惑だよな。自分たちの考えが絶対に正しいと思ってるらしい」
「そんな感じでした」
「そうだろう。思いこみというか、若いせいか正義感が強すぎるというか。霞ヶ浦を汚している要因はいろいろあるのに、釣り人、特に鯉釣り師を悪者にするなんて間違ってるよ。人間は生きてる限りというか、人間社会が続く限り、産業や日常生活で汚れは出てくるもんだ。生活排水や工場排水を下水道や浄化槽で処理したり、農業では肥料を使いすぎないように、努力しているんだね。処理が難しいのは、畜産排水だそうだ。豚や鶏の糞尿だな。鯉釣りの餌の分なんて実際はわずかだと思うよ」
そういうと、伊能は車に戻り、飲み物を保温するテルモスを持ってきた。
「嫁さんがお茶も用意してくれたから、飲みながら話そう。那須さん、カップを持参してたよなあ」
「はい、これにお願いします」
伊能は、テルモスからお茶を啓三のカップに注いだ。
「ああ、お茶が美味しい。握り飯にはやっぱり日本茶ですね」
「握り飯も、もっと食べてくれよ」
「はい、ではこの大きなお握りを・・・、あ、これは大きな梅ですね。梅干が入っていました」
「あ、それはうちの店で扱っている紀州の南高梅の高級梅干だ。蜂蜜も入ってる。うちの嫁さん、商売ものを使ったなあ。あはは」
伊能は照れながらまた笑った。
「霞ヶ浦が汚れて、またアオコが大発生するようなことになったら、鯉も生きていけないんだから、我々だって気をつけるよな。今から四十年くらい前は、アオコが大発生して、網生簀で養殖していた鯉が、酸欠で大量に死んだこともあった」
「へえー。そうなんですか。僕は栃木県に住んでいるし、その頃はまだ小学生くらいだから、ニュースになったかもしれませんが、まったく憶えていません」
「まあ、栃木県の小学生時代ならそんなもんだろうな」
二人は昼食を食べ終わると、しばらくゆっくり湖面を眺めながら食休みをした。霞ヶ浦の沖合に、白い大きな帆の船が三隻ほど現れた。まるで白い大きな花が湖面に咲いたようだった。
「あの白い帆の船は珍しいですね」啓三が目ざとく見つけて言った。
「ああ、あれは帆引船だ。霞ヶ浦独特の伝統的な漁船なんだ。まあ、シンボルと言ってもいいくらいだ。よく観光ポスターに写真が載ってるよ。帆引船は霞ヶ浦らしくていいと思ってるんだ。俺は好きだな、あの船は」
「きれいな船ですね。霞ヶ浦の広い湖面によく似合っています。漁船なんですね。何を獲るんですか」
「ワカサギとシラウオだよ。どちらも霞ヶ浦を代表する魚だ。佃煮の材料にもなる」
「霞ヶ浦のワカサギやシラウオは全部あの船で獲るんですか?」
「他県の人は知らないんだなあ。あの帆引船は、今は観光用にしか残っていないんだよ。観光用だから、土曜日と日曜日だけ運航して、遊覧船のお客を楽しませている。時々、アマチュアカメラマンたちが貸し切り伴走船から写真を撮ることもあるんだ。しかし今は霞ヶ浦全体でも十隻くらいしかないだろうなあ。昭和三十年代の最盛期には七百隻くらい操業していたそうだ。帆引船は風が無い時や風が強い時には操業できないんだ。今ではワカサギやシラウオは、ジーゼルエンジンのトロール船で獲るんだよ」
「そうなんですか。土日だけでは勿体ないですね」
「まったくだなあ。トロール船はワカサギやシラウオを獲りすぎる傾向があるけど、帆引船はほどほどに獲るから乱獲にならないと言われているなあ」
「帆引船の復活はできないんですか」
「まあ、今のところは難しいだろうなあ。帆引船を操れる漁師が高齢化して、少ないからなあ。写真家には人気があるんだがなあ」
「そうでしょうねえ。きれいな光景ですからね。インスタ映えとか言うんですかね」
「うん、霞ヶ浦のシンボルだ」
その時、沖合を高速で疾走するスマートな舟が見えた。
「あれはすごいスピードですね」
「あれはバスボートだな。ブラックバス釣りのボートだ。時速六十キロぐらいは出てるんじゃないかな」
「ブラックバス釣りですか。霞ヶ浦ではブラックバスも多いんですか?」
「ああ、ブラックバスは一時増えたんだけど、最近は減ってきたかもしれない。増えた時は若い人たちがブラックバス目当てにたくさん来たなあ。ブラックバス釣りは、ルアーをキャスティングして、リールでルアーを引いて、竿も動かして、ルアーが生きているように見せて釣るんだ。ブラックバスは、泳いでいる小魚を追いかけて食べる習性があるからね。まあ、ルアー釣りは若い人向きの忙しい釣りだ。鯉釣りが待ちの釣りなら、バス釣りは積極的な攻めの釣りだ。バスは岸辺の杭などの近くに潜んでいるから、岸壁からも釣れるが、金持ちはバスボートで沖から近づいて釣る人もいる。あのバスボートはアメリカ製で、何百万円もするんだ」
「へえー、そんなに高いんですか。びっくりです」
「まあ、若い人でもIT長者のような金持ちがいるんだねえ」
「ブラックバスも外来魚ですよね」
「そう、霞ヶ浦は外来魚のデパートのようなもんだ。北アメリカから来たブルーギルやアメリカナマズもいるし、アルゼンチンから来たペヘレイもいる。中国大陸や琵琶湖から移された魚も多いんだね。こんな大きな湖だから、外来魚がいったん増えてしまえば駆除することはたいへんだから、現実的じゃないだろう?何とか付き合うしかない。せめて他の川や湖に移さないように法律で決まっているんだ」
「外来魚は鯉にも影響しているんですか?」
「それは、はっきり分らない。鯉が少なくなっていることは確かだが、外来魚の影響なのか、産卵場所の浅瀬の葦原などが減っているせいなのか、断定することはできないようだね。ブルーギルは他の魚の卵を食べるそうだ。鯉の卵も食べているかもしれないなあ」
「なるほど・・・」
啓三は、問題が複雑で深刻であることに気がついて、次の言葉がなかなか出なかった。
伊能が思い出したように言った。
「ブラックバス釣りの人たちは愛好者団体を作っているんだが、年に何回かイベントを兼ねて湖岸の清掃活動をしてくれているよ。きれいな釣り場で釣りをしたい、霞ヶ浦に恩返しをしたいというのが動機だそうだ。実は霞ヶ浦の湖岸はゴミの不法投棄が多いんだ。家電など粗大ゴミをわざわざ軽トラで乗り付けて捨てていく悪質の者もいる。それを彼らは、市町村や国交省の河川事務所と協力して清掃活動をしてるんだ。時には二トントラック何台分も回収してくれる。たいしたもんだ。ありがたいことだ。俺は感心してるんだ。
そこへいくと鯉釣り師は何にもしてないなあ。まあ、我々はただ鯉釣りを楽しんでいるだけだから、深く考えてもしようがないよな。それより、そろそろ餌を付け替えてみよう」
二人は食事の後片付けを終えると、竿のリールを巻いて、餌団子がばらけて無くなっていることを確認して、新しい餌をつけた。伊能の竿は三本なので、次々に餌を付け替えた。
それぞれの竿の餌を付け替えると、二人は自分の椅子に腰を降ろして、アタリを待った。
十分経っても一向にアタリがないので、啓三が伊能に話しかけた。
「そういえば、先月、伊能さんとお会いした次の日、この場所で土浦の沼尻さんという人と一緒に釣りました。いろいろ面白い話を伺いました。ご存知ですか」
「ああ、沼尻さんか。理屈っぽいところがあるけど、なかなかの論客だよな。鯉釣りにも研究熱心なんだ。バリバリの茨城弁を話す人だ」
「そうなんです。餌の工夫について教えてくれました」
「話半分に受け流してもいいけど、参考になる情報も多いよな。鯉釣り仲間には寡黙な人も多いけど、沼尻さんはよく話す方だ。あまり大きな声で話すと、敏感な鯉は逃げていくとかいいながら、彼は結構大きな声で話すよな。あはは」
「そんな感じでした」
「沼尻さんは、一箇所でじっと我慢して、釣れるまで頑張るというより、つれそうなポイントを探して、毎回場所を替えるタイプだなあ。でもここはいいポイントだから、年に何回か会うよ」
そんな話をしていると、何かの電子音が連続して聞こえた。啓三は竿のセンサーの音かと思った。
伊能はその音を聞いて、ポケットからおもむろに携帯電話を取り出し、話し始めた。
「もしもし、ああ、俺だ。配達? そうか。新橋旅館さんか。多古米のコシヒカリ五十キロ、夕方までか。わかった。じゃ、すぐ戻るから」
伊能は携帯電話を切ると、啓三の方を向いて声をかけた。
「那須さん。うちの嫁さんから電話だ。米の配達の仕事が入った。これから精米して、夕方までに届けるんだ。すまんがこれで失礼するよ」
「そうですか、またご一緒しましょう」
伊能は手早く竿を片付け、車に収納した。車に乗り込んで啓三に軽く会釈し、慎重に車を発進させた。
*
啓三独りが湖岸に残された。急に沈黙の世界が訪れたように思った。しかし、さざ波は沖合で縮緬のような模様を作り出し、空には綿を千切ったような雲がたくさん浮かんでいた。霞ヶ浦の湖面とその上の空を眺めていると、けっして孤独感は無かった。むしろ、自分がこの世界に溶け込んでいるような気がしてきた。寂しくはないが、話し相手がいれば、それに自然に応じられるような気がしていた。相手が人であれ、霞ヶ浦であれ、空の雲であれ、心を開いて話せる気分だった。
啓三はリールを巻いて、ラインの先の餌団子がどうなっているか、確かめようと思った。ラインはスルスルと簡単に巻かれ、餌団子が溶けてしまい、むき出しになった針を引き寄せた。
―やはり、だめかー
啓三は頭の中で独り言を反芻しながら、おもむろに練り餌を取り出し、丁寧に餌団子を作り、針を埋め込んで、さらに両手で握るようにして団子をしっかりと固めた。餌団子を作る作業は、まったく急ぐ必要がなかった。あせる気持もなかった。誰かと競争することもなかった。餌団子に何を混ぜるか。鯉が好みそうな餌を、少しずつ工夫すればよい。そんな釣りは自分に向いている。大鯉は釣ってみたいが、いつか釣れればよいのだ。それまで鯉釣りを楽しめばよいと思った。
―一日一寸か。まったく、土浦の沼尻さんが言う通りだなー
啓三は声には出さずに、そう思った。準備ができると、おもむろに竿を取って振りかぶり、目標のポイントに餌団子を投げ込んだ。餌団子はジョボッという音を発して沈んでいった。それを確認すると啓三は折りたたみ椅子に腰を下ろして、じっとアタリを待った。コンビニで買ったスポーツ新聞を広げて、プロ野球の結果や芸能人のゴシップ記事などを眺めたあと、釣り情報欄に眼を落とした。
これまでスポーツ新聞はほとんど読まず、釣り情報が載っていることも知らなかった啓三だが、釣具店の主人から、スポーツ新聞に霞ヶ浦の釣り情報が載っていることがあると教えられて、今回の釣行の途中立ち寄ったコンビニで購入した。啓三は、ギャンブルはパチンコをふくめて一切やらないが、スポーツ新聞に競馬、競輪情報が載っていることは知っていた。しかし、釣り情報欄があることは知らなかった。
その新聞の釣り情報欄には、霞ヶ浦で、ワカサギ、ブラックバス、ヘラブナが釣れていることが記事になっていたが、鯉釣り情報は無かった。伊能や沼尻が言うように、霞ヶ浦の鯉釣りはマイナーになりつつあるのかもしれないと思った。
「今日は、釣れますか?」
不意に背後で女の声が聞こえた。啓三が驚いて振り返ると、白い日傘を差した三十歳台とも見える女がにこやかな表情で啓三を見下ろしていた。女は薄いピンクのブラウスに白いプリーツスカートと白いウオーキングシューズ姿だった。
啓三はあわてて新聞をたたんた。
「いや。なかなか釣れません」
アルトの澄んだ声が返ってきた。
「そうですか?何が釣れるんですか?」
女は日傘をくるくる廻しながら、言葉をつないだ。啓三は応える前に女の顔を改めて見た。女の髪は艶があってやや長く、後ろで束ねていた。親しみやすい、やや縦長の丸顔だが、庶民的な美しい人だと啓三は思った。
「あら、あたしの顔に何か、ついていますか?」
「いや、失礼。鯉を釣ってるんですよ」
女はコイという音に反応した。
「恋ですか? 霞ヶ浦で恋が釣れるんですか?」
「ええ、釣れますよ。私はまだ釣っていないんですが」
ここまで会話して、女は、恋ではなく、魚の鯉のことだと気がついた。
「あら、ごめんなさい。お魚の鯉のことですよね。私ったら・・・。うふふ、可笑しい」
女は口元に手をやって、てれくさそうに柔らかく笑った。啓三は女が鯉を恋と勘違いして受け取ったことに驚いた。
「鯉が釣れればいいんですけどね」
「それは、どちらのコイですか」
「もちろん、魚の鯉ですよ」
「そうですよね」
会話になっているのか、なっていないのか、二人は照れくさい気持になった。
女は思い切って話題を変えた。
「私、霞ヶ浦の広い景色が好きなんです。霞ヶ浦を見ると気持が晴れます」
「あー。それは私もそうです。霞ヶ浦の広い水辺で、魚を釣るのが夢だったんです」
「あら、そうですか。どちらから来られたんですか?」
「私は栃木県からです。鹿沼というところです。あ、立ち話もなんですから、ここにおかけください」
啓三は、クーラーボックスの上をきれいなタオルで拭いた。クーラーボックスは椅子になるのだった。
「ありがとうございます。では失礼して、かけさせていただきます」
女は遠慮がちに腰かけた。
「そうなんですか。私は近くの稲敷市です。地元の特養の老人ホームで介護福祉士をしています。このところ三日続けて夜勤だったので、今日と明日はお休みをいただいて、ゆっくりしているんです。夜勤の時、日中はアパートの部屋で寝ているので、出かける余裕は無いんです。夜勤明けはまず、午前中に睡眠を取って、軽くブランチをいただいた後、天気が好い日はこうして霞ヶ浦の堤防の上を散歩するんです。そうすると次第にストレスが抜けていくのが分るんです」
「なるほど、たいへんなお仕事ですね。特養というのは特別養護老人ホームのことですよね」
「そうです。特養は行政の補助を受けて、身寄りがなく年金が少ない方などに審査を経て入居していただいていますが、どこの自治体でも希望者が多いので、入居を待っている方が多いのです」
「そうですよね。僕の実家の両親はまだ元気ですが、いずれ親の介護が必要になったらどうしょうかと思うことがあります」
啓三は釣りを一時忘れて、女性と会話を続けた。
「両親が揃って元気でいるうちはいいですが、どちらかが倒れたら、どうしたらいいか。まだ兄弟とも、妻とも話題にしたことはないんです。なんだか怖い気持なんです」
「そのお気持は分ります。でも、そろそろ相談されたほうがいいですね。高齢になるほど、何があっても不思議ではないですから」
「本当ですね。釣りに来て、そんな助言をいただけるとは思ってもみませんでした。ありがとうございます」
「いいえ、とんでもありません。特養老人ホームに入居されているお年寄りは、事情は様々です。気丈な方は少なくて、気弱になったり、認知症の方が多いんですよ。私たち介護職員は、お年寄りの気持に沿って、毎日穏やかに過ごしていただけるようにしています。それは施設長の方針なんです」
「そんな大変なお仕事だから、霞ヶ浦の水辺が癒しになるわけですね」
「はい、実はつい先週、私が担当させていただいていたお婆様が亡くなったんです。九十二歳でした。お歳のわりに、とてもお元気で、私もずっとお世話してきて、これからもこのまま過ごしていけると思っていたのに、車椅子で急に眠るように亡くなられたんです。
私にはとてもショックでした。家族といっても息子さんが独りでいるんですが、連絡する間もなかったんです。息子さんも高齢になってきて、とても母親の介護はできないからと、お預かりしたんです。私どもの老人ホームで五年ほど過ごされ、普段はとても静かで穏やかな方でした。
でも、時々、昔を思い出して泣かれることがありました。若いころは苦労されたそうです。そんなお話をできるだけ伺うようにしていたので、私を信頼して心を寄せてくださっていました。九十歳を過ぎておられたけれど、直前までお元気だったので、今でも亡くなられたことが信じられません」
その女は、担当した高齢者の最後を思い出したらしく、ゆっくりだが、丁寧に一気に話した。啓三は、釣り場に不釣合いの話題のような気がしたが、女性の心情を思って、湖面を見つめながら静かに聞き入っていた。
「人間はお互いに支えあって生きているんです。私も、そのお婆ちゃんが元気で、できるだけ長生きしてくれることで、介護士として生きがいを感じて頑張れました。だから、現役を退いて、体も衰えて死を待つだけのように見える高齢者であっても、周囲の人の、心の支えになっているんです」
「なるほど。高齢者、障害者は偏見の目で見られ、社会の負担になると思われていても、本当は大事な役割を果たしているということなんですね」
「そうよ。そう考えるべきなのよ。社会の役に立つとか、役に立たないとか、そんな判断を軽々しくしてほしくない。高齢者は生きていてくれるだけで、周りを励ましてくれているの。でも、今はお婆ちゃんが亡くなってしまって、心が折れそうなの」
啓三は何と応じていいか分らず、短い沈黙があった。
女がそこまで話して一息ついた時、啓三の竿の先に着けた小さい鈴が鳴り始めた。女は不思議そうにあたりを見回した。
「何の音かしら?鈴の音みたいだけど。どこから聞こえてくるの?」
啓三の竿の先がラインに引かれ、グーと撓んだ。
「アタリだ。魚がかかったんです」
啓三はあわてて立ち上がり、竿を取ってリールを巻き始めた。ラインの先は水中にピンと伸びて、右へ左へとくねるように動いたが、リールが巻かれると、水面に魚体が見えてきた。啓三は、逸る心を抑えて、冷静にさらにラインを巻き取り、コンクリート岸壁近くに寄せた。
「きゃあ、お魚。私、実際にお魚が釣れるところを、まじかに見たの、初めて。まあ、元気がいいのね」
「すみません。そこのタモ網を取ってくれますか」
「タモ網? ああ、これね」
女は傍にあったタモ網の柄を掴んで、啓三に渡した。啓三は腰を落とした安定姿勢で、タモ網で魚体を掬った。魚はバシャバシャ水しぶきを上げて、タモ網に収まった。
「すごーい。霞ヶ浦って、けっこうお魚釣れるのね」
「釣れないと思っていたんですか?」
「ええ、霞ヶ浦は汚れてしまったから、お魚はめったに釣れないのかなって、思っていました。釣り人は、釣れなくても、暇つぶしに来てるのかなって思っていました」
「それはひどいなあ。霞ヶ浦にはいろいろな魚がたくさん、いるんですよ」
女は、啓三の顔から魚に視線を落とした。
「ごめんなさい。釣りの皆さんにも、霞ヶ浦にも、お魚にもあやまらなくちゃね。ところで、このお魚は何という魚ですか?ひげがあるわね、もしかしてナマズですか?」
「ナマズはナマズでも、これはアメリカナマズという魚です。外来魚です。養殖場から逃げたものが増えたそうです。霞ヶ浦ではよく釣れるようになったんです」
「そうですか。それで釣ったアメリカナマズはどうするんですか?」
「食べれば美味しい魚だそうです。でも私の狙いは鯉なので、このまま逃がします」
そう言って啓三は、注意深く魚をタモ網から外そうとしたが、胸鰭の棘が網目にかかって外れなくなった。
「あー、やっぱり絡まった。アメリカナマズはこれが厄介なんですよ。ラジオペンチだ」
啓三は釣り道具類が入っている手提げ式の箱を開けて、細長いペンチを取り出し、魚の棘を外した。
「ようやく外れた。では、アメリカナマズを霞ヶ浦に戻します」
そう言って、啓三はアメリカナマズを湖水に入れると魚は静かに泳ぎ去った。
「こちらでは調理して食べる人もいるそうなんですが、私は栃木まで生きたまま持ち帰るわけにはいかないので、リリースするんです。アメリカナマズは特定外来種なので、生きたままの持ち出しは法律で禁止されているんです」
「あら、そうなんですか。それじゃ、仕方ありませんね。栃木県から釣りに来られているんですね?」
「ええ、でも意外に近いんですよ。三、四時間ほどで霞ヶ浦に来れます。高速料金はかかりますが」
「栃木県は温泉がたくさんあって、うらやましいですね。年に一回ぐらいは温泉旅行に行きたいんですけど、老人ホームの仕事が忙しくてなかなか・・・」
「そういえば、茨城県はあまり有名な温泉は思い浮かびませんが、替わりに広い海や湖があるのがいいですね。海無し県の栃木県民にとっては憧れです」
女は霞ヶ浦の沖の方へ視線を移した。両腕を高く上げて姿勢を伸ばした。
「ああ、いい気持。元気がいいお魚を見て、私も元気が出た。霞ヶ浦にもたくさんお魚が生きていることも分ったし、広い霞ヶ浦を見て、気持が晴れたなあ。老人ホームの仕事をしていると、つらいこともあるけれど、霞ヶ浦を見ているといつも慰められる。また明日から頑張ろうってね。それに男の方と自然にお話ができたので嬉しかった」
「僕も話し相手ができてよかったです。独りで釣りをしていると、淋しいときもありますから」
「では、これで失礼します。話を聞いていただいて、ありがとうございます。明日、また仕事なんです。私は池田と申します。時々、霞ヶ浦で散歩をしますから、またお会いできるかもしれませんね」
「僕は那須です」
「え、茄子さんですか?」
「はい、那須高原の那須です。住んでいるのは鹿沼ですが」
「あ、なるほど。いやだ、私。また勘違いするところでした」
「野菜の茄子と思ったんですね。音だけ聞くと、他県の人はよく間違えますよね。あはは。僕は月に一回くらい、霞ヶ浦に釣りに来るんです。またお話できればいいですね」
「そうですね。ありがとうございました。それでは、那須さん。ごめんください」
「さようなら」
池田と名乗った女は丁寧にお辞儀をして、堤防の上を歩いて去っていった。その姿を見送ると啓三は、おもむろに餌を練り直し、針につけて丸め、団子の形にすると、竿を振りかぶって、キャスティングした。ラインの先の餌団子は放物線を描いて、沖合いに着水した。ズボッという音がした。
―音がちょっと大きかったかな。かえって鯉を驚かしてしまったかもしれないなー
啓三は心の中でつぶやきながら、リールを巻いてラインをピンと張った。
―池田さんか。いい感じの女性だったなあ。俺の好みのタイプだなー
啓三は、湖面を見つめながらも、池田と名乗った女性の残像を思い返していた。
*
時刻は午後四時を回った。この日も霞ヶ浦に風が出てきた。薄雲が出て、上空を流れ始めた。湖面にはさざ波が立ち、堤防上に陣取っている啓三も肌寒さを感じた。啓三は長袖のポロシャツを着ていたが、立ち上がって車に戻り、風を通さないジャンバーを取りだして羽織った。また折りたたみ椅子に腰かけてアタリを待ったが、さっぱり引かなかった。
―風が吹いて波が立つと、魚たちも落ち着かなくなって、食欲が落ちるのかもしれない。釣り師は魚の気持になることが第一だというから、俺も釣り師らしくなってきたかなあ。それなら、今日は諦めたほうがよいかもしれないなあー
啓三はそんなことを考えながら逡巡した。午前中はよく見えていた対岸が霞んで見えてきた。
―空気が冷えて湿ってきたみたいだなあ。雲は空全体に広がってきたし、もう少しすると、雨が降り出しそうだ、釣りをしていると確かに天気の変わり方がよく見える。これが、沼尻さんが言っていた観天望気というやつだな。今日はそろそろ、仕舞いにするかー
啓三は、ラインを巻き始めた。リールに何の抵抗感もなく、ラインが巻き取られた。ラインの先に付けた餌団子は溶けて無くなっていた。
―鯉釣りは難しいなあ。一日一寸とはよく言ったものだ。この調子では、釣れるのは来年になるのかなあー
そんなことを考えながら、啓三は釣り道具を仕舞い、車に積み込んだ。まだ暗くなるには間がある時刻のはずだが、雲が厚くなり、陽が翳ってきた。啓三は車の運転席に乗り込み、カーラジオを点けた。土曜日の夕刻、お笑い芸人のトーク番組が聞こえてきた。賑やかなトークもよいが、啓三は静かにクラシック音楽が聴きたかった。FMのバンドにチューニングしたが、歌謡曲がかかっていた。啓三は仕方なく、ラジオを諦めて用意してきたCDを聴くことにした。ベートーベンのシンフォニー「パストラル」だった。
田園をイメージした旋律が、穏やかな春の陽の中で小鳥が囀る情景から嵐の旋律になった。丁度、啓三の車の外では雨が降り出してきた。雨足は次第に強くなり、フロントガラス越しに眺めていた霞ヶ浦の湖面が滲んでみえるほどになった。車の中では、旋律が不安定な春の終わりの天候を表現するように激しく震えた。
やがて音楽は夏の安定した天候を思わせる長閑な調子に変わり、さらに秋の穏やかな光景を想像させる、やや淋しげな旋律に移っていった。車のガラスの外では、いつの間にか通り雨が止み、静かに夕闇が迫ってきた。
シンフォニー「パストラル」を聴き終わる頃には、とっぷりと暮れて、堤防の上はかなり暗くなってきた。啓三は車のエンジンをかけ、ライトを点灯した。ゆっくりとカーブしながら続く堤防上の道路が浮かび上がった。脱輪を警戒しながら啓三は車を慎重に運転し、先月、夕食を買った近くのコンビニに向かった。浮島の和田公園の駐車場で、キャンプ用の調理器具で夕食を用意するのは、レトルト食品を温めるだけでも面倒だった。疲れも感じていた。
*
幹線道路沿いのコンビニは暗闇の中に明るく輝いていた。駐車場には車が数台停まっていた。啓三も車を駐車場に停め、店内に入った。店内には客がまばらにいるだけだった。店員は二名で、一人がレジに、もう一人は陳列棚で商品をチェックしていた。全国展開のチェーン店なので、品揃えが栃木県内の店と大きく変わることはなかった。
啓三は雑誌の棚で週刊誌を手に取り、立ち読みした。政治家や芸能人のスキャンダルやゴシップ記事には興味なかったが、定年後の生活設計や成人病に関する記事を拾い読みした。次に弁当コーナーでさんざん迷った末、幕の内弁当を選び、レジの電子レンジでチンしてもらった。缶ビールとともに、レジで支払いを済ませると、イートインコーナーに座って缶ビールを飲みながら、ゆっくりと食事した。
温めてもらった幕の内弁当は、サケの切身の焼魚、薄焼き卵、コンニャク、里芋の煮っころがし、味が染みたシイタケの煮物、昆布の佃煮、ミニトマト、輪切りのグレープフルーツなどの惣菜だった。ごま塩をまぶした白いご飯の真ん中に小梅が添えられていた。
❘美味しいけど、幕の内弁当はどこも同じようなもんだなあ。全国チェーンのコンビニだから、どこかの食品工場でまとめて作るんだろうなあ❘
啓三は空腹が満たされ、適度にアルコールが廻ると、啓三は今日の午後、釣り場で話しかけてきた女のことを思い出していた。
―なかなか、感じがいい人だったなあ。初対面の女性と自然に会話したのは何年ぶりだろうか。嫁さんと初めて会話したのは、上司から紹介されてからだったなあ。俺は自分から、初めての女性に声をかけるなんてできない性分だ。それが向こうから話しかけてきたんだ。そういえば、勤務先の老人ホームでお世話していたお年寄りが最近亡くなったと言っていたから、淋しかったのかもしれない。話を聞いてくれる相手が欲しかったのかあ。話を聞いてあげるだけで慰められたのなら、よいことをしたのかもしれない。釣りをしていると、思いがけずいろいろな出会いがあるもんだー
啓三はそんなことを考えながら、イートインコーナーで小一時間ほど過ごした後、駐車場の車に戻った。これから浮島和田岬公園の無料駐車場まで僅かな距離だが、すでにビールを飲んでいたことに気付いた。酒気帯び運転は、短距離でも、社会人としてやってはいけない行動だった。
啓三は、コンビニの駐車場に車を停めたまま、眠るしか選択肢はなかった。そうなれば、コンビニの店員に一言声をかけておいたほうがいいだろう。啓三は車外に出て店内に入り、レジの若い店員に声をかけた。
「すみません。明日の朝までこちらの駐車場に駐車させてもらっていいですか。中で仮眠を取りたいんです。缶ビールを飲んでしまったものですから」
「あー。そうですか。長時間駐車は原則、お断りしているんですが、夜間は駐車台数が少ないですし、かまいませんよ。それに夜間はワンオペになってしまうので、車が停まっていてくれた方が安心だったりします」
「ワンオペですか?」
「ええ、ワンオペというのは、夜間に一人体制で勤務することです。人件費の削減でやむをえないんですが、正直何があるかわからないんで心細いんです。その時にお客さんの車が停まっていると心強いんです」
「はあ、なるほど。では明日の朝までお世話になります」
そう言って啓三は車に戻り、後部に体を伸ばせる空間を作り、クッションシートを敷き、用心のため車のドアを全てロックすると、今回用意したシュラフに潜り込んだ。車内は、コンビニの灯りに加えて、幹線道路を通過する車のライトでさらに時折明るくなった。車の通過音も聞こえた。九月の夜の冷気は車体とシュラフで防がれて、啓三の体は次第に体温が篭もって温かくなり、ビールのここちよい酔いも手伝って、光や時折聞こえる弱い騒音が気にならなくなり、いつしか眠っていた。
*
翌朝、尿意を感じて眼を覚ました啓三はコンビニのトイレを借りようと、朦朧としながらシュラフを脱け出し車外へ出た。腕時計を見ると、午前六時過ぎを示していた。車外は霞ヶ浦の水辺が近いせいか、昨日夕方の雨のせいか、かなりの霧が出ていた。
コンビニの店内に入ると、レジにいた昨晩の店員に声をかけた。
「お早うございます。ゆうべはお世話になりました。トイレをお借りします」
「あ、お早うございます。どうぞ。夕べはよく眠れましたか?」
「はあ、お陰様で何とか眠れました。ありがとうございました」
そう挨拶して啓三はトイレに入り、放尿した。緊張していた膀胱の括約筋が弛み、ストレスから開放されるのを実感した。しだいに頭が覚醒してくるのが分った。
トイレを出て、飲み物の棚に行き、パックの牛乳を手に取り、レジで淹れたてのコーヒーを注文した。コーヒーは、レジ横の自動コーヒーサーバーから紙コップに入れるものだった。淹れたての香り高いキリマンジャロ・コーヒーを手に持ち、昨晩同様イートインコーナーに移動して、硬い椅子に腰かけた。コーヒーのアロマを鼻腔に吸い込んだ。
店の外は薄く霧がかかり、時折、車が通った。頭脳がすっきりしてくると、自分が世の中に取り残されてしまっているような気がした。啓三は新聞のスタンドから、自宅で購読している全国紙を抜き取って、レジで代金を支払った後、椅子に戻って読み始めた。
先ず全国版のページを開き、大きなニュースを眼で追った。昨日のニュースが載っていた。遠くの県で起きた事件が載っていたが、ピンとは来なかった。次に地元版のページを見たが、交通事故など茨城県のニュースが載っているだけだった、栃木県内のニュースは見当たらなかった。ひととおり文化欄、趣味欄、スポーツ欄、国際欄、政治欄などに眼を通した後で、残りのコーヒーを飲み干した。
―またヨーロッパでテロ事件か。治安が悪化して大変だな。これでまた移民排斥とか、イギリスはEU離脱の方向に向かうのだろうか。まあ、直接日本には関係ないようだけどー
自分がかろうじて、世の中の動きについていっていることに安心した。
啓三は、店外に出て、深呼吸し、少しストレッチ体操で体を動かした。
―もう七時か。うちの家族はもう起きて朝食を食べ始めているころかな。今日は日曜日だから、のんびりしてるだろうー
家族が朝食を食べている場面を想像すると、啓三は自分も空腹を感じた。
―僕も何か食べるかー
啓三はまた店内に入り、棚の商品を眺めながら、食べたいものを物色した。温かいものを食べたくなった。麺類のコーナーでカップの汁麺の中から、掻き揚げ蕎麦を選んで、レジの店員に、「これ、温めてください」と頼んだ。
「はい、ありがとうございます。三百九十八円です」
代金を支払い、電子レンジで温めたカップ麺を受け取ると、啓三はまたイートインコーナーで食べ始めた。
―便利な世の中だよな。どこにでもコンビニがあるし、二十四時間開いているから、全然不自由しない。一人で車で移動しても、キャンプ用の炊事道具なんかなくても大丈夫なんだなあー
カップ麺は温かく、麺の量も朝食には十分だった。体が温まってきた。汁は関東らしくやや塩っぱかったが、全部飲み干した。口直しにパックの牛乳を飲むと、口の中が中和された気がした。
牛乳を飲んで間もなく、啓三のお腹がゴロゴロし始め、便意を催した。啓三の体質ではいつものことだったので、おもむろに立ち上がり、店員に「トイレ、お借ります」と断わり、店の奥の扉を押してトイレに入った。トイレはきれいに清掃され、気持が良かった。啓三は排便を済ませると、お腹がすっきりしてトイレを出た。
啓三は弁当コーナーの商品棚で、昼食用の弁当を物色した。お握りが一個百円で特別セールで売られていた。啓三は思い切って種類が違う三個のお握りを選んだ。それにペットボトルのお茶とともにレジで代金を支払った。お握りは電子レンジで温めてもらった。昼食時までには冷めてしまうが、それでも加熱したことでふっくら感が残り、おいしく食べられるのだった。
「ありがとうございました」
店員の声に送られて啓三は店外へ出ると、車に乗り込んだ。エンジンがかかると、啓三は釣りに向かう気持がしだいに昂まってくるのを感じた。
*
啓三は車を運転して浮島の和田岬の釣り場へ戻った。釣り場には見覚えがある土浦ナンバーの車が停まり、すでに釣りを始めている先客がいた。啓三も近くに車を停め、挨拶した。
「お早うございます。やっぱり沼尻さんでしたか。栃木の那須です。一ヶ月ぶりですね」
「いや、どうも。那須さんかあ。久し振りだっぺ。また、行ぎ会ったな。俺は毎週のようにここへ来てっけど、那須さんは一ヶ月ぶりかあ。まあ、とにかくまた一緒にしみじみ鯉釣りできっぺ」
沼尻は上機嫌で笑った。
「沼尻さんこそ、お元気そうで何よりです」
「まあな。鯉釣りをやるくらいの元気は残ってるということだっぺ。若い時みたいな元気はもう出ねえけんどな。だから、うちのカミさんは欲求不満だっぺ。あっはっは。那須さんはよう、カミさんを可愛がってっか?」
「はあ、どうも。うちは何とか」
那須は当惑して、言葉を濁した。
「そうけ。それはいがった」
「ところで、あれから沼尻さんの方は、釣果はいかがでしたか?」
「ああ。相変わらずアメリカナマズばっかりだなあ。霞ヶ浦はアメナマに占領されちまったようなもんだ。那須さんは、いつから来てるんだ?」
「はあ、昨日からです。そういえば、昨日アオウオを釣りました。三十センチくらいの・・・」
「ほう。アオウオか。アオウオは利根川では釣れっけど、霞ヶ浦ではなかなか釣れねえんだど。いがったな。釣ったアオウオは?」
「はい、霞ヶ浦に戻しました。食べれば美味しいそうですが、栃木に持ち帰るわけにもいかないし」
「んだっぺ。霞ヶ浦でまた大きくなって、また誰かの釣り竿にかかってくれればよかっぺな。ところで、アオウオがかかったってことは、餌を工夫したのけ?」
「そうです。釣具屋で売ってたタニシの粉末入りの餌に摺り潰した魚肉ソーセージを混ぜました」
「やっぱりな。アオウオは動物性蛋白が好きなんだな。アオウオを狙っている釣り師は、いろいろ餌を工夫してんだど」
啓三は先輩鯉釣り師の沼尻に敬意を表しながら、ひとしきり情報交換しあった。話しながら釣り道具を車から出し、カストロ帽のような釣り師の帽子を被り、バケツで湖水を少し汲んで、その水で餌を練った。念入りに餌を捏ねて適度な硬さを確かめ、餌団子を丸めた。そこに慎重に四本の釣り針を埋め込み、さらにその表面をテカテカに光るまで指と掌で磨いた。準備ができると、竿を振りかぶってキャスティングした。餌団子は狙ったポイントにポチャンと落ちた。
「おう。那須さんも、なかなか形が様になってきたな。いいフォームだっぺ。その帽子もよう、似合ってるど。もう一人前の鯉釣り師だっぺ」
「はあ、先輩から誉められると、嬉しいです」
そんなことを言いあいながら、二人はさらに釣り情報を交換した。
釣り情報を話しているうちに、啓三は昨日の女のことを思い出した。
「そういえば、昨日、ここで釣っていたら、いい女が話しかけてきたんです」
「いい女?」
「はい、八頭身美人でした。なんでも近くの老人ホームで介護の仕事をしているとか。声もきれいな方でした」
「老人ホームで介護の仕事? 池田さんか?」
「はあ、その人は池田と名乗っていました」
「池田諒子さんだ。我々の観音様だっぺな。元気そうだったけ?」
「はい。でも少し淋しそうでした。最近、老人ホームで担当していたお年寄りが亡くなったとかで」
「年寄りの介護はよう、なかなか大変な仕事だっぺ。頑張って仕事しても、いつか別れがくるんだからなあ。つらかっぺなあ。池田さんは・・・」
「池田さんて、そんな有名な人なんですか?」
「有名というか、俺たち釣り仲間はファンだなあ。鯉釣りしてるとよう、運がいいげば、池田さんが堤防を歩いてきてさあ、俺たちに声をかけてくれんだ。気持も声もスタイルもきれいな美人だっぺ。俺たちはみな、池田さんが好きなんだ。年を取ったらよ、池田さんみたいな人に介護してもらえば、最高だっぺ」
「はあ、そういえばそうですね」
啓三は、ちょっと呆れて言った。
「何だっぺ。気のねえ返事だなあ。なあに、そのうちまた、池田さんに会うのが楽しみになっど。でもよ、池田さんは俺ら鯉釣り仲間の憧れのマドンナだからな、抜け駆けは駄目だっぺ」
「分りました」啓三は神妙に答えた。
「はっはっは。まあ、半分冗談だけんどよ。後の半分は本気だど。池田さんに惚れてる釣り師は多いど。競争相手だっぺ。まあ、俺なんかは、この年だから競争から降りてもいいんだけんどよ、諦めてはお終いだからなあ。ここへ来て強力なライバル現るか。那須さん、とぼけてるけど、おめえのことだっぺよ。あはは」
「僕はとてもそんなつもりは・・・」
啓三は、話題が思わぬ方向へ発展したので当惑した。沼尻は竿の先から延びる釣り糸を凝視しながら、ひとりごとのように言葉をつないだ。
「そうけ。まあ、いい。鯉釣りをしてっとよ、いろんな人がやってくるって訳だ。じっと釣り糸を垂れているだけに見えるかもしんねえけどよ、これも人生の縮図だっぺ。俺なんか、市役所で市民のしもべとして何十年も仕事をしてきてよ、来年で定年だど。公務員を続ける秘訣はよ、気持の浮き沈みをできるだけ抑えて、ある意味淡々と仕事をすることだど。といっても、災害対応の時は大変だけんどな。エンジンを全開にしても足りない時もあっど。けんど、やり過ぎると長続きしなくてなあ。市民サービスだって、長く続けることが大事だっぺ。やりすぎて心身に異常が起きたら、仕事にならなかっぺよ。市民へ奉仕もできなくなるべ。
市民から見ればよ、公務員は可もなく不可もなく、十年一日のごとく仕事をすると皮肉めいて言われるけどよ、定年まで勤め上げるのはそれなりに大変なんだど。何の仕事でもいっしょだっぺ。那須さんの職場も同じじゃないのけ?」
「はあ、僕は会社の経理を長くやってきたので、仰ることはよく分ります。でも今はちょっとした刺激を求めて、霞ヶ浦までやってきて鯉釣りに挑戦しています。いろいろな人と話して、触れ合いがあって、楽しいですね」
沼尻は、ニヤッと笑って膝を打った。
「いやっ、どうも。ちょっとした刺激ってことけ。それだ。危ねえ、危ねえ。それが人生の転落の始まりになることもあるでしょうよ。しみじみして、気を引き締めねえとな」
「しみじみ・・・ですか?」
「しみじみするっつうのは、茨城弁でな、慎重にとか、謙虚にとか、穏やかにとかいう意味だっぺ。ところでよ、あまり話ばっかりしてっど、釣りに集中できないべ、けんど、鯉釣りは、鯉がかかるのをしみじみ待つ釣りだもの、話をしてもあまり関係ないべ。鯉がかかればセンサーが教えてくれっから、そのへんは大人の釣りっつうか、年寄りでもできる釣りっつうか、俺らには合ってるんだっぺ。どれっ、そろそろ、餌団子が残ってっか、確認してみっか」
沼尻はそう言うと、自分の竿のリールを順番に巻いて餌団子を付け替え、また同じポイントにキャスティングした。啓三も沼尻に倣って、ラインを巻き上げ、餌団子を交換し、狙ったポイントに着水させた、
二人はひととおりの作業を終えて一段落した。啓三が声をかけた。
「今日は、これからの天気はどうなんですかね」
沼尻は得意な話題になったので、「待ってました」という顔で応じた。
「今日は、天気予報では安定しているようだど。昨日のうちにネットで予報を見ておいたから、大きく外れることはなかっぺ。霞ヶ浦は銚子や鹿島方向の海の影響を受けてっから海洋性の気象になることもあるんだ。晴れた日中は南東方向から風が吹いてくることが多いべ。そのへんは、気象予報の専門家はよく分かってっから、予報が外れることはめったにねえけんどよ。
そんでも、夕方、急に気温が下がって突風が吹くこともあっど。雷雨になることもあっど。地域限定の気象の変化では、俺ら釣り人が、風向き、雲の流れ、太陽の翳り方などを常に観察することが大事だっぺ。
霞ヶ浦は広いから、土浦方面、稲敷方面、潮来方面、銚子方面の天気予報をチェックしとくといいんだな。ローカルな情報と関東地方全体の気象情報を合わせて知っとくと、大きく外れることはねえど」
啓三は霞ヶ浦と栃木県の気象予報の違いを指摘したくなった。
「なるほど。勉強になります。栃木では山の方の雲の出方とか、気になります。北や西の方角に山地があるので、山の気象の変化は山間部や平野部の気象の変化に影響します。ですから、栃木や群馬では山の方の天気を気にしますね」
「そうけ。それはおもしれえべな。土地や地形によって気象は変わるっぺから、やっぱ、観天望気は大事だべなあ。まあ、今日の霞ヶ浦は、午前中は無風だけんど、午後は多分銚子方向から南東風が吹くべ」
沼尻はそこまで言って、湖面と上空の雲の動きに視線を移した。
「ところで今朝も早かったから、ちょっと眠くなってきたなあ。俺は車で少し横になっから、那須さん、後はよろしく。なあに、鯉がかかったらセンサーが報せてくれる。果報は寝て待てと言うからなあ。平日は仕事に追われてっから、休日は体を休めるのが釣りの目的だっぺよ。なあ、那須さん」
「はあ。そうでしたね」
那須は相槌を打って、沼尻が車に潜り込む姿を眼で追った。
*
昼までには、まだ時間があった。残暑の陽射しが照りつけ、堤防上は気温が上がってきた。風が吹いてくるには間があった。堤防上は湖面からの照り返しがあり、紫外線が倍増しているのではないかとさえ思われた。
そこへ、つば広の帽子を被った初老の男が通りかかった。長袖のチェックのシャツを着て長ズボンにゴム長を履いた姿だった。胸には一眼レフのカメラを下げ、手にはメモ帳を持ち、肩からはブリキの筒のようなものをかけていた。帽子から白髪がはみ出て、眼鏡をかけた面長の顔立ちだった。穏やかなインテリ風の男だった。
その男は、啓三と目線が合うと軽く会釈した。
「どうですか?釣れますか?」
男が親し気に話しかけてきた。
「いえ、全然です」
「釣りの仕掛けを見ると、鯉釣りだね。鯉釣りはのんびりした釣りだからいいね。なかなか釣れないのがまたいいんだね」
男は、ゆっくりした調子で仙人のような話し方をした。好感を持った那須が応じた。
「釣りにお詳しいんですね。釣りをやられるんですか?」
「若いころは、野鯉釣りにはまったこともあったね。でもなかなか大物は釣れないのでいつの間にか、諦めたね。今は年を取ってしまって気が短くなったから、霞ヶ浦の自然にこちらから近づいて、植物観察を趣味にしてるんだよ。少しは歩くから健康にいいんだ。植物は逃げていかないし、季節がめぐってくれば、植物は確実に成長して花を咲かせ、実をつけるから、文字通り着実なんだ。釣りのように当たり外れが少ない。植物を採集してこの胴乱に入れて持ち帰り、分類して標本を作るのも楽しい。でも希少な種類は採集しないよ。写真を撮るだけだ。写真を見るのも十分楽しいね」
「はあ、なるほど」
啓三は感心して相槌を打った。
「うむ。霞ヶ浦は昔、海だったから、海浜植物が少し残っている。たとえばコウボウムギ、ハマヒルガオ、ワセオバナなどだね。それにこの浮島の妙岐の鼻の湿原には珍しい植物も生育している。妙岐の鼻湿原は約六十ヘクタールの面積で、霞ヶ浦最大の湿原なんだなあ。ここの葦とカモノハシというイネ科植物はシマガヤとも呼ばれて、昔は茅葺屋根の材料にされたんだ。葦原は入会地として共同管理されていたんだよ。近年は霞ヶ浦周辺湿地でも外来種が目につくが、それはそれで研究対象だね。霞ヶ浦周辺湿地は水生植物の宝庫といっていい」
啓三は、世の中にはいろいろな趣味の人がいるものだと思った。植物愛好家というよりは専門家ではないかという気がした。
「あのう、もしかして植物の先生ですか?」
「五年前まで、地元の高校で生物の教師をしていました。今は定年退職して、植物観察三昧です。うちの女房にとっても、私が濡れ落ち葉や粗大ゴミみたいに一日中家にいるよりは、亭主元気で外に出るほうがいいみたいですよ。あははは」
啓三が何と応えていいか困惑していると、
「あなたはいかがですか? やはり家に居にくい事情でも?」
「いえ、そういうわけではないんです。私は栃木県から釣りにきているんですが、霞ヶ浦の広々とした景色が好きなんです。鯉が釣れればいいですが、釣れなくても霞ヶ浦を眺めているだけでもいいんです。仕事のストレスから開放されるんです」
「ほう、仕事は何を?」
「会社の経理です」
「それは責任が重いですね。一円でも帳尻が合わないと、その日は帰れないんでしょ」
「まあ、そんなところです」
「それはそれで、たいへんな仕事ですね。まあ、給料もらっているんだから楽な仕事なんてないという人もいますからね」
「全くですね」
そんなことを話していると、車から沼尻が出てきた。
「おや。糸賀先生。お久し振り。お変わりありませんか?」
沼尻は丁寧に挨拶した。
「ああ、やはり沼尻さんでしたか。見覚えがある車だと思いました。どうですか、最近、鯉釣りは?」
「いやあ。さっぱりです。霞ヶ浦から大鯉はいなくなったんでしょうかね。先生は相変わらず植物観察ですか。紳士の優雅な趣味ですね」
「いやいや、趣味といっても、調査研究してるんですからね。何か発見があったら植物学会に報告しますから、気が抜けないんです」
「なるほどね。そうでしょうねえ。那須さん、糸賀先生は茨城県でも五本の指に入るくらいの霞ヶ浦の植物研究の大家なんだ。我々が尊敬している大先生だ」
「はあ、僕も一目で只者ではないと分りました」
糸賀は手を振って言った。
「いやいや、とんでもない。只の植物好きの老人です。那須さんですか。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
「ほら、糸賀先生の謙虚なところが好きなんだなあ」
啓三がすかさず言った。
「沼尻さんの茨城弁がひっこんでしまいましたね」
「まあな、尊敬する先生の前では標準語だ。地方公務員だから、一応標準語もしゃべれるんだ。あっはっは」
沼尻が豪快に笑うと、他の二人もつられて笑った。啓三はコーヒーを淹れるチャンスだと思った。
「今、コーヒー淹れますね。一応ドリップですけど」
そう言いながら啓三は車からキャンプ用のガスコンロとヤカンを取り出し、お湯を沸かし始めた。啓三がコーヒーを準備している間にも会話が続いた。
三人が談笑しているそばを、サイクリングのグループが通り過ぎた。サイクリストたちは、ヘルメットを被り、サングラスをかけ、スリムな体型だった。サイクリストたちを見て沼尻が言った。
「この頃、サイクリングの人が増えてきたなあ。霞ヶ浦の堤防上の道はサイクリング道路として整備されたので、人気が出てきたんだっぺ。いいことだな。サイクリングは健康にいがっぺ。いい運動だなあ。ガソリンも使わない。排気ガスで空気も汚さない。体も絞れる。いいことずくめだっぺ。全くエコだっぺな」
「霞ヶ浦はエコの拠点になりえますね。釣りもエコだと思いますね。だって大の男が一日中じっとして、魚が釣れるのを待ってるわけだから。出すのは息の中の二酸化炭素ガスだけでしょう」
「あはは、那須さんも面白いことを言うね」
「恐れ入ります。あ、お湯が沸きましたからコーヒー、淹れますね。モカです。カップが足りないので、すみません。紙コップで」
啓三が沼尻と糸賀に、コーヒーが入った紙コップを差し出した。沼尻が紙コップを受け取ると、
「うわ、あちち。これはちょっと・・・」
「すみません。少し冷ましてからの方がよかったですね」
啓三が恐縮して言った。
「いい香りだね。コーヒーはまずアロマを楽しみ、次に味だが、広々とした霞ヶ浦の景色を眺めながら、コーヒーをいただくのはまた格別ですね」
糸賀が柔和な顔で眼を細めて、話を続けた。
「霞ヶ浦は太古から現代まで自然の恵みをもたらしてきたんですね。その恩恵を受けて、私達は世代を重ねてきたんです。だからこそ、私達は霞ヶ浦という湖を大切にしなければならないんです」
「糸賀先生、まったく同感です。霞ヶ浦で釣りをしていると、そのことがよく分ります。私らは霞ヶ浦の大自然と対話しながら、魚と対話しながら、遊ばせてもらっているんです。霞ヶ浦には感謝、感激なんです」
感に堪えないという沼尻の表情を見て、那須も何度も頷きながらちょっとからかった。
「沼尻さんは、標準語と茨城弁を交互に使って、忙しいですね」
沼尻は意に介さず、応じた。
「んだっぺ。バイリンガルだっぺよ。なかなかまねできないべよ」
「はあ、確かにそうですね」
「糸賀先生は、今日はどちらへ?」
「これから妙岐の鼻湿原で調査した後、浚渫土で造成した嵩上げ地を歩いて、芽吹いた植物を探そうかと思っています。じゃ、そろそろ失礼しよう」
「先生、お気をつけて」
沼尻と啓三はそう言って、糸賀を見送った。糸賀はひょこひょことしたゆっくりした足どりで飄々と堤防上の道を遠ざかった。
*
啓三と沼尻は、しばらく湖面を眺めながら沈黙した。今日も昼近くなって、風が出てきた。啓三は沼尻に聞いてみたいことがあった。
「沼尻さん。もし大きな鯉が釣れたら、どうしたらよいでしょうか。釣れたらいいなあと、わくわくしながら釣ることばかり考えていたんですけど、もし釣れたらどうすればいいのか、そこを考えていなかったんです」
「ははあ、ビギナーはそれだから困んだ。釣れたらどうすっぺ。そんなことは釣れてから考えればいいんだっぺ。釣り人はまず釣ることに集中する。それが大事だなあ。雑念をはらうってことだっぺ」
「そうはいっても、師匠。万一釣れたらどうしましょう?持ち帰って調理して食べるか。それとも霞ヶ浦に戻すか、ですよ。これは大問題です」
師匠と呼ばれて悪い気はしない沼尻は、那須をじろっと見た。
「そんなことを言ってっけど、那須さんは鯉の調理は出来っか?」
「いいえ、鯉を捌いたことはありません」
「だっぺよ。鯉を捌くのは、出刃包丁も握ったことがない素人には無理だっぺな。鯉のきも(胆嚢)をつぶしてしまったら、全体が苦くなって、とても食べらんねえ。鯉料理はいろいろあっけど、どれも簡単じゃねえんだ。だったら、鯉を釣り上げたら、やることは決まってくるべよ」
「霞ヶ浦にリリースするしかないわけですね」
「うむ。あるいは、鯉が好きな人にあげて、食べてもらうという選択肢もあるど。昔、蛋白質が不足していた時代は、鯉はものすごく貴重で目出度え魚だった。地元の結婚式では、鯉こくとか、鯉の旨煮のような鯉料理は欠かせねえんだ。鯉はたくさん卵を産むから、子孫繁栄のシンボルなんだど。俺は時々、鯉のあらいが食べたくなっぺよ。あれはうまいなあ」
沼尻は鯉料理の美味さを思い出して、顔がゆるんだ。
「鯉は江戸時代には高級魚だったんだ。水戸の徳川家は、江戸の将軍家にご進物として、霞ヶ浦の鯉を献上していたことを記録した古文書が残ってるんだ。鯉は滝登りで縁起がいい出世魚なんだな。麻生藩の新庄家は、ワカサギを将軍家、つまり公方様に献上していた記録もあるんだ。公方様に献上した魚だから、ワカサギを漢字で公魚と書くことになったと言うな」
「へー。沼尻さんは、歴史にも詳しいんですね」
「まあな、雑学だけどよ」
「栃木県は海無し県ですが、川はきれいなので、昔から川魚料理は人気です。年配の人はアユやハヤは好きです。ハヤはウグイのことです。アカハラと呼ぶ地方もあるそうです。鯉の旨煮は温泉宿の料理で人気ですね。私も甘辛くこってりした鯉の旨煮は好きです。でも自分で調理したことはありません」
「んだっぺよな。茨城でも年寄りは川魚料理が好きなんだけど、若い人は肉料理の方を喜んで食べるよな。焼肉、ハンバーグ、ステーキとか。生ハムとか。ワインやビールには合うからなあ。
若い人の日本酒離れもあるなあ。日本酒には、魚料理が合うよなあ。それでも、海魚はまだ若い人も食べるけど、川魚を食べる人は減ってるなあ。川や湖が汚れているし、川魚漁師も少なくなった。
新潟の村上の三面川みたいに、鮭漁を伝統文化として大切にしてるところも、あるにはあるがなあ。村上の地酒、〆張鶴は鮭料理に素晴らしくよく合うんだ。
長良川とか四万十川みたいにかろうじて、川魚漁が残っているところもあるが、全国的には川魚を食べる食文化が廃れつつあるから嘆かわしいど。んだなあ、那須さん、帰りがけに、地元の川魚料理屋さ寄って、鯉料理を食べたらいがっぺよ。国道沿いの定食屋に、鯉料理、鯰料理を出している店があっからな」
「はあ、では帰りに寄ってみようかな」
「ぜひ、寄ってみろ。ところで栃木のうまいものって言ったら、何だ? いちごは有名だな。とちおとめは確かにうまいなあ。茨城のスーパーでも売ってっぞ」
「はい、いちごの生産量は栃木が全国一です。最近は、スカイベリーという新品種が話題になっています」
沼尻は、興味深々で言った。沼尻は市役所の観光振興課に務めていたことがあり、地域おこしや地元の名産品には関心があった。
「スカイベリー、そういえばテレビでやってたな。一粒六百円もするってな。びっくりだあ。他に栃木名物はあっか?」
「そうですね。やっぱり、佐野ラーメンとか、宇都宮餃子とか」
「あー。なるほど。確かに有名だな。でも、ご当地ラーメンは全国にあっからな。餃子も浜松餃子が有名だぞ。ラーメンも餃子もちょっと地味だな」
啓三は、少し向きになった。
「それなら、ニラ蕎麦があります。鹿沼の名物です」
「ニラ蕎麦? 何だ、それ」
「盛り蕎麦の上に、さっと茹でたニラが乗っているんです。シャキシャキと歯ごたえがあって、おいしいんです。鹿沼市の蕎麦屋なら、どこでも出しています。海老天とか野菜天とニラ蕎麦はとても合いますよ。食べてみないと、おいしさは分からないかもしれませんね」
「ふーん。ニラ蕎麦か。食べてみたくなってきたなあ。今度、鬼怒川温泉か那須塩原温泉に行くとき、寄ってみっか」
「ぜひ寄ってください。それから、最近、有名になってきたのが、鹿沼のシウマイです。横浜の崎陽軒の初代社長が鹿沼出身なのにちなんで、シウマイで町おこししてるんです。ウナギやレンコンを入れたシウマイも工夫しています。いろいろな味のシウマイが味わえますよ。それから、那須サファリパークや、あしかがフラワーパークのイルミネーションも有名ですよ。家族づれに人気です」
「なんだ。結構、栃木にもいいところがあるんだなあ。日光東照宮やサル軍団だけじゃないんだな」
「そうなんです。栃木県民はPRが下手なんですよ」
「そこは、茨城県民も同じだな。あははは」
二人は顔を見合わせて笑った。
*
二人は、のんびりした気分で釣りを続けたが、昼の十二時を過ぎても、さっぱりアタリがなかった。アメリカナマズさえ、釣れる気配がなかった。啓三は栃木に戻る時間になった。
「沼尻さん。そろそろ栃木に帰ろうと思います。今日も、いろいろお話を聞かせていただいてありがとうございました」
「そうけ、帰りの車の運転、気をつけてくれよ。また、ここで一緒に釣りできたらいいなあ」
「そうですね。来月、十月にはまた来れると思います」
「十月は水温が下がって、鯉は冬眠の準備で栄養をつけようと、食欲が旺盛になっど。んだからよく釣れんだ、来月に期待すっぺよな」
「はい、また沼尻さんにここでお会いするのが楽しみです」
「そうけ、あっははは。じゃな」
啓三は手早くリールを巻き、竿を収め、小型ガスコンロも車に載せた。運転席に座り、窓を開けて言った。
「じゃ、沼尻先輩、失礼します」
「おう、またな」沼尻は手を上げて応えた。
*
啓三は湖岸の釣り場を後にして、堤防上の道を車でゆっくり通り、集落の中を幹線道路へ向かった。昨晩過ごしたコンビニの前を通過した時、昨日、伊能が言っていた地元産のブランド米のことを思い出した。
「たしか、ミルキークィーンとか言ってたなあ。伊能さんが食べさせてくれたミルキークィーンのにぎり飯、美味かったなあ。すぐ近くの産直店で売ってるとか言ってた」
幹線道路に出て、数分車を走らせると、その店が視野に現れた。啓三はその店の駐車場へ車を停め、店内に入ってみた。
店内では、地元、稲敷産の農産物が豊富に並べられていた。野菜類はニンジン、ダイコン、タマネギ、大きなニンニク、ナス、キュウリ、ネギ、ゴボウ、レタス、キャベツ、チンゲンサイなどで、栃木県でも生産しているものが多かったが、「値段がかなり安いんじゃないかな」と思った。別の棚にはレンコンが大量に陳列されていた。
「このレンコンは太くて立派だなあ。値段は、意外と安い。さすが、名産地だけあるなあ。買いたいけど、うちの嫁さん、レンコン料理のレパートリーは少ないからなあ。
この江戸崎かぼちゃというのは綺麗なかぼちゃだな。この大きさで値段が千円なら安いなあ。このへんの名産かな。そういえば、由美子はかぼちゃが好きだよなあ。この薩摩芋は紅はるかか。とにかく安いよな。どっちか買って帰ろうかな」
啓三は独り言を心の中でつぶやきながら、野菜の種類の抱負さと値段の安さに驚いた。
壁際の棚に米袋がたくさん並べてあった。袋にはコシヒカリのほかに、ミルキークイーンと印刷されたものがあった。
「これか、ミルキークィーンは。値段は五キロで二千二百円か。うちで、ふだん食べている米はいくらぐらいかな?」
啓三は、食品の買い物は妻に任せているので、米の値段は知らなかった。それに、今わが家に米がどのくらい残っているかもわからなかった。ここで茨城産の米を買って帰っても、迷惑がられるかもしれないと思った。啓三はケイタイを取り出して、妻にお伺いを立てることにした。
「あ、もしもし、由美子。俺だ」
「あら、あなた。今どこ?」
「まだ霞ヶ浦。これから帰るところ。ところで、産地直売の店に寄ってるんだけど、地元で米屋さんをやってる釣り仲間から勧められた美味しい米を売ってる。買って帰ってもいいかな? おみやげに。冷めてもおいしい米だって」
「そうね。今うちの米が少なくなってきて、そろそろ買おうと思っていたところだから、
ちょうどいいんじやない。でも高い米はだめよ。どのくらい?」
「五キロで二千二百円」
「ちょっと高いけど、今出ているのは新米だからそんなものね。まあ、どれくらい美味しいか、食べてみたいわね」
「じゃ、買っていくよ。由美子が好きなかぼちゃも買ってみるよ。楽しみにしといてね」
「ええ、帰り、安全運転、気をつけてね」
「ああ、ゆっくり帰るから、夕方六時頃かな。家につくのが」
「はい、待ってます。じゃあね」
電話を切ると、啓三は、産直所の水産物コーナーに回ってみた。そこには、霞ヶ浦の水産物が並べられていた。小魚、エビ、アミの佃煮、ワカサギ甘露煮やシラウオの煮干。そして鯉の旨煮がレトルトパックに入れて売られていた。啓三は鯉の旨煮のパックを手に取ってみた。鯉の大きな切り身をやわらかく煮詰めたものが、二切れ入って、八百円だった。
「鯉はやはり高級品だな。栃木では鯉甘露煮とも言うな。甘辛くて美味しいよな。白い御飯や日本酒に良く合うし。よし、ちょっと高いけど、家族四人分、二パック買って帰るか」
啓三は買い物かごにパックを二ついれた。次いでワカサギの佃煮のパックも入れた。野菜売り場で江戸崎かぼちゃ、さつまいも、米の売り場で五キロ入りのミルキークィーンの袋を取るとレジへ廻った。
支払いを済ませると、啓三は車へ戻った。
「さて、お土産も買ったし、後は帰るだけだけど、やはりお腹が空いたな。沼尻さんが言ってた川魚料理の定食屋を探してみるか」と考えながら、車を発進させた。
*
浮島を貫く幹線道路は稲敷市から美浦村へ続いていた。途中、干拓地を抜け、ゴルフ場の傍を通過した。広畑貝塚の表示看板があった。そこを横目に車を進めると丘陵地になり、運動公園の看板を横目にして走ると国道125号線へ出た。そこから、小野川の河口部にかかる橋を渡り、日本中央競馬会の美浦トレーニングセンターがある美浦村へ入った。
大谷と表示された交通標識がある交差点の角に、川魚料理の看板を出した大衆食堂が目についた。啓三は、その店の駐車場に車を停め、店内に入った。店内には、地元の人らしい客が数人、食事をしていた。啓三は、畳敷きの席に上がると、メニューを手に取った。メニューには、ワカサギ天ぷら定食、鯉こくとあらい、鯉旨煮、ナマズの天ぷら、と印刷され、写真も示されていた。どれも美味しそうだった。
店員の女性がお茶を運んできた。
「いらっしゃいませ。何にしますか?」
「そうだなあ。迷うけど、鯉の旨煮はお土産に買ったから、ナマズを食べてみるか。このナマズというのは、日本ナマズ?それともアメリカナマズ?」
「アメリカナマズです。養殖物です。日本ナマズは霞ヶ浦ではほとんど獲れませんし、養殖が難しいそうです」
「そうですか。アメリカナマズを食べるのは初体験だなあ。じゃ、ナマズのてんぷら定食をお願いします。」
「身が大きくて、美味しいですよ。少しお待ちください」
女性は、奥の厨房に声をかけた。
「ナマズの天ぷら定食、一丁」
「あいよ」
奥の方から、男の声が聞こえた。注文が通り、ほっとして啓三はあらためて店内を見渡した。畳の席のほか、椅子席もあるが、二十人ほどで満席になりそうな、こじんまりした店だった。壁にはメニューが貼ってあり、帆引き船の写真が額入りで飾られていた。棚には雑誌や新聞が並べられてあった。地方の普通の大衆食堂の雰囲気だった。
十分ほどして、注文した料理が運ばれてきた。白い御飯から湯気が立ち、お新香と味噌汁、エビの佃煮が添えられ、中央にボリューム感たっぷりの天ぷらが皿に盛られていた。啓三は、割り箸を手にし、心の中で「いただきます」と唱え、てんぷらにかぶりつきたい気持を抑えて、まず、味噌汁の味見をした。味噌汁の具は蜆だった。蜆特有のいい味が出ていた。
口の中が潤ったところで、啓三は、天ぷらを箸でつまみ、天つゆに少しつけて、頬張った。大振りの白身魚の柔らかく上品な味が口いっぱいに広がった。クセも、泥臭さもなく、ほのかな甘味がなんとも言えなかった。
かつて東京出張の時、得意先の重役の接待で高級天ぷら店で食べたキスやメゴチは確かに美味しかったが、値段が高く、量が少ないのを残念に感じたことを思い出した。
アメリカナマズの天ぷらは、天ぷら好きを納得させ、味、量、値段ともに、合格点をつけられると思った。啓三は、今度アメリカナマズが釣れたら、クーラーボックスで持ち帰り、自宅で調理して、家族に食べてもらおうかと思った。
定食には、レンコンの天ぷらもついていた。厚いレンコンを揚げたもので、口当たりがサクサクとして絶品だった。
啓三は、白い御飯も口にした。粒が揃った白くきれいな御飯は、口に入れてゆっくり噛むと、新米らしい微かな芳香と餅のような柔らかな食感が、啓三を幸福にさせた。
ナマズの天ぷら定食をゆっくり味わいながら、啓三は昼食を済ませた。レジで代金を支払いながら、話しかけてみた。
「ごちそうさま。ナマズの天ぷら定食、美味しかった。御飯も美味かった。米の品種は何ですか?」
「うちは、ミルキークィーンです。稲敷の地元の米です」
「やっぱり、そうですか。本当に美味しい米ですね」
「ありがとうございます」
レジの小柄な女性が微笑みながら応じた。
啓三は支払いをすませ、にこやかに会釈し、店外へ出た。
―さあ、これから土浦へ出て、常磐高速から北関東道に乗って、栃木を目指すかー
啓三は国道125号から土浦駅前を抜けて、土浦北インターから常磐高速道に乗った。
*
啓三は、常磐自動車道のサービスエリアでトイレ休憩した後、友部インターで北関東自動車道へ抜けた。平野から山地に入った。見慣れた栃木の風景が車窓から見えて、ホッとした。
―茨城の広々とした風景もいいが、山があちこちに見える栃木もいいもんだな。何といってもふるさとだから安心感がある。あらためて栃木の良さに気づいたなあー
そんなことを考えながら啓三は、慎重に高速道路を運転し、宇都宮上三川インターから一般道に降りた。
自宅に到着したのは、日の入りが早い秋の夕暮れ時だった。車の音を聞きつけた妻の由美子と康太、夏海が玄関のドアを開けて出迎えた。
「お父さん、お帰り。鯉釣れた?」夏海が聞いた。
「ただいま。鯉はまだ釣れないよ。鯉釣りの先輩方の話では、鯉釣りはじっと我慢が大事だそうだ。人間の恋と同じだ。お母さんを釣り上げたときも、あせらず慎重にアプローチしたんだ」
「あら、あたし、何の餌で釣られたのかな」
「じっくりと撒き餌を撒いたんだよ。まあ、雰囲気づくりだな。それで、お父さんを分かってもらえたんだよ」
「へえ、お父さん。やるじゃん」康太が、尊敬する眼で父親を見た。
「まあ、子どもの前でしょ・・・。それ以上は秘密よ」由美子が恥ずかしそうに言った。
「えー。あとでまた聞かせて。興味あるなあ」
「そのうちにね。さあ、お父さん。疲れたでしょう。お風呂に入って疲れを取って」
「そうだな。夕べは風呂に入ってないから、ありがたいね。ところで、茨城のミルキークィーンという米を買ってきたから、食べてみようよ」
「電話で話していた米ね。さっそく試してみましょうね」
「それから、鯉の旨煮やワカサギの佃煮も買ってきたよ」
「御飯に合うのよね」
「そう、そういうこと」
そんな夫婦の会話は、康太と夏海にはピンとこないようだった。夏海が聞いた。
「鯉とかワカサギとか。おいしいの?」
「まあ、食べてみて。御飯に合うと思うよ」
「じゃ、夕食の準備ね。夏海、ちょっと手伝ってね。康太はお風呂の湯加減をみて」
二人の子は、頷くと家に入った。
「じゃ、僕は、車から釣り道具を降ろして片付けるか」
*
啓三は釣り道具をプレハブの物置に仕舞い、風呂に入って、ようやく釣行と長距離ドライブの疲れが取れたことを感じた。家族が食卓に就き、夕食が始まった。夏海が、御飯を一口食べて、眼を見開いて言った。
「うん。このお米、すごくおいしいね。何ていうか、肌理が細かくて舌触りがよくて・・・」
「ほんと、もちもちしておいしいね」由美子も目を細めた。
「米粒が真っ白くて、きれいだね」康太も頷いた。
「新米だから香りもいいね」家族が喜んで食べるのを見て、啓三も嬉しかった。
「鯉の旨煮も食べてみよう。おお、甘辛くて御飯によく合う。お前たちも食べてみろ。骨に気をつけろよ」
そう言われて、康太が箸で旨煮の身を崩して、口に入れた。
「鯉って泥くさいと思っていたけど、全然そんなことない。夏海も食べてみたら」
「うん。ほんと。美味しい。こってりしてる感じ」
由美子は、ミルキークィーンの真っ白な御飯の上に鯉の旨煮の身を載せて食べた。
「私、川魚はきらいじゃないけど、あまり食べるチャンスがなかったのね。でも、この鯉の旨煮は美味しい。鯉ってすごい。見直した」
啓三はほっと安心した。
「鯉の旨煮を買ってきてよかった。実はみんなが食べてくれるか心配だったんだ。じゃ、ワカサギの佃煮も食べてみて」
家族はワカサギの佃煮にも箸を伸ばした。
「どうだい。味は?」
由美子が、満足気に言った。
「ワカサギの佃煮も御飯によく合うわねえ。頭から丸ごと食べるから、カルシウムがたくさん摂れる感じ。骨粗しょう症の予防にいいかも」
「こつしょしょうしょうって何?」
「骨粗しょう症よ。確かに発音しにくいわねえ。早口言葉になりそうね。つまり、年を取ると骨がスカスカになって脆くなって、骨折しやすくなる病気。更年期の女の人に多いのよ」
「へえ、ちょっと、こわいね。でもワカサギの佃煮がその病気の予防になるなんてすごい」
夏海が、感心して言った。
「うん、佃煮は御飯のお供と言われてるね」
啓三がひきとって言った。
「ワカサギは、DHAやEPAがたくさん含まれているから、頭が良くなるんだ」
「へーえ、お父さん、詳しいんだね」今度は康太が感心した。
「まあな。宣伝パンフに書いてあったんだけどな。霞ヶ浦では小魚がたくさん獲れるので、昔から佃煮が名産なんだね。産地直売店の佃煮コーナーには、いろいろな佃煮がパック詰めで売られていたよ。
売り場の人の話では、昔は佃煮の保存性を高めるために、塩分を強くしていたそうだ。でも、今は、家庭に冷蔵庫が普及してるし、甘い味の佃煮が消費者に好まれるようになったから、塩分を少なくしているそうだよ。あまり塩分が多いと高血圧になりやすいというからね」
「ふーん、なるほど。ところで、お父さんは、鯉釣りに霞ヶ浦に行ってるんだよね。鯉はなかなか釣れないの?」
康太は鯉釣りに興味が湧いてきたようだ。
「そうなんだ。鯉釣りは難しい。大きな鯉ほど賢くて、用心深くて、なかなか釣れないんだよ。用心深いから人に釣られずに大きくなるんだろうなあ。鯉釣りは我慢比べの釣りなんだ。霞ヶ浦で知り合った鯉釣りの先輩の話では、三十センチの鯉を釣りたかったら、十日は釣りに通うことが必要だそうだ。それだけ、なかなか釣れない魚なんだそうだ。鯉釣りは男のロマンというわけだね」
「男のロマンって、どんな意味?」康太は怪訝そうな顔で言った。
「うむ。つまり何というか、男にとっての夢というか、あこがれというか」
「夢を持つのは、女にとっても大事でしょ?」夏海が不服そうだった。
「うん。でも、男の夢と女の夢はちょっと違うと思うな。女は現実的で実現可能な夢を大事にするんじゃないかな。男の夢は遊び心と繋がっているから、実現が難しい夢でもチャレンジしてみようと思うんだよ」
啓三は、子どもたちと会話しながら、面白い議論になったことが嬉しかった。そのやり取りを聞いていた由美子は、微笑した。
「お父さんの夢が大きな鯉を釣ることなのは、分る気がする。それくらいで丁度いいわね」
「じゃ、お母さんの夢は?」
夏海が興味津々という表情で言った。
「あなたたちが、すくすくと育ってくれることよ。それに尽きるわね」
「それじゃ、自分のことじゃないでしょ。お母さんの自分の夢は何?」
「だから、あなたたちが元気に育つように願って、母親の役割をしっかり果たすというか。それがお母さんの夢なの。今はそういうこと。あなたたちが大人になって自分で生きていけるようになったら、お母さんは自分の夢を探そうかな」
「お母さんて、本当に私たちのことを一番に考えてくれているのね。お母さん、ありがとう」
夏海は、ちょっと恥ずかし気に頭を下げた。
康太も、「お母さん、いつもありがとう」と言って、続いて軽く頭を下げた。
「あらあら、お父さんの鯉釣りは男のロマンの話から、私の夢にまで話が繋がったわねえ。お母さんも幸せよ。みんな、ありがとう。さあ、美味しいお米と霞ヶ浦のお魚を買ってきてくれたお父さんに感謝しましょ」
啓三たちはそんな会話を続けながら、家族団欒の時間を過ごした。
*
次の日曜日、啓三は行きつけの釣具店にいた。
「親父さん。霞ヶ浦の鯉釣りは難しいもんだね。難しいところがまたいいんだろうね」
「そうだね。野鯉は簡単に釣れないからこそ、はまってしまうんだね。大きな目標ができてよかったじゃない?」
「そうなんですよね。これで、八月に一泊二日、九月に一泊二日。霞ヶ浦で鯉釣りをしたわけなので、一日一寸というから、まだ四日分の四寸、つまり十二センチ分の貯金をしたようなものなのかなあ。一尺の鯉がつれるまで、この調子では十日、つまり五ヶ月かかることになるし、六十センチの鯉が釣れるには、十ヶ月かかることになりますねえ。冬場は鯉が冬眠して釣りにならないから、それ以上の時間がかかる計算です。吾ながら気が長い話になってきたなあ」
「まあ、忍耐力が問われるといったところだね。ところで、釣り竿をもう一本増やす決心はついたかね?」釣り道具屋の親父は気になっていることを聞いてきた。
「それなんですが、釣り竿を増やせば、それだけ鯉が釣れる確率が高くなることは分りますが、もう暫く、竿一本でいこうと思います」
「そうかい、釣り人は人それぞれだから、それもいいね。ところで来月、十月も霞ヶ浦に行くのかね?」
「はあ、秋は鯉が冬眠に備えて栄養をつけるため、餌をよく食う、鯉の食欲が増すから、釣りやすくなるそうですから、頑張って、また霞ヶ浦に行ってきます。それでだめだったら、その次は来年の春になってしまいますから」
「まあ、気長にやることだね」
「霞ヶ浦に鯉釣りに行くようになって、よかったことがいろいろあります。まず、地元の釣り人と話ができることですね。釣り情報だけでなく、釣り人の姿勢というか、釣り人の哲学みたいなものを教えられます」
「そうだよね。釣りの魅力の一つは、釣り仲間との切磋琢磨というか、交流だね。それは楽しいし、勉強になるからね。釣りの技だけじゃなく、人としての生き方も学べることさえあるからね。一生の友を得ることだってあるね」
「そうなんです。いい人ばっかりなんです。それから地元の美味しいものや名所などの情報も教えてもらえます。今回も美味しいお米や鯉の旨煮、ワカサギの佃煮のことも教えてもらいました」
「まあ、釣り人に悪人はいないのかもしれないな。いつ釣れるとも知れない魚を、忍耐強くじっと待っているんだからね。智恵が廻る人なら、釣りはまだるっこくて、やってられないだろうねえ」
「言われてみれば、確かにそうですね。魚を釣るために、餌を工夫するとか、いろいろ考えますけどね。それは他人に迷惑をかけるものではないですし・・・」
「そうだなあ。ところで、今日は?」
「あ、そうだ。いつか鯉釣り竿をもう一本買うのが夢ですから、良さそうな竿とかリールを見ておこうと・・・」
「ああ、釣り道具を眺めるのも釣り人の楽しみだ。前にも見てもらったけど、あのコーナーにいろいろな竿を並べてあるから、手に取ってみるといいよ。そこにない竿は、メーカーのカタログや釣り雑誌の広告、最近ではネットでも探せるからね。まあ、じっくりと選ぶといいよ」
「ありがとうございます」
そう言って、啓三は竿のコーナーを、時間をかけてゆっくりと物色した。
*
十月に入って間もない、ある日の夜、啓三は夫婦の寝室で、就寝する前に由美子に話しかけた。
「今週の週末は連休だから、また霞ヶ浦に鯉釣りにいきたいんだけど、どうかな?」
「ええ、でも体育の日がらみの連休でしょ。子どもたちのクラブ活動の試合があるのよ。二人で応援にいきたいわね」
「ああ、そうか。康太も夏海も頑張ってるからなあ。わかった。霞ヶ浦に行くのは、月末の土日にするよ。天気予報もチェックしてからだね」
「ありがとう。子どもたちもお父さんが来てくれると喜ぶわね。ところで、私のことなんだけど・・・」由美子の声の調子が変わった。
「うん、どうした?」啓三が心配そうに聞いた。
「実は、このところ、疲れ気味で、動悸や息切れがするから、なにか悪い病気の前触れじゃないかって気になって、病院に行ったの」
「それで、どうだった?」
「エックス線検査、血液検査、心電図検査とかしたんだけど、異常はなかった。お医者さんが言うには、年齢からいって更年期障害の可能性が高いということなの。私はあなたより三つ年上で五十代に入ってるでしょ。五十代に入ると、女は閉経にともなってホルモンバランスが乱れて、更年期障害になる人が少なくないそうなの。自律神経失調症も伴うんだって。体がほてって動悸がして、汗をかきやすくなる人もいるそうよ。ホットフラッシュっていうんだって」
「更年期障害か。他人事みたいに思っていたけど、俺たちもそんな年齢になったんだな。それで医者は何と?治療は?」
「ええ、もう少し様子をみましょうと。生活や仕事でも無理しないで、気持を穏やかにして過ごすことが大事って、アドバイスがあったの。時には旅行などで気分転換するのもいいんだって」
「そうかあ、僕たちも老後のこととか、健康とかを考えなくちゃならない年齢になったんだろうなあ。子どもたちがまだ学校に通っているから、もう少し頑張らなければとは思っていたけど、現実にそうなってきたんだなあ。月日が経つのは早いもんだなあ・・・。実は、霞ヶ浦を眺めながら釣りをしていると、ようやく落ち着いて人生を考えるようになってきたところだったんだ・・・。由美子は俺の大切な嫁さんだものなあ。わかった。これからは、休日はなるべく家にいて、家の用事を済ませるようにするよ。子どもらが学校を卒業したら、二人で旅行にも行こう」
「ありがとう。啓三さん。でも十月の釣りを楽しみにしていたんでしょう。釣りを楽しんで来て。私は大丈夫よ」
「え、そうか。いままで二ヶ月、鯉釣りに行ってるけど、今度は釣れるかしれないんだ。秋は鯉が冬眠に入る前に、よく餌に食いつくから釣れる確率が高いって、先輩たちが言うんだ。だから、寒くなる前に、もう一回、霞ヶ浦に行かせてもらえると、嬉しいなあ」
「わかるわよ。その気持。男のロマンでしょ。もう一回、挑戦してみたら・・・」
「由美子、ありがとう。十月に釣りに行って、釣れても釣れなくても、冬の間はずっと、釣りは休んで、様子をみるよ。由美子の体調が心配だしなあ・・・」
「ありがとう、啓三さん。うれしいわ」
由美子は啓三の腕に抱かれて、安心して眠った。
*
十月下旬の土曜日、早朝。栃木の山々の紅葉が始まる頃、啓三は防寒着を着こんで、車の運転席に乗り込み、霞ヶ浦へ向けて出発した。由美子が手を振りながら、見送った。
これまでと同じように、高速道と一般道を乗り継ぎ、啓三は午前十時頃に霞ヶ浦湖岸の浮島の堤防上に停車した。やや肌寒い風が湖面を吹き渡っていた。湖面には細かい波が立っていた。堤防上では、初めて会う釣り人が陣取り、鯉つりの仕掛けで、ラインを長く伸ばして、椅子に腰かけていた。その男は、厚い防寒具を着込み、高級で温かそうな帽子を被り、革製の手袋をしていた。
啓三は車から降りて、その男に挨拶した。
「お早うございます。隣で釣らせていただきます」
男は啓三をジロリと見て、
「お早うございます。どうぞ。今日はやや寒いから、一人じゃ淋しいなと思っていたところです」と言った。男の目つきは鋭いが、意外に声はやさしかった。帽子の下から、ごま塩の髪の毛が覗いていた。
啓三は、ほっとして、邪魔にならないように男から少し距離を取り、道具類を取り出して鯉釣りの準備を始めた。いつもどおり、小さな、ロープ付きバケツで湖水を少量汲み、餌用の容器で配合餌に湖水を加え、練り上げていった。硬すぎず、柔らかすぎず、自分の耳朶の感触を確認しながら、適度な硬さにすると、最初の団子を捏ねた。そこに四本の釣り針を、針先が外側に向くように埋め込んだ。その後を丁寧に何度もこすって滑らかにした。大きめの餌団子を、釣り竿を振りかぶって、三十メートルほど先の狙ったポイントに投げ込んだ。
啓三の一連の動作を横目でチラチラ眺めていた男が、肯いて言った。
「なかなか手馴れていますね。鯉釣りは、何年やっておられるのですか?」
「はあ、まだ三ヶ月目なんです」
男は目を丸くして驚いた。
「ほう、まだ三ヶ月目ねえ。もう何年も鯉釣りをやっているベテランに見えました」
「いえ、とんでもない。まだまだ勉強中で、教わることばかりです。鯉はまだ釣ったことはありません。アメリカナマズは釣りましたが・・・」
「アメナマは、わりに簡単に釣れるからねえ。そうか、じゃ、鯉が釣れる期待感が膨らんで頭が一杯というところだろうねえ」
啓三は気持を言い当てられたのが嬉しくなった。
「そうなんです。ですからあまり早く、簡単に釣れると困るくらいです」
「なるほどね。鯉釣りはそういうもんだね」
「はい。僕はこの八月から鯉釣りにはまって、栃木から月に一回のペースで霞ヶ浦の鯉釣りに来ています。那須と申します。那須塩原の那須です。住んでいるのは鹿沼市です。広い霞ヶ浦で釣りをすると、心が洗われるような気がします。鯉釣りは、あまり動かずに、じっと待つ釣りですから、僕くらいの年齢には合っています」
「ほう、栃木からねえ。私は潮来で大沢内科クリニックの看板を出している開業医です。患者さんから勧められて鯉釣りを始めて、三年ほどになるかな。これまで一尺くらいの鯉を釣ったことはあるけど、大物は釣れない。いつか大物が釣れればいいなと思うと、休診日にはつい霞ヶ浦に来てしまうんだな」
「ああ、お医者様でしたか。道理で・・・」
「道理で何だね」
「紳士的というか、威厳があるというか」
「ははは、町医者が頼りない軽薄な顔をしていたら、患者が寄り付かず、商売上がったりだよ」
「はあ、そんなものですか」
医師と名乗る男と啓三は、話し相手が他にいないこともあって、次第に打ち解けて会話が弾んだ。だんだん声が大きくなった。
「すみません。大沢先生。あまり大きな声を出すと、鯉は敏感だから逃げてしまうと、僕の師匠が・・・」
「師匠?」
「はい、この場所で出会った先輩で、土浦の沼尻さんという人です」
「ああ。沼尻さんか。この場所でよく会うよ。市役所職員で茨城弁丸出しの人だろう?」
「ええ、そうです。見事に茨城弁を話す人です」
「はは、飾らない人だよね。まあ、茨城弁は最初聞くと、怒っているのかと感じてしまうけど、心はあったかいんだよ」
「そうですね。実は栃木弁も似ているんですが、茨城の人は、より自信を持って、茨城弁を話しているというか」
「そうだねえ。私は東京出身なんだが、医大を出て、先輩医師に勧められて茨城の鹿島の公立病院に二十年以上勤めたんだ。鹿島コンビナートの大企業の嘱託医も兼務したよ。けっこう忙しかった。そこを数年前に辞めて、潮来で開業したんだよ。潮来は利根川の水運で賑わった古い港町だから、先祖はいろいろなところからやってきた人が多くて、おもしろいね。患者さんと雑談をするのが楽しい。今は典型的な町医者だね。もともと、私は東京の葛飾の青戸で育ったから、下町の雰囲気は慣れてるんだ」
「はあ、そうなんですか。お医者さんは人の命を救う仕事ですから、大変ですよね。責任が重くて・・・」
「うん。だからストレスがたまる。若い時は酒を飲んでストレスを発散させることもあったが、飲んだくれの医者は評判が悪い。医者の不養生で健康にも悪い。肝機能が悪化しかけて、一年発起。オフには鯉釣りでストレスを抜くことにしたんだよ。
そうしたら、霞ヶ浦の大自然と触れあうので、気分が晴れたね。患者さんの診察でも、地域に溶け込んで地元住民の一人として、余裕を持って接することができて、良いことずくめなのが分ったんだね。このへんの年配の人は霞ヶ浦に思い出がある人が多いんだよ。若い人はあまり関心ないんだけどね」
話が続いているうちに、大沢の竿のラインがピンと張り、竿先の鈴が微かに「チリン、チリン」と鳴っているのに、那須が気付いた。
「大沢先生。何かかかったみたいです」
大沢は、慌てて竿を持ち、リールを巻き始めた。ラインはあまり抵抗なく、すんなり巻かれたが、微妙な感触がラインを通じて伝わってきた。
「これは何だろう。こんなアタリは初めてだ」
大沢がなおもリールを巻くと獲物が姿を現した。黒っぽい長い蛇のような魚だった。
「もしかして、ウナギか?」
「そうですよ。先生。ウナギです。うわ、すごい」
大沢は医師らしく、慌てることなく冷静にさらにリールを巻いた。
「那須さんでしたか。そこのタモ、取って」
那須は急いでタモ網を取り、慎重に岸辺近くに寄せられたウナギを下から掬うようにして網に収めた。大沢は針をウナギの口から外そうとしたが、ウナギは針の一本を喉の奥深くまで呑みこんでいて、外せなかった。大沢はやむなく、鋏を道具箱から取り出して糸を切ろうとした。
「先生、まだ糸を切らないでください。糸を切ると、ウナギが網の目から逃げそうです」
「あ、そうか。鯉釣り用のタモだからなあ。目が粗いなあ。それなら、クーラーボックスに入れよう。那須さん、すまないが私の車からクーラーボックスを」
「はい」
那須は、堤防上にウナギとタモ網を置き、クーラーボックスを出して来て、獲物を収めた。糸を切られたウナギはボックスの中でぬらぬらとうごめいた。那須はバケツで湖水を汲んで入れると、ウナギはゆったりと泳いだ。
「いやー。ウナギを釣ったのは初めてだね。びっくりだよ」
「何センチくらい、ありますかね」
「五十センチはあるね。けっこう大きい。蒲焼にしたら何人分かな?」
「四、五人分はあるんじゃないですか」
「うっふふ。そうだよなあ」
「ウナギが釣れるのは縁起がいいんでしょうか?」
「さあ、どうなんだろうねえ」
二人が嬉しそうに興奮気味に話していると、土浦ナンバーの車が近くに停まり、見覚えのある顔の男が降りて声をかけてきた。
「おや、お二人さん。何を釣ったのけ?」
「あ、沼尻さん。いいところへ。ウナギですよ。大沢先生が釣ったんです」
大沢はまんざらでもなさそうに笑みを浮かべながら、余裕を見せて言った。
「まあ、鯉釣りの外道としては、いいほうだろう? 沼尻さん」
沼尻は、ウナギをじっと眺めて、首を捻りながら呟いた。
「ほう。鯉釣りにウナギがかかるなんて珍しいべな。しかも昼間に。ウナギは夜行性の上に、専ら生餌に食いつくもんですが。先生、どんな餌を使ったのけ?」
「餌はね。釣具店で買った、タニシの粉入りだよ。鯉は雑食性で、タニシもよく食べるんだよな。確か沼尻さんから教わったような気がするよ。それに真ん中の長い針にテナガエビの大きいのを付けたんだよ」
「んだっぺ、タニシの臭いに寄せられて、生餌のエビにウナギが食いついたっぺよ。霞ヶ浦では、ウナギが少なくなってっから、なかなか釣れないぞ。先生は運がいいんだべな」
「大沢先生、やっぱり縁起がいいんですよ。ウナギは」
「ああ、でもせっかく釣れても、どうしたもんか。あ、そうだ。潮来には川魚料理店が多いから、そこへ持ち込めば蒲焼にしてくれるかも。はは、今晩は蒲焼で一杯だな」
大沢は上機嫌で、饒舌になった。すかさず、沼尻が言った。
「先生、お酒は程々に」
「あ、そうだった。あっはっは」
啓三は沼尻が姿を見せたことに嬉しくなった。
「沼尻さん、一ヶ月ぶりですね」
「おお、そうだな。でも俺はよ、ほぼ毎週、ここに来てんだからなあ。那須さんは一ヶ月ぶりか?まあ、栃木からだからなあ、頑張ってるほうだな」
「沼尻さん、釣果はいかがですか?」
「釣れないなあ。まあ、水温が低くなってきてっから、そろそろ釣れ出すとは思うがなあ」
沼尻は、会話しながら車から釣り道具を出して、準備を始めた。竿を三本使い、餌団子を針につけて、順番にキャスティングしていった。これで、大沢の竿が三本、沼尻の竿が三本、那須の竿が一本、堤防上に並んで立った。林立というほどではないが、賑やかになった。
三人は、あまり話さないで静かに、湖面と竿先を眺めた。まだ午前中は風が弱く、湖面は風が通るところだけ小さな波が立っていた。沼尻はセンサーのスイッチを入れていた。車の中のFMラジオがブーと鳴った。センサーはFMの波長のバンドに合わせていた。沼尻は、慌てることなく、竿の一本を取って、リールを巻き始めた。ラインは右に左に動いた。見守っていた啓三は思わず言った。
「沼尻さん。鯉ですか?」
「いや、ちょっと違うど。引きがそれほど強くねえ。何だっぺ?」
沼尻は魚の動きに合わせながら、無理せずにリールの巻き方を弱めたり強めたりしながら、徐々に魚を岸辺へ寄せた。水面にやや細長い魚体が見え始めた。魚は時折、身をくねらせて水しぶきを上げたが、ほどなくタモの中に収まった。大沢も自分の釣り場を離れて興味津々の様子で、沼尻が釣った魚を見た。魚は四十センチほどで細長い体をしていた。
「鯉に似てるが、顔つきがちょっと違うような」
「でも、ひげがありますよ。それにウロコは鯉みたいですね」啓三は鯉の変種かと思った。
沼尻は冷静だった。
「なあに、こいつはセイだっぺよ。セイは雑食性だから、鯉釣りの餌にも食いつくんだ。セイは本当の名前はニゴイつうんだ。ニゴイつうくらいだから、鯉に似てんだ。食べればそれなりに美味いが、小骨が多い魚だ。面倒くさいから俺は食わねえな」
「そういえば、よく見ると顔つきが細長いですね」
「ちょっと馬面だど。大きくなると、六十センチくらいにはなるんだ。春になると群れで川を遡って中流で産卵すんだな。産卵が終わると霞ヶ浦に戻ってくんだ。霞ヶ浦の魚の代表みたいなやつだから、俺は好きな魚なんだなあ」
沼尻はひとしきり薀蓄を披露した。
「霞ヶ浦には、いろいろな魚がいるんですね」
「まあな。昔に較べれば、種類も数も減ったけどな、まだまだ豊かな、いい湖だっぺよ。さあ、じっくり観察したら、霞ヶ浦に逃がしてやっぺ」
沼尻はニゴイの口から針を外すと、ゆっくりと惜しむように魚を岸辺の湖水に戻した。ニゴイはゆっくりと泳いで、見えなくなった。
三人はニゴイを見送って、ホッとすると空腹を感じた。時計は正午を回っていた。沼尻が言った。
「そろそろ昼飯だな。先生、お昼は?」
「私は来る途中、コンビニで弁当を買ってきました」
「那須さんは?」
「私は表通りまで車を飛ばして、コンビニで何か腹の足しになるものを買ってきます」
「そうか、まったくコンビニは便利だな。昔じゃ考えられねえなあ。俺はコーヒーを三人分淹れておくから、行ってきたらいがっぺ」
「はい、では、私の竿を見ておいてください」
「オッケー」
啓三は安心して、車に戻りエンジンをかけた。
幹線道路沿いのコンビニで、弁当、麺類、おにぎりなどの棚を眺め、結局、お握り二個にペットボトルのお茶を選んでレジに運んだ。レジ係りは、先月の店員とは別人だった。支払いを現金で済ませると、啓三はまた車で釣り場に戻った。
三人は、ゆっくりと思い思いに昼食を食べた。沼尻は、啓三らが昼食を食べ終わるのを見計らって、車からポットを取り出しコーヒーを準備した。ドリップで淹れた香り高いコーヒーだった。アロマが霞ヶ浦湖畔に漂った。
「さあ、どうぞ。モカです」
大沢は、一口、コーヒーをふくんだ。
「いやー、うまいコーヒーだ。昨日、診察室にいたなんて嘘のようだなあ。消毒薬の臭いを嗅いだのは遠い昔の彼方だ」
「至福の香りですね。霞ヶ浦の香りと程よくミックスしています」
「いいこと言うなあ。栃木の人は言うことが違う。感心だっぺ。前に那須さんがコーヒー好きって聞いたから、今度は俺がコーヒーをご馳走したいと思ってな。今日、那須さんが来ているかもという予想がぴったり当だった。吾ながらいいカンしてるよなあ」
「沼尻さん。恐れ入ります。ありがとうございます」
三人が代わる代わるコーヒーの感想を言い合った。
*
この日の午後は、思いがけずギャラリーが賑やかだった。三人が静かに釣りをしていると、背後の黒松林の向こうの広場に子どもたちの声が響いた。何事かと振り返ると、子どもたちに続いて、四十代らしい親世代の大人たちがキャンプ道具を運んでいた。子どもたちも軽いものは自分たちで運んでいた。総勢八人ほど、二組の親子連れがキャンプに来たようだった。
家族連れはワイワイ言い合いながら、テントを広げ、地面にペグを打ち、あっという間に二組のテントを張った。最近のテントは簡単に組み立てられるようだった。テントが建つと、子どもたちは歓声を上げながらボール遊びに興じた。親たちは、バーベキューの準備をしているようだった。準備ができると、二組の親子たちは霞ヶ浦の堤防に上がり、湖面を眺めた。
「わお、広い。霞ヶ浦って海みたい」
小学校低学年くらいの女の子が思わず叫んだ。父親らしき男が、肯いて言った。
「そりゃそうだ。昔の霞ヶ浦は海だったんだから」
「今は?」
「今は湖だよ。つまり真水なんだ」
「フーン。じゃ海の魚はいないんだね」
「多分、いないと思うよ」
それを聞いていた沼尻がうずうずして言った。
「いやいや、お父さん。子どもには正確に教えないとなあ。今でも霞ヶ浦には、少くなったけれど、ボラ、ウナギ、ワカサギとか海と湖を行ったり来たりする魚がいるんだからね。時々、ブラックバス釣りの竿にスズキがかかることもあるなあ。今日の午前中、こちらの先生はウナギを釣ったんだ。ほら、クーラーボックスを見てみろよ。子どもらの勉強にもなっから」
子どもたちは、クーラーボックの周りに集まった。
「すごーい。大きなウナギ。真っ黒いね」
「ははは、触ってもいいぞ」
小学校低学年くらいの男の子がおそるおそる手で触れてみた。
「あ、ヌルヌルしてる」
「ウナギに触るのは初めてかな?」
「うん、僕、生まれて初めて」
子どもは目を輝かせて言った。
「そうか、今日はいい経験をしたな。ここは小さい砂浜があるから、遊ぶには丁度いいよな」
子どもたちは、国土交通省が近年造成した砂浜で駆け回った。転んでも砂地だから安全だった。親たちも安心して子どもたちを見守った。砂浜は数年前に造成されたもので、浪打際以外は、いろいろな植物が生育し始めていた。子どもたちが足を取られそうなほど、草丈が高くなっている場所もあった。しかし、そのようなことは、この場所に長年通っている沼尻以外には分らないことだった。沼尻が独りごとのようにぼやいた。
「砂浜を作って、草が生えて自然の成り行きに任せるのも一つの方法だっぺ。しかし、せっかく作った砂浜だから、草が生えないように、生えたら除草する管理する方法もある筈だど。国交省はいったいどっちを選んでいるんだか、さっぱり分らねえ。地元の市町村は霞ヶ浦の管理にまで予算をつけられねえしな。
第一、湖内の管理は国交省と決まってんだからなあ。砂浜にもっと草が生えたら、子どもが遊ぶ場所はなくなっちまう。それでも鳥や魚にはその方がいい。地元民はどうしたいんだか、話し合えばいいんだっぺが、あまり関心ないからなあ。住民は霞ヶ浦と関係ない仕事で生計を立ててんだから、当たり前だけどなあ」
「私はとりあえず鯉釣りができればいいんだけどねえ」
大沢は気乗りしないふうだった。
沼尻が石組みの突堤を指差して言った。
「あの突堤は砂浜の砂が流れださないように設置したんだと。だけんど魚の移動を遮ってると俺は思ってんだ。まったく、あちら立てれば、こちら立たずだなあ。矛盾だらけだっぺよ。もっとも矛盾に目を瞑るのは、俺たち公務員の悲しき習性だど。給料もらって、家族を養うのが先決だなあ。情けない限りだなあ」
「それは、公務員だけじゃありませんよ。僕だってサラリーマンですから、会社の方針には従うしかないんですよ」
「そこへいくと、先生はいいよなあ。開業医って結局、自営業でしょうよ。一国一城の主だっぺよ」
「いやいや、医療行政の中で、開業医もがんじがらめなんだよ。医療事務職員、検査技師、看護師さんも雇っていますから、雇用主でもあるんです。辛いのは同じだね」
「何だ。先生もかね。せち辛い世の中だ」
那須も応じた。
「いつの世もそうかもしれません。江戸時代の侍は幕府とか藩とか、組織に縛られていたんですよ。僕は会社員ですしね。人の世はそんなもんでしょうねえ」
「はあ、そんなもんかねえ」
「せっかく、のんびり鯉釣りに来てるんですから、話題、変えませんか?」
「それもそうだね・・・。むむ、那須さんの竿、引いてるんじゃない?」
「ああ、これは、引いてる。話に夢中で鈴の音に気がつかなかった。大変だ」
那須は慌てて竿を握って、リールを巻き始めた。沼尻が傍からアドバイスした。
「ゆっくりだど。魚の動きに合わせるんだ。時間がかかってもいいから。魚が疲れるのを待つんだ。しかし、あまり自由に泳がせてはだめだど。常に糸を張りながら、体力を消耗させんだ」
「はい、師匠」
いつの間にか、砂浜で遊んでいた子どもたちとその親たちが、寄ってきて、見守った。啓三はギャラリーを意識する余裕もなく、ひたすら獲物と釣り糸を通じて格闘した。
「よし、いいファイトだど。決して強く巻いてはだめだ。最悪、魚の口から針が外れてしまうからな」
「師匠、了解」
周りのギャラリーも息を呑んで、啓三と獲物との闘いに見入った。
「おじさん、頑張れ」小学生の男の子がたまらず声をかけた。啓三は、「おう、ありがとう」と応えるのが精一杯だった。
格闘すること約五分。ようやく魚が水面に見えてきた。
「やっぱり、アメナマか。どうも動きがアメナマみたいだと思ったんだ。でも結構、大物だっぺ。那須さん、最後まで慎重に取り込め。そうだ。タモだ。おーい。そこの君。タモを取ってくれっか?」
声をかけられた年かさの男の子が、タモ網を取って沼尻に差し出した。
「サンキュー。さて、取り込みだど。魚はタモを見ると怖がって暴れることがあっから、ゆっくりだ。那須さん、魚の頭を水面上に軽く上げながら寄せて。そうそう、その調子」
沼尻はタモ網をそって水面下にくぐらせると、魚体の下からそっと掬った。
「そら、フィニッシュだ」
「わあ、すごーい」
子どもたちが一斉に寄ってきた。
「あ、ひげがある」「ヌラヌラしてる」「目が小さいなあ」
「おじさん。何ていう魚?」
啓三は、まだ息を切らしながら、
「アメナマだぞ。正確にはアメリカナマズだ」
「知ってる。外来魚でしょ」
年かさの男の子が言った。
「そうか。たいしたもんだ。君たちは地元の子かな?」
「うん、つくば市だよ」
「そうか。つくば市の子は賢いなあ。よく知ってるなあ」
「うん、生き物は大好きで、勉強してるんだ。お父さんは研究所に勤めてるんだ」
今度は父親が、にこにこしながら言った。
「はい。私は農薬や雑草の研究をしてるんですが、子どもたちには、できるだけ野外体験をさせたいと思って、キャンプに連れ出しているんです」
「なるほど、いいことですね」
「でも、霞ヶ浦には日本ナマズはもういないんですかね」
沼尻が応じた。
「ほとんどいねえなあ。日本ナマズが産卵できる場所、つまり植物が生える湿地がなくなってるし、川は護岸工事されてっから、産卵しに田んぼに上がれねえんだな」
「効率的に農作業が楽になるように、僕ら農学の研究者も努力してきたんですが、自然を壊してしまった面もあることは反省しています。職場でもそのことはよく話題になるんですが、全体の流れを変えるのは難しいですね」
そんな話を大人たちがしている間、子どもたちはアメリカナマズに触りたくて仕方がないようだった。その様子を見て、那須が注意した。
「アメナマは、トゲがあるから気をつけて。胸びれと背びれには触っちゃだめだぞ」
子どもたちは、出した手をひっこめた。
「ははは。でも頭の上とか、腹は大丈夫だ。そーっと撫でてごらん」
子どもたちは恐る恐る手を出し、黒い魚体に触れた。
「ツルツルしてる。気持いい」
「はは、そうか。じゃ、口の中を見せてやろうか」
沼尻は手に軍手をはめて、魚体を持ち上げ、口をこじ開けた。
「ほら、細かい歯があっぺよ。ちょっと触ってみろ」
男の子がこわごわ、ナマズの大きな口の内側に触れてみた。
「うわ。ザラザラしてる」
「そうだっぺ。アメナマがこの口でエビとかゴロをくわえたら、逃げられないようになってるんだ。アメナマは雑食性だから、何でも喰うんだど。ワカサギも喰われてしまうから、漁師にとっては困り者だっぺ」
「ふーん。アメナマって食べられるの?」
今度は、女の子が聞いた。啓三が応えた。
「もちろん食べられるよ。もともと食用に養殖していたものが、霞ヶ浦に逃げ出しちゃったんだよ。食べればおいしい魚だよ」
ひとしきり、キャンプの家族連れと話した後、啓三が言った。
「じゃ、アメナマを霞ヶ浦に戻します」
「え、食べないんですか?」父親の一人が驚いて言った。
「私は栃木から釣りに来ているんですが、帰るのは明日です。今日中にアメナマを霞ヶ浦に戻すほうがいいかなと」
「それじゃ、それいただけませんか。我々、これからバーベキューをやるので、試しに食べてみたいんですが・・・」
「ああ、それならどうぞ」
「ありがとうございます。ではいただいて準備します」
「魚は捌けますか?」啓三は自分が魚を上手く捌けないので、やや心配だった。
「はい、キャンプとジビエ料理が趣味なので、魚も肉も何とか・・・。出来たころに、お呼びしますから、御一緒にいかがですか?ビールもあります」
「じゃ、先生や沼尻さんも一緒に・・・」
「せっかくだけど、私は早めに帰って、さっき釣ったウナギを知り合いの川魚料理屋で蒲焼にしてもらって、自宅で静かに一杯やるほうがいいなあ」
「俺は土浦に帰らなきゃ。嫁が飯作って待ってっからな」
「沼尻さんは愛妻家なんですね」
「嫁が作った飯を一緒に食うのが、夫婦円満の秘訣だっぺよ。それにビール飲んじゃうと、車、運転できねえからな。五年くらい前だったかな。警察官のグループが休日に浮島でバーベキュー・パーティやったのは良かったんだけんど、もうアルコールは抜けたと勝手に判断して、車を発車させたんだなあ。そしたら、地元の警察署のパトカーに捕まって、酒気帯び運転でお目玉を食らったことがあったんだ。警察が警察を捕まえたんだっぺ。話になんねえよな。俺も公務員の端くれだからよ、気をつけてんだ。酒気帯びだけでも最近は懲戒免職だっぺよ」
そんな話を背に、家族連れの父親の一人が皆に呼びかけた。
「じゃバーベキューの準備をします」
子どもらは、歓声を上げてキャンプ場へ向かった。
小一時間ほど過ぎて、先ほどの家族連れの男の子が啓三を呼びに来た。
「あの、お父さんが、バーベキューの用意ができたので、どうぞって」
「あ、ありがとう。車を駐車場に戻して、すぐ行くって、お父さんに伝えて」
「はい」
男の子は礼儀正しく軽くお辞儀をして、キャンプ場の方へ戻った。
短い秋の陽が、傾きかけていた。
「じゃ大沢先生、沼尻さん。また、御一緒させてください」
「おう、那須さん。次は大鯉が釣れるといいなあ」
「そうですねえ。でも私はストレス解消が目的だから、鯉は釣れても釣れなくても、かまいませんがね」
「お医者さんはそういうもんだっぺな。じゃ、那須さん、バーベキューを楽しんできてくれよ。我々もそろそろ、店仕舞いすっから」
那須は会釈して、釣り道具を車に手早く収納し、駐車場へ車を移動させるべく発進した。
*
啓三は車を浮島和田公園の駐車場に停めると、キャンプ場に向かった。キャンプ場は松林の傍の芝生地で、竈、炊事設備、水道が設置してあった。よく刈り込まれた芝生地に、先ほどの二組の親子連れがそれぞれ家族サイズのテントを張り、バーベキューセットを置いていた。父親の男性が啓三に言った。
「さあ、どうぞ。バーベキューは初めてですか?」
「いえ、僕は、自宅は栃木なので、子どもたちが小学生の頃は、よく高原牧場に行って、バーベキューをやりました。栃木はあちこちに牧場があり、観光客向けに、キャンプ場、バーベキュー施設が、わりにたくさんあります」
「そうですか、私は長野県の上田市出身です。信州は山国ですから、川がきれいで、アユ、ウグイ、ヤマメが獲れます。釣った魚を、川原の流木を集めて、焚き火で塩焼きにすると、ほっぺたが落ちるほど美味しくて、懐かしいです。そうそう、友人の、こちらの井上さんは北海道出身です」
井上と紹介された、もう一人の父親も会話に加わった。
「はじめまして、井上です。帯広出身です。北海道の人はみんな、ジンギスカンや鮭のチャンチャン焼きが大好きで、つくば市に来ても時々は野外でワイルドに魚や肉を焼いて食べたくなるんですよ」
「井上さんは、やはり筑波で畜産を研究しているんです。私は小林です。長野は小林姓が多いんです。小林一茶も信濃ですからね。それと、私の家族、そして井上家の家族の皆さんもアウトドアが好きなので、家族ぐるみのお付き合いをしてるんです」
「そうですか、私は那須と申します。よろしくお願いします」
男の子が面白がった。
「野菜みたい」
「残念ながら、ニンジンやキュウリの仲間ではないけどね」
那須が冗談で応じると子どもたちは声を上げて可笑しそうに一斉に笑った。
「では、まず、アメリカナマズからいきますか」
小林は、クーラーボックスからアメリカナマズを取り出し、水道水でぬめりを流すと、俎板の上で、ナイフを腹に当て、内臓を取り出した。胃を割いてみると、小魚やエビが現れた。それらを俎板の上に並べた。
「胃内容物を見てみましよう。少し消化しかかっているけど。まず、ハゼ類が一匹、エビが三匹、ワカサギが一匹ですね。やはり雑食性ですね。ところで、アメリカでは、大きな魚が釣れたら、胃を割いてみて、飲み込まれた小魚が出てきたら、それを掌で包んであげるんです。そうすると幸運がやってくると言うんですね。
大学院を出てアメリカ南部のニューオリンズ近くの研究所に留学していた時、釣りに誘ってくれたアメリカ人の同僚がそうしていました。なぜラッキーなのか、よく分らなかったのですが、私もその習慣を真似するようになりました」
「へえ、不思議な習慣ですね」
「そうですね、次は肉を捌いてみましょう。ナマズ類は、背骨以外は骨があまり邪魔にならないはずです」小林は手馴れた包丁捌きで、アメリカナマズの身を三枚におろしたあと、手頃な大きさに切り分けた。
「さあ、炭火が丁度よく熾きたから、まず網焼きにしてみましょう」
小林と井上は、アメリカナマズの切り身を網の上に載せて焼き始めた。子どもたちも父親たちを真似て、菜箸を上手に使って、切り身を網の上に載せた。
真っ赤に熾きた木炭が、アメリカナマズの切り身を加熱していった。
「焼きすぎると硬くなったり、パサパサになったりして、美味しくなくなるから、全体に熱がまわったら食べてみよう。あ、その前にビールで乾杯だ。那須さんもどうぞ」
「ありがとうございます」
「霞ヶ浦とアメリカナマズと我々の健康にカンパーイ」
啓三と大人たちは缶ビールで、子どもたちはジュース類で乾杯した。拍手が起こった。
「さあ、そろそろいいかな。紙皿に取って、タレで食べてみて。タレは何種類か用意してあるから。お好みでいろいろ試してみて・・・」
子どもたちは、市販の焼肉用のタレに、アメリカナマズの切り身を浸して食べた。
「おいしい。アメナマっておいしいんだね」「僕、アメナマ、大好きかも」「あたしも」
子どもたちは口々に感想を言葉にした。大人たちは、
「僕は醤油ベースのタレを試してみよう」「ポン酢が美味しそうね」
大人たちはまず、あっさり系のタレを試してみた。
「うん、醤油ダレもおいしい。醤油は万能だよな」「ポン酢もあっさりしておいしい」
啓三もまず、醤油だれで食べてみた。アメリカナマズのしっかりした歯ごたえのある切り身が醤油で味がつき、十分にいけると思った。
「おいしいですね。実は先月、地元の川魚料理店で、アメナマのテンプラを食べて、さっくりと上がった身の美味しさにびっくりしました。アメナマをバーベキューで食べるのは初めてなんですが、意外といけますね」
「アメリカにいたとき、同僚のアメリカ人たちは、釣った魚をすぐバーベキューで食べるのが大好きでした。霞ヶ浦でそんなにアメナマが釣れるのなら、これから釣り道具を用意してキャンプに来ますよ。霞ヶ浦で釣りすることを今まで考えていませんでしたね。これから家族の楽しみが増えた感じです」
啓三も家族連れも、会話を楽しみながら、アメリカナマズのバーベキューを、タレを変えながら味わった。人数が多いだけに、一人が二切れほどを食べると、品切れになった。
「お父さん、もっとアメナマ食べたい」
「そうか、じゃ今度、那須さんにもっとアメナマを釣ってもらうかな。そうだ、うちでも来年から自分たちでアメナマを釣ってみようか。霞ヶ浦にはアメナマが増えてるそうだから」
「やったあ。僕、釣り、やってみたかったんだ」
那須は気分を良くした。
「鯉釣りは難しいですが、アメナマならよくかかるので、いろいろ御指南します」
「ごしなんて、なあに?」
子どもの一人が頭を傾げた。父親がすかさず言った。
「しなんっていうのは、いろいろ教えてもらうことだよ」
「ふーん。なすさん。いろいろ、ごしなんください」
「あはは、いいとも」
那須もビールの酔いが回って、陽気になっていった。
「アメナマは売り切れだけど、牛肉やハム・ソーセージ、野菜類はたっぷり用意してあるから、たくさん食べてね」
二人の母親は、子どもたちに苦手な野菜をたくさん食べさせるチャンスとばかり、いろいろな野菜を用意していた。用意した鉄板を火にかけ、うすく食用油を引いた。
「ニンジン、ピーマン、タマネギ、キャベツ、サツマイモ、どれでもたくさん食べて」
「僕、ピーマンきらいなんだけど、バーベキューだと食べられるよ」
「あたしも、ニンジン苦手。でもバーベキューなら大丈夫。不思議。どうしてかな?」
「きっと、雰囲気もあるわね。みんなでワイワイ楽しい雰囲気で食べるから、いいのよ」
「それに、野外でワイルドな雰囲気も素敵ね」
「僕、ワイルドだろう」
子どもが腕を曲げて力こぶを作りながら、お笑いタレントのギャグを真似ると、みんなが大笑いした。
キャンプ場に、子どもたちの声が響き、大人たちは子どもたちを見守りながら、ビール片手に談笑した。啓三も仲間に入れてもらったことを感謝しながら、リラックスして、栃木県の話題などを提供した。
「那須サファリパークには、ホワイトライオン、トラ、キリン、サイもいます。マイカーで園内に入れます。カビパラやアルパカもいます。僕はアルパカのやさしい顔が好きなんです」
女の子が嬉しそうに応えた。
「あたしもアルパカ、大好き。眼がやさしいのよね。お父さん、いつか、那須サファリパークに行ってみようよ」
「ああ、そうだね。那須高原の牧場のバーベキューを楽しみながら、寄ってみたいね」
「ほんと、パパ。約束だよ。アルパカ、会いたいなあ」
女の子は、目を輝かせた。
短い秋の陽が暮れてきた。太陽が沈むと途端に暗幕を引いたように暗さが増してきた。
「じゃそろそろ、後片付けしましょう。暗いところで子どもたちを遊ばせるのも危ないし」
「そうですね。私も片付け、手伝います。ご馳走になりましたから」
「ありがとうございます。では、食器を洗い場に運んでいただければ助かります」
キャンプ場からは、堤防に阻まれて霞ヶ浦の湖水は見えなかった。啓三はキャンプ場から湖面が見えないことを残念に思った。堤防で水害を防ぐことは言うまでもなく大事だ。しかし、景観を損なっていることも事実だ。それならどうしたらいい。少しアルコールが入って、発想がだいぶ自由になった頭で考えた。
―そうだ、堤防を陸側に引いて作り直したらいいんじゃないか。そうすれば、砂浜、松林、キャンプ場がセットで堤防の湖側になる。霞ヶ浦が増水したら、水を被るけれど。その時はキャンプをがまんすればいいんだ。ふだんの水位の時の方が圧倒的に多いんだから、その時にキャンプ場を利用すれば、霞ヶ浦の広い景色を楽しみながらリクリエーションできるよなあ。
そんなことは他県に住む俺でさえ考えつくのに、お役所や地元の人は考えないんだろうか。堤防を作り直すにはお金がかかるんだろうけれど、それで、もっと観光客が来て、霞ヶ浦の魅力に親しんでくれれば、それでいいんじゃないかなあー
食器を洗い場に運び終わり、手持ち無沙汰になった啓三は、腰に手を当て、次に堤防の方向を見て腕を上に伸ばし、背伸びしながらそんなことを考えた。
キャンプ場に街路灯が点灯していた。駐車場の方向がよくわかった。
「じゃ、そろそろ私は駐車場の自分の車に戻ります。明日の朝まで車内で寝ます。どうもご馳走さまでした」
「あ、そうですか。那須さん、足元、気をつけて。おかげさまでアメナマ、おいしかったです。お休みなさい」
「おじさん。おやすみなさい」
子どもたちも口々に挨拶した。
「バイバイ」
那須は手を振って、駐車場に向かった。
駐車場には、キャンプの家族の車が二台に啓三の車の合計三台が停まっていた。啓三は自分の車の荷台にマットと断熱クッションシートを敷き、寝袋に潜り込むと、ここちよい疲れとビールのアルコールで、すぐ寝入った。キャンプ場の家族連れが近くにいることで安心感があった。駐車場の防犯灯の明るさも気にならなかった。
*
翌朝、早暁、尿意を感じて目を覚ました啓三は、車から脱け出し、駐車場そばのトイレに行った。朝の新鮮な空気の中で、体が身震いした。秋の日曜日の朝だった。うすく靄がかかっていた。車に戻って時計を見ると、まだ午前五時だった。夜はまだ開けなかった。啓三は体を動かして釣りの準備を始める気にならず、冷気を感じて、また寝袋に入った。体が温かくなって、啓三は二度寝してしまった。
次に目を覚ました時は午前七時になっていた。啓三は車の外へ出て、軽く体を動かした後、トイレの水場で歯を磨き、顔を洗った。ようやく頭が覚醒してくると、啓三は空腹を感じた。
啓三は車を発進させて、いつもの幹線道路沿いのコンビニに向かった。読みなれた全国紙の新聞、お握り、あたたかいペットボトルのお茶を取り、レジに運んだ。レジの店員に見覚えがあった。先月、駐車場での一晩停車を認めてくれた店員だった。
「お早うございます」と啓三が声をかけたが、店員は「おはようございます」と事務的に返して、啓三の顔を見た。店員は「おやっ」という表情をした。啓三は、「先月、駐車場で夜明かしさせてもらい、ありがとうございました。今月も霞ヶ浦で釣りです」と声をかけた。
「ああ、思い出しました。あの時の方ですね。今回は釣れましたか?」
「ええ、アメリカナマズが一匹」
「ああ、アメナマはよく釣れるようですね」
「でも鯉はなかなか」
「そうですか。頑張ってください。お握り、温めますか?」
「はい、お願いします」
店員は電子レンジで温めた商品を笑顔でレジ袋に入れると、啓三は代金を支払った。一日に何百人もの客と接するレジの仕事なのに、顔を覚えてくれていたことに、啓三は何となく嬉しくなった。
*
啓三は、また車を運転し、キャンプ場の駐車場ではなく、堤防上のいつもの釣り場に車を停めた。窓を少し開け、新鮮な空気を吸いながら、ゆっくり二個の握り飯を食べた。電子レンジで温めてもらったシャケと梅干が入ったお握りだった。握り飯にあたたかい緑茶がよく合った。
お握りを食べ終わると、狭い車内で新聞を広げた。全国版では国会での論戦が報じられていた。憲法九条改正の議論が熱を帯びているようだった。国際欄では、どこか遠い国でテロ事件がまた発生していたが、啓三は見出しを一瞥しただけだった。スポーツ欄ではプロ野球が大詰めで、優勝争いに上位チームがしのぎを削っていた。啓三がファンになっているチームは、今期は元気がなく下位に沈んでしまっていた。
いつも読んでいる地方版の栃木県のページが読めないことが残念だったが、仕方が無かった。茨城県版には、近くの横利根川の釣り場で、ヘラブナがよく釣れていることが写真付きで報じられていた。
「ふむ。ヘラが釣れているんだから、鯉が釣れてもよさそうなもんだが。同じコイ科だし、冬眠の前によく餌を食べるんだからなあ」
そんなことを呟いて、啓三は残りのお茶を口にした。人心地がついたので、啓三は釣り道具類を車から出して準備を始めた。まず、餌を練ることが何より大事だった。鯉釣り専用の練り餌を基本にし、それにサナギ粉、タニシ粉末入り餌、さらにうどん粉を混ぜた。サナギ粉とタニシ粉は、動物質の餌が好きな鯉の食性を考えて入れた。さらに餌団子がばらけにくいように、粘性を上げるために、繊維が豊富な薩摩芋を入れた。薩摩芋は自宅で蒸かしてクーラーボックスに入れてきたものだった。それで餌団子の持ち時間がやや長くなるはずだった。それは、啓三が自宅で水槽を使って研究した成果だった。
バケツで湖水を汲み、餌を耳朶くらいの柔らかさに捏ねて、いつもより大きめの餌団子を作った。それに針を四本、針先が外に向くように丁寧に埋め込んだ。さらに掌と指で丁寧にこすって表面をツルツルにした。そうすることによって、餌が溶けにくくなるはずだった。団子をいつもより大きくしたのは、他の外道の魚が食いつかないように、大鯉だけを狙う意気込みだった。
釣り針に餌団子を付けると、竿を取って振りかぶり、いつものポイントにキャスティングした。ボチャっと着水すると波紋が広がった。啓三はリールを少し巻いて、釣り糸をピンと張り、竿立てにセットした。竿先には小鈴が付いていた。啓三は今日も竿一本で勝負するつもりだった。
まだ朝の八時過ぎ、風はほとんどないが、秋の爽やかな冷気が漂っていた。啓三は自宅から用意してきた厚手のブルゾンを羽織り、帽子を被り、釣り用の手袋をした。車から釣り用の小型の折りたたみ椅子を取り出し、腰を降ろした。湖面は鏡面のように青空を映していた。
近くで車が停まる音がした。啓三が車の方向を見ると、佐原の米屋の主人が降りてくるところだった。
「お早うございます。那須さん、調子はどうかね?」
「あ、伊能さん。どうも。おはようございます。今日は、まだ釣り始めたところです。昨日はアメナマを釣りました」
「そうかい。ここのところアメナマはよく釣れるね。私も先週釣ったよ。外道には違いないとしても、食べればいいんだ。私は何回も食べたよ。しかし、もう気が進まないのでリリースしたり、そのへんに転がしたりしているんだ」
「昨日釣ったアメナマを、食べてみましたよ。そこのキャンプ場でキャンプしているつくば市の方たちが、バーベキューで食べてみようということになって、誘ってくれたんです。けっこう美味しかったですよ。アメリカでは人気の魚だそうですよ」
「そうだろうね。日本ナマズより身が多くて、食べがいがあるからね」
「はい、醤油ダレでも、焼肉のタレでも、ポン酢でも、どんなタレにも合っていました」
「うん、ナマズの身はクセがないから、いろいろな味に馴染む感じだな」
「ええ、家族にも味わってもらいたいので、今度釣れたら、クーラーボックスに入れて持ち帰ろうかと思っています」
「まあ、いろいろ試せば発見があるからね。外来魚だからって、味わうこともしないで毛嫌いする人が多いが、どうかと思うよ。アメナマはアメリカでは人気がある食用魚だし、もともと日本には養殖が目的で持ち込まれたそうだ。それが霞ヶ浦で増えてしまったから、今さら駆除しようたって、不可能でしょうよ。人間の身勝手さが表れてるよなあ」
「はあ、確かに。人間と他の生き物の付き合いって難しいもんですね。今まで真剣に考えたことも無かったですからねえ」
「まあ、それを外来魚たちは考えさせてくれてるわけだ。まさに先生だな。はっはっは」
伊能は自分で自分の言葉に感心して気分がよくなった。
「さて、今日も大鯉を狙うか」
そう呟いて伊能は車から愛用の竿を三本出して、釣りの準備を始めた。餌練り、リールの調子、竿の感触、そして湖面や風や天候の様子などをチェックし、最後に棒温度計を湖水に差し込んで水温を計った。
「十五度くらいだな。これ以上水温が下がると、鯉は動きが鈍くなり、食欲も落ちるから、今年の鯉釣りは今日が最後かなあ。今日こそ、大物を上げたいなあ。なあ、那須さんよ」
「はい。米屋の師匠」
「ははは、俺は米屋の師匠か。今日は米の注文が入らなければいいがなあ。注文が入れば、女房から携帯に連絡が来る。そうしたら午後は店に帰って精米して夕方までに届けなくちゃいかん。因果な商売だ。もっとも主食を扱う仕事だからこそ、失業しないで何とか細々と食いつないでいるんだ。この仕事を始めた御先祖様とお米様に感謝だな」
しみじみとそう言いながら、三本の竿のセットができあがり、伊能は次々と間隔を置きながら沖合のポイントにキャスティングした。長年の腕で、伊能は狙ったポイントに正確に扇型に打ち込んだ。その隣に啓三が打ち込んだポイントがあった。
「伊能さん。伊能さんから教えていただいた美味しいお米、ミルキークィーンですけど。先月、栃木に戻る前にこの近くの産地直売所で売っていたので、買って帰りました。そしてさっそく炊いて味わってみました。先月いただいたお握りも美味しかったんですが、炊き立てはもっと美味しかったです。御飯粒が白く光ってもちもちして。家族に好評でした」
「そうだろう。前にも言ったけど、ミルキークィーンは低アミロース米なんだ。アミロースっていうのは、何だったかな。澱粉の粒の堅いやつだな。それが少ないんだ。だから、要するにもち米に近いんだそうだ。だから口あたりがいい。水を少し多目に入れて、たっぷり水を吸わせてから炊くのがいいんだ。うちは米屋だから、女房が、美味しい米の炊き方を品種ごとに研究してるんだ。それをお客さんにアドバイスしてる。たいした女房だろう?」
「ほんとですね。伊能さんは幸せものですね」
「まあな」伊能はまんざらでもないふうだった。
*
そこへ、背が高く、髪も長い、すらりとした女性が現れ、声をかけてきた。ワイン色のブラウスと白いスラックス姿だった。
「こんにちは。今日も鯉釣りですね。釣れましたか?」
アルトの美しい声が天上から降ってきて、霞ヶ浦の湖面を渡っていった気がした。
「あー。池田さん」啓三と伊能は同時に返事した。
「今日はまだです。昨日はアメナマを一匹」
「私は、今来たところです」
「あら、そうですか。私は今日の日曜日、久し振りに休みが取れたんで、霞ヶ浦に来てみたんです。少し風が冷たくなりましたけど、広くて気持がいいですね」
伊能が別に用意していた折り畳み椅子を車から出して。勧めた。
「池田さん。どうぞ。ゆっくり腰かけてください」
「あ、伊能さん、準備がいいなあ」
「そりゃ。いつ何時、どうなるか、人生なんて分らんもんだから」
「どうなるんです?」啓三がからかうと、伊能は嬉しそうだった。
「運命の神様のみが知っているっていうとこかな。ところで池田さんは、夜勤明けですか」
「そうなんです。そのまま寝るのはもったいない気がして、気分を変えたい気もしたし。お年寄りたちは、皆さん人生の荒波を渡ってきて、ようやく老人ホームという安息の港に入港した船みたいなんですね。ですからほとんどは穏やかに過ごされるんですが、中には辛い人生を思い出すのか、時々声を荒げたり、逆にひどく沈み込んだり、涙を流されたりされる方もいるの。そういう方には私たちは辛抱強く接するしかないんです。そのうち、また打ち解けて会話に応じてくれる方もいますから」
「そうか。介護の仕事は大変なんだなあ。これから、どんどん高齢化社会になっていくわけだから、池田さんたちの給料を上げてやりたいなあ。俺が厚労大臣なら絶対そうする」
「まあ、ありがとうございます。そうなると嬉しいですね。でも、とりあえず今は、皆さんが大きなお魚を釣るところを見てみたいわ」
「そうですか。それなら、僕がまず釣ってみせます」
「おいおい、那須さん。ビギナーのくせに、ベテランを差し置いてはいかんなあ」
「いいえ、伊能さん。釣りにベテランもビギナーもありません。ビギナーズ・ラックということもありますから、とにかく釣った方が勝ちです」
「お、那須さんもなかなか言うなあ」
「まあ、お二人とも仲がいいんですね」
そんな話をしながら、二人は美人のギャラリーに見守られ、鯉釣りに集中した。
*
「おーい、那須さん。そろそろリールを巻いてみな。そろそろ餌がばらける時間だ」
「はい、では上げてみます」そう言って那須はリールを巻き始めた。リールは何の抵抗もなく、スルスルと巻き取られた。ラインの先端につけた四本の針がだらしなく現れた。
「あーあ。餌が全部溶けてしまってる」
「なあに、溶けた分が寄せ餌になるから無駄じゃない。人生も同じだ。下積み時代は辛いが、後で花開く。そんなもんだ。次は釣れるかもしれないぞ」
啓三は練り餌を、祈るような気持で、両手で捏ねながら、思い切って特大の団子にして丁寧に丸め、表面を滑らかにした後、四本の針を埋め込んだ。池田や伊能の視線を感じながら、竿を大きく振りかぶり、全身をばねのようにして、竿を振った。餌団子は、放物線を描きながら、沖合いのポイントに「ポチャ」と落ちた。啓三はリールを少し巻いて、ラインをピンと張った。
池田は、「わあ、すごい」と言いながら、拍手した。伊能は悔しそうに、
「池田さん。俺の方が先輩なんだから、もっとかっこいいぞ。後でキャステイングするから、よーくみてくれよ」
突然、啓三が叫んだ。
「わわわ、竿が・・・」
啓三の竿の先が撓んで、ラインが強く引っ張られていた。鈴が激しくチリンチリンと鳴った。啓三は竿を掴み、竿の元を腰のベルトで固定して、体をラインが伸びている方向にまっすぐに向けた。
「おお、何だ、これは。もしかして」
「うむ、鯉だ。鯉の引きだ。それも大鯉だ。アメナマやニゴイとはまるで違う。那須さん。気を緩めるな。緩めたら負けだ。慌ててリールを巻いてはだめだ。力がラインにかかりすぎて、切れるぞ。鯉を右、左に泳がせながら、疲れるのを待つんだ。鯉の引きが弱くなったのを見計って、その時にリールを巻くんだ」
池田は両掌を胸の前で合わせて握り「頑張って」と声をかけた。いつの間にか、キャンプしていた家族たちも、堤防の上に上がってきて、啓三の闘いを見守っていた。
子どもたちも応援した。
「おじさん。頑張って」「きっと釣って」
大人たちも、「那須さん。ファイト」などと励ました。
那須の心臓は強力なエンジンのように拍動し、呼吸も乱れた。アドレナリンが大量に分泌されたようだった。鯉はまだ姿を見せなかった。
「那須さん、あせるな。あせりは禁物だ。さっきよりは近づいた。その調子だ」
丁度、サッカーのユニフォームを着た二十数人の少年たちがジョギングをしながら通りがかった。先頭を走っていた指導者らしい大人が、啓三たちが大騒ぎしている様子を見て、ホイッスルを吹いた。少年たちがジョギングを中断し、堤防上から眺め始めた。ギャラリーが三十人以上に増えた。
啓三はギャラリーに応援されていることに気を取られる余裕はなかった。
ラインの先の鯉が沖に向かい始めた。
「那須さん、そこだ。自由に泳がせるな。ラインを張りながら、右へゆっくり歩くんだ。そうすると鯉の鼻先に横の力が加わるから、鯉の体も右側へ少しずつ傾く。鯉の泳ぐ力が削がれる。そうだ。それでいいぞ。鯉の泳ぐ力が弱まったら、一気に巻いてみろ。そう、そう。ほら、見ろ。だいぶ距離を稼いだっぺ。だいぶ近づいた。それでも油断するな。鯉は魚の王様だ。最後の力を振り絞って逃げようとするからな。他の雑魚とまるで違うんだ」
「伊能さん。ものすごい力で引っ張られてる。これは、こっちが勝つか、あっちが勝つか、真剣勝負だ」
堤防上から見物しているギャラリーも、手に汗にぎる心持ちで、固唾を呑んで見守った。人間と鯉の一騎討ちだった。
五分経ち、十分が過ぎた。啓三の息が上がってきた。心臓が口から飛び出しそうだった。啓三がもう限界かと思った時、ラインの先で巨大な魚の頭が見えた。
「おお、見えた。でかいぞ。もう少しだ。向こうも疲れている。ここが辛抱だ。慎重に巻け。そうだ、そろそろタモを用意だ」
伊能は傍からタモを手に取った。
「でかいから、このタモで大丈夫か?」
伊能は不安になった。
「なあに、頭から入れれば何とかなるか」
キャンプの子どもたちがまた口々に那須を励ました。
「おじさん、頑張って」子どもの父親も感極まった。
「那須さん。フィニッシュが近い。最後の頑張りだ」
サッカーチームの子どもたちも、手でメガホンを作り、声を揃えて応援した。
「オレ、オレ、オレー。オレ、オレ、オレー」
その声援に後押しされて、啓三も最後の力を振り絞って、リールをゆっくりと巻いた。大鯉は少しずつ岸辺に近づいてきた。伊能は冷静だった。
「気をつけろ、最後に大暴れする余力を残しているかもしれないからな」
伊能はタモを水中に入れた。賢い鯉はタモが見えると暴れるのか、それとも大人しく観念するのか。両方の可能性があった。鯉の頭が水面に出て、口と目が見えた。鯉は五メートルほどのところまで寄せられた。
「那須さん。そのまま寄せるんだ。竿を立てて。頭を水に潜らせないように。水に潜ると、ヤツはタモが見えて、ひと暴れするかもしれないからな」
啓三は言われたとおり、竿を立て、高い位置からラインを引いて、巨大な魚体を引き寄せた。
ギャラリーが息をするのも忘れて見守る中で、大鯉はタモの中に入った。サッカーチームの子どもたちが声を揃えた。
「ゴオオオール」
「やった。那須さん、お見事。仕留めたなあ」
堤防の上から盛大な拍手と大歓声が沸き上がった。
「ウワー、すごい」「おじさん。おめでとう」
池田も祝福した。
「那須さん、おめでとうございます。私、こんな大きなお魚、釣るところ初めてみました。感激しました」
伊能も、冷静さを装いながらも、驚きを隠せなかった。
「長年、鯉釣り、やってるけど、こんな大きな鯉は俺も釣ったことがないなあ。みごとな野鯉だ。見ろ、この大きな鱗。立派なひげ。素晴らしい型だ」
啓三は、ハーハーと肩で大きく息をしながらようやく言った。
「伊能さんのお陰です。ハーハー。伊能さんが竿三本も出して。ハーハー。鯉を寄せてくれたからです。ハーハー。」
「うむ。それはあるかもなあ。ちょっと悔しいけどなあ。でも、那須さんの謙虚さと研究熱心さが大物を釣らせたんだな。そういうところは確かにある。ビギナーズ・ラックだけではないな。ところで何センチあるんだろう?」
伊能は釣り道具を入れたボックスからメジャーを取り出して、鯉に当てて測った。
「うん。尾まで入れて八十センチだ。三尺まではいかないが、かなり大物だ。そうだ、那須さん、記念写真だ。鯉を横抱きにしてポーズを取ってみろ。写真、撮ってやっから」
伊能は道具箱から、すばやくデジカメを取り出した。
「カメラは、いつも用意してんだ。記録用にな。那須さん、はい、ポーズ」
伊能は、魚体の下から恐る恐る腕を入れ、大きな鯉を横抱きにすると、そっと立ち上がった。鯉は恨めしそうに啓三を見たが、暴れることはなかった。
「大したもんだな。鯉は。暴れたら見苦しいことを知ってるようだな。まるで侍だな」
伊能は感心したように頷いて、カメラを構えた。
「那須さん、緊張してんな。ではまず一枚。続いて、リラックスして、誇らしげに。まだ表情硬いよ。釣った嬉しさを表情に出して。笑って、といっても無理か。さっきまで、鯉と格闘してたんだからなあ。まあ、いい。はい、チーズ。一足す一は。はい、オーケー.もう一枚、さらにもう一枚。はいオーケー」
などと言いながら、伊能は五枚ほど写真を撮り、デジカメのスクリーンで撮れたことを確認した。
「よし、撮れた。記念に後でプリントして送ってやろうか。それともデータでメール添付で送信するか。こう見えて、商売柄、メールやネットをやってるんだ」
ようやく、落ち着いた啓三が答えた。
「はあ、じゃ、後で私のアドレスをメモしますから、そこへお願いします」
「了解。ところで、鯉はどうする?」
「はい、弱らないうちに、霞ヶ浦に戻そうかと」
「それがいいな。この鯉の口をみると、だいぶ傷ついてる。何回も釣られるたびに放流されたようだな。もっと、大きくなって、釣り師を楽しませてくれればいいというわけだな」
「はい、じゃ、皆さん。応援、ありがとうございました。お陰さまで、人生で初めて、こんな大きな鯉を釣ることができました。皆さんとこの鯉に感謝して、霞ヶ浦に帰そうと思います」
経緯を見守っていた人たちが、また大きな拍手をした。啓三は、鯉を抱きかかえたまま、コンクリート護岸の端に腰を下ろし、ゆっくりと魚体を湖水に漬けた。啓三が腕を放すと、大鯉は何事も無かったかのように、悠々と泳いで、深みに消えた。
子どもの一人が手を振りながら言った。
「鯉さん、バイバイ」
見守っていた人々は、ほっとしたように、その場を離れ始めた。少年サッカーチームの子どもたちは、指導者のホイッスルとともに、ジョギングを再開し、堤防上を走り去った。キャンプの家族は、啓三に挨拶した。
「那須さん。鯉が釣れて私たちも感動しました。今、本気で霞ヶ浦で釣りをやってみようかと思っています。子どもたちが、自然との対話の大事さを、釣りを通して感じ取ってくれればいいと思います。ではまた、お会いできることを楽しみにしています」
「おじさん。さようなら」
キャンプの家族連れは、啓三と伊能に手を振りながら、松林の向こうのキャンプ場へ向かった。
*
釣り場に、啓三、伊能、池田が残った。池田は、興奮冷めやらず、二人に話しかけた。
「私は鯉の生命力に一番感激したわね。野性の生き物ってすごいわね。私も元気をもらった気がする。明後日、老人ホームに出勤したら、霞ヶ浦で大きな鯉が釣れるところを私が見たって、お年寄りに話してあげたいわね。うーん。今の気持をうまく話せるかな。感じたままを、そのまま話せばいいのよね。私のお話でお年寄りたちが元気になってくれるといいなあ」
「池田さんは優しいなあ。ぜひ話してあげて。鯉の話はなぜか、みんな好きだから。大人も子どもも。老いも若きも。男も女も」
伊能が応じた。啓三も同感だった。
「あの鯉の感触がまだ、腕に残っています。重かったなあ。リールを巻いている時も、命の躍動感というのか、生き生きした動きが釣り糸を通じて、ビンビン伝わってきました。あの感触は一生忘れないでしょうね」
「そうなのね。それをお年寄りの心に響くように伝えられるかなあ」
「まあ、池田さんは傍でドキドキしながら見ていたんだから、そのまま言葉にして伝えれば大丈夫」
「わかりました。とにかくやってみます。那須さん、伊能さん、貴重な体験をさせていただきました。ありがとうございました。また時々、ここに伺います」
「そうですね。鯉釣り仲間が池田さんをいつでも歓迎しますよ。あっはっは。でも流石に、これから冬に向かうと、釣り場も寒いし、鯉のあたりもほとんど無くなりますね。鯉釣り師の姿も一時、霞ヶ浦から消えます」
「次は春ですかね」
「そうなんですか。ではまた、お会いできること楽しみにします。ごめんください」
そう言って、池田は丁寧にお辞儀した後、堤防の上を美しい後ろ姿を見せながら、足早に歩いて行った。
*
釣り場には啓三と伊能の二人だけになった。啓三が伊能の顔を真っ直ぐに見た。
「伊能さん、ありがとうございました。伊能さんのアドバイスがなかったら、あの大鯉を釣ることは出来ませんでした。途中で糸を切られるか、障害物があるところに逃げ込まれたかもしれません。それに、伊能さんが餌団子を打ち込んでくれたから、鯉が寄ってきたのだと思います」
「まあ、先輩に花を持たせてくれるのは嬉しいけれど、さっきも言ったように、那須さん
の努力、研究熱心さ、謙虚な姿勢。それに釣りの女神様、つまり池田さんが微笑んでくれたということだな。今回は誠におめでとうございます」
「ありがとうございます」
「なんだか、祭りの後みたいだな。佐原の賑やかな祭りが終わった後もこんな気分になる。淋しいよな。まあ、私は今日が今年の納竿だな」
「のうかん・・・ですか?」
「うん。竿を納めることだ。間もなく冬だ。水温が下がって、鯉は深場でじっとして冬眠に入る。鯉が動き出すのは来年春だ。それまで米屋は祭りを楽しみに、仕事を黙々とやるだけだな」
「はい、僕も今日、昼前に出発して栃木に帰ります。伊能さん、いろいろご指導ありがとうございました。来年、春、またここでお会いできればと思います」
「そうだなあ。出会いを大切にするのが鯉釣り師だ。ここで待ってるよ。那須さん」
「はい。伊能さん。お元気で」
「うん、那須さんも」
二人は視線を合わせて互いに頷いた後、霞ヶ浦の広い湖面に目を遣った。霞ヶ浦は、
やや風が出て、縮緬のような細かい波が水面を渡って行った。
了

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