霞ヶ浦タイムズ

 毎朝新聞東京本社文化部記者だった吉井正造は、定年を四年残して退職し、故郷の茨城県霞ヶ浦湖畔の町に帰ってきた。父親の信二郎が癌を発症して昨年急逝し、実家には七十八歳になる母親の佐紀が独り残されていた。佐紀も膝と腰が悪く病気がちで、認知症の症状が出ていた。父親が元気なうちは老々介護で互いに支えあっていたが、母親が独りになり、他家に嫁いだ妹たちとも話し合い、正造が実家に戻ることにしたのだった。

複数の選択枝があった。正造が自宅にしている東京のマンションに母を引き取り、一緒に暮らす案。地元の介護付き有料老人ホームに入居してもらう案。他県に嫁いだ妹たちのうち、どちらかが引き取る案。そして、正造夫婦が実家に戻り、母親と暮らす案だった。

吉井は一男二女の長男だった。東京の私立大学文学部卒業時、地元で就職するようにとの両親の懇願を振り切って、毎朝新聞の記者の道を選択した。全国紙では、若手記者は地方支局や通信部に配属され、先輩記者の厳しい指導のもとで修行することが通例だった。

吉井も十数年、日本各地の支局を数年間隔で転勤しながら、東京一極集中で過疎化し、人口が減少して経済が低迷する地方の現状を取材した。出会った地域住民の素朴で温かい気遣いに感謝することも多かったが、時には殺人事件や悲惨な交通事故の現場を取材することも少なくなかった。 

現場取材、市役所や役場まわり、サツまわりと呼ばれる警察署まわりで、慣れないうちは記者になったことを後悔した。特に真夜中に支局の先輩記者からの電話で呼び出され、事件、事故、災害の現場に駆けつけるときには、記者という仕事への後悔を呟くこともあった。

『自分は新聞記者には向かないのではないか』と、吉井は、しばしば自問自答した。

激務の合間に、学生時代から好きだった地方の美術館や博物館めぐりをするのが、息抜きになった。また古い神社や仏閣も訪ねた。できるだけ写真を撮り、神社の説明板の記述などをメモし、さらに地元の市町村史にも目を通し、綿密な取材を重ねた。その努力が支局のデスク(編集責任者)に認められ、地方の歴史や文化を紹介する記事として、地方欄の片隅を飾ることもあった。

 その記事を読んだ読者から、『とても参考になりました。記事に誘われて、休日散歩のつもりで出かけました。記事のとおり、すばらしい場所で、これまで知らなかった地域の歴史の勉強になりました』などと書かれた手紙をデスクから受け取り、誉められることが度々あった。

 三十代半ばを過ぎた頃、本社の文化部から声がかかり、東京に転勤し、文化、芸術、文学などを担当するようになった。勤務時間は規則的になり、マイペースで取材し、本社の広い資料室で調べものをする日々は、吉井にとって、ようやく手に入れた至福の時間だった。

気持ちが落ち着いた吉井は、上司から紹介された麗子と結婚式を挙げた。麗子も三十歳を少し過ぎて、相手に高望みすることはもうできなかった。地味な性格の吉井と麗子は似合いの夫婦で、やがて一男一女の子宝に恵まれた。

 吉井は、文学者、音楽家、画家などの文化人を訪ねてインタビュー記事を書き、時にはかねて訪問したかった地方の美術館や博物館めぐりも再開した。北海道から九州、沖縄まで、名所旧跡を訪ねて、署名入りの旅行記事も書いた。

 本社で五年過ぎ、吉井は文化欄担当記者として、少しは名を知られる存在になった。さらに十数年経ったころ、吉井を文化部長に推す動きがあったが、吉井は固辞した。本社のデスクで、他の記者が書いた原稿に眼を通すより、自分で各地を訪ねたり、創造的な活動をしている魅力的な文化人との出会いを楽しみながら記事を書く仕事を、定年まで続けたいと思った。

 しかし、父親が亡くなり、残された母親が病気がちでは、長男としての責任を果たさなくてはならないという気持ちが芽生えた。母を東京のマンションに引き取り、一緒に暮らす案は、母が都会のマンション暮らしに馴染めないだろうと判断し、諦めた。地元の老人ホームへの入居は希望者が多く、いつまで待てばよいのか、見込みがつかなかった。二人の妹たちは他県に嫁いでいて、母を引き取ることは難しかった。もう一つの案は正造夫婦が実家に戻り、母とともに暮らすことだった。吉井はその案に傾いた。 

その気持ちを妻に相談した。東京に生まれ育った麗子は、最初は東京を離れることに難色を示した。しかし、話し合いの末、結局は吉井の提案に同意した。義母との同居についても、やや逡巡したものの、いつかはその日が来ることを予想していたので、受け入れたのだった。ただ、吉井の収入が激減するであろうことは、覚悟せざるを得なかった。

霞ヶ浦市から、常磐線で東京に通うことも不可能ではなかった。実際、東京に通うサラリーマンや大学生は少なくなかった。しかし、吉井は、往復で約三時間もかけて、満員電車で通勤することは耐えられなかった。妻の同意を得た吉井は会社を早期退職し、妻とともに実家に戻った。

子どもたちはまだ大学生だが、卒業までのアパート代をはじめ、学費は吉井の退職金とこれまでの蓄え、そして奨学金やアルバイトで、何とかなりそうだった。

 吉井が毎朝新聞社を辞め、地元の霞ヶ浦市に帰ってきたという噂は、出身高校の霞ヶ浦第一高校の同窓生らに広まった。吉井が全国紙の文化欄で健筆をふるい、教養溢れる落ち着いた記事を書いてきたことは、高校時代、交遊を重ねた同級生たちにとって、誇りであった。

                     *

 平成26年の春、吉井が地元に戻り、引っ越し荷物の整理がついて落ち着いたころ、地元の新聞社『霞ヶ浦タイムズ』の主筆を務めている寺田から電話があった。寺田は高校時代、文芸部のクラブ活動で同人誌作りをともにやった仲間の一人だった。寺田は茨城大学を卒業後、地元の小さな地方新聞社に入社し、地道な記者の仕事を続け、今はデスクや主筆を務めていた。吉井は、霞ヶ浦タイムズ社の古びた社屋の小さな応接室で寺田と会った。

 寺田は、総務課の女子社員が運んできたコーヒーを勧めながら言った。

「久し振りだね。毎朝紙での活躍はこちらにも伝わっていたし、同級生で同業だから、自分が頑張っているような親近感で、記事を読んでいたよ」

 吉井も懐かし気に応じた。

「そう言ってもらえると嬉しいね。だいぶご無沙汰してしまったけど、地元に戻ってきたので、また旧交を温めていければいいね。よろしくお願いします」

 吉井が軽く頭を下げた。寺田が続けて言った。

「ところで、これからどうするんだ。仕事は?」

「文章を書く仕事は俺の生きがいだから、これからも続けていきたいんだ。毎朝新聞文化部の先輩には、記者から作家になった人もいる。老け込むにはまだ早いから、若いころからの夢だった小説家を目指そうかなと考えることもあるんだ」

 寺田は、頷きながら言った。

「それはいいな。しかし、すぐ作家デビューというわけにもいかんだろう?」

「そうなんだ。作家として自立するまで食いつなぐために、何かで稼ぐことは必要だなあ」

 すかさず、寺田が言った。

「そうだろうなあ。じゃあ、うちで記事書いたらどうだ。事件、事故、災害の記事は若い記者に任せて、吉井が得意な文化欄を担当してもらいたいんだ。どうだろうか?」

 吉井はためらいがちに言った。

「ありがとう。いい話だが、少し躊躇する部分もある。茨城県は東京や関西圏と違って、残念ながら文化度という点では、話題が多くないように思うんだ。歴史的にも日本の進路を左右するような大きな出来事が少なかったことは否定できないだろう」

 それを聞いて寺田は気色ばんだ。

「それは聞き捨てならんな。吉井は茨城出身のくせに、地元のことを良く知らないな。例えば幕末の水戸の天狗党事件などは実に面白い。いろいろな作家が取り上げるようになったが、まだ評価が定まっていない。そもそも尊皇攘夷は水戸藩が先鞭を告げたことは知っているだろう? あの吉田松陰も水戸藩の弘道館の儒学者達に学びに来ているほどだ」

 吉井は気乗りしない様子で言った。

「ある程度は知ってる。しかし、水戸藩は歴史の大きな流れに逆行したんじゃないかな。結局、明治新政府に人材を送り込むことが出来なかったんだから」

 寺田は難しい顔で応じた。

「少しは茨城の歴史を勉強したようだな。では何故、天狗党事件が起きたか。薩摩や長州とは何が違ったのか。なぜ、水戸藩では人材が払底してしまったか。水戸で生まれ育った徳川慶喜はなぜ、大政奉還し、江戸城の無血開城で徳川幕府に終止符を打ち、開国に道筋をつけ、明治維新後、隠居してしまったか。そもそも、徳川慶喜は何故天狗党を認めなかったのか。見方によっては、水戸藩の尊王攘夷思想が明治維新の原動力になったとも言える。日本史の中で、茨城、つまり常陸国をどう位置付けるか。作家をめざすなら、面白いテーマだぞ」

 吉井は当惑の表情を浮かべ、しばらく考えて言った。

「確かに、幕末から明治維新にかけて、激動期の志士たちの人間群像は興味深い。茨城人がどう動いたのか、小説で取り上げる価値はおおいにあると思う。しかし、俺には手に余る仕事だ。

むしろ俺は、茨城の庶民の歴史、民俗、信仰、文化、自然などを丁寧に取材したり、美術館や博物館の常設展、企画展などの紹介、地域の活性化や地域作りにつながる隠れた観光スポットやB級グルメを取り上げることも大事だと思うんだ。茨城県民は、もっと茨城に誇りを持って、あらゆる機会に、茨城の魅力を発信すべきだと思うんだ」

寺田はやむを得ないという表情を見せて言った。

「うーん、そうか。では、吉井が書きたいテーマで始めてもらうか。得意なテーマなら書きやすいだろうから。よし、決まりだな。何しろ、毎朝紙の記者を迎えることができるなんて願ってもないことだ」

「うまく乗せられた気もするが、お世話になります。よろしくお願いします」

吉井は頭を下げて言った。寺田は吉井の手を握って言った。

「こちらこそ、よろしく。こうして高校時代の文芸部の仲間とまた、記事を書けるとは思いもよらなかったなあ。面白いめぐり合わせというべきかな」

 吉井も応じた。

「そうだよな。いろいろ配慮してくれて、感謝してるよ」

「いやいや。ただし、ここから現実的な話になるんだが、言うまでもなく、待遇の件だ。うちは地方紙だ。発行部数も少ない。茨城県南部は、東京への通勤圏に入るから、茨城都民と呼ばれて、東京の職場に通っている人が多い。地元の出来事に関心が薄いから地元紙を購読しないんだな。

若い人は、情報源として新聞よりも、パソコンやスマホに頼っている。それに、経済の停滞と出版不況で広告収入も減ってしまっている。広告を出してくれる地元企業が少なくなっているんだ。発行部数が減少しているから、広告効果も薄い。だから、記者はじめ、営業担当社員や総務担当社員にも、少ないサラリーで我慢してもらっている。

経営面では、地元銀行や代表的な企業の支援もいただいている。しかし、なかなか良い方向に向かわない。つらいところだ。だから吉井にも、これまでの経歴に相応しい給料は払えないことは承知しておいてもらいたいんだ」

「分かっている。それは承知の上だ。新人記者のつもりで頑張るよ」

「申し訳ない。そう言ってもらえると、ありがたい。では来週から正式に勤務ということで、よろしく」

「こちらこそ、よろしく」

吉井は寺田に軽く頭を下げて、応接室を後にした。

                     *

 翌週、吉井は出社するとすぐ、デスクの寺田に「霞ヶ浦に取材に行ってきます」と告げて、車で社を出た。

吉井は高校まで、霞ヶ浦の傍の地元で過ごしたが、霞ヶ浦を特に意識したことはなかった。東京の大学を出て、毎朝新聞の記者の仕事に就いてからも、時々帰省することはあったが、わざわざ霞ヶ浦を見にいくことはなかった。吉井に限らず、地元のほとんどの住民は霞ヶ浦に無関心だった。しかし、今回、実家に戻り、地元新聞社に勤めたからには、霞ヶ浦の取材から始めるべきではないかという気がした。

 吉井は霞ヶ浦の堤防上の道を、ゆっくり車を走らせた。吉井が子どもの頃は高い堤防はなかったから、湖岸を車で走ることは思いもよらないことだった。子どもの頃、湖岸に近づく道は限られていた。その道は水田や湿地の中を細く続いていて、葦原の中を抜けていくこともあった。そこを抜けると砂地になり小さな砂浜が現れた。初夏になると、子どもたちは夏休みを待ちきれず、霞ヶ浦の浅瀬で水遊びを始めた。

 そんなことを思い出しながら、吉井は堤防上を車で走ると、広々とした霞ヶ浦の湖面が午前の陽光を反射しながら輝いた。霞ヶ浦の湖水は汚れてしまい、昔とは大きく違ってしまったと思い込んでいただけに、湖面の輝きは意外だった。

―霞ヶ浦も捨てたものではないなー

 吉井はさらに車を運転した。堤防の外側に、広い葦原に柳が点在する場所に来た。狐色の枯れ葦の根元が、芽吹いた新芽で緑色に変わりつつあった。狐色と緑色の対比が、原稿の細かい字を書いたり読んだりしてきた吉井の眼に優しかった。柳の薄緑も鮮やかで、狐色の葦の中でパッチワークの模様のようだった。その縁取りは両方の色が自然に融和するように溶け込んで見えた。葦原の向こうには霞ヶ浦の湖面が見えた。キラキラ光る湖面に白い帆のヨットが数隻浮かび、微風を孕んでゆっくりと滑るように移動していた。

―高校か大学のヨット部かなー

 吉井は、自分が卒業した高校を含め、地元の高校にヨット部があり、国体やインターハイに選手を送り出していることを知っていた。また筑波大学のヨット部やボート部も霞ヶ浦で練習していることを知っていた。

―近いうちに、ヨット部の若い人たちにインタビューしてみようかな。ヨット部員が今の霞ヶ浦をどう見ているか、感じているか。湖水に一番親しんでいる若人たちだから、いい記事になりそうだー

 吉井は、新聞記者としてのプロ意識がまた戻って来つつあることに気がついた。そんな自分にやや苦笑した。

―地元に戻ってきて、少しはのんびりしたいと思っていたが、やはりあちこち取材に行って、出会った人たちから話を聞くのは楽しいよな。これが根っから染み付いた記者魂というやつかなあー

 吉井は湖面を眺めながら、気力が戻りつつある自分に気がついて、少し驚いた。

―この霞ヶ浦のお陰かな。都落ちした俺をこの大きな湖が迎えてくれたわけだー

 吉井がさらに車を進めると、漁船が十隻ほど繋留されている小さなドックが見えてきた。漁師らしい初老の男性がコンクリートに敷いた青いビニールシートに胡坐をかいて座り、網を繕っていた。吉井は、その男性に声をかけてみたくなり、車を堤防上に停めた。吉井はドックに続く数段のコンクリート製の階段を降りた。

「こんにちは。精が出ますね。魚網の修理ですか?」

漁師らしい男性は、繕いの手を止めて、吉井を見た。吉井は腰を屈めて、男性と同じ目線の位置になった。男はぶっきらぼうに茨城弁で言った。

「見ればわかっぺよ」

吉井は少し鼻白んだが、平静を装い、取材用の大学ノートを取り出して応じた。

「お仕事の邪魔をしてすみません。霞ヶ浦タイムズの記者です。ちょっとお話を伺ってよろしいですか?」

 その男性は視線を逸らして言った。

「新聞記者か。新聞記者に話すことなんかねえ」

 吉井は、男の思いがけない対応に気がそがれたが、若い時の地方記者時代に培った粘り強い取材の大切さを思い出した。できるだけ柔らかい表情と口調を、意識して作って、再度言った。

「急で申し訳ありません。丁度通りかかったものですから。最近の霞ヶ浦のようすについて、教えていただければと思ったのですが・・・。去年や今年の漁のぐあいはいかがですか。ワカサギやシラウオはよく獲れますか?」

漁師の男性は、吉井が引き下がらないので、魚網の繕いの手を止め、改めて吉井の顔を見つめた。

「ふん。一時、ワカサギ、シラウオはほとんど獲れなかった。最近はワカサギもシラウオも、また少しは捕れるようになったんだ。だけんど、せっかく獲れても売れないんだ。何故だか分かるか?」

 吉井は首を傾げて言った。

「申し訳ありません。それは知りませんでした」

 その漁師は、ここぞとばかり、言った。

「お前ら新聞やテレビのせいだ。マスコミが原発事故の風評被害を煽ったんだ。霞ヶ浦の魚が放射能で汚染されて、安全かどうか問題だという調子の記事が出たっぺ。あれで魚が売れなくなった。佃煮も売れない。どうしてくれるんだ?」

 予想していなかった方向に話が向かっていた。それでも吉井は話を繋ごうと冷静に言った。

「そうだったんですか。実は私、最近赴任してきましたので、詳しいことは分かりません。でも、新聞とかメディアというものは、一般人の方々の不安を代弁するのが仕事ですから」

 漁師は、眉間に皺を寄せて食い下がった。口元が尖った

「一般人っていうのは誰のことだ。漁師は一般人じゃないのか。ちゃんと公平で科学的な記事を書いて、不安を解消することの方が大事だっぺ。ところがお前らは不安を助長してんだぞ。新聞記者は科学に弱いからな」

 吉井は頭を掻いた。

「実は私もそうです。大学では文系でした」

「ほら、そうだっぺ。よく知らない分野で、いい加減な記事を書いているんだっぺな。その記事が正しいかどうか、自分で判断できないで、どこかの大学教授の受け売りで、権威を借りたり、判断を読者に任せてるんだな。

読者の大部分は専門家じゃないから、その記者が書いた記事を信じるようになる。随分無責任な話だろ?そのお陰で漁師はえらい迷惑してんだ。死活問題だ」

 吉井は、男性がかなり手ごわい論客であることに驚きながら言った。

「では、霞ヶ浦の魚は安全だとお考えですか?」

 漁師は立ち上がって言った。

「安全かどうかは程度問題だ。この世に絶対安全はないだろう。塩や砂糖や酒だって、摂りすぎれば病気になる。例えば、魚が少し汚染されても、一日に食べる量がこれ以内なら心配ないと専門家が言ってるんだから、それでいいんだ。国の基準もそうなっている。ワカサギの佃煮を一日に一キログラム食べる人はいないんだからな。それが科学というもんだ。これは、放射能の専門家の受け売りだけどよ。俺は、放射能問題の本を五冊以上は読んだな。漁師だって勉強してんだからな」

 吉井は、漁師の論理の元が分かってほっとした。

「確かに、その通りですね。しかし、新聞は科学の教科書ではないので、どうしても断片的な記事になってしまいます。放射能汚染の問題は、読者がそれぞれ自分で考えるべきですね」

「それは言い訳だっぺな。一般の人は学校を出てしまえば、勉強するチャンスはなかなかないよな。家庭や職場の仕事が忙しくてな。稼ぐだけで精いっぱいだ。新聞がもっと分かりやすい教育的な解説記事を載せてもいいんじゃないか?」

 漁師と話が噛み合ってきた。

「仰るとおりですね。これから私も心がけます。ところで、ワカサギがまた漁れるようになったということですが、その原因は何だとお考えですか?」

「俺達は魚を獲るだけだから分かんねえが、水産試験場の話では、今年の春はワカサギの餌になるワムシやミジンコがよく発生しているそうだ。そして、ミジンコなどの餌になる植物プランクトンが順調に増えているそうだ。だから霞ヶ浦は良くなってきてるんだ。透明度も良くなってきたしなあ」

「そうですか。それは、あまり新聞が書いていないことですね」

「そうだろう。だから、そういう良いことを新聞は記事にすればいいんだっぺよ。ところが新聞は他人の足を引っ張るような記事ばかりだ。それでは地域社会は疑心暗鬼になって、住民の心が荒れるんだ。新聞記事が地域社会を荒らしているんだぞ。そんなこと、考えたことあっか? 俺は、地域を盛り上げるような明るい記事を読みたいんだ」

「分かりました。県の水産試験場の専門家にも取材してみようかと思います」

「そうだ。一人だけじゃなく、いろいろな人の話を聞いて、公平で分かりやすい記事にすることが大事だっぺ。社会に胸を張って責任を持てる新聞だぞ。こそこそと、ひんしゅくものの記事を載せるようではだめなんだ。それが信頼されて、売れる新聞の基本だな」

吉井はこの漁師の見識に驚いた。地方にこれほどの人物がいる。霞ヶ浦の地域社会を改めて見直してみたいと思った。吉井は漁師に名刺を差し出して言った。

「霞ヶ浦タイムズの吉井と申します。また取材させていただく機会もあるかと思います。お名前を伺ってよろしいでしょうか?」

「俺か、俺は船渡だ。このへんじゃ、浜宿漁協の組合長の船渡といえばすぐ分かる」

「船渡さんですね。漢字は、大きい方の船に、渡し船の渡の字でいいですね。船渡さんは組合長さんでしたか、道理でいろいろと勉強なさって博識なわけですね。お話を聞かせていただいて、本当にありがとうございました」

「俺は、いつもは口が重いんだ。特に霞ヶ浦を大事にしていない人間とは話したくないんだ。新聞記者だけじゃない。霞ヶ浦を大切に思っていない人間は多い。大部分がそうだ。この地方では、霞ヶ浦の恵みを受けて、何千年も暮らしてきたんだ。

それなのに、霞ヶ浦を無意識に利用するだけの人間がほとんどだ。毎日、霞ケ浦からから取水した水道水を使っているのに、水道水がどこから来るのか、気にしていないんだ。だから、霞ケ浦へ汚い排水を出しているのに気がまわらない。自分が出した汚れた排水が霞ヶ浦に入って、また、家の蛇口に戻って来るんだぞ。

新聞は世の中を騒がせる記事を載せて、新聞が売れればいいんだっぺ。そうすりゃ、給料が上がるからなあ。だけど、俺達みたいに、迷惑を受ける仕事もあるんだ。それをいつも考えておけよ」

「分かりました」

「まあ、俺は組合長だから、漁師仲間を代弁して厳しいことを言ったかもしれないが、新聞は責任が大きいだろう。ペンは剣よりも強いことがある。社会の公器ともいうな。新聞はじめマスコミは公権力の一つだ。それを自覚しておけよ。新聞記事で人が自殺することだってあるからな」

「それは肝に銘じておきます」

「うむ。まあ、あんたは、少しはましな記者のようだな。また話してやることもあるだろう。さあ、仕事だ。網が破れていては、魚が捕れないからな、あははは」

船渡は、また座って網を手に取った。

吉井は、全国紙記者時代から使っているカメラを取り出して、言った。

「最後に写真を撮らしていただいて、よろしいでしょうか?」

 船渡は笑って鷹揚に言った。

「ああ、かまわねえ。どこに出しても恥ずかしくねえ漁師の親父だからよ」

 吉井は手馴れた操作で、漁網を補修している船渡の写真を数枚撮った。

「ありがとうございました。おじゃましました。では、失礼します」

吉井は丁寧に頭を下げて、その場を去った。

                  *

 吉井は、複雑な気持ちで、また堤防上の狭い道を車でゆっくり走った。ジャーナリストであることの苦悩が久し振りに蘇えってきた。

駆け出しの若手記者として、毎朝新聞の地方支局や通信部に勤務していた頃、なかなか取材に応じてくれない住民が多かったことを思い出していた。開発か自然保護かをめぐって、住民どうしが対立している地域では、住民は容易に口を開いてくれないこともあった。ようやく取材がかなって記事にすると、それが反対側の感情を逆撫でしてしまったこともあった。吉井は自分なりに自信を持って、書いたつもりだった。しかし、その記事は情報提供者が巧妙に新聞を宣伝材料に利用したものだった。

そのことは、反対派の言い分を取材して、ようやく分ったのだった。反対の立場の人間の意見を丁寧に取材しておけば、もっと公平な記事を書けたはずだった、しかし、反対派は当初なかなか取材に応じてくれなかったために、一方の側の主張だけを載せてしまったのだった。

 そのような苦い経験を何度かして、先輩記者の助言もあって、吉井は記者として成長したのだが、いつも薄氷を踏むような思いで取材していたことを、古い記憶として思い起こした。

 吉井は東日本の数県の支局を廻ってから、本社勤務となり、文化部記者になったのだが、故郷に戻ってきて、再び似たような経験をするようになるとは予想もしていなかった。

―人間が生きている現実社会は、こんなものだったなあー

 吉井は苦笑いしながら、呟いた。

―人間社会の矛盾と向き合うことは、新聞記者稼業を続ける限り、多かれ少なかれ、逃れられない宿命かもしれない。でも、それは記者を志した時から覚悟の上だったはずだ。故郷に帰ってきて、原点に戻ったのかなあ。それなら本望と、腹をくくって取り組むしかないかー

 そう考えると、吉井は背筋を伸ばして、車のハンドルを握っている自分に気がついた。眼の前にやや広い葦原が広がっていた。堤防が少し広がり、駐車スペースがあった。枝垂れ柳が数本植えられ、小公園的な雰囲気になっていた。そこで、つば広の帽子を被った初老の男性が、イーゼルの前でスケッチしていた。

吉井は、話を聞いてみたいと思い、静かに車を停めた。吉井は、男性に側面から近づき、できるだけ穏やかな調子で声をかけた。

「今日は。霞ヶ浦タイムズの記者です。ちょっとお話を伺ってもよろしいですか」

 相手は、吉井を柔和な目で一瞥して言った。

「いいですよ。ちょうど一休みしようと思っていたところですから」

 吉井はほっとして続けた。

「霞ヶ浦の絵を描かれているんですね?」

 画家は用意したテルモスから、マグカップにお茶を注ぎながら言った。

「ああ、まだスケッチの段階だけどね。霞ヶ浦のいろいろな場所で、いろいろな時期に、何枚もスケッチして、これだという一枚に、アトリエで色を置いていくのです。あなたもお茶いかがですか?」

 画家はテルモスの蓋にお茶を注いで勧めた。

「ありがとうございます。いただきます」

 吉井は全国紙の記者の頃、何度も画家の取材をした経験があった。

「絵は油絵ですか?それとも・・・」

「水彩です。霞ヶ浦の水辺や葦原を描くには、油絵は重過ぎるような気がしています。霞ヶ浦の水や空気の透明感を表現するには、水彩が一番良いのではないですかね。岩絵具を使う日本画も良いのですが、岩絵具が高価です。緻密な絵を一枚仕上げるのに、何ヶ月もかかるのでは、年金暮らしで、眼が衰えてきた老人には無理です。それもありますが、霞ヶ浦の水辺の刻々と変化する景色を捉えるには、比較的短時間で仕上がる水彩が適していると思っています」

 男性は帽子の下から、白髪混じりの髪の毛を覗かせながら言った。

 吉井は、リラックスした表情を浮かべて、さらに質問した。

「本職の絵描きさんですか?」

 画家の男性は、用意してある小さな椅子に座った。

「失礼して、座らせてもらいますよ。もう、足腰が弱ってしまって・・・。私は高校の美術教師だったのですよ。美術部の顧問もしました。教え子の中には、美大へ進んで、中央の展覧会で何度も入選して活躍しているものもいます。教師時代はいろいろ忙しく、まとまった時間がなく、ゆっくり野外でスケッチする時間がとれませんでした。

定年になったので、何日も同じ場所に通って、水、緑、空、雲の変化を観察して、インスピレーションが湧いてくると、スケッチするんです。同じ場所でも、時間、天候、季節が変われば、全く別の景色になるのが霞ヶ浦ですから、季節ごとに、例えば初夏の季節だけでも、天候の変化に合わせて、時間を替えたりして、何度も足を運んでいます。気に入った場所に朝早く来たり、日没直前に来たりします」

 吉井も屈んで画家の目線に合わせ、画家の話を聞いて頷いた。

「霞ヶ浦は絵のテーマとしてはいかがですか?」

「難しいですね。一見すると、湖も空も、広い空間が広がっているだけなので、メリハリが利いた絵になりにくいです。ですから霞ヶ浦を描いた有名な絵というのは少ないです。明治から大正にかけて。有名な版画家の川瀬巴水は土浦や潮来の水辺風景を作品にしています。いずれも当時の水郷情緒たっぷりの素晴らしい作品です。しかし、多くは和船をつなぐ河岸の風景で、霞ヶ浦そのものは表現されていません。

岡倉天心や横山大観らは、北茨城の五浦の断崖絶壁の景色を賞賛して、そこに画室や六角堂を建てて、画業に勤しみましたね。しかし、だだっ広い霞ヶ浦では、流石の大観先生でも、絵心が湧き難かったかもしれません。

水彩画では、潮来市出身の小堀進先生の『朝陽』と題する代表作をはじめ、霞ヶ浦を描いた作品が何点かあります。『朝陽』は、湖水と砂浜が朝日を受けて、キラキラ輝いているようすを描いた素晴らしい絵なのですが、残念ながら今の霞ヶ浦は堤防が築かれて、かつての広い砂浜はありません。また、水の色も冴えません。

小堀先生の頃の戦前から戦後にかけての霞ヶ浦は四季折々に、また一日のうちでも刻々に表情を変えました。湖水も、光や雲の変化に応じて、輝きを変えてくれたのですから、画家にとって、幸せな時間を過ごせたと思いますね。

小堀先生は、一年のうち半分は旅に明け暮れていたそうです。旅先で、目にした風景の第一印象を大事にしたんです。宍道湖、サロマ湖、伊豆大島、ヨーロッパの風景なども描いています。風景をまず見て、その細部よりも、全体の印象ですね。それを水彩に表現したのです。

私は、小堀先生は水彩画における印象派ではないかと思っています。先生は、光線の翳りで印象が変わらないうちに、一枚の絵を一時間ほどで仕上げたのです。気に入った絵は、展覧会用に、アトリエで大きく描き直して作品にしたのです。

先生は、湖畔のヤナギの種類、葦原の植物の種類、水面の植物の種類、水鳥の種類などにはこだわらず、最初に目に飛び込んできた印象を作品にしたのですね。そこには、先生の温かい人柄やこの世界は美しい、美しくあるべきだという世界観、自然観が表現されていると思います。自然が人間によって壊される前の世界ですね。

ところが今は、日本だけでなく、世界中の、自然の光景が壊されています。霞ヶ浦の湖岸は築堤されました。文明社会の罪かもしれませんね。小堀先生が御存命でしたら、絵筆を擱いたかもしれません。しかし、今を生きる私としては、湖水の色が冴えなくとも、こちらから意識して、霞ヶ浦が見せる一瞬のすばらしさを見逃さないようにしています。そう思って、水彩画に取り組んでいます」

「それでも、霞ヶ浦の絵を描こうという気持ちはどこから?」

 画家は、視線を霞ヶ浦の方に向けて言った。

「それは、葦原の四季を描きたいからです。葦原の景色はどの季節でも素晴らしいのです。春は新芽の色が瑞々しいし、夏は葦がぐんぐん成長して生命力を感じます。秋には葦原が狐色になり、十分に生きた者の安堵感を感じますね。冬は厳しい季節を耐え偲ぶ姿です。雪が降った葦原の風情もいいですね。一人の人間の一生に共通するものがあると、私は見ているんです」

 吉井は、今まで葦原の風景に惹かれたことはなかった。東京や地方で記者生活を送っていた年月の中で、広い葦原の風景を眺める機会は無かったように思った。今、あらためて霞ヶ浦の堤防上を車で走って、葦原の美に気が付き始めていた。

「なるほど。私も少し分ってきました。葦原の景観を賞賛した芸術家は今までにいましたか?」

 画家は頷いて応えた。

「文人画の小川芋銭は、牛久沼や霞ヶ浦の水辺の風景を描いていますから、葦原の良さに気がついていたと思います。しかし、文人画は文人の眼で見た、あるべき自然です。理想的な自然、あるいは哲学的自然といっていいかもしれません。それらは客観的な自然ではないんです。

横山大観は、日本画の傑作を多く残しています。しかし、地味な葦原の美を強調した作品は少ないような気がします。大観は、師の岡倉天心が興した日本美術院を代表する画家としての気概から、東京美術学校の教授たちを唸らせるような作品を画かなければという思いがあったのでしょう。また水戸藩士を父に持つ士族らしく、プライドが高い才気煥発の作風ですね。中国の古典に題材を取ったり、富士山の連作を描くこともありました。そこに小川芋銭のような農夫然とした素朴さは感じられません。

葦原の美に気が付いたのは明治の文豪、徳富蘇峰と徳富蘆花の兄弟ですね。徳富兄弟は水郷を船で旅して、水郷の風景の素晴らしさに気づいたようです。蘇峰は『水郷の美天下に冠たり』と書いていますし、蘆花は自分の雅号を蘆花としたくらいですからね。しかし現代の画家や文学者は、葦原の素晴らしさを作品化している人は、あまりいないと思います。

その中で、日本画家として、石岡市の高浜や旧玉里村の高崎にアトリエを構えて、蓮の花と白鷺を、天国の浄土世界のイメージで描いた小林恒岳さんは、最も汚濁が進んだ頃の霞ヶ浦の水辺を描いて、人間社会を告発したと思います。小林さんの作品には、ピカソのゲルニカや丸木位里夫妻の原爆画に通じるものがあります。

旧玉里村で水郷のアヤメを描いた落合青光さんは、旧国鉄職員で、やはり霞ヶ浦の美を追求した方です。お二人とも、霞ヶ浦を描いた、近現代の代表的日本画家ですね。

あ、そうそう、小林恒岳さんの父上は巣居人さんといって、やはり霞ヶ浦の水辺を描いた方だったのです。巣居人さんは、小川芋銭とも交流があったそうです。

皆さん、私の大先輩です。大先輩の影響を多分に受けて、私は描き続けています。葦原の美しさは私のような未熟者を引き付けます。私も何枚か葦原を描きましたが、まだまだ、描き切れていないように思います」

 吉井は取材ノートに手馴れた速記でメモを取りながら、顔を上げてさらに尋ねた。

「それはどうしてでしょうか?」

「芸術家に限らず、皆さんが葦原の自然の魅力に気がついていないからではないでしょうか。私が思うに、葦原は輪廻転生の場なんですね。春になれば枯れ葦の根元から新芽が出てきます。それは生命の再生の姿です。生命が死んで、体を作っていた有機物が分解され、それが翌年の春に葦が成長する時の養分になる。葦原では生と死が巡り、物質が循環しているわけですね。

そう考えると、何の変哲も無さそうな葦原の風景が違って見えてきませんか? 昔の人の方が、思索や自然観察の時間がたっぷりあり、葦原の美しさとその本質を理解して見極めていたのでしょうね。もともと、日本国の美称は豊葦原瑞穂の国なんですからね」

 吉井は唸って応えた。

「うーん。そう言われれば、今、葦原が変化しつつある瞬間を今見ているんだという気がしてきました。私たちは、葦原の一瞬の姿を眼で捉えているに過ぎないのでしょうね」

「そうなのです。有限の一生の中で、人間は、ある一日の、ある一瞬を感知しながら生きています。しかし、想像力を働かせれば、眼の前の光景の時間的連続性が見えてきます。私が描こうとする葦原の絵は、ある一瞬を切り取るしかないのですが、その一枚で生命の本質の一部を描ければ、私の画業は、少しは成功したことになります。その一枚で描ききれなければ連作に挑戦するつもりです。しかし、葦原の絵なんて、誰も見向きもしないでしょうし、自己満足に終わるかもしれませんが」

 吉井は相槌を打ちながら、さらに聞いた。

「成功しそうですか?」

「私にも分りません。何事もそうかもしれませんが、やってみなければ、成功するか、失敗するか分らないでしょう。失敗というより、私がそのレベルまで自分を高めることが出来なかっただけのことです。

おや、話している間に太陽が移動して、日光の角度が変わってきました。葦原の色は光によって微妙に変わってくるのです。どの光がベストなのか、どんな風が良いのか、長くその場所に留まり、観察しなければならないのです。さあ、また少し描かなければ」

 画家は、立ち上がってイーゼルに向かった。

 吉井も立ち上がり、言った。

「写真を撮らせていただいてもよろしいですか?」

「かまいませんよ。どうぞ」

「ありがとうございます」

 そう言って吉井は、イーゼルに向かう画家を、角度を変えて写真を数枚撮った。そして改めて名刺を差し出して言った。

「私は霞ヶ浦タイムズの吉井と申します。先生のお名前を伺いたいのですが?」

「私は野原鋭太郎といいます。教師時代から名刺を作ったことはないのです」

「いいお話をありがとうございました」

 吉井は丁寧に頭を下げて、堤防上の停めた車に戻った。車のエンジンをかける前に野原と名乗った画家の方を振り返ると、画家はまたスケッチを再開していた。

                     *

 吉井はその日の取材を終え、霞ヶ浦タイムズ社のデスクの寺田に、取材経過を短く報告した。記事にするのは、もう少し霞ヶ浦の取材を重ねてからにしたいと述べて、了承された。

 吉井は帰宅した。出迎えた妻の麗子に言った。

「今日は霞ヶ浦周辺を取材してきたよ。いろいろな人に出会えたし、その人たちに話を伺って、今まで知らなかったことや気がつかなかったことが分ってきて、面白いよ。新聞記事を書くときには、記者自身が先ず面白いと思える題材に出会うことが大切だから、いいスタートが切れたと思う」

 麗子が応じた。

「それは何よりね。あなたの故郷なんだから、無理しないで、マイペースで仕事なさったらいいのよ」

 二人は居間の椅子に座った。

「うん、そうだね。ところで今日、お袋はどうだった?」

「お義母さまは、今日はデイサービスの日だから、午前中、特養ホームの方が迎えに来てくれたわ。夕方、また車で送ってくれたの。その間、私は日中、時間がとれたから、洗濯の後、銀行や郵便局の用事を済ませ、スーパーで買い物もできたわ。今、お義母さまは、奥の部屋で休んでるわ」

 吉井は、ほっとした。

「そうか。いろいろありがとう。週二回のデイサービスの日では、昼食も入浴も、お世話してもらえるからいいが、その他の日は、お袋と一緒だから大変だろう?」

「あなたを育ててくれたお義母さまだから、お世話するのは当然よ」

 吉井は軽く頭を下げて言った。

「感謝してるよ。幸い、東京にいた頃と較べると、取材の時間にある程度自由度がありそうだから、僕もできるだけお袋の世話や家事を手伝うよ。自分の親だからね」

 麗子が言った。

「東京からこちらに引っ越す時は、いろいろ迷ったけど、今はこちらに来て良かったと思ってるの。緑が多いし空気も澄んでるわ。広い霞ヶ浦もあるし。何より物価が安いわね。特に野菜が新鮮で安いのよ。行きつけの産地直売所も見つけたわ」

「そうか、それは良かった。安心した」

 麗子は席を立った。

「それに、東京の実家には常磐線で一時間半だから、何かあった時は、すぐ行けるわね。さあ、夕食にしましょう。お腹が空いたでしょう。準備ができたら、お義母さまを呼んできてくださらない?」

「オーケー。じゃ、その前に食卓の準備を手伝うよ」

 吉井は、上着をクローゼットに架けると、エプロンを付け、ポロシャツを腕まくりした。

                   *

翌週の平日、吉井は土浦港の桟橋に居た。土浦港からは遊覧船が出航し、高校や大学のヨット部の艇庫もあった。

桟橋には、レジャー用のヨットやクルーザーも繋留されていた。吉井は、霞ヶ浦を船で楽しむ人々も取材してみたいと思った。

 その日の朝、桟橋で、数人がいろいろな機材を船に積み込んでいた。船には調査船という文字が描かれていた。そのうちの一人に吉井は声をかけた。

「お早うございます。これから船でどちらへ?」

 その若い男性は気さくに応えた。

「霞ヶ浦の湖上観測へ出るんです。水質やプランクトンを調べているんです」

 それを聞いて、吉井は思い切って言ってみた。

「もし、おじゃまでなければ、私もご一緒させていただけませんか。私、新聞記者なんです」

 全国紙の地方記者時代は、若かったこともあって、こうした場当たり的な突撃取材もよくやったものだと吉井は思い出した。作業服を着た、その男が言った。

「では、船長を紹介しますから、聞いてみてください」

その男が、船室で機器の点検をしていた小柄な男を呼んだ。

「小久保船長。こちらの方が・・・」

「はじめまして。私、霞ヶ浦タイムズの吉井と申します。皆さん、出航の準備をされている様子ですが、もし定員に余裕があれば、同乗させていただけないでしょうか?」

 いきなりで図々しいと思ったが、駄目でもともとという気持ちだった。

「ああ、いいですよ。霞ヶ浦タイムズの記者さんは、だいぶ前にも乗せたことがありましたからね」

 あっさり、オーケーが出たのでいささか拍子抜けしながら、吉井は言った。

「ありがとうございます。うちの記者が乗せていただいたそうですが、何年前ごろですか?」

 小久保と呼ばれた船長は、陽に焼けた顔を向けて言った。

「そうさなあ、もう十年以上前になるかな。大学出たての新人記者が来て、乗せてくれというから乗せたんだ。その若手記者は、霞ヶ浦の記事をよく書いてくれたなあ。その後、認められて、読買新聞に引き抜かれて、今は北海道支社で頑張っている。時々なつかしそうに電話してくるよ」

 吉井は、話が通じて安堵した。

「そうですか。その節は、うちの記者がお世話になりました。私も歳はくっていますが、新人記者ですので、よろしくお願いします」

 小久保船長は鷹揚に頷いて、乗船者に声をかけた。

「準備が出来たようだから、出航すっぺ。みんな、乗って。せいちゃん、舫いロープ外して」

 吉井は、あわてて船に乗った。

 せいちゃんと呼ばれた、さきほどの若い男性は、繋留していたロープを器用に解くと、身軽に船に飛び乗った。エンジンがかかり、船はゆっくり土浦港を出た。航路標識があるコンクリート製の防波堤を抜けると、観測船は徐々に速度を上げた。

 涼しい風が、強風になった。船長が声を上げた。

「風が強くなっがら、帽子を飛ばされないように注意して」

 吉井は、取材時に愛用している布製の帽子を取って折りたたみ、バッグに入れた。

 眼の前に霞ヶ浦の湖面が広がった。土浦市街が後方に遠去かり、霞ヶ浦の湖面に浮かぶ水上都市に見えてきた。

 吉井は、子どものころ、親に連れられて当時の遊覧船に乗った記憶はあったが、数十年ぶりに霞ヶ浦の湖上に出て、新鮮な驚きを感じた。

―故郷にこんな素晴らしい景色があったのか。知らなかったのは全く迂闊だった。地元の住民は気がついているんだろうか。これは、やはり記事にして、この素晴らしい景観を伝えなければー

 吉井はカメラを取り出し、何枚もシャッターを押した。その様子を、舵輪を握りながら横目で見ていた小久保船長が声をかけた。

「吉井さん。いかがですか?霞ヶ浦の景色は?」

「いやあ、素晴らしいですね。実は私は地元出身ですが、東京に長く住んでいまして、霞ヶ浦のことはほとんど忘れていました。まして、東京人は全く霞ヶ浦のことを知りません。この広い空や湖面を眺めると、溜まっていたストレスが消えますね」

船長は頷いた。

「そうでしょ。首都圏の近くにこんな素晴らしい湖があるのに、都心から一時間あまりで霞ヶ浦を見に来れるのに、東京人は関心が薄いからね。何とかしたいんだけどね。新聞とかテレビでもっと取り上げてもらいたいんだが、新聞社もテレビ局もあまり取材に来ないなあ」

 吉井は船長の話に同感した。

「私も新聞記者のはしくれとして、霞ヶ浦を紹介していきたいですね」

 出航して十分ほどで、停船した。小久保船長が言った。

「さあ、ここが一番目の観測定点です」

 船に乗り込んだ乗組員が甲板に移動して、手際よく機材を使って観測を始めた。吉井も邪魔にならないように注意深く写真を撮った。乗組員の一人が、ロープがついた白い円盤を船べりから湖水に沈めていった。白い円盤が見えなくなるまで沈めると、次にゆっくり引き上げて、円盤がかすかに見える深さを測った。その作業を行った乗組員が記入係の方を振り返って言った。

「透明度八十センチメートル」

「透明度八十センチメートル」

記入係が復唱した。吉井が聞いた。

「今日の透明度はどうですか」

「まあまあですね。悪い時は四十センチメートルくらいの時もありましたが、ようやく回復してきました」

別の乗組員は、デジタルの測定機器の数値を読み取って、バインダーに挟んだ用紙に記入していた。吉井は恐縮しながら聞いた。

「すみません。それは何を測っているんですか?」

 メンバーの一人が応えた。

「溶存酸素です。湖水中の酸素濃度ですね。それから、そちらの小型の測定器ではペーハーを測っています。水が酸性かアルカリ性かを測定しています」

 船べりでは、別のメンバーが白いネットを水中に下ろし、その後引き上げていた。

「すみません。それは何をされているんですか」

「これは、プランクトンを採集するネットです。集めたプランクトンを、このガラス製の小瓶に移します。ご覧ください。小さな生き物がたくさん動き回っているのが分りますか?」

 吉井は小瓶を受け取り、眼の前にもってきて凝視した。

「ああ、なるほど。この小さくて白い動き回るものですね。たくさんいますね」

「それは主にミジンコ類です。初夏の季節は多く発生するんです。ワカサギなどの魚の餌になるものです」

 吉井は感心した。

「湖面を見ても、こんなにプランクトンがいるなんて気がつきませんね。びっくりしました」

 メンバーの一人が胸を張って言った。

「だからこそ、我々が観測船を出して、民間で調べているんです」

 吉井が驚いて言った。

「民間で、ですか。お役所か大学の研究室の方たちが調査しているのかと思っていました」

 メンバーが苦笑して言った。

「もちろん、公的な研究機関も霞ヶ浦の水質などを定期的に調査しています。しかし、そのデータは一年以上あとに報告書になったり、学会発表されるだけなので、一般市民が目にすることはほとんどないんです。

我々の観測データは一ヶ月以内にインターネットで公表していますから、タイムリーなんです。それから、観測は市民参加でやっていて、だれでも会費を払ってもらえば参加できます。ですから、関心をもって霞ヶ浦を大切にする市民を育てることにもなります」

「すると、皆さんは一般市民ということですか?」

「ええ、私はサラリーマンでしたが、昨年定年退職して、ボランティアでこの観測のお手伝いをしています」

 吉井は再度感心して言った。

「へえー、そうですか。茨城にもこんな市民活動があったんですね」

 小久保船長が、声をかけた。

「この地点の観測が終わったら、次の場所へ移動します。オーケーですか?」

メンバーがすかさず応えた。

「オーケーでーす」

 船に再度エンジンがかかり、スピードが増した。

 吉井は船上から霞ヶ浦沿岸の景観を眺めた。やや霞がかかっているようすだが、遠くに筑波山が見え、牛久大仏や公園のオランダ風車、湖岸の下水処理場や浄水場、地元の農協などが出資している病院、自衛隊施設、大きなポンプ場などの説明を小久保船長から受けた。

途中、漁船とすれ違った。

乗組員の一人が説明してくれた。

「あの漁船は、船を横に滑らせて、ゴロやエビなどを捕っているんです。ゴロはハゼ類のことです。イサザアミも取れます。イサザアミは、海にいるオキアミの仲間です。霞ケ浦は昔、海だったので、その名残ですね。あの漁法は横引きとも言われる漁です」

吉井が言った。

「岸辺から見る印象とは全然違いますね」

船長が応じた。

「そうだっぺ。陸に住んでる住民は、こんな風景を見たことがないから、駄目なんだ。もっと、遊覧船でも、ヨットでも、クルーザーでもいいから、船で霞ヶ浦に出てみないと分らないんだ。俺たちは自腹を切ってこんな活動して、多くの人に船上体験してもらいたいと思って続けてるんだけど、正直なところ、赤字で持ち出しもある」

 吉井は、それを聞いて言った。

「なるほど。大事な活動ですね。記事にして読者に読んでもらって、理解者が増えればいいですね。まず、魁より始めよ、ですからね。私も会員になります」

小久保は喜んだ。

「それはありがたい。一人でも会員が増えるのは嬉しいし、まして記者さんに会員になってもらえるのは心強いなあ」

「いえいえ、微力ながら応援できればという気持ちです」

 船が湖面を滑るように移動すると、湖岸の景色も走馬灯のように変わった。鯉養殖場の傍を通った時は、吉井は何度もシャッターを切った。湖岸の地形もよく見ると変化があり、船長によると、GPSがない昔は、漁師や船頭は湖岸の地形や森の形で、現在位置を知ったが、霧が深い日などは方向が分らなくなることがあったという。

霞ヶ浦大橋の下をくぐると、高浜の入江に入った。水の色が緑になった。メンバーによると植物プランクトンが多く発生しているという。

湖心には、国土交通省の湖心自動観測所があった。かつて遊泳客で賑わった砂浜があった天王崎や浮島の沖合も通過した。土浦港への帰路は、午後になり、やや波浪が強くなった。

観測船は数時間かけて広い霞ヶ浦の六定点を廻り、現場データを得るとともに、湖水とプランクトンを採取した。湖水サンプルとプランクトンは、市民団体が設置している小さな研究室に持ち帰り、分析するということだった。

予定の観測地点を廻り終わった船は、土浦港への帰路についた。

陽が傾く頃、左手に自衛隊施設が見えた。今は自衛隊の武器学校などの建物が並んでいた。吉井は子供の頃、父親から予科練の話を聞いたことを思い出し、船長に話しかけてみた。

「自衛隊の施設は、昔は海軍航空隊の予科練でしたね」

「そうです。当時は、赤とんぼとも言われた複葉の練習機で、予科練生は訓練を受けたそうです。それは厳しい訓練だったようです。予科練生は、全国から選抜された成績優秀の若者たちでした。学力だけでなく、体力も抜群でした。

彼らはここで飛行機の操縦技術を覚えて、戦争末期、九州や沖縄方面の太平洋上の敵艦に体当たりしたんです。カミカゼ特攻隊ですね。パイロットの遺書や遺品が、自衛隊施設の中の展示館で見られます。雄翔館といいます。それに、近くには阿見町が設置した予科練平和記念館でも、海軍航空隊の歴史が分かりますよ」

「予科練の歴史は、地元でも忘れかけているようですね」

「そうなんですよ。新聞で取り上げたらいかがですか」

 吉井は、近々に雄翔館と予科練平和記念館を取材しようと思いついた。霞ヶ浦の歴史を語る上で欠かせないと改めて思った。

 土浦港に戻った観測船は桟橋に繋留され、サンプルを収納したクーラーボックスが車に積み込まれた。

「では、お疲れさまでした。お陰さまで良い取材ができました。ありがとうございました」

吉井と小久保船長ほかのメンバーは慰労の挨拶をして、解散した。

                   *

 霞ヶ浦タイムズ社の編集局に戻った吉井は、デスクに取材の模様を報告した。デスクの寺田は、労をねぎらいながら言った。

「ご苦労様。取材ノートが一杯になったら、記事にしてみてくれよ。もちろん納得したところで書いてくれればいいんだ。しかし、ノルマがあった方が区切りになってよいなら、週一回の連載にしてみてはどうかな。そうだ、連載記事のタイトルは『新霞ヶ浦風土記』はどうだろう?」

 吉井は配慮に感謝した。

「ありがたいなあ。霞ヶ浦の取材で、また記事を書く意欲が湧いてきたよ」

 寺田は満足気に頷いて言った。

「よろしくお願いするよ。うちの新聞は、丁寧で詳しい霞ヶ浦報道で、評価されてきたんだ。霞ヶ浦タイムズという紙名もそこから来ている。その伝統の一端を吉井に担ってもらえればありがたいんだ」

「なんだか、急に責任の重さをずしりと感じるよ。でも、やりがいのある仕事になりそうだなあ」

「その意気だよ。期待してるぞ。霞ヶ浦はこの地域の中心に位置している。地理的にはもちろんだが、歴史的、経済的中心、そして住民の誇り、あるいは自慢のタネと言いたいところだが、現実は、普段は霞ヶ浦の恩恵を意識していない住民がほとんどになってしまったな。そこが、おれから言わせると、業を煮やすところだ」

「霞ケ浦を大切にしていない人が多いということか」

「そうなんだ。江戸時代や明治時代は、この地域は霞ヶ浦と利根川の水運で江戸、東京と結ばれて、おおいに栄えたわけだ。それにワカサギやシラウオがよく取れて、漁業が盛んだった。現代は、水質が良くないとはいえ、水道水、農業用水、工業用水に、つまり水資源として使われて、生活と産業の基盤になっている。

霞ヶ浦は日本で三番目の面積だった。その後、秋田県の八郎潟が干拓されて、二番目に昇格した。霞ヶ浦の広大な湖面の風景は、住民の心を育んでくれる。特に子供たちにとっては、ふるさとの原風景になる。たとえ、遠くに進学したり、就職したとしても、ふるさとの茨城を懐かしむシンボルだ。茨城県に霞ヶ浦があるということは,天の恵みなんだよ。それを県民に常に意識してもらいたい。そんな思いで、毎日、新聞を発行し続けているんだ」 

 寺田の熱弁に、吉井は圧倒される気がした。

「なるほど、寺田が頑張っている理由が分かった気がする。新聞発行は、地域づくりの基礎だな。同感だ。俺も寺田や社員と一緒に頑張るよ」

「うん。頼りにしているぞ。ははは」

 寺田は顔をくしゃくしゃにして笑い、吉井の肩をぽんぽんと何度も叩いた。

 吉井は寺田に軽く会釈して、自分の、所々に錆が浮き始めたスチールデスクに向かい、充実した気持ちでパソコンのキーボードを打ち始めた。記事の執筆は久しぶりだったにもかかわらず、吉井は次第に夢中になってキーボードを叩いていた。そんな吉井を、寺田も、他の同僚記者も頼もしく見つめた。

                   *

 翌日も定時に出社した吉井は記事執筆を続けた。一時間ほどパソコンのキーボードを打つと、給湯室のコーヒーメーカーで、セルフでコーヒーを淹れ、砂糖とミルクもたっぷり入れて飲んだ。糖分は頭脳活動に必要だというのが、吉井の持論だった。そのおかげで、やや太り気味を自覚し、時間がある時には軽い運動を心掛けてはいたが、記事執筆に集中すると、専らデスクワークで、背を丸くして前かがみの姿勢で書き続けた。

 書き留めた取材ノートで、固有名詞や事実関係、時系列を確認しながら、記事を書いた。午後までかけて、第一回分は千二百字ほどでまとめ上げることができた。漁協の船渡組合長のインタビューを中心に、最近の霞ヶ浦における漁業の現状のルポになった。漁獲量や水質などのデータは、茨城県の水産事務所や霞ヶ浦環境科学センターの担当者に確認した。

 長年の記者生活で培った筆力は衰えていなかった。船渡組合長が、ブルーシートに座って網を繕っている写真を一枚添えて、記事は脱稿した。仮出力した記事原稿をデスクのもとに提出した。

 十分ほどして、寺田が吉井を呼んだ。

「うん、これでいいね。さすがに全国紙の元記者だ。過不足なく書けているよ。この組合長の言い分がいいね。たたき上げの漁師の人柄が出ているなあ。若い記者のお手本になるいい記事だよ」

 吉井は新人記者のように、頭をかきながら恐縮した。

「それは、誉め過ぎだよ。霞ヶ浦からだいぶ離れていたから、新鮮な気持ちで書いただけだ」

「その謙虚さが貴重だな。その調子でこれからもよろしくたのむよ」

「ありがとう。誉めてもらって、とりあえずほっとしたよ」

「掲載は次の日曜日の15日の予定だ。うちには日曜版はないが、日曜日にゆっくりしながら読んでもらえる記事になるなあ。まあ、いわゆる目玉記事だ」

「なんか、すごいプレッシャーを感じるけど、圧し潰されないように頑張るしかないな」

「まあ、ベテランなんだから、マイペースでやってくれればいいよ」

                   *

 十四日の土曜日の午後遅く、翌日の新聞の校正刷りが上がってきた。まだインクのにおいがプンプンしていた。吉井は新人の時のワクワク感が蘇るのを感じながら、新聞を拡げて、自分の執筆記事、『新霞ヶ浦風土記』第一回を読んだ。吾ながらよく書けたと満足した。近いうちに、漁協の事務所に届けたいと思った。漁協でも地元新聞を購読しているだろうが、改めて挨拶がてら、船渡組合長の顔を見たいと思った。

 翌週の火曜日、吉井は、午前中から土浦港から、湖上体験スクールを実施するホワイト・アイリス号の船上にあった。湖上体験スクールとは、茨城県の生活環境部の事業で、主に小学生にクラスごとに参加してもらい、実際に湖上で霞ヶ浦の景色を観察し、霞ヶ浦の歴史や現在の水利用状況や水質、生物などについて、講師の説明を聞く特別授業だった。それだけでなく、実際にバケツで採水し、水質を小学生でもできる簡易法で調べたり、プランクトンを採集して、顕微鏡やルーペで観察したりするものだった。

 吉井は、船上での学習の様子を取材し、子供たちや教師、スタッフなどの談話を記事にしたいと思った。

 子供たちは、小学四年生で、地域の自然環境や産業について現地で学ぶ総合学習として参加していた。

 まず、専門の講師が船室で子供たちにパワーポイントで編集したスライド写真をスクリーンに上映しながら、説明した。

「約五十年前は、霞ヶ浦には十か所以上も遊泳場があって、夏になると土浦や石岡からたくさんの人が遠浅の浜辺で遊泳を楽しんでいました」

 子供たちは、眼を丸くして、思わず言った。

「えー、霞ヶ浦で泳げたんだ。うらやましいなあ」

「皆さんのおじいちゃんやおばあちゃんは霞ヶ浦で泳いだ思い出を持っている方がおられるはずです。うちに帰ったら聞いてみてください。その頃は学校にまだプールがなく、子供たちは霞ヶ浦で泳ぎを覚えたんです。そのころは、霞ヶ浦の水は海の水みたいにきれいだったんです。

 でもその後、まもなく霞ヶ浦の水は汚れてしまい、この写真のように湖水がアオコで覆われるようになって、遊泳ができなくなりました。では、霞ヶ浦はどうして汚れてしまったのか、わかる人はいますか?」

 一人の生徒が手を上げて言った。

「えーと、家庭や工場から、汚れた水が霞ヶ浦に流れ込んだからですか?」

「はい、その通り。そのころはまだ下水道の整備が遅れていたんですね。それから、浄化槽もまだ普及していませんでした。さらに養豚場や田畑からも汚れた水が川を通じて霞ヶ浦に入ってきたんですね。でも、その後、みんなで霞ヶ浦をきれいにしようと、できるところから頑張ったんです。それには、たいへんなお金と時間がかかったんですね。

そのおかげで、今では、アオコが出ることは少なくなりましたけれど、泳げる霞ヶ浦に戻すには、もっと私たちの努力が必要なんです。みなさん。また霞ヶ浦で泳いでみたいですか?」

生徒たちは手を挙げて口々に言った。

「はーい。泳いでみたいです」

「ありがとう。そうですね。それには、もっとみんなでがんばりたいですね」

 生徒たちは、よく分りましたというように肯いて、また霞ヶ浦の広い湖面を改めて眺めるのだった。

 吉井はそんな授業風景を写真に収めた。

 船室での座学が終わると生徒達はデッキに出て班に分かれ、スタッフの指導で、バケツで湖水を汲んだり、プランクトンネットで採集したプランクトンを観察した。バケツの水について、パックテストという簡易水質検査法を使って、有機物量を測定した。

講師の話では、霞ヶ浦の水質はかなり改善されたものの、富栄養化しているということだった。細かい網目のネットで採集した動物プランクトンは、小さな透明容器の中で活発に運動していた。

生徒たちは目を輝かせた。

「うわー、いっぱいいる」

「ルーペで見てごらん。ミジンコが見えるよ」

「ほんとだ。動きまわってる」

「霞ヶ浦のミジンコは、植物プランクトンを食べて増えるんだよ。では、ここで質問だよ。ミジンコを食べるものは何だろう?」

「こんな小さい生き物を食べるんだから、小さい魚ですか」

 スタッフは肯いた。

「うん。ほぼ正解。卵から孵化したばかりのワカサギやシラウオの稚魚、つまり赤ちゃんの魚が食べて大きくなるんだよ。皆さんはワカサギを食べたことあるかな」

「佃煮を食べたことがあります」

「なるほど。ということは、君はミジンコをたくさん食べたことになるね。ミジンコを食べて大きくなったワカサギを食べたんだからね」

「えー。そうなんですか」

「びっくりすることはないよ。ミジンコはエビの仲間だから、エビを食べたのと同じだね」「そうなんだ。ちょっと、ほっとしました」

 吉井は、霞ヶ浦の湖水や生き物について、楽しそうに学習する子供たちの姿を写真に収め、やりとりを取材ノートに筆記した。

 遊覧船は、Uターンして帰路についた。学習が終わり、生徒たちは自由時間を、湖岸周辺の景色を眺めて楽しんだ。

「先生、あれ、牛久大仏ですか?」

 引率の男性教師は生徒が指さす方向を眺めた。台地の上に牛久大仏の上半身の立像が見えた。

「おー。よく見つけたね。牛久大仏だね。高さは何メートルあるか、知ってるかい」

「知ってる。テレビで言ってた。百二十メートルだって」

「そうそう、世界一高い大仏だよ。ギネスブックにも載ってるそうだ。茨城県に世界一があるなんて、すごいことだね」

 生徒たちと教師は、湖上の涼しい風に吹かれながら、湖岸の景色を楽しんだ。台地の上には積乱雲が上昇しかけていた。

 遊覧船が土浦港に接岸した。生徒達は、足元に注意しながら下船し、バスに向かった。

 吉井は引率教師の了解を得て、男子児童にインタビューした。

「おじさんは新聞記者なんだけど、ちょっとお話していいかな。今日の湖上体験スクールはどうでしたか?」

「ミジンコがすごかった」

「うん、どんなところがすごかったのかな」

「えーと、霞ヶ浦の水の中に、あんな小さな生き物がたくさんいることがすごいと思いました」

「そうだよね。普段は考えないよね。いい勉強になったというところかな」

「はい。学校の勉強では教わりませんから・・・」

 吉井は、隣の女子児童にも聞いてみた。

「船での勉強はどうでしたか?」

「楽しかった」

「どんなことが楽しかったかな、教えてくれる?」

「はい。霞ヶ浦がとっても広いところ。それから、昔は泳げたことにびっくりしました」

「もし、霞ヶ浦がきれいになったら、泳いでみたいですか」

「広くてちょっとこわいけど、砂があって浅いところで、泳いでみたいです」

「そうだよね。みんなで頑張ればきれいになるそうだから、霞ヶ浦を大切にしますか」

「はい。がんばります」

「うん。いい答えだね。ありがとう」

 吉井は満足して、生徒たちがバスに乗り込むのを見守った。バスが出発する時間が迫り、引率教師が生徒全員の乗車を確認したところで、少しでも話を聞きたいと思った。教師がスタッフに挨拶した後、バスに乗り込もうとしているところで、恐縮しながら聞いた。

「すみません。先生、この特別スクールの学習効果はいかかですか?」

「はい、なかなか学校ではできない授業です。生徒たちもいい経験をさせていただきました。お世話になったスタッフの方々や茨城県の関係者に感謝しています」

「ありがとうございました」

 吉井は手を振って、スクールのスタッフとともに、出発するバスを見送った。子供たちも手を振って応えてくれた。

 吉井はスクールのスタッフからも聞き取りたかった。

「スタッフの皆さんは、どんな思いで、この仕事をなさっていますか」

 船室で、写真などをスクリーンに投影して解説していた女性スタッフが応えた。

「私は、この地域の生まれではないのですが、霞ヶ浦のすばらしさに触れるうちに、この湖の歴史、自然、現在の社会と霞ヶ浦の係わりを学んで、それを子供たちに伝えることに、生き甲斐を感じています。子供たちが眼をキラキラさせて聴いてくれるので、とてもうれしいです」

「なるほど、この仕事をどれくらいなさっているんですか」

「もう、5年くらいになりますね」

 吉井は、もう一人の男性スタッフにも聞いてみた。

「私は、この地域に生まれ育ったのですが、定年後にこの仕事をお手伝いさせていただき、あらためて霞ヶ浦について勉強したことを生徒たちに伝えています。私は、若い頃、現役で仕事をしていた頃は、霞ヶ浦には無関心でした。私だけでなく、周りの人はみな、そうでした。幸い、茨城県がこの事業を組んでくれたことを知って、老後の楽しみもあり、地域の環境を見直すつもりで応募して採用されたんです。今では、この仕事が生き甲斐ですし、皆さんに感謝しています」

「現役の頃は、何のお仕事を?」

「地方銀行の銀行員です。毎日、お金のことを考えていました。地方経済の活性化とか、地域おこしにも関係しました。その中で、この地域の歴史では、霞ヶ浦の水運が果たした役割が大きかったことに気がついて、地元の博物館の学芸員さんのお勧めもあって、霞ヶ浦の歴史に興味が湧いてきたんです」

「なるほど。いずれ、また詳しく、お話を伺いたいですね。今日は、どうもありがとうございました」

「ありがとうございました」「お疲れさまでした」

 吉井は、いいインタビューができたことに満足し、マイカーを運転して、霞ヶ浦タイムズ社に戻った。

自席のパソコンで、撮影した写真を整理した後、取材ノートを広げながら記事を書いた。最初の原稿は、印象が強く残っているうちにできるだけ早く、その日のうちに書くようにしていた。それは毎朝新聞の記者の時から心がけていることだった。

最初に書いた文章を、二、三日かけて読み直し、事実関係を確認し、読みやすく文体を整えた。長い文章は、できるだけ二つに分けて、短文にすることが、毎朝新聞時代に先輩記者から指導されたことだったが、それは地方新聞である霞ヶ浦タイムズでも同じだった。

 吉井が、自分で淹れたコーヒーを飲みながら一休みしていると、寺田デスクが肩を叩いて話しかけてきた。

「吉井。新霞ヶ浦風土記の第一回は、読者に好評だぞ。うちの新聞の熱心な愛読者から、メールが入った。漁師の考えがよく分った。徒に不安を煽るような論調ではなく、冷静に科学的に対応することの大切さが強調されていて、いい記事だったというんだね。

 デスクとしては、うちの新聞の株が上がったような気分で嬉しいよ。その調子でよろしく頼む」

 吉井は、穏やかな表情で笑顔を返した。

 

                   *

 その週末、吉井は、阿見町の予科練平和記念館を訪れた。その後、隣接する自衛隊敷地内の雄翔館も取材する予定だった。来館者用の駐車場は五十台ほどが停められるスペースだが、約半分ほどが埋まっていた。ドアを開けて車外に出るとすぐ、格納庫の前に展示してある実物大の零戦の模型が目に入った。最初は実機かと思ったが、説明板を読んで、模型と分かった。模型でも実物大とあって、迫力があった。当時の霞ヶ浦海軍航空隊に実際に零戦が配備されていたわけではないが、予科練生たちがいつかは零戦に搭乗して、大空を駆け巡りたいという憧れのシンボルとして、現在に至って展示されているのだった。

 予科練平和記念館は、10年ほど前に阿見町が設置したもので、入隊した予科練生の日常がよく分る展示になっていた。パイロットになる技術や操縦訓練だけでなく、国語、漢文、数学、物理、化学、英語、地理、気象、電信などの基礎科目も学んだことを、吉井は初めて知った。

吉井は、地元出身にもかかわらず、海軍航空隊や予科練のことはほとんど知らなかった。学校でも、特に授業で取り上げられることもなかった。親からも聞いたことはなかった。「同期の桜」「若鷲の歌」という予科練の愛唱歌のメロディは何となく知っていたし、現在の自衛隊施設の中に、雄翔館という記念館があることは聞いていたが、実際に見学したことはなかった。

 地元に戻ってきたことを契機に、地元の歴史を学びなおすことは、全国紙の文化部記者として各地の美術館や郷土資料館、博物館などを取材してきた吉井にとって、当然のことに思われたが、実際に茨城県や霞ヶ浦のことをよく知らなかったことを痛感し、恥ずかしさを憶えていた。

吉井は、今からでも、霞ヶ浦周辺の歴史を学び、自分なりに咀嚼して地元新聞の記事として紹介することに大きな意義があると思った。しかし一方で、初歩的なことさえ理解していなかった自分に不安さえ感じた。自分が書いた記事に認識の甘さはないか、事実誤認はないか、デスクの寺田はじめ、同僚のベテラン記者の校閲頼みにならざるを得ないと思った。また、郷土史の専門家にもあたって、正確で読み応えのある記事を書かなければならないと、予科練平和記念館の各種展示を見ながら、身が引き締まる思いだった。

 予科練平和記念館の展示には、予科練生が家族に宛てた手紙類、訓練の日常を撮影した写真家土門拳の作品もあった。予科練生は、今日の中高校生の年代で、少年のあどけなさの残る顔立ちで、厳しい訓練を受けたのだった。彼らは全国各地から合格率数十分の一の難関の試験に合格して入学してきた、学力、体力、精神力に優れた優秀な青年だった。平和時であれば、社会の一員として活躍するはずの前途有望な若人だった。

 展示の中には、当時の予科練生を対象に志望動機を調査して、結果をまとめたものがあった。その動機の一番は大空を飛翔するパイロットになることへの憧れを挙げたものが多かったが、実家が貧しいために、官費で学び、訓練を受けられることを挙げたものが続いていた。

 吉井は、全国各地の予科練関係者から提供された多くの展示資料を見て、背筋が伸び、眼がしらが熱くなるのを感じた。展示内容は、海軍航空隊や予科練の歴史を、事実をもとに客観的な姿勢で構成されており、軍隊や戦争を賛美するものではなかった。冷静に予科練の始まりから終戦までを振り返り、現在の平和が、多くの尊い犠牲の上に築かれたことを自然に理解できるようになっていた。

吉井は、入り口近くのスタッフ執務室の館員にインタビューした。予科練平和記念館設立の基本構想は、かなりの年月をかけ、多くの関係者の意見をもとに、慎重に練り上げられたことを知った。現在も学芸員を中心に、新しい資料を収集したり、展示内容を見直し、創立時の基本を大事にしているということだった。

予科練修了生の多くが、太平洋戦争で、米軍艦艇への体当たり攻撃、いわゆる特攻に志願して戦死した。その卒業年度ごとの戦死者の人数を示す棒グラフがパネルで展示されていた。初期の予科練生はほとんどが戦死していた。戦況が激しくなり、予科練の入隊者が急激に多くなる戦争末期には、訓練が間に合わず、飛行機が足りず、生存者が多くなったことを示すグラフだった。確かに客観的ではあるが残酷な事実であった。

昭和二十年六月十日には、阿見の海軍航空隊に、B―29爆撃機の大編隊とグラマン戦闘機が来襲した。米軍は、その数か月前から偵察機による詳細な調査を行っていたことが、戦後の米軍関係資料で示されていた。日立の軍需工場の爆撃と同じ日だった。阿見の土浦海軍航空隊では、軍人、教官、予科練生、民間人をふくめて、三百五十人が空襲によって亡くなった。近くの防空壕に避難した人々も爆弾の直撃を受けて亡くなったという。霞ヶ浦の湖面にも爆弾が落ちて、高い水柱が上がった。

その年の八月十五日に戦争が終わり、生存した予科練生たちは、翌年まで残務整理に当たった者を除き、出身地に帰っていった。

それらの展示を見終わった吉井は深い溜め息をついた。他の見学者も静かに展示を見ていた。その中に吉井と同年配の初老の男性がいた。吉井は、思い切って声をかけた。

「すみません。地元新聞の記者ですが、少しお話を伺ってもよろしいですか」

その男性は、急に声をかけられ、少しためらっていたが、「ええ、どうぞ」と返した。

「今日は、どちらから、来られましたか」

「福島県出身ですが、今は埼玉県に住んでいます」

「そうですか。この予科練記念館を見学するのは初めてですか」

「ええ、実は、数年前に亡くなった父親が、予科練出身だったのです。父は、特攻に行く寸前に戦争が終わり、除隊になり、福島の実家に戻りました。予科練出身者として、父は親戚や近所の人から一目置かれていたのですが、予科練の経歴は特殊なので、学歴と認められず苦労したそうです。

父は結局消防署に入り、休日は畑仕事をして、定年まで勤めました。十年前の東日本大震災で全町避難になり、家族で埼玉県に移住しましたが、慣れない土地で六年前に亡くなりました」

「そうでしたか。お父様から予科練時代のことは聞かれましたか」

「いいえ、父は予科練のことはほとんど口にしませんでした。福島に戻って、母と結婚したのですが、予科練のことは話さなかったようです。息子の私にも・・・。父は特攻で戦死した先輩たちのことを考えると、話題にする気にならなかったのでしょう。しかし、お酒が入ると、父は音痴ながら、予科練の歌を歌うことがありました。歌いながら父は、泣いていました。父の気持ちは、今ここに来て、よく分るような気がします。

私は福島県で県立高校の教師をしていたんですが、あの津波と原発事故で、全町避難で、家族で埼玉に移り、なんとか私立高校に教員の職を得て、三年前に定年退職しました。退職して時間ができたので、NHKの「ファミリー・ヒストリー」のように、父親が若い時に入隊した予科練について知りたくなって、今回、ここに来てみたのです。埼玉から霞ヶ浦はそれほど遠くないですから・・・。圏央道を使えば、阿見町まで二時間ほどです」

「なるほど。それで展示をご覧になっていかがですか」

「はい、厳しい訓練だったことがよく分りました。予科練生らがハンモックで寝たことも、リアルな展示で初めて知りました。土門拳の写真も迫力があって、父親たちの若い頃の様子がよくわかりました。まるで、父が傍に立って、息子の私に語りかけてくるような錯覚にとらわれました。お父さんはこんな厳しい訓練を受けたんだよ・・・てね。寡黙だった父のことを少し理解できたような気がしました」

「戦争の時代とはいえ、過酷でしたよね」

「ええ、軍国主義の時代の空気を感じ取れたような気がします。父が運よく特攻に行かず、生き延びたことで私が生まれたのですから、命のつながりを感じます。ここに来て、よかったと思います・・・。それでも父は故郷ではなく、避難先の埼玉で亡くなりました」

「福島では、避難が解除になった地区がありますが、いずれ戻られるんですか」

「私が住んでいた町は、まだ帰還困難区域のままです。お墓がある祖先の土地ですし、同級生や教え子たちの思い出がありますから、戻りたいという気持ちはあります。元の町民がみんな戻ってこそ、故郷が再生したことになりますが、今の状況では難しいでしょう。菩提寺の住職さんも戻れていません。父の遺骨はまだ納骨できていないんです。人が住まないので、実家は思い切って解体して更地にしました。子や孫は、今の埼玉での生活が長くなりつつありますから、どうなることやら」

「そうですね。まだまだ、たいへんなんですね。貴重なお話、ありがとうございました。私の名刺です。差し支えなければ、お名前を伺ってよろしいでしょうか」

「伊藤純一と申します。純情の純です」

「お父様は?」

「父は拓三です。開拓の拓に、三男だったので漢数字の三です」

「改めて、ご協力いただき、ありがとうございました」

 吉井は、丁寧に礼を述べて、記念館の外へ出た。空が明るく眩しかった。この地で、当時の若人たちが、飛行機乗りに憧れ、厳しい訓練を受けて、南方の空で戦死したことの事実の重さと子孫の思いの深さに、吉井は心打たれた。

気を取り直して、吉井は雄翔館に向かった。途中、小型潜水鑑型の特攻兵器である「回天一型」の実物大模型が芝生の上に野外展示してある傍を通った。説明版によると、敵艦に爆弾を搭載して接近し、海中から体当たりして自爆するもので、実際に予科練修了生をはじめ、多くの若い命が失われたという。しかも、一度乗り込むと、内側からハッチを開けることができない仕組みで、たとえ敵艦への自爆攻撃を果たせなくとも帰還できなかったという。

 その説明文を読み、要点をメモしながら、吉井は回天の模型が墓標に思え、心の中で合掌したい気分になった。平和な現在とのギャップの大きさに愕然とした。

 雄翔館は、旧霞ヶ浦海軍航空隊(終戦時の呼称は土浦海軍航空隊)、現在の陸上自衛隊武器学校の敷地内に設置してあった。吉井は、入館するのは初めてだった。敷地の入り口に受付があった。吉井は、氏名、住所を記入した。

 雄翔館の建物の前に、山本五十六の銅像が建っていた。山本は海軍航空隊の育ての親のような存在で、連合艦隊長官になる前に、土浦海軍航空隊の副司令官として赴任したことは、基礎知識として吉井は知っていた。

 雄翔館内には、予科練を経て日本各地の航空隊に所属し、最後は特攻隊員として戦没した飛行士たちの遺品、手紙などが、一人ひとりの写真とともに展示されていた。解説のパネルには、予科練出身者の英霊は一万八千五百六十四柱となることが示されていた。平均年齢は十九歳十カ月だったという。

 吉井は、戦没者一人ひとりの写真や手紙類を丁寧に読んでいった。文面を読み進めると、吉井は眼がしらが熱くなり、息苦しいほど心が悼むのを憶えた。若い飛行士たちの手紙は、死の恐怖を押し殺し、使命感に燃えて出撃の決意を表しながらも、家族への思いをつづっていた。

 彼らの尊い犠牲が、戦後の日本人に平和の尊さを知らしめたことを吉井は実感することができた。霞ヶ浦タイムズの記事で、そのことをいくら強調してもしきれないと思った。戦後とはいえ、地元で生まれ育った自分が予科練について、よく知らなかったことに恥じ入る思いだった。

 室内の入り口近くのパネルに次の和歌が展示されていた。辞世の歌であった。

 みんなみの雲染む果てに散らんとも くにの野花とわれは咲きたし

               甲飛十期 高﨑文雄 (十九歳)

               昭和十九年十月二十二日、敵艦に体当たりして戦死

 わずか十九歳にしてこの歌を詠み、特攻機に乗り込んだ若い魂を思うと、吉井は嗚咽を禁じえなかった。是非とも新聞の記事にして改めて地域の読者に紹介したいと思った。霞ヶ浦には、後世に伝え残さなければならない大事なことがここにもあった。それは近現代史の事実であり、我々はそこから多くを学んできたはずだし、若い人々が学んでいかなければならないことだった。吉井は久しぶりに自身の新聞記者魂が高揚するのを感じた。

 雄翔館を出ると、すぐ傍に小公園があり、予科練の碑があった。飛行服姿と士官候補生の制服姿の若者が二人、肩を組んで一歩踏み出そうとしている姿の銅像が建っていた。写真では見たことがあったが実物を見るのは初めてだった。

 吉井は敷地を出て、予科練平和記念館の駐車場に戻ると、来た時とは異なる粛然とした思いで佇む自分に気がつくのだった。

                    *

 数日後、予科練平和祈念館の記事を仕上げた吉井は、霞ヶ浦市の歩崎地区を取材する前に、霞ヶ浦タイムズ社の編集部に寄って、デスクの寺田に今日の取材予定を告げておこうと思った。

 吉井のその日の取材先を聞いた寺田は、羨ましそうに言った。

「今日は歩崎か。あそこは、霞ヶ浦随一の景勝地だから眺めがいいよなあ。俺もデスクの仕事を休んで、一緒に行きたいくらいだ。まあ、いい記事と写真を期待してるよ。

そういえば、新霞ヶ浦風土記の第二回、第三回も良かったよ。霞ヶ浦を描く水彩画家と市民による水質調査。どちらも、一般市民は知らないことだから、霞ヶ浦に対する市民の意識を掘り起こす、いい記事だったなあ」

「そう言ってもらうと、張り合いが出てくるよ。前の新聞社時代は、霞ヶ浦から離れていたので、地元に戻って新鮮な気持ちで取材し、記事に出来るような気がしてるんだ」

「地元の住民たちが、霞ヶ浦の魅力に気が付いてくれるといいんだけどね。何しろ、皆さん、霞ヶ浦に関心が薄いからね。改めて吉井の記事を読んでもらって、この大切な湖水に注目してもらいたいもんだなあ。そうなれば、茨城県の魅力度全国最下位という汚名も返上できると思うんだ。

県民が地元の霞ヶ浦について、プライドを持って語れるようにならんとなあ。急がば廻れで、県民にはまず、吉井の記事を読んでもらって、基本的な勉強から始めてもらいたいもんだな」

「そうであれば嬉しい限りだね。じゃあ、歩崎に行ってきます」

「ああ、気をつけて」

 寺田に見送られて、吉井は社の駐車場から車を発進させた。

 一時間ほどで歩崎に到着した吉井は、まず霞ヶ浦市歴史博物館を訪問した。吉井が子供の頃には、まだこのお城の形をした博物館はなかった。建設当時、歴史的にもこの場所に城は無かったことが物議を醸したが、当時の市長が、観光名所になる建物が必要だと強く主張し、それに押されるかたちで実現したものだった。

完成してみると、歩崎の高台にそびえるお城型の博物館は、ランドマークとして見栄えがあり、批判派の意見を結果的に押さえこんでしまったのだった。こうした議論があったことは、当時、霞ヶ浦を離れていた吉井は、知らなかった。

 吉井は、電話で予約しておいた学芸員から解説を聞きながら、三層の館内の展示を見学した。霞ヶ浦のシンボルの一つである帆引船の三分の一スケール模型の展示、映画「米」の撮影にまつわるスチール写真や台本の展示、霞ヶ浦の漁労具の展示、かつて湖底から発見されたナウマン象の化石標本など、興味を惹かれるものが多数あって、眼移りするほどであった。

 近いうちに、再度来館し、丁寧に見学したいと思いながら、最上階の展望台を兼ねた天守に登った。天守からの霞ヶ浦の眺めは、その広大さを実感させるもので、学芸員は胸を張って説明した。

「歩崎からの眺望は茨城百景の一つです。湖心の三又沖、対岸の浮島、行方の玉造、鯉の網生簀養殖場も見えます。かつて、歩崎は深い森に包まれて神秘的だったと伝わっています。漁師の網にかかったという観音菩薩像を長禅寺のお堂に祀っています。また、嵐に遭って、方角が分からなくなった漁船を、光り輝く観音様が現われ、湖上を歩くように、この岬に導いたので歩崎と呼ぶようになったとも伝わっています」

「興味深いお話です。ここからは素晴らしい眺めですね。やはり改めて新聞で取り上げて紹介したいですね」 

 吉井と学芸員は下に降りて、事務室でしばらく懇談した。

「ここは、霞ヶ浦が海だった当時、波で削られた崖の上です。海食崖といいます。五十年前には、この下の砂浜に遊泳場がありました。日航機事故で惜しくも亡くなられた歌手の坂本九さんの祖父は近くの田伏地区の出身で、九さんも子供の頃、お祖父さんの家に遊びに来て、霞ヶ浦で泳ぎを憶えたそうですよ」

「えー。そうですか。それは面白い逸話ですね。そのお話もいつか記事にして紹介したいですね」

「はい、その他にも興味深い話がいろいろあります。今度ゆっくりおいでください」

「ありがとうございます。今日の取材のメインは、実は霞ヶ浦市の交流センターに集まってくるサイクリストと食事処のリストランテ・カスミです。霞ヶ浦の名産食材を使った料理を食べたサイクリストの話を紹介する企画です」

「いいですね。ぜひ、いい記事を期待しています」

                   *

 博物館を出た吉井は、車で坂下の交流センター前の駐車場に車を停めた。水族館がすぐ傍にあったが、取材はこの次にして、まず交流センターに入った。一階は、地元の名産品売り場とサイクリストの交流の場になっていた。

レンタサイクル対応、スポーツ用自転車の展示、自転車の修理コーナー、霞ヶ浦周辺の観光スポットを紹介したパンフレット、チラシなどの配布コーナー、自販機コーナーなどがあった。地酒、クラフトビール、アイスクリーム、ジャム、スーツなどの売り場もあった。

2階はリストランテ・カスミという食事処で、イタリアンレストラン風のインテリアとメニューだが、ピザ、パスタの他、ワカサギやシラウオを食材にした料理も提供しているのだった。

 昼食時になっていた。リストランテ・カスミには先客が数人、寛いでいた。吉井は丸いテーブル席に腰を下し、メニューを眺めた。スタッフがにこやかに、オーダーを取りに来た。

「いらっしゃいませ。メニューをどうぞ」

 メニューには、ワカサギと蓮根フライ、蓮根を食べさせて肥育した豚のレモンジンジャー焼き、小エビとハーブのピザ、アメリカナマズのフライなどが写真付きで載っていた。

「ええ、どの料理もおいしそうですね。お勧めはどれですか」

「はい、やはり霞ヶ浦で獲れた新鮮な生シラウオ丼は好評です。他では、なかなか食べられないものです」

「そうですか。では、生シラウオ丼を一つ。それと食後のホット・レモンティーをお願いします。コーヒーよりも、レモン・ティーの方が、シラウオ丼の食後に合うような気がします」

「かしこまりました。少しお待ちください」

 注文すると、吉井は窓の外の霞ヶ浦を眺めた。さざ波が立って、太陽光を反射し、ダイヤモンドの粉をちりばめたようにキラキラと輝いていた。吉井は、かつて新婚旅行で訪れた南イタリアのナポリのレストランで地中海を眺めながらの昼食を思い出していた。あの時の魚介類のパスタのおいしさは忘れられなかった。たしかペスカトーレというパスタだった。ムール貝と大きな赤いエビがパスタに載っていた。オリーブオイルの香りをなつかしく思い出した。

 まもなく、生シラウオ丼が運ばれてきた。

「味付けは生醤油かポン酢がおすすめですが、お好みでどうぞ。少量のわさびやおろし生姜を添える方もいらっしゃいます。ではごゆっくり」

「ありがとう。シラウオがきれいに光っているね。おいしそうだ」

「ありがとうございます。レモン・ティーは食後にお持ちします」

 吉井は、まず少量のゆず味ポン酢をシラウオの上にかけて、箸でおもむろに口に運び、慎重に味わってみた。シラウオは全く生臭くなく、舌の上で踊ったような気がした。生きたシラウオの踊り食いではないのに、舌がツルツルした生シラウオを喜んでいるような不思議な味覚に、吉井は驚いた。

ポン酢が少し浸みた白いご飯は、見た目もシラウオに合って、おいしかった。添えられたワサビを小皿の醤油に溶き、それを生シラウオの上にかけて食べてみると、今度は伝統的な和食の味になった。おろし生姜も、生シラウオに合った。

 空腹気味だった吉井は食欲を刺激され、生シラウオ丼を完食した。かつて海だった霞ヶ浦の豊かさを実感した。

 ほどなく、ホット・レモンティーが運ばれてきた。レモン・ティーの香りと酸味がシラウオ丼の食後にぴったり合った。口の中が爽やかになった。コーヒーを選ばなかったことが正解だったと、吉井は気をよくした

 ゆっくり食事を終えた吉井は、卓上の紙ナプキンで口を拭い、満足して代金を支払い、サイクリストのたまり場になっている一階におりた。

サイクリストたちは、サイクリングウェアに身を包み、頭には専用の、隙間が空いたコッペパン型のヘルメットをかぶっていた。

 吉井は、椅子とテーブルが配置された談話コーナーで一休みしている中年カップルに思い切ってインタビューしてみようと思った。

「ゆっくりされているところ、すみません。地元新聞の記者ですが、霞ヶ浦のサイクリングについて少しお話を伺ってもよろしいですか」

「ああ、かまいませんよ。どうぞ」

男性の方が了解し、女性も肯いた。

「今日は、どちらから、来られたんですか」

「私たちは、東京の足立区の北千住からです。足立区は下町ですから、道は狭いし、広い公園もありません。エコなライフスタイルで、サイクリストは増えているんですが、自転車を思い切り楽しむ場所がないんですよ」

「それで、こちらへ?」

「ええ、足立区はJR常磐線、常磐高速道、つくばエクスプレスが通っていて、茨城県へのアクセスは便利なんです。しかも、筑波山と霞ヶ浦のリンリンロードが整備されてきたので、この頃は、天気が好い週末に時々、夫婦でサイクリングを楽しんでいます」

「私は、アウトドア派ではなかったのですが、少しやせなくちゃと思っていたところへ、夫がサイクリングに嵌ってしまって。私も誘われて、ついその気になったんです」

「なるほど。足立区の方から、こちらまでの交通手段は?」

「商売用のワゴン車です。私は地元の商店街に車で荷物を配達する仕事です。そのワゴン車に自転車を二台積んで、約一時間で土浦まで来れます。サイクリストの拠点になっている土浦のリンリンポートに駐車して、昨日は筑波山方面をサイクリングしてきました」

「足立区からは、ビルの屋上から筑波山は見えますが、やはり近くで見る筑波山は素敵ですね。特に春と秋は、山の色が振袖の裾模様のように繊細できれいです」

「昨晩は、土浦駅ビルのサイクリスト専用の宿泊施設に泊まって、今日は霞ヶ浦を見ようとここまで来て、ちょっと休憩です」

「霞ヶ浦はいかがですか?」

「一番の魅力は、とにかく広いことですね。東京から来ると、特にそれを感じます。首都圏の近くにこんな広い空間があったんだと思って・・・。発見であり、感激ですね。ストレス発散効果、満点です。体重も落ちてきて、スリムになりました。いいことずくめです。うふふ」

「リンリンロードができても、しばらくは休憩所、宿泊所、食事するレストランが少なかったんです。俄か雨に遭っても、雨宿りできる場所もなかったんですよ。でも、最近はだいぶ整備されてきて良くなりました。サイクリスト仲間に宣伝しています。筑波山と霞ヶ浦を楽しむサイクリストがさらに増えて、もっと宿泊施設があちこちにできればいいんですけどね。

来年は潮来まで行きたいですね。潮来は、ホテルや旅館が多いので一泊し、次ぎの日は、稲敷市の浮島を廻って土浦に戻る霞ヶ浦一周、サイクリストはカスイチと呼んでいるんですが、それにチャレンジしたいと計画しているんです」

「途中、地元の古民家を改装したカフェなどの休憩所があちこちにあればありがたいわね。女性としては、サイクリスト用の公衆トイレをもっと整備してほしいの」

 吉井は、一つ一つの意見に頷いた。

「なるほど。それも大事なことですね。記事に書いておきましょう。ところで、今日の午後はどちらへ?」

「土浦へ戻ります。今日中に東京へ戻って、明日は仕事です」

「そうですか。お話いただき、ありがとうございました」

 吉井は謝意を述べた後、堤防の上に登ってみた。サイクリング・ロードが整備され、路面にはサイクリスト用の矢印の標識が塗装されていた。堤防下の霞ヶ浦側のコンクリート護岸では、数人の釣り人が糸を垂れていた。

その沖には湖面が広がり、湖心の向こうに対岸の浮島が霞んでいた。手前には鯉の網生簀養殖場が見えていた。すぐ近くの志戸崎漁港には、帆を畳んだ観光帆引船が係留されていた。最近設置された浮桟橋が目立った。吉井は、観光帆引船についても近いうちに取材したいと思った。

 吉井は、霞ヶ浦の堤防をサイクリング・ロードとして整備したことは正解だったと思った。これから、徐々にサイクリストが増え、休憩所、食事処、宿泊施設が増えていくことを確信できた。そのことを「新霞ヶ浦風土記」の連載記事で強調すれば、霞ヶ浦の魅力を発信することになり、霞ヶ浦を中心とする地域社会の活性化につながることが期待できそうだった。

                   *

 取材を重ね、霞ヶ浦に係わる人々の話を聞いていくと、年配の人の中には、逆水門について話す人が何人かいた。

「逆水門が出来たおかげで霞ヶ浦が汚れたんだ」

「逆水門が出来たから、洪水が無くなったんだ」

「逆水門が出来る前は、霞ヶ浦でも干満があったんだ」

「逆水門を取材してみると、その役割が分るぞ」

 逆水門の正式名称は常陸川水門だった。霞ヶ浦と北浦の湖水を太平洋に流し出す常陸川が利根川と合流する地点に昭和三十八年建設された。東京オリンピックが開催される前年だった。

 吉井は昭和三十五年に生まれた。中学校一年生ごろだったか、大人たちが逆水門について話しているのを、かすかに憶えていた。

「今年も霞ヶ浦ではアオコが大発生して、養殖鯉が大量に死んでるなあ」

「やっぱり、逆水門が出来て、霞ヶ浦の水が溜まり水になって、汚れが海に出ていかなくなったから、アオコが出るんだっぺ」

「逆水門を開ければいいんだっぺよ」

「逆水門を開ければ、潮水が入って来っぺよ。田圃の水には使えねえど。水道水もしょっぱくなって飲めなくなる。困ったもんだな。どうしたらいがっぺなあ」

 漁師や佃煮屋など、霞ヶ浦に関係する仕事をする大人たちは顔を寄せ合って、深刻な表情で話し合っていた。

そんな大人たちの心配をよそに、子供たちは元気に遊び廻っていた。吉井の家では直接影響がなかったので、父親が話題にすることはなかった。学校の教師も、霞ヶ浦や逆水門を教材にすることはなかった。小学校でも中学校でも、霞ヶ浦が抱えている深刻な問題を勉強したことはなかった。高校ではクラブ活動や受験勉強に没頭したので、地域の環境問題は全く考えたことがなかった。

吉井は、逆水門問題に関心が無いまま大学に進学し、新聞社に入社した。新聞記者として他県の支局や通信部で取材活動をしたが、地元の霞ヶ浦の問題からは、遠く離れていた。当時はやむをえないことだった。

しかし、霞ヶ浦に戻り、取材を進めるうちに、逆水門について諦めの表情で話題にするのは七十歳以上の高齢者だけであることに気がついた。今のうちに地元の高齢者の話を聞いておく必要性を感じた。

それにしても吉井は逆水門を見たことがなかった。

秋晴れの日、吉井は自宅から車で、直接、逆水門に向かった。霞ヶ浦大橋を渡り、行方市、潮来市を経て、北浦の下流にあたる鰐川にかかる神宮橋を渡ると、赤白の模様の煙突が林立する鹿島臨海工業地帯に入った。逆水門は、鹿嶋市を過ぎて、神栖市と千葉県の小見川町の間に位置していた。

道路地図で確認しながら、吉井は逆水門の袂に車を停めた。

逆水門は巨大な構造物だった。霞ヶ浦側と海側を隔てる門扉が八門あり、吉井の前で完全に閉まっていた。各門扉は橋でつながり、上部は車がひっきりなしに通行していた。茨城川から逆水門を通れば、銚子へ至るのだった。

吉井は圧倒される思いだったが、新聞記者の本能で、カメラを取り出し、逆水門の全容を写真に納めた。逆水門の延長上に、さらに門扉がたくさん繋がり、利根河口堰になっていた。利根河口堰も海水が利根川に遡上することを防いでいるのだった。

吉井は、逆水門を管理している国土交通省霞ヶ浦河川事務所波崎出張所の駐車場に車を入れた。受付で来意を告げると、作業着を着た所長が対応してくれた。あらかじめ電話で取材の申し込みをしていた。所長は、吉井を二階のコントロールパネル室に案内した。そこには、たくさんのメーターやスイッチ、ボタンなどがはめ込まれた大型パネルの前で、数人の職員が配置についていた。

「この部屋で、常陸川水門の全てを管理しています。水門の前後の水位、塩化物イオン濃度、塩分の指標になる電気伝導度を連続して測定しながら、開閉のタイミングを図ります。塩分濃度が高い水が、この水門を越えて上流に遡上することを防いでいます」

「一回の開門時間はどのくらいですか」

「そうですね。その時の状況によって違いますが、四時間から六時間くらいですね。潮の干満の時間に合わせて、引き潮の時に開けるんです。その時は、霞ヶ浦流域にかなりの雨が降って、雨が霞ヶ浦に集まり、水位が上昇して、逆水門を開ければ上流から下流に湖水が流れる時になります。操作員は、計器の数値と長年の経験で、開門するタイミングを的確に図れるのです」

「なるほど。水門は一年に何回くらい開けることができるのですか」

「その年の降雨の状況などで異なりますが、平均的には、年に百回くらいですね。皆さんの中には、常陸川水門はいつも閉めていると思い込んでいる方がおられるんですが、実際はかなり開けているのです。」

「今まで、下流の塩分濃度が高い水がこの水門を越えて、上流に遡上したことはありますか」

「昭和四十九年に、常陸川水門の操作法がほぼ確立して以後は、ほとんどないです。潮水が上流に上がってしまうと、水道水、農業用水、工業用水に使えなくなりますから、そこは我々が責任をもって管理させてもらっています。

それでも、十年前の東日本大震災の津波が銚子河口から利根川を遡ってきた時は大変でした。幸い、逆水門は閉まっていたので、津波が水門の門扉に衝突し、それ以上の遡上を防ぎました。しかし、その衝撃で逆水門の間隙から潮水が漏れてしまい、三カ月ほどですが、上流でやや高い塩分濃度が観測されました。その後、間隙は応急処置で塞がれましたので、塩分濃度は下がりました」

「そんなことがあったのですね。ところで、漁業関係者は、水門があるために、ウナギなどの魚が霞ヶ浦に入って来れなくなったと言っていますが、どうなんでしょう?」

「確かに、シラスウナギなどの遊泳力が弱い魚類は、水門を開けた時の強い水の流れに逆らって遡上することが難しいようです。ハクレンやボラ、スズキなどの泳ぐ力が強い魚種は、遡上していきます。遊泳力が弱い魚のために、魚道を設置しています。そのモニタリングも行っています。魚たちはある程度、魚道を利用してくれています。しかし、ウナギの稚魚はなかなか上がっていくのは難しいようです」

「ウナギは単価が高いですから、漁師さんも期待するんですね。これから、漁業関係者にも取材してみようかと思っています」

「そうですか。頑張ってください。良い記事を期待しています」

「本日は、お忙しいなか対応していただき、ありがとうございました」

 吉井は出張所を出て、車に乗り込んだ。ここまで来たので 、銚子の港と波崎の風力発電施設も取材してみようと思った。    

                   *

 吉井は、新霞ヶ浦風土記の取材を、緊張感と楽しみの両方を感じながら続けた。

霞ヶ浦市歴史博物館の学芸員から紹介された観光帆引船を運航している漁師と観光協会職員、続いて行方市の天台宗の古刹西蓮寺の住職と門徒たち、潮来市の北斎公園や源頼朝ゆかりの長勝寺、石岡市高浜の高浜神社や関東地方で二番目に大きい前方後円墳の舟塚山古墳、景行天皇が巡行し、常陸国風土記に製塩が行われていると記録され、保元の乱に連座して藤原教長が流刑となった稲敷市浮島などだった。

潮来市の大生古墳群と大生神社、鹿島市の鹿島神宮と鎌足神社、南北朝期に北畠親房が滞在した稲敷市の神宮寺城址、江戸期に高瀬船の水運で栄えた小美玉市小川の旧小川河岸、それに霞ヶ浦市の富士見塚古墳など、歴史・文化を次々に紹介し、関係する地元の人々にインタビューすることは、吉井にとって慣れたことではあったが、同時に瞠目するような発見もあり、やり甲斐がある楽しい取材だった。

地元出身でありながら、これまで地元の歴史を知らなかったことに恥じ入ることも多かった。同時に、霞ヶ浦周辺には、歴史的に由緒ある場所が実に多いことに驚いた。

 そうした文化や歴史分野の取材だけでなく、現代の地域社会で、霞ヶ浦の環境再生に取り組む市民団体なども取材した。行方市天王崎の眺めの良い日帰り入浴施設に集う人々、

稲敷市の干拓地に戦後まもなく富山県や山形県から入植した農民の子孫、美浦村大山の旧海軍スロープで、ウインドサーフィンや水上バイクを楽しむ若い人々、ブラックバス釣りで、首都圏からやってきた愛好者にもインタビューした。

また、霞ヶ浦の管理を担当する国土交通省の霞ヶ浦河川事務所、霞ヶ浦導水事務所、水資源機構、茨城県の水環境担当課、下水処理場、浄水場にも、疑問が湧くたびに、電話をかけ、時には直接担当者と面談した。

さらに霞ヶ浦とつながる北浦の漁師、川魚料理屋、湖畔の日帰り温泉の利用者、東日本大震災で被災し、かけ替えられた鹿行大橋のたもとで地元に親しまれている食堂の店主、北浦最奥の鉾田市の老舗旅館の支配人などにも取材し、記事にした。

 吉井の取材ノートは、一年間で三十冊以上にもなった。撮りためた写真も千枚を超えた。新霞ヶ浦風土記の連載が五十回を数え、一年以上が過ぎた時、吉井はデスクの寺田に呼ばれた。  

吉井は、デスク席の後ろの応接室に吉井を招き入れた。

「吉井。新霞ヶ浦風土記は、読者からも、毎日曜日、楽しみにしているとか、知らなかった霞ヶ浦の面白さが分かったとか、時間を作ってその場所を訪ねてみたい・・・とか反響が大きいんだ。吉井の筆力、取材力、フットワークに改めて脱帽するよ。若い記者のお手本だなあ・・・」

 吉井はそこまで言って口ごもった。

「・・・しかし、今日は残念なことを伝えなければならないのは、悔しい。率直に言うと、吾が霞ヶ浦タイムズは今年度末で休刊することになった。再開のめどは立っていない」

「え、それは・・・。どういうことだ?」

 吉井は、寺田の次の言葉を待った。寺田は、絞り出すように言葉を繋いだ。

「バブル経済の破綻以後、広告を出してくれる地元企業が減ったことが一番痛い。知ってのとおり、新聞社の主な収入源は広告だ。今まで広告を出して支えてくれていた複数の会社が、広告を出す余裕がないと言ってきたんだ。

もともと、うちの新聞は購読者が少なく、広告効果がないと判断されたんだろう。地元住民は、常磐線で東京に通う茨城都民が多いから、地元の話題に関心がない。それに、パソコンやスマホの普及で、新聞離れ、活字離れが輪をかけている。出版不況も長い。どうしようもない状況だ。支援してくれていた地元銀行からも見放されたかたちだ。やむをえない。

わが社の社員にも、薄給で我慢してもらっていた。記者たちは、記事を書くことが好きで、生き甲斐にもなっていたんだ。霞ヶ浦周辺、茨城県南地域の活字文化を維持しなければ・・・。地域の話題を詳しく正確に伝えなければ・・・という使命感で頑張ってくれた社員がほとんどだ。彼らの頑張りに応えてやれなかったことが悔しい。社長はもっと悔しいだろう。

吉井には申し訳ないと思っている。せっかく好評の記事を書いてもらっていたのに、続けられないことになってしまった。非力な編集長だったなあ」

吉井は、全国紙の新聞社も経営が苦しいことは知っていた。まして地方紙を発行し続けることはさらに困難であろうことは推測がついた。大手の新聞社は、多角経営でなんとか凌いでいた。地方新聞社では、細々と、売れない本、特に自費出版本の出版を引き受けたりするが、経営改善に結びつくことはなかった。吉井は、寺田の率直な説明を冷静に聞くしかなかった。

「地方新聞社の経営の厳しさは想像していたけれど、そこまでとは・・・。俺も何かお役に立てればよかったんだがなあ・・・」

「吉井、ありがとう。吉井は『新霞ヶ浦風土記』の記事で十分貢献してくれた。すまない。そういうわけで、誘った立場として心苦しいが、もう給料は払えないんだ」 

 寺田は深々と頭を下げた。

「頭を上げてくれ。寺田。やむをえないよ。昔から無い袖は振れないというよ。俺は齢をくってるから、まだいいが、若い記者はどうするんだろう。何とか再就職先、転職先を見つけられればいいよなあ。全国紙の支局や通信部の記者に拾われれば一番いいが、なかなか難しいなあ」

「若手記者の転職先まで心配してもらってありがたい。吉井の人脈で、紹介してもらえれば、一人でも二人でも記者の仕事を続けられるかもしれない。そうなれば、本当にうれしいことだ。有能な記者を挫折させるのは忍びないからなあ。それはそうと、吉井はどうする? 失業保険は、半年か一年くらいしか続かないだろう。その間、再就職活動せざるを得ない。年金支給には、まだ少し間があるよな」

「そうなんだ。まあ。少しのんびりして、今後のことを考えるよ。霞ヶ浦タイムズに新霞ヶ浦風土記を連載させてもらったので、その原稿をもとに、単行本の出版を目指そうかな。できれば、霞ヶ浦タイムズ社から発行できたらと思っていたけど、叶わなかったなあ」

「確かに、うちで出版できればよかったなあ。地元で頑張っている地方出版社があったんだが、数年前に社長が亡くなって、会社を畳んでしまった。地方で出版事業を続けるのはたいへんなんだ。

もっと、地元の人が地方文化振興を理解して応援してもらいたいが、難しいんだなあ。国の文化庁あたりも、出版文化の東京一極集中を是正して、地方出版を支援する仕組みを作ってもらいたいとも思うけどね」

「まあ、東京の出版社には知人がいるから、あたってみるよ」

「何度も言うけど、すまない。力になれることがあったら、何でも遠慮しないで言ってくれ」

「ありがとう。一年ほどの短い間だったが、本当にお世話になった。『新霞ヶ浦風土記』の取材で、改めて霞ヶ浦のすばらしさに気づいた。それを、読者に伝える仕事は楽しかった。俺にとっても勉強になった。その機会を与えてくれた霞ヶ浦タイムズ社と寺田に感謝、感謝だ」

「感謝するのは、こっちだ。お互いにこれからも頑張ろう。時々は、土浦の呑み屋街で、旧交を温めようや」

「いいね。こちらこそ、これからもよろしく」

 二人はやや寂し気な表情ながら、できるだけ笑顔を作って握手した。

                    *

 吉井は、次ぎの日曜日に妻の麗子を土浦市の霞ヶ浦総合公園に誘った。ここには、ランドマークのオランダ式風車があり、霞ヶ浦の眺望が素晴らしかった。二人は、風車の展望台に登り、広い湖面を眺めた。

「いいわねえ。さえぎるものがない霞ヶ浦。空気が澄んで、遠くまで見える。あれは船かしら」

「ああ、遊覧船だね。俺も取材で乗ったことがある。そういえば、麗子はまだ乗ったことがないよな。今度、一緒に乗ってみよう。風が気持ちいいぞ」

「この青天井。空ってこんなに広かったのね。高層ビルばかりの東京では、気づかなかった。あら、筑波山も見えるわ」

「思い切って帰ってきてよかった。取材を通して、改めて霞ヶ浦の良さを読者に伝えることができたから、やり甲斐がある仕事だったよ。でも麗子、この仕事も一段落した。霞ヶ浦タイムズが休刊することになったんだ。だから、来月からは失業だ」

「えっ。そうなの?」

 麗子は、驚いて吉井の横顔を見た。

「ああ、デスクから話があった。失業でも、一年くらいは失業保険が支給されるけど、もともと少ない月給の七割くらいの支給だから、苦しくなる。こうなれば、年金は六十歳からの支給で申請するつもりだ」

「これからどうするの?新聞はあなたの生き甲斐でしょう」

「うん。新聞の記事を書くことが生き甲斐で、結局は文章を書くことを仕事にしてきたわけだから、これからも、その延長で頑張るしかない。原稿を雑誌社に持ち込むこともやりたいなあ。ルポルタージュとか、ノンフィクションとか、あるいは、小説にも挑戦してみたい。フリーランスのライターだ。すぐ作家デビューできるほど、この世界は甘くないことは分っているから、まず一冊、本を出せればいいね。

幸い、霞ヶ浦タイムズで『新霞ヶ浦風土記』を担当させてもらい、取材ノートも溜まっているから、それを基に本に仕上げたいんだ。東京の出版社には知り合いの編集者がいるから、頼ってみようと思っているんだ」 

「そうなのね。文章を書くことがあなたの天職だから、それを生かすことなのね。あなたが頑張っている姿をこれからも見たいし、支えていきたいから、フリーライターを目指すのは賛成よ」 

「ありがとう。まず麗子に理解してもらうことが先決だからね。お袋には、明日にでも話してみるよ。幸い、実家の持ち家があるから家賃はかからない。生活を質素にしていけば、とりあえずは大丈夫だろう。子供らも大学を出て、それぞれ就職したからね。

 まだまだ老け込んではいられない。文章を書く仕事は頭を使うから良いけど、体の老化はできるだけ防いでいきたいなあ。フリーライターはフットワークが大事だ。車の運転はまだ大丈夫だけど、目は弱ってきているから、近いうちに眼科に診てもらわなくてはな」

「ええ、体に気をつけて、二人で頑張っていきましょう」

 二人は午後の柔らかい光に包まれながら、霞ヶ浦の光る湖面を眺めた。霞ヶ浦は、キラキラとさざ波がたち、柔和に微笑んでいるようだ。

                   了

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