島崎富蔵は、霞ヶ浦に面したリフォーム住宅の二階の部屋で、朝食後の時間を過ごしていた。初夏だった。
アームチェアに座ると、採光に配慮した大きなガラス戸の向こうに霞ヶ浦と筑波山が見えた。朝の柔らかい光が湖面の漣に映じて、微細な石英の粉を散りばめたように輝いていた。
それでも、富蔵は昔の方がもっと霞ヶ浦の水は光り輝いていたと思った。富蔵は、昭和八年にこの土地で生まれ育った。
生まれてから今まで過ごした茨城県行方(なめがた)地方の家の前は、物心がついた頃は広い砂浜で、いつもきれいに掃除され、大人たちが、ワカサギやシラウオの煮干を茣蓙の上に広げて天日で干していた。子どもらは、大人の邪魔にならないように、砂浜で駆け回って遊んでいた。
生家は佃煮製造業だった。霞ヶ浦地方の佃煮製造は、明治時代に行方地方の麻生町の人が東京の佃島で製造法を習得し、帰郷して地元に伝えた。製造法は間もなく、沿岸各地に広まり、生産量が増えた。
佃煮製造は、富蔵が若い頃が一番盛んだった。ワカサギ、シラウオ、エビ、ハゼ類を原料として、作れば作るだけ売れた。
特に海軍や陸軍が、出征した兵士の食糧として大量に買い上げてくれた。佃煮は日持ちする保存食で、白い飯によく合った。
―あの頃は、親父もおふくろも、毎日大忙しだった。寝る間も惜しんで働いていたなあ―
富蔵は、誰に聞かせるわけでもなく、つぶやいた。眼を閉じると、粗末な作業着を着て立ち働く両親の姿が瞼の裏に浮かんできた。生家にはいつも、甘辛い佃煮のにおいが立ち込めていた。
富蔵が八歳になった昭和十六年七月には、霞ヶ浦は大洪水になり、佃煮工場も軒下まで水に浸かった。大事な道具や書類、布団などの夜具、米や味噌などは、二階に上げた。
この年の水害は明治以来最大と大人たちが言っていた。佃煮工場は、水が引くまで一ケ月以上も操業を休んだ。
その年の十二月八日、日本海軍の連合艦隊はハワイの真珠湾を急襲し、太平洋戦争に突入した。開戦後、しばらくは、軍関係から大量の佃煮の注文が来た。
しかし、戦局が悪化し、軍の買い上げが目に見えて減り、佃煮業者は、ただならぬ時節が来つつあることを、うすうすと感じた。
地元の青年たちに次々に召集令状が届き、役場前の広場で壮行会が開催され、武運長久を祈って万歳三唱で送り出された。
そのうちの何人かは英霊となって帰ってきた。近所の体格のよい若者も、桐の白い木箱に入って帰ってきた。木箱には、小さな石ころが入っていただけだった。
その父親は無言で厳しい表情で耐えていた。母親は泣き崩れていた。その光景が、昨日のように富蔵の脳裏に浮かんだ。
富蔵は終戦の年を思い出した。十二歳になっていた。大人たちは、三月十日に東京の下町が米軍爆撃機大編隊の空襲を受け、焦土になったことを噂しあった。
六月十日、午前八時前、太平洋方向から進入した米軍のグラマン戦闘機とB29爆撃機の編隊が頭上の高空を通過し、霞ヶ浦の上を筑波山方向へ飛び去った。
富蔵は、土浦方向からドーン、ドーンと爆弾が炸裂する音をかすかに聞いた。地上からは黒煙が幾筋も上がった。大人たちは、対岸の土浦がやられたと言った。
次の日、大人たちが噂し合った。
『昨日の空襲で、土浦の町ではなく、阿見の海軍航空隊がやられた。軍人、予科練生や民間人が三百五十人も死んだそうだ』
『アメリカは東京大空襲で下町を無差別に焼き払ったが、茨城では、どこに軍事施設や軍需工場があるか、偵察機でよーく調べて、針の穴を通すように、正確に爆弾を落としたそうだ』
八月十五日、大人たちは役場前の広場に集まり、直立不動でラジオの玉音放送を聴いた。
天皇の声は甲高く、言葉が難しく、雑音がひどく、よく聞き取れなかった。しかし、国民学校の教員を務めていた地元の住職が言った。
『日本は戦争に負けたんだ』
皆、茫然としていた。しかし、日が経つにつれ、戦争が終わった安堵感が広がった。
戦後、出征していた兵士や外地に行っていた人たちが戻ったが、食糧不足が続き、近くの浅瀬は干拓され、広い水田になった。佃煮は安価で手頃な惣菜として、保存がきくお土産としても需要が高まり、一時期増産され、原料の小魚類が品不足になるほどだった。
ワカサギやシラウオは、明治時代以来の伝統漁である帆引漁で漁獲された。美しい白帆の帆引船が何艘も湖面に浮かび、霞ヶ浦独特の風景を見せた。漁師たちが漁獲したワカサギやシラウオは、地元の加工場に獲れただけ、引き取られた。
地域の砂浜は遊泳場に指定され、夏になると土浦方面から遊覧船で遊泳客が訪れ、賑わった。その頃、富蔵は地元の新制高校を卒業し、父母の佃煮工場で働き始めた。
夏場は遊泳客相手のお土産屋を開き、佃煮や小魚の煮干を売った。アイスキャンディーもよく売れた。お土産屋の前にヨシ簾がけの無料休憩所兼脱衣所も提供した。それが良い客寄せになった。
佃煮は、水郷観光で賑わっていた潮来方面にも出荷された。潮来には首都圏から大勢の観光客が訪れた。橋幸夫や美空ひばりを主役にした映画が何本も制作され、主題歌のヒットとともに、大勢の客が映画を観て、水郷のロケ地に押し寄せた。熱海とともに、潮来や対岸の佐原は首都圏の手ごろな観光地だった。
土浦でも佃煮製造業者が大量に佃煮を作り、常磐線土浦駅の土産品としてよく売れた。土浦から定期観光船が運航され、潮来や鹿島神宮方面へ東京から来た客を運んだ。霞ヶ浦地方はようやく平和な時代に入っていた。
富蔵は暮らしの目途が立った頃、近所の娘と祝言を上げた。子どもの頃からよく知っている、働き者で評判の娘だった。嫁に来た操子は気立てが良く、富蔵夫婦は幸福な家庭を築こうと、身を粉にして働いた。
息子と娘が生まれた。富蔵は、子どもたちが砂浜で遊ぶ姿を思い出した。
―あの頃は働きがいがあったな―
富蔵は眼を閉じて思い出に耽った。その表情は穏やかだった。
しかし、昭和四十年代に入ると、生活水準が上がり、家庭排水や盛んになった養豚業の排水などで霞ヶ浦の水質が富栄養化によって悪化した。湖面は緑色のペンキを流したようなアオコで覆われ、悪臭を放った。蓮田などからの農業排水も深刻だった。米、レンコン、ハクサイ、レタス、豚肉、鶏卵、鶏肉などの農畜産業による生産物は首都圏に大量に出荷された。しかし、それらの排水は、流域で最も低地にある霞ヶ浦に集まるのだった。
東京と周辺市街地の拡大、人口増加、大量消費が霞ヶ浦の汚濁の遠因だった。しかし、東京都民も霞ヶ浦周辺住民も、首都と近郊農村の経済構造の矛盾に気を留める人はいなかった。
行政、経済学者、農学者を含めて、地方の経済と公害問題の関係に着目し、本気で取り組むことはなかった。
日本全体と首都の経済発展の蔭で、霞ヶ浦地方の水環境は悪化していった。そこに気がつく慧眼の人がいたとしても、有効な対策を講じることは難しかった。下水道設備率を上げ、合併浄化槽を多数設置し、農畜産業排水対策をするには、莫大な金と時間がかかった。
霞ヶ浦流域から首都圏に供給する農畜産物の生産や流通を止めることは非現実的だった。東京への食糧供給をストップしたら、都民は飢えてしまう。茨城の農業者は収入が激減し、生活できない。首都を支えつつ、従属する地方という構図の様々な矛盾は霞ヶ浦の水質悪化として顕在化したのだった。
特に昭和四十年代後半の夏には霞ヶ浦全面にアオコが大発生するようになり、この世の終末を連想させるような光景と悪臭が広がった。沿岸各地に十か所以上もあった遊泳場は全て閉鎖された。
そのころ土浦、石岡、鉾田などの市街地の住宅排水は垂れ流しだった。下水道や合併処理浄化槽の整備は遅れていた。養豚場排水は素掘りの溝に貯留されたが、雨が降れば溢れた。
蓮田では、養鶏場から出た鶏糞をそのまま肥料として施肥した。稲田では、適正施肥量が研究されていたが、蓮田では、研究が遅れていた。豚糞、人糞を施す蓮田もあった。
富蔵の佃煮工場の排水も、その頃は水路に垂れ流しだった。水路は霞ヶ浦に繋がっていた。小規模事業場の水産加工場はどこも同じようなものだった。
帆引船の漁師たちは、漁獲効率が良い動力船のトロール漁に転換した。トロール漁は乱獲につながり、漁期が制限された。
国が逆水門と呼ばれる防潮水門を建設し、霞ヶ浦を完全淡水化して、大量の水資源を安定的に鹿島コンビナートや市町村が誘致した工業団地への工業用水、茨城県南、県西、鹿行地方の広大な農地への農業用水、そして国策として建設されたつくば市など市街地へ上水道水として供給する霞ヶ浦開発事業が進められた。
霞ヶ浦の水質悪化で、シジミやウナギの漁獲量が減った原因は、逆水門建設にあるとして、漁師たちは国に対し、開門を迫ったが、逆水門を開ければ、下流から塩分濃度が高い水が遡上し、農業用水、工業用水、水道水に影響が出るとして、湖側の水位が高い時の順流放流以外は開門できなかった。漁師たちには漁業補償金が出た。
漁師たちの中には、その漁業補償金を元手に、鯉の網生簀養殖を始める者も多かったが、養殖鯉の餌や糞でますます湖水が汚れた。
霞ヶ浦の水が汚いという風評が立って、霞ヶ浦産の小魚類の加工品である佃煮の需要も減っていった。
潮来の水郷観光は、道路や橋梁の整備で交通網が整備されたにもかかわらず、さびれていった。バスで来た観光ツアーの客たちは、潮来の旅館やホテルに宿泊せずに、日帰りで首都圏へ戻るようになった。
全国各地の観光地に首都圏の観光客が分散し、さらにハワイやグアムの海外旅行を楽しむ時代に入り、近場の水郷観光は廃れていった。
その頃から、霞ヶ浦開発事業によって治水、利水を名目に、砂浜に堤防が建設されていった。これで水害がなくなり、安心して暮らせるのだと役場や当時の建設省の役人は言っていた。
―あれで砂浜がなくなり、砂浜で遊ぶ子どもの姿も、小魚を干すこともなくなったな―
砂浜があった頃は浪で打ち上げられる流木や藻類は、みんなで拾って掃除し、草取りをしたから、浜は常にきれいだった。しかし、堤防ができてからは、霞ヶ浦をわざわざ見に行くことも少なくなった。アオコが出ても誰も気にしなくなった。
―あのころが、霞ヶ浦が最悪だった頃だろうか。霞ヶ浦とともに生きてきたこの地域の歴史が終わったようだった―
富蔵は、再び眼を開けて呟いた。独り言を聞いてくれる妻の操子はもういなかった。操子は三年前、脳出血で倒れ、地域の病院に入院したが、数日後、家族に見守られて旅立っていった。
操子は、堤防ができてからも堤防の下にわずかに残った砂浜に寄せられる漂着ゴミを掃除した。雑草抜きもした。操子にとって、それは日課の一つで習慣になっていたのだった。
―操子は、まめな女だった、じっとしていることが嫌いな性分だった。あのきびきびとした動作が眼に浮かぶ。操子、おれを置いて遠くへ行ってしまったなあ。寂しいなあ―¬¬
富蔵の眼には涙が滲んだ。仕事や子育てで忙しく、いつか生活に余裕ができたら、妻と二人きりで温泉旅行へ行くことが夢だった。
息子の雄一は、よく勉強ができて、東京の大学を出た。雄一は佃煮工場を継ぐのを嫌ったが、富蔵の懇願で地元の町役場に就職してくれた。
就職が決まった時は、赤飯を炊いて家族みんなで祝った。親孝行の自慢の息子だ。高校時代に知り合った嫁の智子は、町の観光協会にパートで勤めている。
町役場は平成の市町村合併で市役所になった。雄一の公務員の給料が安定しているから、無駄遣いしなければ、ボーナスの貯蓄を家の改築費用に使うことができた。今では雄一は市役所の課長職を務めている。市役所の若手職員からの信頼も厚いようだ。
息子は、富蔵のために、こんなに眺めが良い隠居部屋も用意してくれた。ありがたいことだと富蔵は感謝した。
娘の洋子は看護師の資格を取り、隣町の病院に独身のまま、看護師長を務めている。独身であることが気がかりだが、なあに何とかなるだろう。洋子はしっかりものだから。
雄一と智子の夫婦には、高校生になった孫の翔太がいる。成績はまあまあだが、ボート部で頑張っている。一度練習を見にいったが、仲間と楽しそうにしていたな。
俺は結局のところ、幸せ者だと富蔵は思った。霞ヶ浦の傍で生まれ、育ち、人生を過ごしてきた。親から引き継いだ佃煮製造業は、霞ヶ浦の恵みだ。
霞ヶ浦の幸に恵まれて、俺は命をかけて働き、家族を養った。霞ヶ浦という湖は、そのようにしてたくさんの人間の命を育んで、次の世代に繋いできた。
俺はこの歳になって、それがよく分かる。若い頃は、何故霞ヶ浦の傍で一生、佃煮作りをするのか、疑問を感じたことがあった。都会にあこがれ、面白い人生を送りたいと、少しは夢を見た。その夢は、結局諦めた。
しかし、これでよかった。長く生きたお陰で、霞ヶ浦にも、親や先祖にも感謝するようになった。歳を取らなければ分からないこともある。
今は何の憂いもない。いつ死んでも悔いはない。そう思った。
そろそろ、嫁の智子が、地元の観光協会の事務仕事のパートから帰ってくる時刻だ。智子は昼に帰ってきて、富蔵の食事を作ってくれるのだった。
富蔵は、アームチェアでまた眼を閉じた。お迎えが来るのは、まだ先のようだ。お迎えが来るまで、今日のように、静かに、自分を生かしてくれた霞ヶ浦はじめ、いろいろなものに感謝していきたいと改めて思った。
時計が午後一時を少し回った頃、嫁の智子が帰ってきた。二階の部屋に上がってきて、富蔵に声をかけた。
「お義父さん。ご気分はいかがですか。今、お昼を作りますから待っていてくださいね」
「いつもすまないね。簡単なものでいいからね」
智子はまた一階の台所に下りて義父の昼食を作り始めた。
富蔵はアームチェアから、ゆっくりと立ち上がり、手すりにつかまりながら階段を慎重に降りた。台所があるリビングルームのテーブルの椅子に腰をかけた。
智子が言った。
「今日はスーパーに寄って、お義父さんが好きなゴロ(ハゼ類の小魚)とアミの佃煮を買って来ましたよ」
智子は保温した炊飯ジャーから湯気がたつ白飯を茶碗に軽くよそい、小皿に佃煮を盛って出した。急いで調理した卵と野菜の炒めものを中皿に盛り付け、豆腐とワカメの味噌汁の椀も用意した。
「ゴロの佃煮か。懐かしいなあ。いい匂いだ。どれ、味見してみよう。おや、よく甘辛く煮てあるな。この味付けがご飯に合う。だけど、うちで作っていた佃煮より甘い味付けだ。今は冷蔵庫があるから塩分を少なくしても保存がいいんだな」
「お義父さんも、ゴロの佃煮、作っていましたね。私がお嫁に来たころは、まだ佃煮の作業場がありましたもの。お義母さんが忙しく立ち働いていました。私も少しは手伝ったけど、楽しかった」
智子は話し相手になった。
「もう昔の話になってしまったなあ。ゴロは小さいものが佃煮に適しているんだ。大きいゴロは骨が硬くなっているからダメだ。
味付けは銚子の醤油に砂糖、味醂、水飴を使うんだが、その割合は企業秘密だっぺ。廃業したんだから、もう秘密はなしか。ははは」
「これはアミの佃煮ですよ。お義父さんも作っていたんですか」
「ああ、アミの佃煮も時々作っていたよ。白いご飯にのせて食べると旨いんだ。漁師らは、ヒトクチマンビキなんて言ってたなあ」
「ヒトクチマンビキですか?」
「一口分のアミの佃煮には、万匹も入っているという意味なんだ」
「なるほど」
智子は、微笑んで肯いた。
「霞ヶ浦では、今もアミ、つまりイシャジャが獲れるけど、昔ほどは獲れないなあ。逆水門ができて、霞ヶ浦が真水になったからなんだ」
富蔵は嫁を相手に話が弾んだので上機嫌だった。
「このへんの人は、昔から小魚の佃煮をよく食べたので、骨が丈夫で、歳を取っても、がっしりした体格の人が多いだろう。骨粗しょう症にもなりにくいそうだ。行方病院のせんせいが言ってたなあ」
「そうですね。私も嫁に来て、佃煮が好きになりましたけど、翔太はあまり食べないんです。お肉の方がいいみたい」
「今時の子どもは、ハンバーグなんかの方がいいんだろうなあ。しかし、もっと霞ヶ浦の川魚を食べてもらいたいもんだ」
「なるべく、ワカサギとか、霞ヶ浦の食材を食卓に出すようにします。ワカサギの南蛮漬けなら、翔太も食べてくれますから」
「そうだ、地元の食材を大事にしないとなあ。先祖から伝わった食文化がなくなってしまったらたいへんだぞ」
「観光協会でも、地元の食材や川魚料理の新しいレシピをホームページやパンフレットで紹介してるんです。ワイン、バルサミコ酢、オリーブオイルを使って、イタリアン風に」
「それはいいことだな。若い人に食べてもらわんとな」
富蔵は話しながら、白飯とゴロやアミの佃煮を交互に箸で口に運んだ。慣れ親しんだ伝統食の味だった。富蔵の味覚にはよく合うのだった。
昼食が済むと、富蔵はまた二階に、ゆっくりとした足取りで上がり、専用にしているテレビを見て、午後を過ごした。
智子は掃除や洗濯を始めていたが、頃合を見て、お茶と地元菓子店のサツマイモスイーツの和菓子を二階に運んできた。
行方地方はサツマイモも名産だった。スイーツとしての加工に適する紅はるか、紅あづまなどの品種が作付けされていた。
「おお、ありがとう。お菓子、おいしそうだ」
富蔵は緑茶を飲み、和菓子を口にした。しばらくすると睡魔がやってきた。アームチェアに座ると富蔵は昼寝をした。短い昼寝も富蔵の日課のようになっていた。
小一時間、うとうとして目を醒まし、ぼーっとした気分で窓の外を眺めると、陽は陰り、霞ヶ浦はやや波が立っていた。 富蔵は呟いた。
―霞ヶ浦は午後になると、波が騒ぎ出す。いつものことだ。霞ヶ浦で波が立つのは当り前だ。こんなに広いから風が吹き渡る。風下では大波が寄せてくる。時には波しぶきが家にかかっても何ともなかったんだ。それなのに、国は余計なことをしてくれた―
富蔵は数年前、説明にやってきた国土交通省の若い担当者との会話を思い出していた。
富蔵は表情を険しくして、やや強く言った。
「霞ヶ浦で、強い波が立つのは当たり前なんだ。おれたちは、波しぶきを浴びながら住んできた。それでも堤防を越えて波しぶきがかかることはめったにない。
台風の時などは波しぶきが堤防を越えることもあるが、何ともない。それなのに、堤防の前にさらに波消しの消波施設を作る必要はねえぞ」
紺色の作業服の国交省の担当者は、当惑したような表情で言った。
「波しぶきで洗濯ものが汚れるとか、ガラス窓が汚れるとか、地元の要望があったので離岸堤とも呼ぶ消波施設を設置したんです」
「誰がそんな要望をしたんだ。俺達はそんな要望をした覚えはねえんだ」
「最近、霞ヶ浦の傍に住むようになった住民の皆さんからの要望です。我々は国民の生命財産を守るのが仕事ですから」
「俺たち、年寄りの意見を聞くのが先だろうよ。新しく来た連中は、霞ヶ浦のことを分かってねえんだ。消波施設のお陰で広い霞ヶ浦の景色が台無しだっぺ。
それに内側が淀んで水草が生えるようになったぞ。あんな水草は、このへんでは生えてなかったんだ。昔、このへんはきれいな砂浜だったんだ」
そんな会話を思い出すと、富蔵は腹立たしい気持ちになって、一気に眼が覚めた。
―開発や新住民のせいで霞ヶ浦は変わってしまった。もう昔の霞ヶ浦ではないなあ―
富蔵は自分の人生に悔いはないと思ったが、霞ヶ浦のことを考えると、あまりの変貌ぶりにこれでよかったのか、自問した。
堤防ができて、大雨で水かさが増えても、水害になることはなくなった。逆水門ができて、潮水が入ってくることもないから、真水になって、農業はじめ、いろいろと霞ヶ浦の水を利用できるようになった。
百歩ゆずって、それはいいとしても、水は汚れたし、人の眼は霞ヶ浦から離れてしまった。霞ヶ浦の水が澄んでいた頃を分かってくれる人は少なくなってしまった。それは富蔵にとって悔しく残念なことだった。その気持ちを国の役人はもちろん、家族や新住民にぶつけても、理解してもらえるとは思えなかった。
―人生に悔いはないが、霞ヶ浦のことを考えると、これでよかったのかな。これでは安心してあの世に行くというわけにはいかねえか。俺の人生、全てよしというわけにはいかねえなあ。
こうして年寄りたちは、後悔と満足の間で、気持ちがぶれながら、この世にお去らばするのかなあ―
富蔵は誰にも分かってもらえない孤独を感じて、背筋が少し寒くなった。
―死んで操子のもとへ行くのはこわくねえんだ。あの世でまた会えるなら、楽しみなくらいだ。懐かしい親父やおふくろにも会えるだろう。戦争があったことも遠い思い出だな。
だが、何のよごれもない、あの霞ヶ浦を遺して逝けないのは、考えてみれば寂しいことだ。
俺の代で、みんなして霞ヶ浦をダメにしてしまったんだろうなあ。この世にお去らばしていく人間はそこまで責任を感じなくてもいいのかなあ。これから霞ヶ浦をよくするために、子や孫に、頑張ってもらうしかねえが、できるんだろうか。これは年寄りの愚痴というものだろうなあ―
富蔵がそんなことを考えていると、霞ヶ浦を照らしていた陽光は次第に弱くなり、西の空が美しい茜色になって残った。
霞ヶ浦の湖面が鏡になって茜色の空を映した。対岸の浮島が黒いシルエットのように浮かび上がった。
―あの世の空もこんな色なんだろうか。そうだとしたらこの世もあの世も、似たような風景なんだろうか。それとも俺はもう死んでるのかなあ。死んであの世に来たのかな―
アームチェアに座ったままの富蔵の耳に、他の家族が帰宅して会話している声が届いて、現実に引き戻された。
―まあ、いいか。霞ヶ浦が急になくなるわけでねえし。後の者たちが何とかするだろうよ―
ようやく、少し楽な気持ちになって、富蔵は、ほっとした。
―思ったようにはならねえのが世の中だったなあ―
富蔵は独り言を言って、苦笑いした。
次の日曜日、朝から晴天だった。雄一は仕事が休みなので、父親を湖畔の白帆の湯温泉に連れていきたかった。
この温泉の場所には、数年前まで公営の国民宿舎があったが、経営を刷新し、新たに深い地層から温泉を掘り当てて、日帰り温泉施設として再オープンした。
広々とした霞ヶ浦の景観と泉質のよさで、地元民に根強い人気があった。隣の産地直売所で、新鮮な野菜や水産物を買うのも楽しみだった。
稲敷市、土浦市、石岡市、潮来市、千葉県香取市方面から来館する客もあった。
朝食後、雄一が富蔵に声をかけた。
「父さん、今日、白帆の湯温泉に行ってみっか。先月も行ったけど、一ヶ月ぶりだ。汗を流して、さっぱりすると、気持ちが良かっぺ」
富蔵は、温泉が大好きだった。
「そうだなあ。お願いすっか。歳取ると、温泉は一番の楽しみだ」
白帆の湯温泉は、自宅から車で十分ほどの近さだ。タオルだけを持って、一階のフロントで料金を払い、ロッカーの鍵を受け取り、三階の展望風呂にエレベーターで上がった。
展望風呂からは霞ヶ浦の眺望がよく、対岸の浮島や遠く筑波山、愛宕山も見えた。眼がいい人は、冬の晴れた日には、雪を頂いた日光連山まで見えるのだった。
床で滑らないように、雄一に体を支えられながら、浴槽に浸かった富蔵が言った。
「いい湯だ。温まるなあ。霞ヶ浦も筑波山もよく見えるし、極楽だっぺ」
雄一も応じた。
「市議会に予算を承認してもらって、温泉を掘り当てて本当によかった。みんなに喜んでもらってるし、隣の産地直売所も好評だよ」
富蔵が続けた。
「霞ヶ浦のそばで温泉に入れるとは、若い時は考えたこともなかったな。温泉といえば、栃木や群馬まで行くものだと思い込んでいたんだ。
水産加工業組合の年一回の慰安旅行で、バスで那須塩原温泉、鬼怒川温泉、伊香保温泉、それから草津温泉に行くのが楽しみだったなあ。
今は家から十分で温泉に入れるんだからなあ。長生きはするもんだ」
雄一は眼下を指差した。
「ほら、ここの下に国交省が砂浜を作ったんだ」
「ああ、でも昔の砂浜とは違うな。第一、あんな石組みはなかったっぺ」
「あれは、人工砂浜が波で流されないようにする突堤だそうだ」
「そんなものがなくても、昔はちゃんと砂浜があったんだぞ。波が砂を運んできて、ここへ寄せたんだからなあ」
「国交省の頭がよい技術者が設計したんだっぺから、間違いはなかっぺ」
「砂浜を潰して、コンクリ堤防を作った。そこにわざわざ砂を入れて、砂浜をブルトーザーで作った。まあ、ないよりはましだってことか」
「せっかく作った砂浜が流されれば、税金の無駄使いだと言う連中がいるからなあ」
富蔵が怒ったように言った。
「霞ヶ浦のことを知らない、大学出の若造どもが言ってんだっぺ。もっと年寄りの話を聞いてくれればいいんだ。作った砂浜は草取りをしねえから雑草だらけだっぺ」
「まあまあ、父さん、せっかく温泉に来てっから、面倒なことは考えねーで、のんびりすっぺよ」
富蔵と雄一は、その後は無言で、霞ヶ浦の湖面を眺めながら湯に浸かった。
「父さん、背中流してやっから。気持いいぞ」
雄一は、富蔵が浴槽から出るのに手を貸して、ゆっくりと洗い場に連れていった。富蔵はプラスチックの椅子に腰掛け、背中を雄一に向けた。
雄一は、備え付けのボディソープをタオルに取って泡立てると、そのタオルで富蔵の体を丁寧に、最初はあまり力を入れずにこすった。
「もう少し強くこするか?」
「そうだな、もう少し強くてもかまわねえぞ」
雄一は、少し力を入れて背中をこすり、脇の下や腰のあたりもタオルで拭いた。富蔵は目を細めた。富蔵の体は筋肉がめっきり落ちて、肋骨や肩甲骨が目立った。
雄一は、富蔵がかなり痩せてきたことがわかった。子どもの頃、父親のがっしりした広い背中にもたれかかるのが好きだった。
成長して、中学から高校の頃は、頑固な親父に反発したこともあったが、広い背中の後姿を見ると、敵わないと思った。
それが今は心細いほど、痩せてしまった。
「父さん、またちょっと痩せたようだな」
「ああ、歳相応だっぺ。前の方は自分でやるから」
雄一はタオルを父親に渡すと、隣で自分の体を洗い始めた。涙が滲みかけたが、顔を洗って誤魔化した。
二人は一時間ほど、テラスの露天風呂や泡が噴き出す風呂を楽しんだ。サウナや水風呂もあったが、年寄りの体を考えて敬遠した。
「父さん。長風呂は湯当たりするというから、そろそろ上がっか」
二人はゆっくりと浴槽を出て、脱衣所に戻った。脱衣所で扇風機に当たって体を乾かしていると、老人会の仲間の庄三郎と出会った。
「おや、富蔵さん。息子と一緒に風呂かい。親孝行の息子で幸せだなあ。俺はいつも独りだ。
体が動くうちはまだいいが、体が不自由になったら、ここの温泉には来れないなあ」
富蔵が応じた。
「なあに、そうなっても、市のヘルパーさんにお願いするとか、手はあるかもしれねえぞ。巡回バスもある。うちの息子は市役所勤めだから、相談すればいい」
雄一も言った。
「庄三郎さん。心配要らないよ。市では要介護度に応じて、いろいろな支援サービスがあっから」
「そうか、そん時はお世話になるかな」
雄一は地方公務員として、いろいろな部署を経験して、老人福祉にも詳しかった。
庄三郎が真面目な顔をして言った。
「そんでも、一番いいのはPPKだな」
「ピーピーケー? 何だ、そりゃ」
富蔵が不思議そうに聞いた。
「ピンピンコロリだよ。死ぬまでピンピンして、死ぬときゃ、苦しまずにコロリだ。あっはっは」
「なるほど、PPKか。うまいこと言うな。あっはっは」
雄一が庄三郎に言った。
「その調子で、長生きしてくださいよ。それじゃあ、先に上がらしてもらいます。ごゆっくり」
雄一と富蔵は丁寧に挨拶して、三階の浴場を出た。
親子は二階の展望食堂へエレベーターで降りた。入浴後はここで、お茶で水分補給し、軽食を摂るのが常だった。
「父さん。何がいい?」
「そうだな。いつものワカサギの唐揚げと稲荷寿司だな」
「うん、あまりたくさん食べると家の食事が入らなくなるから、俺もそれにするか」
二人は注文料理を座敷席で食べ、食べ終わると、座布団を折って枕にして横になった。父子が枕を並べた。他の客たちも、同じように横になって、中には鼾をかいて熟睡している人もいた。
雄一は、子どもの頃に親父の布団で寝たことを思い出した。あの頃は貧しかったが、何の不安も感じなかった。
今は幸せと言えば幸せだが、子どもの頃感じた幸福感というか、安心感とは少し違うような気がした。
隣で軽く寝息を立てている親父の体は小さくなっていた。子どもの頃の頼り甲斐のある父親ではなかった。お袋は先に旅立ったし、親父だって遠からずだ。
雄一は目を閉じて、父親の寝息を聞いた。
時おり鼾のように大きくなる寝息は、富蔵の生命の証だったが、寝息が小さくなると、このまま逝ってしまうのではないかと不安になった。
小一時間ほど横になって、体がやや冷えてきたことを感じた雄一は、富蔵の体を揺すって起した。
「父さん、そろそろ帰っぺ。湯冷めすると風邪引くからな」
「ああ、そうか。帰るか」
朦朧とした意識の富蔵の体を抱えて起こし、目覚めるまで待った。
富蔵の意識がはっきりしてきたことを見定めて、ゆっくり体を支えながら、エレベーターで一階へ降りた。
フロントで挨拶し、二人で車に乗り込んで帰宅した。
年寄りの夏の日々は、あっという間に過ぎて、絹雲が霞ヶ浦の上に刷毛で引いたように現れて、秋が来た。
富蔵はいつものように、晴れた日の午後は、家族が帰るまで、眺めのよい自室でアームチェアにゆったりと腰をおろし、光る湖面をぼんやりと眺めていた。
上質の縮緬を思わせる漣が立っていた。その波頭がダイヤモンドのように陽の光りを反射して輝いていた。漣が立つ水域は、少しずつ移動していくのだった。湖面を弱い風が吹き渡っているようだ。
夏の間、太陽光は高い位置から湖水に入るが、低い透明度ゆえに、そのまま吸収されてしまい、湖水は鈍い色を見せる。
しかし、秋から冬にかけて、太陽高度が低くなり、斜めから入射するため、漣の先端が光を透過させ、白く輝くのだった。その輝きは、富蔵が若い頃の霞ヶ浦を思い出させた。
あれから、ずいぶん時間がたった。行政の施策に住民が協力して、霞ヶ浦の水質が改善されてきた。
工場排水の処理、下水道整備、浄化槽設置、農業集落排水処理施設、畜産廃棄物の発酵処理と農地還元、蓮田をはじめとする農地への適正施肥などの効果が長い時を経て、ようやく少しずつ現われてきた。
鯉養殖業は、度重なる養殖鯉の大量死で、苦悩の中で規模を縮小せざるをえなかった。
それらの苦渋の努力を蓄積して、成果が出てきたようだ。夏になってもアオコが発生することは少なくなった。
しかし、霞ヶ浦地方に住む人々の苦悩と長年にわたる努力を首都圏の住民たちが理解しているとは言えなかった。霞ヶ浦への水郷観光も復活してはいない。
そのような首都圏と近郊の経済問題、環境問題を、富蔵は突き詰めて考えてきたわけではなかったが、霞ヶ浦の湖水がやや改善されてきたことは、富蔵の気持ちを少し軽くした。
富蔵は昨晩も十分寝たはずなのに、眠りが浅かったのか、睡魔がまた襲ってきた。
ガラス戸越しの柔らかい光が部屋を包んでいた。風邪をひかないように、息子の嫁が掛けてくれた毛布が暖かく、気持ち良かった。
うつらうつらしていた富蔵の脳裏に、亡くなった両親や先立った妻が、きびきびと忙しく立ち働く姿が浮かんでいた。
佃煮製造の作業場は活気に満ちていた。大釜で、弱火で長時間じくじくと煮込んだ佃煮は旨そうな匂いを立てていた。
父親が何か言って指示を出していた。みんな、忙しそうだ。のんびりしてはいられない。
―俺もすぐそこに行くから・・・―
富蔵は夢とも現実とも分からない、朦朧とした世界へ入っていくのだった。
了

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