道の駅

 野沢祥子は霞ヶ浦大橋の袂にある産地直売の店に勤めている。すぐ近くには「霞ヶ浦ふれあいランド」があり、約六十メートルの高さの「虹の塔」がよいランドマークになっていた。茨城県の内水面水産試験場、大型スーパー、ドラッグストア、ファミリーレストランも立地するようになっていた。
行方市とかすみがうら市を結ぶ霞ヶ浦大橋は三十年ほど前に架けられた。広い霞ヶ浦を横断する唯一の橋である。当初は建設費を償還するため有料だったが、今は無料になり、地域の重要な交通路となっていた。地元の観光協会や農協などが協力して産地直売の店「こいこい」を橋の袂にオープンさせ、同時に「道の駅」も設置した。産直の店は、鯉のあらい、旨煮、ワカサギやエビの佃煮などの霞ヶ浦の水産物や地元の農産物を新鮮なうちに手頃な価格で販売するため、土日を中心に買い物客で賑わい、売れ行きがよい日は、午後には品薄になることが多く、近隣の農家が慌てて、キャベツ、大根、ホウレンソウ、タマネギ、サツマイモ、ニンジン、シイタケ、トマト、そして名産のエシャロットなどを補充することも珍しくなかった。地元産の各種漬物類、卵、ハム、納豆、そして地酒や地ビールも販売していた。
 祥子はユニフォームを着て、品物の数量の確認、陳列、レジ、館内の掃除の仕事を担当していた。野菜は運びこんだ農家が並べていくのだが、祥子たちは数量と値札を確認して伝票を作成したり、パソコン画面の元帳にデータを打ち込んだりした。お客が混んでくると、レジも打った。
 産直の店のテラスからは、筑波山と霞ヶ浦の穏やかな湖面がゆったりと眺められ、ドライブを楽しむ人たちの憩いの場となっていた。
 十一月の土曜日の朝、祥子が出勤すると、同僚たちは、駐車場に停まっている白いワンボックスタイプの軽自動車の話題で持ちきりだった。道の駅の駐車場は無料で、トイレの水道水も使えるので、時々県外ナンバーのキャンピングカーやツーリングらしいバイクが停まり、一、二泊していくことが珍しくなかった。近年は、七、八月の夏場に、若い人たちがグループで利用していくことが多かった。
 その日の朝、駐車場に停まっていたのは中古の白い軽自動車で、ボデイに「日本縦断の旅の途中、お世話になります」というステッカーが両側に貼られていた。群馬ナンバーだった。
 祥子の同僚たちが言った。
「もう寒くなってきたのに、軽自動車で旅するなんて、変わってるわね。あまりお金持ちでないことは確かね」
「乗ってる自動車で判断したら悪いよ」
「あなた、どんな人か見たの?」
「いいえ、後部の窓ガラスはスモークが貼られてるから、見えないのよ」
「気になって覗いたのね」
「覗きじゃないよ。中で人が死んでたりしたら、いやじゃないの。ちょっと確かめただけよ」
「そのうち、いなくなるでしょう。さあ、仕事。仕事」
 主任職の女性スタッフが声をかけると、同僚たちは持ち場に着いた。こんなことはよくあることなので、祥子も気に留めずに、いつもの床掃除から仕事に入った。
 勤労感謝の日が近く、午前中から天気が良かったこともあり、客がひっきりなしに訪れ、賑わった。二つのレジは行列が途絶えることがないほどだった。祥子は、レジを担当し、休む間もなく立ちっぱなしで、忙しかった。道の駅の駐車場の軽自動車のことは完全に忘れてしまった。
 昼の十二時、一時を過ぎても客足は落ちなかった。二時近くになって、ようやく客が少なくなってきたので、祥子は午後に出勤してきたパート職員と交替して、昼食休憩に入った。事務室の隣の控え室で、用意してきた弁当を食べ、同僚と世間話をするとすぐ一時間が経ち、三時からの勤務に入った。陳列台で売れ残り数を確認し、店長に報告した。平台には、手作り弁当のコーナーがあった。ほとんどの弁当や握り飯、赤飯などは売れたが、少し売れ残った握り飯は、その日のうちに売らなければならないので、値下げの表示をした。一個百円の赤飯や梅干入りの握り飯が六十円に値下げされた。
 一人の初老の男性が、その陳列台から、値下げされた握り飯を三個、手に取り、しばらく考えた末に、店備え付けの手提げの買い物篭に入れた。背丈は平均より少し高く、がっしりとした体格で、黒っぽいブルゾンを着て、グレーの長髪だった。上品な面立ちで、眼差しが優しかったが、無精髭がうっすら伸びていた。その男が祥子に声をかけた。
「握り飯が安くてありがたいなあ。でも蛋白質が足りないから、何かお勧めはないかな」
「それなら、佃煮はいかがですか。霞ヶ浦のワカサギや小エビ、ゴロの佃煮は美味しいですよ。ゴロはハゼの小魚なんです。それから、地元のハム工房のハムもどうぞ」
 男は祥子が気さくに応じてくれたので、安心して続けた。
「せっかく霞ヶ浦の傍に来たから、佃煮にしようかな。売り場はどこですか?」
祥子は、佃煮の陳列棚に案内した。
「こちらです。佃煮のほかに、シラウオの釜揚げ、鯉の旨煮やあらいもあります。でも、お握りのおかずなら、手軽な佃煮が食べ易いでしょうね。保存性もよいですよ」
「なるほど。それなら、このワカサギの佃煮にします。三百円なら手頃ですね」
「ありがとうございます。レジはこちらです」
男性はレジで対価を払うと、祥子に軽く会釈して出ていった。
 レジ係りをしていた同僚が目ざとく、男性と祥子の会話に気づいた。。
「祥子さん。誰、あの人?」
祥子は慌てて頭を振って言った。
「知らないわ。商品のことで聞かれたので、佃煮をお勧めしただけよ」
「ちょっと素敵な人じゃない?ロマンス・グレーって感じね。このへんでは見ないタイプね」
 その日の仕事が終わって、同僚が帰宅した後、パソコンが得意な祥子が残業で売り上げをチェックした。二時間の残業を済ませて外に出ると、午後七時を回っていた。職員用駐車場に向かうために、道の駅の休憩所傍を通ると、一人の男がタオルを片手にトイレから出てきたところだった。周囲は真っ暗だったが、道の駅の待合室の明かりで、その男の顔が浮かび上がった。昼過ぎに、握り飯と佃煮を買いにきた男だった。
 祥子が、アッと思った瞬間、その男と目が合った。男の方も祥子に気がつき、軽く頭を下げた。つられて祥子も頭を下げた。
「ああ、お店の方でしたね。今、お帰りですか?」
「ええ、ちょっと残業して、この時間なんですよ」
「そうですか。ああ、昼食のお握りと佃煮、おいしかったですよ」
「ありがとうございます。佃煮は、お客さまに好評なんです」
「でしょうね。ご飯のお供とはよく言ったものですね。お握りによく合いますね」
 祥子は、よく知らない男と会話することに、気が進まなかったが、男は気軽に話しかけてくるので、つられて言葉を交わした。
「でも、夕食はあったかいものを食べたいんです。実は車で旅をしようと、キャンプ道具を一式買い込み、簡単な調理道具を積みこんでいるんです。でも、旅に出発してまだ二日目で、なれないものですから、これから車でコンビニに行って、弁当とカップ味噌汁を買って、チンしてもらって食べようかって考えています」
「そうですか。前の道をまっすぐ行くと十字路の交差点に出ますから、そこを左折するとすぐコンビニ店があります」
「ありがとうございます。行ってみます。ところで、こちらの店の名前が、『こいこい』と書かれていましたが、おもしろい名前ですね。何かいわれがあるんですか」
「はい、霞ヶ浦は鯉の養殖が盛んです。網いけすの養殖場がたくさんあります。それで、名産の鯉をアピールしようと、地元の商工会議所や観光協会の方たちが『こいこい』と名付けたそうです。うちのお店でも、鯉の旨煮やあらいはとても人気です」
「ああ、なるほど。私は、たくさん、観光客に来てもらいたいから、『こいこい』にしたのかなと思いました」
 祥子は、微笑した。
「ええ、そういう意味合いもあるようですよ」
「それから、『恋のまち、行方市』とも書いてありましたね」 
「まあ、若い人にはそんな期待もあるかもしれませんが、私には、そんなロマンチックな町には見えません。今夜は道の駅にお泊りですか」
「そうです。車中泊です。なれないので、よく眠れないんです」
「そうですか、では気をつけてお休みください。失礼します」
 祥子は、頭を軽く下げて、その場を後にした。しばらくして振り返ると、男の軽自動車が道の駅の駐車場から出ていくところだった。尾灯の赤い光が目に残った。
                                           
                    *

 祥子は車で三十分ほどのところにあるアパートの自室に戻った。祥子は五十二歳、独りぐらしだった。数年前に離婚していた。前夫は祥子にしばしば暴力を振るった。暴言もあった。祥子は娘が高校に入るまで我慢し、家庭裁判所の調停で、ようやく協議離婚したのだった。娘は高校卒業後、東京の大学に進学し、寮に入っていた。祥子は、パートの少ない給料から娘に仕送りしていた。生活は楽ではなかったが、現在の落ち着いた生活に満足していた。
祥子は簡単な夕食を調理し、テレビを見ながら食べた。缶ビールを開けた。仕事のストレスが抜けてきた。このまま寝てしまいたかったが、美容に悪いかもしれないと思い、就寝前に入浴することにした。
適温の浴槽に体を沈め、ため息をついた。軽自動車の男のことを思い出していた。
―ちょっといい男だったけど、今ごろ車の中で寝ているのかしら。明日になれば、どこかに行ってしまうんだろうなー
浴槽から出た祥子は、姿見の鏡に自分の裸身を映して見た。乳房も腰も程よく張りがあり、艶もあった。腰回りには余分な脂肪はついていなかった。祥子は思わず呟いた。
―私もまだ捨てたものではないよね。このまま歳をとりたくないなあー
祥子は掌にボデイソープを受けると、体を撫でるように、それを塗った。滑らかな快感が広がった。
―別れた前夫は、新婚のころは優しかった。私の体に毎晩のようにふれて、祥子の肌はすべすべして、白くてきれいだ、なんて言ってくれた。それが、だんだん気持ちが離れて、お酒を飲んでは暴力を振るうようになった。別に女がいることが分かったのは、後になってからだった。はじめは、私のどこがいけないのって、自問自答した。自分を責めた。それからはしだいに心も体も離れたー
祥子の手が体の敏感な場所に届いた。
―ああ、気持ちいい。でもさびしい。私だって今は自由なんだから、もっと、いい思いをしても・・・―
 祥子は、とんでもないと思い直し、シャワーの水流を強めにして体と髪の毛を洗った。
                     
                   *

 翌朝、祥子が出勤すると、道の駅の駐車場に、白い軽自動車はなかった。
―日本縦断の途中だから、次の目的地へ出発したのねー
 祥子は、かすかにそんなことを考えながら、通り過ぎ、職場に入ると、日常の忙しい仕事が待っていた。他の同僚も軽自動車のことを話題にする者はいなかった。
 その日の夕方、晩秋の陽が霞ヶ浦の向こうに沈む頃、同僚の一人が言った。
「ねえ、またあの白い軽がいるよ」
 皆は道の駅の駐車場の端に、いつの間にか停まっている軽自動車を見た。祥子も少し驚きながら思った
―あら、戻ってきたのかしら?―
 閉店時間になって、同僚は次々に帰宅した。祥子も戸締りした後、最後に店を出て、職員用駐車場に向かった。途中、道の駅の駐車場に目をやると、あの男がこちらを認めて手を振っていた。祥子はやや躊躇ったが、吸い寄せられるように、男の方に歩いていった。
「やあ、やっぱりあなたでしたか。今晩は。ちょっと教えていただきたくて、呼び止めてしまいました」
 男が丁寧に言ったので、祥子は少し安心して応えた。
「今晩は。どんなことでしょうか?」
「はい、駐車場は冷えますから、道の駅の中のベンチでお話しましょう」
祥子と男は、室内に入った、そこには、ベンチがいくつか置いてあり、観光パンフレットコーナーもあった。男が自販機に寄って祥子に聞いた。
「何か、温かいものを。缶コーヒーでいいですか?」
「ありがとうございます。はい、缶コーヒーで」
男は、二本の缶コーヒーを購入すると、一本を祥子に渡した。
祥子は缶コーヒーを一口飲んで言った。
「昨夜はよく眠れましたか?」
「私の車はフルフラットなんですが、後部の床が固くて体が痛く、あまりよく眠れませんでした。懲りたので、今夜はキャンプ用のシートを敷いて、寝袋で寝ようと思います。昨夜は、ダンボールを敷いて、厚手の毛布をかけただけでしたから、寒かった」
「たいへんですね。風邪を引かないでくださいね」
「ありがとうございます。ところで、お聞きしたいのは、霞ヶ浦周辺のおもしろい観光スポットです。普通の観光地というより、思い出に残るような印象的な場所です。それには地元の方に聞くのが一番いいと思いました」
祥子はだんだん心がほぐれてきた。缶コーヒーで体も温まってきた。
「そうですね。残念ながら、霞ヶ浦周辺には有名な観光地はあまりないんです。潮来のあやめまつりは有名ですけど、今はその季節じゃありませんし・・・。ところで、どちらからいらっしゃったのですか?」
 男は、改めて祥子を見た。祥子の人懐こい柔らかい表情に引き込まれていた。とりわけ、眼に愛嬌があると思った。
「私は群馬県の渋川市から来ました。六十歳まで勤めていた会社を定年で辞めたので、これからは悠々自適と思ったのですが、気力と体力が残っているうちに、若い時からの夢だった、車での旅を実行しようと思ったのです。熟年離婚で、独り身ですから気楽です」
祥子は、「離婚」という言葉が気になった。
「そうですか。お名前をまだ伺っていなかったのですが?」
「ああ、失礼しました。私は小持といいます。小持新一です」
「お子さんがおありなんですね」
「子どもはいますが、もう結婚して独立しています。子どもの子ではなく、小さいと書く小持です」
「では小さい餅と書くのですか?正月のお餅の・・・?」
「よくそう言われますが、小さいに持つです。荷物を持つという時の・・・。群馬県の地元の苗字です。渋川市に合併する前は、子持村という村がありました。村の名前は子供の子です。子持山という山もあります。小さいの小持は群馬では、少ない方です。しんいちは新しいに漢数字の一です。言葉で説明すると、ややこしいですよね。紙に書けばよかったんですが。そうだ名刺を作っておけばよかった。会社を辞めてからは名刺はもういらないと思っていました」
「うふふ。ようやく分かりました。小持さんですね。珍しいお名前ですね。私は野沢祥子です。さちは幸の字ではなく、祥です。東京の吉祥寺の祥です」
「なるほど、いいお名前ですね。それで、車で全国一周しようと思って、最初にお隣の茨城県から始めようと思いました。群馬県は海なし県なので、県民は海や広い湖に憧れます。三日前に渋川を出発して、125号線に乗って、筑波山を目指して茨城県に入り、土浦を抜けて、それから霞ヶ浦大橋を渡って、行方に来たんです。霞ヶ浦周辺で二、三日過ごすことにしたのですが、公園の駐車場は物騒だし、警備員から注意されるかもしれないので、この道の駅の駐車場に泊まっています。ここなら、夜中でも交通量があり、灯りもついているので比較的安心なんです」
「そうですか。今日は、どのへんを廻ったのですか?」
「今日は、石岡市の高浜方面です。朝早く高浜神社にお参りして、舟塚山古墳と愛宕山古墳を見学しました。それから石岡の街に行って、国衙や国分寺、国分尼寺跡も見ました。みんな遺跡ですね」
「古い遺跡がお好きなんですね」
「というか、歴史は好きですね。茨城空港にも行ってきました。空港があるのはいいですね。群馬県民としてはうらやましいです。そうそう、昨日は霞ヶ浦大橋を戻って、お城のかすみがうら市歴史博物館から霞ヶ浦の眺望を楽しみました。茨城県は広いですね。すぐ近くの水族館にも行きました」
「二日間で、ずいぶんあちこち、ご覧になったのですね。それなら、明日は西蓮寺はいかがですか。このへんでは一番古いお寺で、銀杏の大木や元寇の戦勝記念の塔が有名です。ここの近くですよ」
「おもしろそうですね。ぜひ、明日行ってみます」
「それから、潮来の長勝寺も古い梵鐘が有名です。昔、源頼朝が寄進したとか。潮来は水郷観光で有名ですが、今の季節は混まないので、ゆっくりできるでしょう」
「潮来まで行ったら、近くの鹿島神宮を見て、その足で千葉県の銚子に行くかもしれません。茨城の次は、銚子から九十九里、房総半島方面と一応決めています」
「そうですか。ではここに泊まるのは今晩限りですね」
「そうなりそうですね。おかげで予定が立ちました。ありがとうございました」
 祥子はその言葉を聞いて、名残惜しい気がしてきた。男性と親しく会話するのは久し振りだった。
 祥子は気になっていることを訊いた。
「車の旅では、お風呂はどうされるんですか?」
「そうなんです。入浴が大問題なんです。渋川を出発して以来、もう三日も風呂に入っていないんです」
 祥子は、『それなら、うちの風呂に・・・』と言いかけて止めた。いくらなんでも知り合ったばかりの男をアパートの自室に入れるわけにはいかない。そして、代わりの提案をした。
「ここから車で二十分ほどのところに、日帰り温泉があります。天王崎の白帆の湯温泉です。日中はとても霞ヶ浦の眺めがよいのですが、この時間では暗くなって、景色は楽しめないですが、入浴すればさっぱりしますよ」
「ありがとうございます。よいことを教えてもらいました。群馬県は草津温泉や伊香保温泉はじめ、温泉が多いです。茨城県は温泉が少なくて残念だったのですが・・・。さっそくこれから行ってみます」
「では、私はこれで・・・」
「あ、そうですね。つい話が弾んでしまいました。祥子さんでしたね。本当にご親切にありがとうございました。明日は潮来、鹿島、銚子方面へ出発します。これでお別れですね」
「どうぞ、お体に気をつけて。日本一周が成就できますように祈っています」
「さようなら」
 祥子はベンチから立ち上がり、一礼して、自分の車を止めている職員用駐車場へ向かった。男の視線を背に感じ、振り返りたい衝動に辛うじて耐えて車に乗り込んで発進した。
 その晩、アパートの自室の風呂に入った祥子は、小持新一と名乗った男を思い出していた。小持がいくら紳士的で良い印象でも、素性がしれない男を誘惑しようとした自分に驚いていた。
―少し冒険をしたかっただけよね。でもこれで良かった。それにしても、あの人、いくら定年になったといっても、軽で日本一周なんて・・・。子どもは独立しているそうだけど。奥様はどうしているのかしら? それとも私のようにバツイチで独身かな。それなら、思い切って誘ってみてもよかったかなあ。ああ、私ったら何を考えているのかしらー
 祥子は、そんな思いを振り払うように、浴槽に身を沈めた。
 次の日の朝、駐車場に小持の軽自動車はなかった。夕方にも無かった。祥子は、『あの人は予定どおり、今ごろ鹿島を経て、千葉県の銚子に入ったのだろう』と思った。
 その後、道の駅に小持の軽自動車に似たタイプの白い車を見ると、『もしかして・・・』と、近づいてみるが、ボデイにあのステッカーが貼ってないのを確認するだけだった。白い軽自動車は似たタイプが多く、日が経つにつれ、祥子は白い軽を見ても気にならなくなった。
                     
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 半年以上が過ぎた七月、職場の休憩時間に何の気なしに見ていたテレビ番組で、車で日本一周をしている男が紹介されていた。鹿児島港からの中継だった。
 マイクを手にしたレポーターが言った。
「群馬県から来られた小持新一さんです。小持さんは半年かけて、軽自動車で昨日、鹿児島港に着きました。小持さん、旅の途中はいかがでしたか?」
 見覚えのある小持が画面に映った。あの白い軽自動車の傍に小持が元気そうに笑いながら立っていた。
「その土地で、地元の方に親切にしていただきながら、ようやく鹿児島まで来ました」
 そのテレビ画面を見ていた同僚スタッフが驚いて言った。
「あら、あの軽じゃない?ほら、去年の秋、ここの駐車場にいた、あの車よ。日本一周のステッカーが貼ってあるわよ」
 他の同僚も言った。
「ほんとね。あの時、顔は見なかったけど、こんな人だったんだ」

 テレビレポーターが重ねて尋ねた。
「どんなところがたいへんでしたか?」
「そうですね。貧乏旅行なので、あまりお金は使えませんから、ホテルや旅館に泊まるわけにもいかず、お風呂には苦労しました。でも、日本は温泉が多いので、日帰り温泉や公衆浴場を地元の方に教えてもらって入りました」
「ちなみに、鹿児島ではどこの温泉に入りましたか」
「やはり、指宿温泉ですね。露天風呂からの開聞岳の眺めが最高でした。砂蒸風呂も初めて体験しました。疲れがとれるいい温泉ですね。よい思い出になりました」
「そうですか。これから、どちらへ向かわれますか?」
「フェリーで奄美を経て沖縄へ渡ります」
「そうですか。では、道中お気をつけて。以上、鹿児島港からの中継でした」
 次の画面に替わって、小持の姿が消えた。

 同僚が言った。
「ふーん。あれから鹿児島まで行ったんだ。日本全国を軽で旅するなんて、男の人じゃないとできないわね」
「それにしても、気楽でいいわね。奥さんや子どもはいないのかしら?こもちとかいう名前なら、子どもはいるのかもね」
そんな雑談を交わしているうちに休憩時間は終わった。同僚たちも祥子も立ち上がった。
「さあ、仕事。仕事」
 祥子は、半年前に出会った男が元気でいることに安堵した。陳列棚で、客が手にとって乱れた野菜をきれいに並べなおした。小持と少しだけ会話して、気持ちが弾んだことを思い出していた。

                    完
 

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