行方(なめがた)高校地歴部々長候補

 茨城県立行方(なめがた)高等学校二年の芹沢健人は、入学以来、クラブ活動を敬遠して、授業後すぐ帰宅する『帰宅部』だった。

「クラブ活動なんか、勉強のじゃまだよ。疲れるだけでしょ。僕は図書館から借りた好きな本を読んでいればいいっす。読書は勉強になるし」

 健人は、地歴部の部長を務める三年生の羽生麻衣に言った。麻衣は、一学期が終わって、夏休み後は部長を引退するつもりで、後任を探していた。地歴部の部員は三年生の麻衣一人と一年生二人だけで、二年生が抜けていた。麻衣は、顧問の野原洋一教諭から、読書好きで歴史の知識が豊富な健人を推薦された。

 期末テストが終わり、夏休みが迫ったある日、麻衣は健人を図書室の隣の準備室を兼ねた部室に呼び出したのだった。健人は身長約百七十三センチメートル、学校指定の半袖の白いポロシャツに折り目が付いた黒の学生ズボン姿だった。

「芹沢君が歴史に興味を持ってるってことは、野原先生から聞いてるよ。授業態度も熱心だし、テストの成績もよいそうね。だから、是非うちの地歴部に入ってほしいの」

「歴史はおもしろいと思うけど、本を読むだけで歴史の勉強になるよ」

「でも、この地域の歴史について、本に書いてあることは少ないの。だから自分たちで調べていくことが大事なのよ。現地に行って調べたり、お年寄りから聞き取ったり」

「そんなの面倒くさいよ」

「そこよ。手間ひまがかかっても、今まで分からなかったことが分かると、やったと思うじゃない? 目の前の霧が晴れて、昔の人の暮らしとかが見えてくると、現代の私たちと同じなんだとか、違ってるなとか、共感できるのよね。歴史を勉強するおもしろさね。勉強というより研究してるっていう感じかな。それは本や教科書からの勉強だけでは分からないでしょう?」

「でも、大事なことはみんな本に書いてあるでしょ。地方のことなんか、あまり大事じゃないから、本に書く人もいないわけじゃん」

 健人が理屈をこね始めたので、麻衣は攻め方を変えた。

「本に書いてあることは、誰かがしっかり調べて研究したからよ。それに地方のことを調べていけば、よその地方とのつながりや国のことがわかってくるのよ。芹沢君は、自分の名前の由来を考えたことある?」

「僕の名前? さあ? 親父から聞いたこともないし」

 麻衣は、勢いこんで言った。

「昔ね。行方地方には芹沢氏という豪族がいてね、江戸時代には、水戸藩の家来として、この辺を領地にしていたの。幕末の新選組に参加して初代局長になった芹沢鴨は、その一族の一人といわれてるの」

「ふーん。そうなんだ」

「野原先生の受け売りだけどね」

 麻衣は悪戯っぽく笑った。健人は麻衣の顔をあらためて見た。制服の白いブラウスにチェック柄のスカート姿、ポニーテールの小顔に細いフレームの眼鏡をかけた麻衣は知的な歴史好き女子に見えた。

「芹沢君が歴史に興味を持ってることは、野原先生から聞いてるの。世界史とか日本全体の歴史を勉強するのはもちろんだけど、郷土の歴史を勉強するのも大事よ。まず身近なところの歴史を調べていくのは、地域に生きていく上で大切なことよ。

私ね、野原先生の出身大学、M大学の歴史学科で勉強したくて、推薦入学をめざしているの。だから、二学期から地歴部の部長を引退して、受験勉強をしっかりしなくちゃならないの。後は後輩に引き継ぎたいんだけど、今の部員は一年生だけなんだな。だから、君をスカウトしたいんだ。どう、地歴部に入ってくれる?」

麻衣に真剣に見つめられて、健人はドキっとして、心が少し動きかけた。

麻衣は、そんな健人の心を見透かしたように言った。

「じゃ、こうしようか。夏休みに、地歴部恒例の巡検をやるの。行方地方の歴史を現地で勉強する活動よ。今回は古墳を見学して、野原先生の解説を聴くの。勉強になるわよ。それに参加してみない? 私も部長として最後の活動になるから、参加するわね。どう?芹沢君が地歴部に入部するか、しないかは、その後で決めたらどうかしら」

「うーん、羽生先輩はけっこう強引すね。じゃ、ちょっと考えさせてください」

「返事は野原先生にお願いね。巡検は野原先生の車で行くことになってるから」

                   *

 夏休みに入ってまもなく、朝からアブラゼミが鳴いて、猛暑を予想させる日、いつもの夏の制服姿の芹沢健人は行方高校の職員用駐車場に来ていた。すでに顧問の野原教諭、ジャージ姿の羽生部長、そして一年生の荒張翔太と菅谷めぐみが揃っていた。羽生部長が声をかけた。

「芹沢君、お早う。きっと参加してくれると思ってた」

「お早うございます。羽生先輩に誘われて、いやと言えませんでした」

 野原がニコニコしながら、かなり白くなった頭髪を指でかき上げ、頷いて健人を迎えた。少し黄ばんだ白の開襟シャツにグレーのよれよれのズボン姿だった。野原は、既に定年退職の身分だったが、再任用で、非常勤講師として、行方高校の日本史の授業を担当していた。

「お早うございます。よろしくお願いします」

 一年生の翔太とめぐみは、挨拶してそれぞれ頭を下げた。

 野原が、一同を見渡して言った。

「さあ、みんな揃ったから出発しよう。今日は暑くなりそうだから、無理せずに、古墳巡りは二ヶ所だけにしようか。霞ヶ浦の周辺には大きな古墳をはじめ、古墳群も各地にある。古墳は逃げていかないから、残りはまた別の日に回ることにしよう」

「じゃ先生、今日はどこを回りますか」

麻衣が部長らしく、今日の予定を確認し、健人らに伝えたかった。

「うむ、今日は、行方市沖洲の三昧塚古墳とかすみがうら市柏崎の富士見塚古墳だね。午前中に三昧塚古墳、午後に富士見塚古墳を見てみよう。両方とも大きな古墳だから、見ごたえがあるぞ」

「やったー」

「ウワー、素敵」

 翔太とめぐみが、顔を見合わせて、ハイタッチした。

「じゃ、出発しよう。みんな、僕の車に乗って」

 部長の麻衣が助手席に、健人と一年生の二人が後部座席に座った。

 野原の、かなり年季がはいった白い普通車は行方の台地下の国道に出て、北上した。左側に霞ヶ浦の湖面が光っていた。

 野原が車のハンドルを握りながら説明した。

「この国道は、縄文時代からある道なんだよ。その頃は地球が温暖化していた時代だから霞ヶ浦は内海で、海面は今よりも三から五メートルも高かったんだね。だから海水が台地下のここまで寄ってたんだろうね。波がひたひたと寄せていたんだね。縄文人はそこの砂浜を歩いていたと思うよ」

「へえー、すごーい」

「僕たちはそこを車で走ってるんですね」

 一年生たちが、感動して言った。

「うむ。その後、弥生時代に海岸線は退いていって、土砂が堆積して、湿地が広がっていったんだね。その湿地は、今は広い田んぼや蓮田、養魚池などになってるんだね。霞ヶ浦は現在、海水の遡上を止める水門が出来て、淡水の湖になってるわけだ」

 健人は、昔、霞ヶ浦が海だったということは知っていた。しかし、当時の海岸線の位置を考えたことはなかった。

「弥生時代の次は古墳時代だ。古墳時代は三世紀の後半から三百年くらい続いたんだね。弥生時代から稲作が盛んになっていくわけだが、古墳時代には米の生産量が上がって、備蓄するようになり、各地に豪族が出現したんだね」

 野原は、時々窓の外の景色やバックミラーを見ながら、説明を続けた。麻衣は助手席から、ハラハラしながら声をかけた。

「先生、運転、注意してくださいね。先生は話し始めると夢中になるから」

「うむ。ありがとう。これは教師の習性というか、宿命だなあ。それはそうと、古墳時代は各地で古墳が築かれたから、そう呼ばれるわけだが、霞ヶ浦周辺になぜ大きな古墳が多いか、分かるかな?それが今日の巡検のポイントだよ。古墳を実際に見学しながら、みんなにそれを考えてほしい。

それから、霞ヶ浦周辺で古墳を築いた豪族、つまり葬られた人、専門的には被葬者と言うけど、まあ、この辺の指導者あるいは権力者とヤマトの王権との関係を考えることも大事だなあ。そのヒントは古墳の形や古墳から出土した発掘品や埴輪にあるんだ。まだ文字があまり使われていなかった時代のミステリーだ。文字の記録がほとんどないから、想像してみるのが楽しいんだ。そこが考古学の醍醐味だね」  

 健人は野原の話を聴きながら、行方地方の見慣れた景色を見ていた。古墳時代の人は現代と同じ景色を見ていたのかなあと何となく考えた。

「先生、古墳時代と現代で、行方の景色は変わっていますか」

野原は即座に答えた。

「うむ。いい質問だね。古墳時代は、縄文時代、弥生時代の後、飛鳥時代、奈良時代の前だね。つまり、大和朝廷と天皇制が確立する前のヤマト王権から、東日本、東北地方の蝦夷を征討する軍隊が派遣されたころだ。その隊長がヤマトタケルだね。景行天皇の息子だ。ヤマトタケルは霞ヶ浦のそばの行方地方の地形を見て、何と滑らかな地形だ、なめくわしの里だと言ったそうなんだ」

「文字がまだあまり使われていなかった時代なのに、なぜ、それがわかるんですか」

「うむ。それもいい質問だね。当時は口伝、つまり、記憶のいい人が語り部として、口伝えで、昔のできごとを伝えていたんだね。その後奈良時代になって、漢字がかなり普及したんだね。そして都から派遣された国司、つまり今の県知事にあたる人が、赴任先の地方の地理、産物、伝説などを地元の古老などから聞き取り、まとめて、文章にして朝廷に報告したんだ。全国から報告書が朝廷に集まった。それが各地の風土記だね。常陸からは常陸国風土記があがってきた。それが、素晴らしい文章だったので今に残ってる。常陸国風土記を編纂したのは、国司の藤原宇合という人で、今の中国に留学した、当時のエリートだね。宇合のお父さんは日本で初めて律令を定めた藤原不比等、おじいさんは中臣鎌足だ。日本史に出てくる有名人だよ」

 麻衣が、運転席の野原を見ながら、知識を確認するように言った。 

「中臣鎌足は乙巳の変で、中大兄皇子とともに、蘇我入鹿を討った人ですね。それが大化の改新になったんですよね。先生の日本史の授業で教わりました」

「そのとおり。中臣鎌足はその功績で朝廷から藤原という姓をいただいた。後に摂関政治で権力を奮った藤原氏の祖というわけだ。実は、中臣鎌足は鹿島神宮の神官の一族の一人で、古墳時代にヤマトから常陸国に派遣されて鹿島神宮を造営した人たちの子孫にあたり、またヤマトに戻った人と言われているよ。もともと鹿島神宮はヤマト王権が東日本平定を祈願した武力の神様だから、神官たちも武人の心構えを持っていたんだろうね。鹿嶋市に、鎌足の出生地と伝わる場所に鎌足神社があるんだね」

 野原は、麻衣の日本史の知識に満足して続けた。

「藤原宇合は漢文が達者だった。その当時中国で流行していた四六駢儷体という美文調の文体で風土記を書いた。その文章が見事なので評価が高く、多くの人が読んで参考にした。写本も作られた。それでほぼ完全なかたちで、現在に伝わっているんだよ。ほぼ完本で残っているのは出雲国風土記、常陸国風土記、播磨国風土記だけなんだ。だからとても貴重なんだね。当時の常陸の国、つまり今の茨城県の様子がよく分るからね。

その常陸国風土記に、ヤマトタケルノミコトが登場するんだね。ヤマトタケルノミコトが行方に来て、一行の行状が伝説になって、口伝で伝わっていたんだろうね。ヤマトタケルの征討軍が来た時代が古墳時代にあたるんだねえ。他にも梶無川、潮来、玉里などの地名の由来もヤマトタケル軍に因んでいるんだぞ。

一年の荒張君の名前もアラハラという地元の地名から来ているはずだね。アラハラは現原とも書くけれど、今の玉造工業高校の周辺がそう呼ばれている。アラハラとは、森林や藪を切り開いて新たに開墾した土地という意味だね。新しく拓いた土地は、新治とも呼ぶようだね。土浦は、昔は新治郡土浦町だったね。ニイハリのハルというやまとことばは、明るく開けるという意味で、晴れる、畑、季節の春の語源にもなっているよ」

 翔太は、自分の名前の由来を始めて知った。

「ふーん。そうなんですね。僕の父も知らないかもしれないので、今度話してみます。」

 めぐみも自分の名前が気になってきた。

「先生、菅谷という名前は?」

「菅谷はスガヤあるいはスゲノヤから来ているはずだよ。スゲとは湿地に生える細長い植物の総称だね。イグサやアシなどの植物も含まれるね。そのスゲがたくさん生えている谷地つまり、小さな谷の地形を意味しているよ。

その谷地に原始的な水田が作られ、稲作が始まったと考えられているよ。谷地の地形は霞ヶ浦周辺の台地が雨で浸食されて、各地にたくさんあるから、菅谷は茨城の県南地方らしい名前だよ。菅谷姓は行方地方にも多いよね。戦国時代、今の土浦城の元になる居館を作った豪族が菅谷氏だから、由緒ある名前だね。菅谷氏は、筑波山麓で勢力を誇った小田氏の家臣なんだね」

 助手席で聞いていた麻衣が言った。

「古墳時代のこと、文字があまり使われていなかった時代のことが口承で伝えられて、常陸国風土記に文字で記録されたわけですね。すごいなあ。どう芹沢君、文字がない時代もおもしろいでしょう?」

「はい、ちょっとそんな気がしてきました。でもやっぱり常陸国風土記に書かれたからこそ現代人が読んで理解できるんだから、本は大事ですよね」

「まだ本にこだわってるわね。ウフフ、でもいい感じ」

麻衣が嬉しそうに笑った。

                  *

 車は四十分ほど走り、三昧塚古墳のそばの見学者用駐車場に停車した。

「さあ、到着。まず、古墳の全体を眺めてみよう」

 野原はそう言うと、生徒たちと共に駐車場の端から三昧塚古墳の形を確認した。麻衣はデジカメを構えた。一年生の二人は手帳を取り出し、教師の言葉を書き留めた。

「典型的な前方後円墳だね。右側が円墳、左側が方墳だ。比較的霞ヶ浦の湿地に近い場所に築かれている」

 古墳は傾斜面がきれいに整備され、緑の芝生が張られていた。

 健人は古墳の形が整っていることに驚いた。

「この古墳は作られた当時からずっと、この形なんですか?」

「そう思うかね。では行方市教育委員会が設置した案内板を読んでみよう」

 高校生たちは、案内板の前に立って、記載されている内容を読み始めた。

「ふーん。昭和三十年に発掘調査が行われているんですね」

 めぐみが言った。

「そう。その頃、霞ヶ浦の堤防工事にこの古墳から土取りされたので、急きょ、発掘が開始されたんだね。まだ文化財保護法も整備されていない時だったんだ。ぎりぎり間にあったんだね。その時に調査を依頼されたのが、M大学の大塚先生らだ。そのときはまだ若手研究者だった。今は名誉教授だね。大塚先生らは地元中学生を何人か、アルバイトに雇って掘り始めた。既に盗掘に遭って埴輪などは持ち去られたものが多かったので、大塚先生らもあまり期待していなかったようなんだけど、実際に掘ってみると、素晴らしい副葬品が次々に出土したんだね。副葬品というのは、葬られた人に関係する品々が一緒に埋葬されたものだよ」

「それが、この案内板の写真の馬型飾付金銅冠や剣や垂飾付耳飾なんですね」

 麻衣が淀みなく言った。

「さすが部長。その通り。被葬者の人骨も見つかってるよ。発掘品は、今は水戸の県立歴史館に収蔵されている。ほら、これがその写真だ」

野原は持参した図録のページをめくった。野原を囲んで四人の高校生が覗きこんだ。

「この図録は、数年前に茨城県立歴史館で、この古墳に関する特別企画展が開催された時のものなんだけどね。発掘調査を担当した大塚先生の手記をはじめ、出土品、周辺の関連古墳、隣県の東日本の古墳についての記述などが載ってるんだ。いろいろ勉強になるよ。あとでじっくり読んでみるといい。ほら、これが馬型飾付金銅冠の写真だよ。それを復元したものが、この写真のレプリカだけど、金ピカに輝いているだろう?」

「本当に綺麗ですね」

 麻衣が感激して言った。

「では、古墳の頂上に行ってみよう」

野原は先頭に立って、古墳の側面に設置された急階段を登り始めた。高校生らも後に続いた。

 頂上に着くと素晴らしい眺望が開けた。すぐ近くの水田の向こうに広大な霞ヶ浦が見えた。円墳の方の頂上が整備され、発掘された石棺や副葬品の位置が分かるように、レイアウトが施されていた。

「被葬者の頭の近くに、馬型飾付金銅冠、鎧、直刀などが置かれていたんだよ。それらから、この被葬者がどんな人だったのか推定できるんだね。どんな人だと思う?荒張君」

 急に指名されて、翔太はどぎまぎした。

「はい、この辺の偉い人、村長さんのような人ですか?」

「うむ。そうだね。今の市町村長は選挙で選ばれるけれど、当時はやはり、代々、この地方の指導者、特に稲作を指導して、米がたくさん獲れるように皆をまとめあげる力を持った人。田んぼの作り方、田んぼに水を引く水路の作り方、田植え、除草、稲を刈り取り、それを保存する方法を指導できる人だよね。それに皆から信頼され、人望がある人だろうね。

さらにヤマト王権に服従し、認められた人だったかもしれない。なぜなら、前方後円墳という古墳の形はヤマト、つまり大和の三輪山の麓、今の奈良県桜井市の方から日本各地に広まったと考えられているんだよ。つまり小さな集落であるムラのムラオサよりも、さらに大きなクニを治める豪族だったのではないかな。クニといっても常陸の国全体ではなく、今の茨城県南東地方あるいは行方地方をカバーするクニを治めていた一族かもしれないね」

「当時、こんな大きな古墳を作るのは大変な工事ですよね」

 健人は三昧塚古墳全体の大きさに驚いていた。

「芹沢君は、どのようにして作ったと思う?」

「今のような建設重機がないわけですから、人力で造るしかないですよね。そのうち、作業を指揮する人は、完成した全体のかたちをイメージすると思います。設計図はあったんでしょうか?」

「なるほど。グッド・クエスチョン。今の建築工事や土木工事では設計図は欠かせないね。設計図を見て、作業責任者、今でいえば現場監督が作業を指示し、作業従事者が自分の役割を知り、どの部分を担当するか理解して、協力して作業を進めるわけだ。古墳時代は紙はないが、木の板や竹の板あるいは地面に設計図を描いて、皆に全体像を示した可能性はある。しかし、木や竹の板はその後、腐って無くなるし、地面に描いた図も消えてしまうから残らないよね。それと、その図面を描いた人、今で言えば設計者あるいは技術者は、ヤマトから派遣された人、あるいはヤマトまで古墳作りを学びに行って、地元に帰ってきた人かもしれない。ところで、一緒に埋葬された、この冠の特徴は何か。どうだね、芹沢君?」

「はあ、やはり、この馬の形の飾りですか?」

「そう、この馬型の飾りが付いた冠は非常に珍しいもので、他の古墳からの出土例は少ないんだ。少なくとも県内の古墳では出ていないね。群馬県の古墳からは馬具の飾りが出土した例はある。当時、馬は朝鮮半島から渡来した、人間の役にたつ貴重な家畜だ。大事にされていた。戦さで大将が乗るだけでなく、田起こしなど農耕で目覚しい働きをしてくれるからだね。馬の世話や繁殖の技術を持った渡来人の子孫たちの集落が当時のかみつけの国、つまり今の群馬県にあった。それが群馬の名前の由来なんだね」

めぐみがすかさず言った。

「今の群馬県のマスコットキャラクターは、馬のかたちのぐんまちゃんですよね」

「ということは、この冠は地元で作られたものではなく、群馬の方、または朝鮮半島で作られた可能性もあるんですか?」

「かもしれないね。この繊細な飾りは、当時の地元では作れなかった可能性があるね。材質の金銅というのは、銅に金をメッキしてるんだが、金は水銀にいったん溶かして、それを銅板の表面に塗り、その後、高温で水銀を蒸発させて金を銅の表面にメッキするという技法なんだけど、そんな高度な技法は、当時の行方にはまだなかったと思うね」

「先生、私は別の疑問があります」

 麻衣は部長らしく、思慮深い質問をした。

「この冠のほかにも、直刀、冑、鎧も同時に埋葬されていますよね。それらは当時、とても貴重なものだと思うんです。現代の人なら、貴重品は子孫が遺品として受け継いで大切に保管すると思うんです。古墳時代に、死者といっしょに埋めてしまうというのは、どんな風習というか、習慣なんですか?」

「さすが、部長。鋭い質問だね。それについては文字記録がないから、よく分からない。単純に考えれば、亡くなった人物は、皆の尊敬を集めた人だから、できるだけ華やかな葬送の儀式を執り行ったのかもしれない。当時の人々の死後の世界観が現代人とは違っていた可能性がある。

死者が死後も黄泉の世界に生きて活躍できるように、副葬品をたくさん埋葬したのかもしれない。あるいは平和な時代になったので、武器や武具は不要だからと死者とともに埋葬したのかもしれない。さらに、後世の人へのタイムカプセルとして、古墳時代を知ってもらうという、卓越した時間間隔というか時代感覚があったとしたら、古墳時代の人はすごいなあ。尊敬できるよね。おかげで我々が古墳時代を勉強する手がかりになっているんだからねえ」

 野原の説明を聞きながら、健人は、自分が古墳時代にタイムスリップして、当時の人々とともに考えているような不思議な感覚になった。さらに、生徒たちのいろいろな質問に、断定的に知識をひけらかすのではなく、丁寧にいろいろな説や可能性を客観的に説明する野原教諭に、尊敬の気持ちを感じた。

野原が続けた。

「この古墳の周りには、たくさんの埴輪が並べられていたそうだ。しかし、考古学ファンの人たちが持ち去って散逸してしまったものが多いんだ。でも近くの大日塚古墳からは、サルの上半身をかたどったユニークな埴輪が出ているよ。それはお母さんザルで、子猿を背負っていた痕跡があるんだ。ということは、当時はこの地方にサルが棲息していたことを示している。素晴らしい埴輪だね。東京の上野の東京国立博物館に展示されているんだ。上野に行けば見られるよ。ところで、もうお昼が近いね。次の富士見塚古墳へ向かうか」

「はい。よろしくお願いします」

「途中、みんなで昼食を摂りたいね。コンビニ弁当やパンより霞ヶ浦ふれあいランドのレストランで食べよう。めったにない機会だから私がご馳走しよう。いろいろ話もできるしなあ」

 高校生たちは、駐車場の車に戻り、野原は再びハンドルを握った。

                    *

 三十分ほどで野原の車は、霞ヶ浦大橋のたもとにある霞ヶ浦ふれあいランドの虹の塔のそばにあるレストランの駐車場に到着した。

 レストランに入り、それぞれがメニューを見た。

「みんな。食べたいものを注文していいぞ。若いんだから遠慮するな」

「先生。太っ腹」

 麻衣が軽口を叩いた。

「なあに、若い君らが郷土の歴史を勉強してくれているんだから、ご馳走するのは先輩としては当然だよ。若い人は食欲旺盛だから、麺類よりも霞ヶ浦の恵みの料理がいいかな。といっても、あまりメニューに無いなあ。まあ、ワカサギのテンプラ定食、コイのから揚げ定食、アメリカナマズのみそ汁、川エビのかき揚げ、佃煮の盛り合わせあたりかな。芹沢君はどうする?」

「はあ、ありがとうございます。では、ワカサギのテンプラ定食をいただいていいですか」

「もちろん。一年生は?」

「ぼくは、コイのから揚げ定食。ご飯大盛り」

「あたしは芹沢先輩と同じ、ワカサギ定食」

「部長は?」

「そうですね。あたしは、うどんに川エビのかき揚げで」

「そうか、では僕も、あっさりした川エビのかき揚げでうどんにしよう。それに佃煮の盛り合わせだね」

 注文料理が決まったので、野原は店員を呼んで、オーダーした。

「ところで、芹沢君は地歴部の巡検には初めての参加だけど、どうだね。おもしろいかね?」

 野原は、麻衣から、必ず健人を地歴部に引き込むために、先生も協力してほしいと要請されていた。

「はい、実際に古墳を近くで見たのは初めてです。いろいろな副葬品が発掘されていたので、面白いと思いました。実物を見たくなりました」

「三昧塚古墳から出土した冠や直刀などは、県立歴史館に行けば見られるね。本物をまじかに見ると、やはり感激するね」

「へえー。マジっすか。先生でも」

「そりゃそうよ。本に書いてあることも大事だけど、本物を見ることはもっと大事よ。昔から百聞は一見にしかずというでしょ」

 麻衣が部長らしく、得意気に言った。

「あはは、そうだね。僕は、君たちと同じ高校生時代に古墳の研究をしたくなって、M大学の歴史学科に入って、大塚先生の研究室で卒論を書いたんだ。大塚先生は教授になったばかりで、いきいきと学生の指導をしてくれたんだ。僕はM大学を卒業して茨城県に戻り、教師になったというわけだ」

「私がM大学に入って、歴史を勉強すれば、古墳研究の三代目っていうことになりそうよ」

 麻衣が話を引き取ると、一年生の二人は頷きながら、尊敬の眼で野原と麻衣を交互に見た。

「それには、芹沢君が地歴部に入部してくれないと、安心して受験勉強に打ち込めないのよ。私がM大学に合格するかどうかは、芹沢君にかかっているのよ」

「エー、僕次第っすか」

「まあ、それは半分冗談だけど、後の半分は本気よ。真面目な話に戻ると、実際に地域の歴史を研究するのはとても素敵なことなの。自分や両親や祖父母や、地域に暮らすみんなは歴史を受け継いできたからこそ、今があるんだよ」

「そうだな、若い人は現在や未来のことばかり考える。もちろん、それも大事だ。しかし羽生部長が言うように、時間の流れで言うと、現在というのは大地の表面のようなもので、その地面の下に過去の長い歴史の蓄積があるんだ。過去を学ぶことによって、現在から未来に向けてのメッセージを読み取ることが出来るんだね」

 健人は、野原と麻衣がいきいきとした表情で語ることに惹きつけられ、少しずつ気持ちが動いてきた。

 店員が注文した料理を運んできた。

「お待たせしました。ワカサギのてんぷら定食です」

「あ、僕です」「あたしです」健人とめぐみが言った。

「コイのから揚げ定食、大盛りです」

「あ、それ僕」翔太が手を挙げて言った。

「川エビのかき揚げうどんです」

「はい、あたし」麻衣が嬉しそうに言った。

「僕も、かき揚げのうどんだったね」

 最後に野原が落ち着いて言った。

「霞ヶ浦のそばのレストランとか食堂では、なるべくこんなふうに霞ヶ浦の食材で調理したメニューを出してもらいたいもんだね。霞ヶ浦の恵みを住民が実感できるからね。若い人は肉が好きだ。それもけっこうだが、霞ヶ浦の水産物の味を受け継ぐためにも、伝統的な川魚料理を食べるべきなんだ。それが食文化を受け継ぐということなんだ。おっと長話はこれくらいにして、さあ、食べよう。せっかくの料理が冷めちまう」

「いただきます」

 皆が声を合わせて、食べ始めた。

「このワカサギのテンプラ、揚げたてでサクサクして美味しい」

「味は少し甘い感じです」

「コイのから揚げ、あっさりして美味しいです。鶏のから揚げとは違う食感です」

「かき揚げの川エビは小さいから、そのまま食べられて美味しい。うどんに合います」

「そうだね。うまいね。これこそ、霞ヶ浦のサチだよ。サチは、古代語ではサツで、獲物のことだね。つまり、霞ヶ浦のめぐみのことなんだね。サツが採れれば幸せだから、サツがサチになり、幸福の意味になったんだね。この佃煮の盛り合わせも食べてみて」

「あー、この佃煮、何かな。エビみたいだけど、ずいぶん小さい。甘塩っぱくて美味しい」

「それはイサザアミの佃煮だね。霞ヶ浦が海だった頃の名残りで、今もアミが獲れるんだね。地元の人は、アミの佃煮を、一口万匹と呼ぶ人もいるよ。」

「へ~え。おもしろーい。先生、こっちの佃煮はなんですか?」

「それは、ゴロだ。つまり小さいハゼ類だ」

「この佃煮はワカサギですね」

「そうだね。まだ夏の初めだから、ワカサギが小さいけど、頭から食べられるから、カルシウムの補給になるんだね。霞ヶ浦周辺に住むお年寄りは、子どもの頃からワカサギやゴロの佃煮を食べているから、骨が丈夫なんだ。それに頭が良くなるEPAやDHAも豊富だそうだ。」

「へー、そうなんですか。頭、良くなりたいから僕も食べようっと。」

 皆は口々に感想を言い合いながら食べた。

「ふうー。お腹いっぱい。先生、ごちそう様でした」

「ごちそう様でしたー」

「なんの、なんの。若い人の食べっぷりは爽快だね。ごちそうした甲斐があるね」

 レストランの客は、平日のためか、昼時なのに、それほど多くなかった。野原は店内を見渡して言った。

「もっと、お客が入ってもいいんだがねえ。観光客で賑わうようになればいいけど、まず地元の人が食べにきてくれないものかなあ。地元の食材で、それに伝統の味付けで調理した料理を味わうことは、地元の文化や歴史を大切にすることにつながると思うよ。でも、それを若い人に要求する前に、我々、中高年が、霞ヶ浦の恵みについて考えて、そのすばらしさを発信すべきだ。今は年寄りでも霞ヶ浦のことをあまり考えていないからねえ」

「先生は、若い時はどうだったんですか」

 健人が思い切って聞いた。

「僕は、高校生の頃、既に若年寄っていうあだ名を、周りからもらっていたんだよ。地域の歴史、日本史、世界史と、あらゆる歴史に興味を持ったんだ。だからもっぱら友達との会話では歴史の話ばかりするので、年寄り臭いって言われたもんだ。僕は行方高校の君らの先輩にあたるし、実のところ地歴部は、当時の先生方と相談して僕が創ったんだ。その頃も部員集めに苦労したなあ」

「地歴部も歴史があるんですね」

 健人は、地歴部が意外に古い部活動であったことに感心した。

「そう。野原先生は地歴部の大先輩なのよ。だから私も、先生が卒業したM大学に進学して歴史学を研究したいんだ。歴史の研究では、本を読むのは大事だけど、それは基礎的な段階よ。本に書いてあることは歴史研究の成果でしょ。つまり誰かが研究してくれた結果に過ぎない。その結果が正しいかどうかは、本を読むだけでは分からない。だから、私はそれを確かめる研究者になりたいの。実際に古墳とか貝塚とかを科学的な方法を使って研究したいのね。科学的な研究方法を身につけるには、大学で勉強するのが近道だと思うよ」

「歴史の研究って、文系だと思っていたけど、理系もあるんですか」

 一年生のめぐみが不思議そうに聞いた。それに野原が応じた。

「そうだね。僕は、学問を理系とか文系とか安易に分けすぎると思ってるんだ。実際に考古学研究の現場に行くと、古墳の形の精密測量、発掘品の年代測定、成分分析、電子顕微鏡写真の画像処理とか、科学的な手法が使われているね。だから、自分は文系だから、測定機械の操作は苦手と言っていられない状況になってるよね」

 今度は翔太が聞いた。

「先生。でも、行方高校では三年生になると、理系クラスとか、文系クラスとか、芸術クラスとか、大学進学に備えて、選ぶようになっていますよね」

「うーん。痛いところを突いてくるね。でもそこが大事なところだ。つまり、大学での勉強そのものが細分化されてるからだね。理系の学部、文系の学部、芸術系の学部などだね。理系でも、医学部、薬学部、農学部、工学部、理学部とかね。文系も法学部、文学部、経済学部、商学部とか。最近では、環境学部とか国際学部のように横断的な学部名をつけるところもあるけどね。

四年間勉強して大学を卒業すると、会社や役所の各部署、に配属されて、いわゆる社会の歯車になって働くようになる。それになじめない人が退職してしまうと、後はアルバイトのような非正規の仕事しかなくなり、さらに社会の歯車の下請け仕事に就くしかない場合が多いなあ。歯車になるのがイヤで転職するほど、歯車の仕事しか回ってこない。悪循環に陥ってしまう。

すごく優秀で運が良ければ、転職し独立して、高収入を取る人がいないわけじゃない。といって、フリーランス、つまり自営で仕事を始めて成功するのはたいへんなことだ。まあ、あまり言うと、君らの夢を潰してしまいかねないね」

「歴史の研究を一生の仕事にするのはたいへんなんですね」

麻衣がポツンと言った。

「僕も若いころは歴史学の学者になりたいと思ったこともあったが、家が貧乏だったので、とりあえず暮らしていかなければならないから、教職の単位を取って、大学卒業時に、茨城県の教員採用試験を受けて、たまたま受かったから教師になった。

教師になって、郷土の歴史の研究を細々と続けてきたけれど、学校というところは雑用がすごく多いところなんだ。研究成果をまとめて本を書くのが夢だったけど、なかなか難しくて進まなかった。地方史の研究会の雑誌にレポートを載せてもらうのが精一杯だったなあ。

あまり夢がないことを言ってしまったなあ。君らは自分のやりたい目標に向かって、一歩一歩、頑張ればいいんだ。諦めなければ夢が叶う可能性が高くなる。ドリームズ・カム・トルーだ」

 高校生らは、野原の話に神妙な顔で聞き入った。

「いやあ、シーンとしてしまったなあ。ごめんな。じゃお勘定して、富士見塚古墳に向かうとしようか」

「はい、先生。ごちそう様でした」 

                   *

 健人たちが乗り込んだ野原の車は、霞ヶ浦大橋を渡った。右側に高浜入りの水域と、その向こうに筑波山が見えた。水平の湖面に屹立する筑波山の稜線が際立っていた。左側では、広大な霞ヶ浦の湖心方向の水面に鯉の網生簀養殖場が見えた。真夏の昼下がりで湖面を吹き渡る風は弱く、波はほとんどなかった。遠くの対岸に入道雲が見えた。

 野原がまた運転しながら説明し始めた。

「この高浜入から見る筑波山が一番美しいと言われているね。行方地方に生まれ育った人は、この風景を毎日見られるから幸せだ。この風景は縄文時代や古墳時代から変わらないから、常陸国つまり茨城県の南部に住む人の心の原風景というわけだね。古墳を築いた人々も毎日見ていたんだろうね」

「先生、橋の上ですよ。対向車にも気をつけて。脇見しないで。恐いです」

 麻衣がハラハラしながら言った。

「ああ、ごめん、ごめん」

 野原は霞ヶ浦大橋を渡りきると、次の交差点を右折した。

「向こうに見える丘の上に富士見塚古墳があるんだ。その下は菱木川が流れていて水田が広がっている。霞ヶ浦の湖岸近くの低地も水田だね。その水田稲作を指導した豪族のお墓が富士見塚古墳かもしれないなあ」

 車は菱木川にかかる小さな橋を渡った。

「このへんは、かすみがうら市の柏崎というところだ。昔、霞ヶ浦の水運が盛んだった頃には、河岸つまり小さな船着き場があったんだよ。江戸時代や明治時代には高瀬船が入って、薪の束や米俵を積み込んだんだね」

 車はまもなく、「富士見塚古墳資料館」と看板が出ている駐車場に停まった。

「さあ、富士見塚古墳公園に着いた。資料館の展示は後で見学することにして、まず、古墳を見てこよう。資料館の裏の階段を登るんだ」

 野原は先に立って、階段を登り始めた。階段にアブラゼミが死んで転がり、アリが群がっていた。

初老の野原は息が切れてきたが、高校生たちは元気だった。階段を数十段登ると、丘の上に出た。木立をくぐるとすぐ、目の前に古墳が見えてきた。健人が想像していたよりも大きな古墳が三基あった。斜面は芝生が張られていたが、かなり急角度だった。

「古墳の向こう側に回ってみよう。説明板があるんだ」

 野原は高校生たちを案内した。そこにある説明板には富士見塚古墳の詳しい説明文が書かれていた。

「この大きい方が富士見塚一号墳だ。発掘調査が行われて、副葬品が出土してる。出土した埴輪が資料館に展示されている。被葬者つまりここに葬られた人が誰なのかは分からないが、当時の集落の人々から尊敬された有力者だったんだろうね。古墳のかたちはやはり前方後円墳だから、ヤマト王権の古墳の造り方にならっているので、ヤマトの影響はあるだろうね。では頂上に登ってみよう」

 野原と高校生たちは、夏の日差しが照りつける中で急な階段を登った。頂上に着くと、眼下に眺望が開けた。高浜入りの霞ヶ浦の湖面が広がり、筑波山が遠くに見えた。めぐみが嬉しそうに言った。

「いい眺めですね。埋葬された人が霞ヶ浦を眺められるように、こんな高台に古墳を作ったんですか。先生?」

「それはありえるね。この古墳の軸線、つまり方角を見てみよう。南の方は鹿島神宮、北の方は筑波山を向いているが、真北と真南ではないんだ。鹿島神宮と筑波山を結ぶ軸線の上に、この古墳が築かれているんだよ。

筑波山は神の山なんだね。両方の神に敬意を表しているかたちなんだ。鹿島神宮は、ヤマト王権が東国開発の成功を祈願した神社なんだ。そこから考えれば、古墳の形を見ても、この古墳はヤマト王権の大きな影響の下で造られたんだろうね。午前中に見学した三昧塚古墳も実は、筑波山と鹿島神宮を結ぶ軸線上に造られているんだよ」

 健人は古墳の形について質問したかった。

「先生。前方後円墳の形は、何か意味があるんですか」

「その質問がきっと出ると思っていたよ。前方後円墳は日本独特の形なんだよ。後円部には被葬者が埋葬されているんだ。それに対して前方部は祭壇と考えられているよ。つまり祈りを捧げる場所だね。古墳の形を考古学では墳形というんだが、それは地域で違ったり、時代で違ったりしている。古墳時代の初期に造られた古墳は、丸い円墳だけ、四角の方墳だけということもある。

また後円部に対して前方部が小さい帆立貝型古墳もある。おそらく、この帆立貝型古墳の前方部が大きくなった形が前方後円墳ではないかと考える研究者もいるね。つまり当時、次第に祭壇部が重要視されてだんだん大きくなったのかもしれないよ。この形式のうち、ヤマト王権式が大型前方後円墳だよ。

邪馬台国の卑弥呼の墓という説が有力な、奈良県桜井市にある纏向遺跡の近くにある箸墓古墳が、最初の大型前方後円墳なんだ。弥生時代の最後、あるいは古墳時代の初期にあたる三世紀の半ばに築造されたことが最近の研究で分かってきたんだよ。

 その後、仁徳天皇陵と伝わる百舌鳥古墳群の大仙古墳のような巨大前方後円墳が造られ、東日本をふくむ各地に大型前方後円墳築造が続くんだ。つまりヤマト王権の勢力範囲が拡大していったことを示すと言われるようになってきたんだね」

 野原の説明を聞いて、健人は、まだ文字が使われていない古代の、日本の国の形が整えられていく様子が見えるような気がした。

 続いて翔太が質問した。

「この古墳からは何が出土したんですか」

「うん、この古墳からは、いろいろな埴輪が出土してるんだ。円筒型の埴輪はもちろん、人物、動物、家などを模した埴輪、つまり形象埴輪というんだが、それらが出たんだね。それらは、資料館に展示してあるから、この後ゆっくり見てみよう」

「日差しは強いけど、風が吹いてきましたね。気持ちいい」

麻衣が霞ヶ浦の高浜入を見ながら言った。

「霞ヶ浦では、午後になるといい風が吹くね。この風で漁師たちは、明治時代から帆引船を操業して、ワカサギやシラウオを獲ったわけだ。今、帆引船は観光用に運航されるだけだけどね」

 健人の額には、汗が噴き出していた。持参のハンカチで汗を拭いながら言った。

「となりにも、古墳がありますね。別の人が葬られているんですか」

「ああ、そうだね。誰かははっきりわからないけど、家族の人かもしれない。こちらの古墳の主の妻とかね」

 健人は埋葬された古墳時代の人、大きな古墳を作った人の関係を考えた。

「こんな大きな古墳を作る作業はたいへんだったでしょうね。建設用の大型重機がないんですから。人力で造ったんですよね」

「そうだね。おおぜいの人が作業に従事したんだろう。いやいやながら仕方なく仕事したんだろうか。それとも喜んで仕事したんだろうか。報酬はあったんだろうか。もし、あったなら何が報酬だったのか。考えると興味つきないねえ」

「やっぱり、弥生時代に始まった稲作が古墳時代に盛んになって、米がたくさん収穫できるようになったから、村が豊かになったんじゃないですか。報酬は米だったかもしれないですね」

野原は健人の推理に驚いた。

「芹沢君、なかなか歴史のセンスがいいね。実は僕もそう考えているんだ。古代エジプトのピラミッドや秦の始皇帝陵は、戦争の捕虜や罪人を奴隷として強制労働させて築いたという説が昔は有力だったんだけど、今は農作業が暇な時期の失業対策事業として、農民を動員して、食糧などを支給しながら、作業させたのではないかと言われているんだ。

日本のこの時代にはすでに米が主食になっていたかもしれないね。収穫した稲は稲束、または稲籾として、村の共有の貯蔵蔵で保存しておき、古墳を造る工事に携わったムラビトに報酬として配ったのかもしれない。つまり、古墳築造は、農業収穫物の再配分のための仕組みだったと考えることもできるね。

農作業は共同で行い、収穫物は私物化しないで地域共有の財産として共有しておき、古墳築造作業後の報酬として再配分した可能性があるんだね。つまり、原始共産制のような形態だったのかもしれないよ」

 健人は肯きながら、自分の疑問を言った。

「先生、そうすると、当時の人はみんな平等だったのですか」

「うん、基本的には階級はなく、村を構成する村人のほとんどは平等だったと思われるけれど、差別はあったかもしれない。たとえば、古くから住んでいる人と、最近引っ越してきた新住民との間には、摩擦のようなものが起きやすいからね。さらに、よく働く人と怠け癖がある人では、収穫物の分け前に差があったかもしれない。

また、直接農作業に携わらない職人、つまり稲刈りに使う鉄の鎌などの農具を作る職人にも、その専門的な技術を正当に評価して、食糧である米を配分する必要があるからね。

みんなから尊敬されるムラオサのような指導者が亡くなれば、嘆き悲しむだけでなく、指導者の理念を受け継ぐことが大事になるよね。それは、後を継ぐ次の指導者にとって、自分の正統性を村人に意識づけ、ムラが争うことなく、平和が続くように、仕向ける必要が出てくる。

日本の古墳時代の古墳も、そういうふうにして、集落の住人たちが、恩人である指導者やムラオサを丁寧に埋葬するだけでなく、功績を讃える記念として大きな墓を造って、子孫が大事にするようにという意味が古墳に込められているのかもしれない。

その恩人は、ヤマト王権から、稲作のやり方を伝える技術者のような人を招いて、地元の人々に教えたのかもしれない。その過程で、ヤマト王権への恭順を示すだけでなく、地域の人々の共同体意識、つまり連帯感を形成していく上で、ヤマト様式の巨大な前方後円墳造りは大事なイベントだったのだろうね。

そう考えると、千五百年後に生きる現代の我々の考え方に通じることになるね。人間の考え方の基本というのは、千年や二千年では変わらないのかもしれない。また、今の天皇家に続いていくヤマト王権の基盤が確立していった時代と考えれば、全国的に何か共通するものがあるのは不思議じゃないのかもしれない。そんなことに、若い芹沢君が気づくのは大したものだ」

「先生に誉められると何か嬉しいっすね」

 麻衣は傍で聞いて、「先生、その調子。芹沢君が入部するように、その気になるように、その調子でおだてて」と内心思った。

「さあ、かなり日差しが強いから、下へ降りて、資料館の展示室で、ここの古墳から出土した埴輪などを見学しよう」

 そう言って、野原は先に階段を降り始めた。

                     *

 富士見塚古墳資料館内はエアコンが効いてヒンヤリしていた。めぐみが言った。

「わあ。涼しい」

 受付で野原が代表して来館者名簿に記入した。入館料は無料だった。展示室はやや広い一室だけだが、出土品やパネル写真がレイアウトされていた。中央には、富士見塚古墳出土品として人気がある形象埴輪が大きなガラスケースに収められていた。

「この動物の埴輪は鹿ですよね」めぐみが聞いた。

「そう、鹿だね。昔はこの辺にも鹿が棲息していたんだね。埴輪の表面に鹿の子模様がよく残ってるよね。赤い色はベンガラで出しているんだ」

「ベンガラって何ですか」

「酸化鉄の一種だよ。つまり鉄サビだね」

「今の小学生の作品みたい」

「はは。そうだね。古墳時代の人の素朴な造形感覚が分かるような気がするね」

「そのころは、このへんにも鹿がいたんですか」

健人が聞いた。

「うむ。鹿島神宮の神鹿、つまり鹿はもともと野生の鹿だよね。実は常陸国風土記に霞ヶ浦の湿地に住む鹿のことが書いてあるよ。その肉は霜降りで美味いと書いてあるんだ」

「へえ、昔の人はグルメだったんですね」

「まあ、そうだね。当時の人は霞ヶ浦の海のサチ、台地の山のサチに恵まれて暮らしていたんだろうねえ。昼食の時にも言ったけれど、サチというのは、縄文語でサツ、つまり獲物、食べ物、自然の恵みの意味なんだ。それから、この家のかたちの埴輪も見てごらん。素朴だけど当時の人々が住んでいた住居のかたちが分かるから貴重な資料だね」

「先生、私、前から疑問に思っていたんですけど、古墳からたくさん出土する円筒型埴輪って、どんな意味があるんでしょうか」

麻衣が神妙な口調で言った。

「羽生君、なかなかいい質問だ。確かに古墳から一番数多く出土するのが円筒埴輪で、形がよく似てる。古墳時代の人はなぜ円筒埴輪を多く作ったんだろうか。その前に、羽生君、円筒埴輪は、古墳のどの位置から出土する例が多いかね」

「はい、古墳の周りです」

「そうだね。古墳の周りには浅い溝や深い濠つまり掘割が古墳を囲むように掘られていることが多いんだが、その溝の縁に沿って、一列に円筒埴輪が並べられていたようなんだ。  

つまり、埴輪は土に埋められていたんじゃなくて、地表に並べられていたんだね。それが長い時間を経て、割れたり壊されたりして、破片になって土に埋まってしまっていたものが、現代になって発掘され、復元されているわけだ。

ところで、羽生君の名前のハニとは粘土のことを意味するんだよ。ハニュウとは、粘土を産する土地という意味なんだよ。ハニ師は粘土を捏ねて土器、須恵器、陶器、磁器を作る技術者、職人のことだ。

ある説では、古墳自体も、ハニ師の指導のもとに作られたのではないかという人もいるよ。だから、羽生君の先祖は縄文時代や弥生時代、あるいは古墳時代に土器や埴輪を作っていたかもしれないよ。さらに古墳そのものを作る技術も持っていたかもしれないね」

「えー、私の御先祖様が、この埴輪や古墳をつくったかもしれないんですか。そういえばハニワってハニから来ているんですか、先生」

 野原は大きく頷いて言った。

「おそらくそうだね。ところで、円筒埴輪が並べられていた位置を考えると、結界を意味していたんじゃないかと考えられているんだね」

「ケッカイですか」

「結界というのは、分かりやすく言えば、神社の鳥居と似ていて、聖なる世界あるいは死者の世界と生者の世界の境界線だね。死者の世界は黄泉の国と呼ばれて、静寂で神聖なものだから、生きている者はうかつに侵入してはならない場所ということを示すのが結界であり、円筒埴輪を並べた線ではないかという説が有力なんだね。

それから円筒埴輪を台として、その上に家や動物や人物の埴輪が乗っているかたちのものがあるんだ。だから他の形象埴輪の台として、作られたものもあるんだろうね。円筒埴輪の下半分は地面に埋められて固定されていたんだね。

僕は、群馬県の高崎市にある『かみつけ野はにわの里公園』で、大きな八幡塚古墳の周りに円筒埴輪や形象埴輪をたくさん並べて、古墳時代の風景を再現している野外展示を見学したことがあるんだけど、当時の雰囲気が分かってとてもよかったね。書物もないし、現代のように映像資料もない時代に、埴輪を作って、後世の人に自分たちの姿や生活ぶりを伝えたかったのかもしれないね」

「僕は人物埴輪がおもしろいと思います。女性の埴輪、兵士の埴輪、力士の埴輪まであるんですね」

 健人は埴輪に魅了されたようだった。

 野原はそんな芹沢に相好を崩して言った。

「ほお、いいね。その通り。たしかに人物埴輪の服装、髪型、身につけた装身具も表現されているから、その人の身分や役割が分かっておもしろい。まさに、写真も文字記録もない時代からの贈り物だね。タイムカプセルの中に収められた貴重な資料と言っていいね」

「教科書には、古墳時代のことはあっさり触れているだけですよね。飛鳥時代や奈良時代のことはかなり詳しく出てきますけど、古墳時代のことは少し書いてあるだけです。埴輪の写真が載ってることもありますけど、代表的な一枚くらいです。

もっといろいろな古墳や埴輪の写真を載せれば、高校生でも興味を持つと思うんですけど。美術的にもすばらしいんじゃないですか」

 麻衣は健人の意見を聞いて、「この巡検に誘ってよかった、やった」と思った。それでも冷静に言った。

「芹沢君。どう?教科書や本で勉強するだけじゃなく、現地に行って実物を自分の目で見ることは大事でしょ」

「はあ、羽生先輩が言われることが、だんだん分かってきました。今回参加させてもらってよかったです」

 野原が歴史教師らしく、柔和な表情で付け加えた。

「まあ、いろいろな古墳や埴輪については、古代史の本や博物館、資料館の図録にかなり詳しく書かれているんだけど、専門用語が難解で、高校生では読解しにくいことは確かだ。一般市民や若い人でも分かる、易しい言葉で書くことが課題だね。子ども向けに、漫画や絵本形式で解説している本が出ているのは良いことなんだが、高校生や一般の人向けの解説本が不足していることは否定できないねえ。一般人にもっと古墳時代に興味を持ってもらうことは大事だよ。古事記や日本書紀に描かれている神話の世界は古墳時代が背景になっているんだからね」

「先生も頑張ってくださいね」麻衣が野原の奮起を促した。

「あっはは。そうだねえ。専門学者にも期待するけど、高校の歴史教師も頑張らないといけないのは、羽生君が言うとおりだ。まだ老け込む歳じゃないから、もうひとがんばりするか。羽生部長。ありがとう」

「どういたしまして。芹沢君、今回の巡検に参加してくれてありがとう。どう、あらためて感想は?」

「古墳って、教科書には詳しく書いてないけど、意外におもしろいんだなあと思いました」

 麻衣がたたみかけた。

「どんなところが?」

「羽生先輩って、テレビの新人アナウンサーみたいっすね。若さに任せて何とか使えるコメントを無理やり引き出そうとしてるみたいな」

「ウーン。君も、痛いところを鋭く突いてくるなあ。まあ、それはともかく、何処が、どう、おもしろかったかなあ?」

「そうっすね。まず発掘品からいろいろ推理して、古墳時代の人の考え方、感じ方、暮らし方、自然観というか、世界観、ヤマトとの関係とかが想像できるところっすね。それが、現代の我々と共通してるところや違っているところがありそうなところかな」

「それよ。そこが地域の歴史を研究する醍醐味っていうのかな。それが分かるようになったんだから、君は相当有望な青年だよ。ねえ、先生?」

「そうだね。若い人の中には歴史に全く興味がない人さえいるから、授業では毎回苦労するけれど、今日の芹沢君や一年の荒張君、菅谷君は、いい質問を連発してくれたね。ぼくも解説しがいがあったよ。

学問をするというのは、教える側と教わる側が阿吽の呼吸で、お互いに切磋琢磨することなんだね。ときには立場が逆転して、教わる側から教えてもらうこともある。今まで気づかなかったことを指摘されて、それでさらに認識を深めることも往々にしてあるねえ。いや、今日は楽しかった。こんな巡検をまたやりたいねえ。どうだい、羽生部長、また企画してくれないか?」

「ちょっと、先生」

麻衣は口を尖らせた。

「私はこの夏休みで部長を引退させてもらいますって言ったじゃありませんか。二学期からは二年生、一年生に頑張ってもらうはずでしょ」

「ああ、そうだった。うっかりしてた。どうだね。芹沢君、今日を良い機会として、地歴部で一緒にやらんかね。よく一期一会というけど、人生で、機会を生かすことはとても大事だぞ。せっかくのチャンスを逃しちゃいけないなあ」

 健人は麻衣と野原の連携プレイをうすうすと感じていた。

「なんだか、うまく乗せられた感じもしますけど、圧力に負けました。ここは先生と羽生先輩の顔を立てて、二学期から地歴部に入部させていただきます」

翔太とめぐみは顔を見合わせ、笑いながら、嬉しそうにハイタッチした。

「やった。芹沢先輩。よろしくお願いします」

 野原は麻衣に、ニヤッと笑って言った。

「いやあ、成功、成功。こんなにうまくいくとはなあ。芹沢君に白羽の矢を立てた僕の眼力も捨てたもんじゃないだろ」

「本当に先生のおかげです。ありがとうございました」

「地歴部の先輩で顧問だしなあ。当然、当然。あっはっはー」

 そんなことを言い合いながら、新メンバーを加えた行方高校地歴部の面々は、富士見塚古墳資料館を後にして、駐車場へ向かった。

                  *

 夏休みが終わり、芹沢健人は行方高校の図書室の隣にある地歴部の部室で、野原教諭、荒張翔太、菅谷めぐみと、十一月に開催される文化祭での発表内容について話し合っていた。羽生麻衣は地歴部を引退し、大学の推薦入試に向けて、提出するレポートの執筆にかかりきりだった。

 野原が口を開いた。

「羽生君が引退したので、これからは芹沢君のリーダーシップで活動していくことになるけど、まず、文化祭で何を発表するか、話し合おう。芹沢君、何かアイディアを持ってるかな」

「はい、夏休みにみんなで、近くの古墳を見学しましたよね。三昧塚古墳と富士見塚古墳ですね。その後、僕は石岡市の高浜にある舟塚山古墳と府中愛宕山古墳にも自分で行ってみたんです。二つの古墳は道を挟んで隣り合っているんですけど、大きな古墳でした。特に舟塚山古墳は186メートルもあって、茨城県内で最大の古墳です。それで、やはり不思議に思ったのは、霞ヶ浦の近くに、なぜ大きな古墳が作られたのかということです。そのことは、前に野原先生も仰っていました。夏休み中、僕はそのことを考え続けて、思いついたことをメモしました。それが、このメモ帳です」

 健人は、表紙がついたメモ帳を取り出して見せた。

 野原は、そのメモ帳をパラパラと開いて一部に目を通した。

「うん、これはいいね。荒張君と菅谷君、芹沢部長のようにメモ帳を持ち歩いて、気が付いたこと、考えたこと、観察したことをメモっておくことはとても大事だよ。頭の中にすべて記憶することはできないし、覚えたと思っても、時間が経つと忘れてしまうからね。 

メモが貯まると、それがレポートや論文を書く時の材料になっていくんだ。メモをとることを習慣にするといいね。メモ帳の体裁は、大学ノートよりも、表紙が固くて手のひらに収まるサイズがいいね。表紙が固いと、机がなくとも、野外で書けるからね。野帳という専門の手帳もあるけど、コンビニで売っている固い表紙の手帳で十分に役立つよ」

 野原から健人の手帳を手渡され、二人は大きく頷いた。野原が続けた。        「大型古墳はなぜ、霞ヶ浦の近くに多いのか。文化祭でのポスター発表のいいテーマだね。芹沢部長はどう考えるかね」

「部長って呼ばれるとかっこいいけど、てれくさいすね。えーと、大きな古墳を造るには、たくさんの人手がいります。みんなで協力して造るしかありません。ですから、人が住んでいるムラの近くに造ったんだと思います」

「なるほどね。その考えを確かめるにはどうする?」

「古墳の近くで、人が住んだムラの跡を探します」

「いいね。古墳時代の集落跡の発掘調査ということだね。しかし、これまでのところ、霞ヶ浦のそばの古墳のすぐ近くで、当時の人々が暮らした古墳時代の集落跡が見つかった例はあまりないようだね。ただし、それは単に見つかっていないだけかもしれない。丁寧に探せば、見つかるかもしれないし、あるいは、今はその場所は畑や住宅地になっていて、遺跡があることに気が付いていないかもしれない。

霞ヶ浦のそばでは、台地の上に縄文時代の貝塚遺跡、集落遺跡はたくさん発掘調査されているんだね。それから中世の集落跡も調査されているけれど、不思議なことに、弥生時代や古墳時代の集落跡や水田遺跡が少ない。まあ、それらの人間活動の跡地は、後世の人、つまり我々現代人が生活している場所になっているということかもしれないけれどね。

 別の説もあり得るよ。逆に、芹沢君の考えとは違って、古墳時代の人々は、古墳を集落から離れたところに築造した可能性もあるんだね。古墳は要するに墳墓、つまり墓地であり、ご先祖様を祀る聖なる場所だから、人々が住む集落から離れた特別な場所に造ったのかもしれない。

そして特別な日を設定して、人々が古墳の前に集まり、ムラオサを中心に、古墳の被葬者を祀って祈りを捧げたのかもしれないね。例えば、あらためて被葬者への感謝の念を捧げるとか、子孫の繁栄をお願いするとか、五穀豊穣や魚がたくさん獲れるように豊漁を祈願するとか。雨が降らなくて田んぼが乾いてしまった時には雨乞い祈祷をするとか。まあ、想像をたくましくすれば、いろいろな物語が生まれそうだね。

 ところが、考古学は学問だから、想像をふくらませながら、一方で様々な証拠を基にして議論していかなければならない。そこが難しいけれど、やりがいがあるところなんだ。古墳時代の後の飛鳥時代とか奈良時代に入ると、文字が使われるようになるから、木片や竹片に字が書かれたものが出土することがあるけれど、古墳時代はまだ文字記録がほとんどないから、文字以外の出土品とか地形から推理するしかないんだね」

 健人は野原の話を聞いて、霞ヶ浦のそばの大きな古墳について、いろいろな事実をもっと知りたいと思った。そんな健人を見て、野原はアドバイスした。

「芹沢君は、霞ヶ浦のそばには大きな古墳が多いと言ったけれど、ほんとにそうかな。霞ヶ浦から少し遠くとも、古墳はたくさんあるんだよ。それらと比べてみることも大切じゃないかな」

「そうですね。じゃ、大きな地図の上に古墳の位置を表していくことにします」

「そうだね。そこから始めるのがいいね」

「はい。荒張君や菅谷さんと協力して、地図作りを始めます」

                    *

次の週、部室に集まった健人たちは、野原が国土交通省霞ヶ浦河川事務所にかけあって入手した「霞ヶ浦北浦管内図」を机の上に拡げていた。

「まず、三昧塚古墳の位置に赤丸のシールを貼ろう。国道のそばで鎌田川の河口近くだから、ここだ」

 翔太が言った。

「部長、やっぱり霞ヶ浦のすぐ近くですね」

「そうだよね。地図に表すと霞ヶ浦に近いことがよくわかるよね。この古墳が造られた当時は、霞ヶ浦は海だったし。海岸線というか、水辺の位置はもっと古墳に近かった可能性があるね。次に富士見塚古墳の位置を赤丸シールで表すと、かすみがうら市のここだよね」

 めぐみが、大事なことに気が付いた。

「先輩。富士見塚古墳は霞ヶ浦に近いことは近いけど、低い場所ではなく、台地の上に造られていますよね」

「そうだね。夏休みに野原先生の車で行ってみたけど、富士見塚古墳は、高台の上に築かれていて、高浜入の霞ヶ浦も、筑波山も、それから天気が好い日なら富士山も眺められる場所にあったよね」

「あれだけ高いから、逆に湖からも古墳が良く見えると思います」

「うーん。眺めがいい目立つ場所に造られたとしたら、何かの意味、つまりメッセージ性があるかもしれない。それは、僕たちで考えていこう。野原先生の意見も聞かなくちゃね。野原先生は、今日は職員会議が終わってから来られるそうだ」

 めぐみが聞いた。

「ところで部長が見てきた舟塚山古墳と府中愛宕山古墳の場所はどこですか」

 翔太は赤丸シールを貼りたくて、うずうずしていた。

「うん。まず舟塚山古墳は、霞ヶ浦の高浜入りの一番奥だね。高浜から石岡へ向かう道のすぐそばだったから、ここだね。そして、道の向かい側に府中愛宕山古墳があった」

「じゃ、ここに赤丸シールを二つ、貼ります」

 めぐみは二つのシールがほとんど隣り合わせに位置していることに気づいた。

「もしかしたら、亡くなった夫婦の古墳かなあ」

「うーん。被葬者が誰かは確定していないらしいんだけど、可能性はあるよね。他にも、親子かもしれないし、ムラの偉い人とその子孫かもしれないそうだよ。野原先生は、舟塚山古墳の被葬者は、昔から築紫刀禰という豪族ではないかと言われているとおっしゃっていたよ。実際、舟塚山古墳の上に、その人の名前を刻んだ石碑が建てられていたなあ。野原先生の話では、地方を治めた豪族のことをヤマト王権では国造(くにのみやつこ)と呼んだそうだよ。または音読みで、こくぞうと言うこともあるんだって」

 そんな話をしているところへ、野原が現れた。

「いや、遅れてすまない。私は、今は嘱託の教師だから、職員会議に出席する義務はないんだけど、出席しておかないと、学校全体のことが分らなくなって、他の先生と話が合わなくなってしまうと困るから、なるべく出るようにしているんだ。ところで、地図に古墳の位置をプロットできたかな」

 健人が地図の赤丸の位置を指さしながら言った。

「はい、先生。今のところはこんな感じです」

「おお、そうだね。地図に表示すると分かりやすいね」

「やっぱり、霞ヶ浦の近くに古墳がありますね」

「ああ、大きな前方後円墳は霞ヶ浦のそばだね」

「先生は、霞ヶ浦のすぐ近くではないところにも、古墳があると言われていましたけど」

「そう、例えば、大生(おおう)古墳群は、霞ヶ浦からやや離れたところにあるよ。北浦に近い台地の上だよ。小さい古墳まで含めると約百十基ほどもあるんだ。そのうち壊されてしまった古墳もあるけどね。今は畑になってるんだ」

 めぐみが眼を輝かせて言った。

「先生、そこも見学しましょう」

「そうだね。そこは行方市との境界に近い潮来市の北のはずれにあるんだ。自転車で行けないことはないけど、途中の道は車の通行量が多いから、やはり、僕の自家用車を出そう。いつ、行こうか。君たちの都合に合わせよう」

「では、次ぎの土曜日はどうでしょうか」

「荒張君と菅谷さんはどうかね」

「はい、大丈夫です」二人は、声を揃えるように答えた。

「よし、では、そうしよう。メモ帳、地図、それにデジカメを忘れないように」

                     *

 次の土曜日の朝、9時に学校に集合した野原と地歴部の三人は、野原の車で出発した。潮来方面に向かう地方道をしばらく走ると「茨城県水郷県民の森」の看板が左側に見えた。野原は、その看板を過ぎた次の交差点で左折した。周辺は畑が続き、古墳があるようには見えなかった。

「ほら、左手の奥に古墳が見えてきたぞ。鹿見塚古墳だね」

 野原に促されて三人は、畑の向こうに盛り上がった地形を見た。

「先生、あれですか」

「うん。あれだよ。古墳を見る前に、大生神社にお参りしておこう」

 野原は、車を鬱蒼とした原生林の中の細い道に乗り入れた。さらに少し走ると小さな神社へ続く道に出た。野原は車を停めた。

「大生神社の参道だよ。歩いて行ってみよう」

 一行は、ゆっくり歩いて神社に近づいた。他に人影はなかった。大生神社の本殿は、それほど大きくないが、薄暗い静寂の中に建っていた。説明板があった。

野原が言った。

「この大生神社は『おふ一族』の守り神なんだね。『おふ一族』というのは、鹿島神宮を創建する時に、ヤマトからやって来た土木建築の技術者や労働者集団ではないかと考えられているんだね。彼らは鹿島神宮を建てた後、自分たちの一族の墓地をここに設定したようなんだ」

健人が腑に落ちないというように質問した。

「ここから見ると、鹿島神宮は北浦の向こうですよね。『おふ一族』はなぜ、ここに墓地を定めたのですか」

「うむ。いい質問だね。実は鹿島にも古墳群があるんだ。それは宮中野古墳群と呼ばれていて、鹿島神宮の神官が亡くなると、そこに葬ったという説が根強いんだね。神官は今でいう禰宜、権禰宜、つまり神主さんだね。宮中野古墳群の古墳築造も『おふ一族』が担当したのかもしれない。

『おふ一族』にとって、神官は畏れおおい主人か雇用主か上司のような存在だから、神官と同じ墓地を使うのを遠慮して、北浦を越えた、奥まったこの場所を自分たちの墓所としたのかもしれないね」

「なるほど、そう考えると分かりやすいですね。『おふ一族』は、古墳を造る技術を持っていたんでしょうね。前方後円墳はヤマトが発祥で、卑弥呼の墓といわれる箸墓古墳は弥生時代の最後、日本で最初の前方後円墳と言われているんですよね。『おふ一族』は、前方後円墳築造の技術を常陸国の人々に伝えたのかもしれませんね」

「ほう、芹沢君はよく勉強しているね」

「はい。卑弥呼の箸墓古墳のことを先生から教えていただいたので、興味が湧いてきました。それで図書館の本で勉強しました。ですから、舟塚山古墳、三昧塚古墳、富士見塚古墳なども、地元の人々が『おふ一族』の技術者の指導で造ったのかもしれません」

 翔太とめぐみは尊敬のまなざしで新部長を見た。野原は満足気に続けた。

「なかなか名推理だと思うよ。実は『おふ一族』はヤマトの名家なんだね。古事記を編纂した太安万侶は、『おふ』の一員で、『おふ』が『おお』と発音され、子孫の一人が学者として、古事記を執筆したということかもしれないね。その『おふ一族』の人が招かれて、常陸国各地に派遣されて、古墳造りを指導したという芹沢説は、ありうることだと思うね」

芹沢説と言われて、健人は頭を掻いて照れた。

野原は微笑んで続けた。

「ところで、この大生神社は、タケミカヅチノミコトを祀っているんだよ。鹿島神宮の祭神と同じだね。そのことを見ても、この神社と鹿島神宮との関係の深さが分るような気がするね。この神社の周りの森をよく観察してごらん。ここは原生林なんだ。つまり、二千年くらい斧で木を伐っていないんだ。神社は神様の寄りどころだから、樹木を大切にして伐らない。だから二千年前と同じ植生なので、貴重な森林なんだよ」

「私たちは、二千年前と同じような深い森の中にいることになりますね」

めぐみが感激して言った。

「そういうことになるね。植物に詳しい先生なら、ここは貴重な森だから、これからも保護していきたと思うだろうね。さて、せっかく来たからお参りしていこう」

 野原はポケットマネーを賽銭箱に納めて、参拝した。生徒たちも神妙な顔で、それに倣った。

「じゃ、車はここに置いて、鹿見塚古墳を見にいこう」

 野原たちは、ゆっくり歩いて、地方道の向こうにある古墳のそばに来た。鹿見塚古墳は斜面が草刈され、よく手入れされていた。しかし、説明板の文字はかすれて、よく読めなかった。野原が説明した。

「この古墳は、大生古墳群の中心だね。近くには、子子舞塚(まごまいづか)古墳と呼ばれる、同じくらいの大きさの古墳もある。夏休みに巡検に行った三昧塚古墳、富士見塚古墳、そして芹沢君が見に行った舟塚山古墳、府中愛宕山古墳よりは小さい、霞ヶ浦周辺の古墳では中規模といっていい」

 翔太は、不思議そうに質問した。

「先生、ここからは湖が見えませんね」   

「そうだね。ここの大生古墳群の古墳は、大きいものでも中位の規模で、台地の奥まったところに築かれ、霞ヶ浦からも北浦からも見えない。ここには、小さい古墳もたくさんある。まさに、おふ一族の先祖たちが眠る静寂の場所という雰囲気だね。宮中野古墳群の古墳も、台地の上に位置しているけれど、あまり大きくなく、樹木の中に埋もれている感じなんだ。霞ヶ浦のそばにある舟塚山古墳クラスの大型古墳の立地とは違う感じだね」

 健人が考え込んだ。

「そうすると、古墳の大きさと霞ヶ浦からの距離は関係があるのかもしれませんね」

「そうだね。ユニークな視点だね。それを考え続けていけば、いつか突破口が開けるかもしれないよ」

写真係のめぐみがデジカメを構えた。

「写真をたくさん撮っておきます」

「うん。菅谷君、記録写真は大事だよ。いろいろな角度から撮っておいてね。立った位置の目線で撮る。それから低い目線で撮る。少し移動して古墳全体が分る位置で撮るのも必要だね。さらに古墳の頂上、つまり墳頂に登って、上からの眺めを写真に撮るのもいいね。幸い、今のデジカメは、たくさん撮っても、あとで見直して編集できるのが便利だね」

「はい。もし、撮りたい角度がある時は、指示してください」

 一行は、しばらく鹿見塚古墳を観察した後、少し奥まったところにある子子舞塚古墳に移動し、同じように写真を撮り、大きさを歩測して調査した。

 車に戻る途中、野原が言った。

「この古墳が築造された当時の地形、土地利用、植生などの自然環境、集落からの距離などを想像してみようか。まず、ここからは、霞ヶ浦も北浦も見えないね。次に土地利用はどうだろうか。芹沢君」

「はい、ここは台地の上なので、稲作はできなかったと思います。耕作していたとすれば、畑しか考えられません」

「なるほどね。しかし、お墓のそばで畑を作るだろうか」

「そこはわかりません。先祖を祀るお墓がたくさんある場所は、聖なる場所として普段は立ち入らない場所だったかもしれません」

 めぐみが、思いついたように言った。

「私のうちでは、お墓参りの時、雑草を抜いたり、墓石を洗ったりします。ここの古墳は大きいので、草を刈るのが大変だと思います。草を刈らないと植物が生えて、木も生えてきますから」

「そうそう、墓地は管理が大変だね。ここの古墳は地元の教育委員会の文化財課が近くの農家やシルバー人材センターに委託して、夏の終わりくらいに草刈をしてもらっているんだよ。でも古墳を造った当時はどうしていたのかね。まだ鉄製の草刈鎌などはそれほど普及していない時代だからね。考古学では、出土品については詳しく調べるけれど、古墳をどう管理していたかは、まだ研究が進んでいないね」

 そんな話をしながら、一行は車に乗り込んだ。

 運転しながら野原は、健人に話しかけた。

「芹沢君。今度の文化祭で発表するポスター展示の原案を、菅谷君と荒張君といっしょに考えてみるといいよ。図や写真の配置、説明文の配置はもちろんだけど、テーマというか、発表のねらいはどこに置くかが一番大事だね。それがはっきりして、形が見えてくれば、ポスターのレイアウトが決まるからね」

「うわー、難しいっすね」

「うむ。確かに簡単じゃないね。でも、思い切って楽しく、後輩の二人のアイディアも入れて考えてみてくれよ。さっきの、古墳の大きさと霞ヶ浦との距離というテーマはおもしろいと思うよ。もちろん、僕も相談に乗るから」

 そんな話をしていると、車は学校の校門に入った。

                   *

 次の週の水曜日。地歴部の部室に部員全員が集まった。毎週水曜日は文化部系のクラブ活動の定例日だ。今回は、野原教諭も始めから出席していた。健人が口を開いた。

「今日の議題は、文化祭でのポスター発表の中身を詰めていくことです。僕の方で、ホワイトボードに要点を書きだしておきました。この他にも大事なことがたくさんあると思いますので、ご意見をどんどん出してください。

 まず、メーンタイトルですが、『なぜ霞ヶ浦の近くに大きな古墳が多いのか』ではどうでしょうか。それを考えておいてください。次に要点としては、どこに古墳があるのか、つまり位置を地図上に表現します。それは赤丸シールと古墳の写真、写真説明で示せると思います。

 取り上げる古墳として、舟塚山古墳、府中愛宕山古墳、三昧塚古墳、富士見塚古墳、大生古墳群、宮中野古墳群、旧玉里村古墳群、北浦の近くの夫婦塚古墳、千葉県香取市の大塚山古墳、土浦市の王塚古墳、そして美浦村にある弁天塚古墳などを予定しています。このうち、僕たちはまだ現地見学していない古墳もありますが、それらは、文化祭までに時間がとれれば、行ってみたいと思います。ここまでで、何か意見とか提案がありますか」

 野原が満足気に助言した。

「うん、いいね。まだ見てない古墳については、僕が車を出せればいいんだけど、それぞれ、少し遠いから一日がかりの巡検になるね。もしその時間が無ければ、県や市町村の教育委員会の資料、市町村史、そして土浦市立博物館で学芸員を長く務めた塩谷さんが最近出版した『霞ヶ浦の古墳時代』で調べるといいと思うよ。塩谷さんは霞ヶ浦周辺の古墳研究の専門家の一人だ。それからM大学の現在の先生たちが出版した『霞ヶ浦の前方後円墳』の本に、各古墳の正確な測量図が載っているので、基本的な文献だよ。」

「ありがとうございます。一年生はどうですか」

翔太が意気込んで言った。

「えーっと。僕の同級生たちは、古墳に全然興味がなかったり、どんなものか知らない人が大部分なので、古墳とは何かとか、日本の歴史の中の古墳時代の位置づけも、簡単に説明しておいたほうがいいと思います」

 めぐみも同じ考えだった。

「同感です。自分たちが住んでいる町に大きな古墳があることも知らない人もいます。それから、校外から保護者や地域の人が来るかもしれないので、古墳を紹介する意義みたいなものを書いておいたほうがいいと思います」

「うーん。いいね。僕もそう思う。今年の一年生は優秀だねー。それじゃ、君たちの勉強にもなるから、その案を作ってみてくれないか。」

 野原が感心して言った。健人が司会を続けた。

「いい意見、ありがとうございます。じゃ、荒張君と菅谷さん。そのことをメモに書いておいてください。次に僕が考えたことは、霞ヶ浦のすぐ近くは湿地が多いので水田を作るのに適した土地だったということです。集落も水田の近くにあったのではないでしょうか。縄文時代の霞ヶ浦は海で、水位が高く、まだ稲作をしていないので、台地の上や斜面の日当たりのよい場所に集落があったことは、各地の貝塚と集落遺跡で分かります。

でも次の弥生時代、古墳時代では、台地の下で、水田の近くの集落に住んだ方が何かと便利です。ですから、ムラの村長さんのような、尊敬された人が亡くなったら、気軽にお墓参りにいける近くの場所に古墳を築いたのではないかと考えました。

なぜ霞ヶ浦の近くに大きな古墳が多いのかという疑問の答えの一つは、古墳を集落や水田の近くに築くことが自然なことではなかったかということです。これはどうでしょうか」

「なるほど、芹沢説として魅力的だね。ただし、古墳時代の水田跡や集落跡があまり見つかっていない段階だから、証明することが難しいね。でも一つの解答例として示しておくのは大事だと思うよ」

 翔太が手を上げた。

「先生、大事なことを考えてみました。霞ヶ浦から遠い台地の上で大きな古墳を造るのは、土を運んでくるので、大きな工事になってたいへんです。それより台地の下に大きな古墳を造る方が、近くの台地を削って土を取ればいいので、だいぶ工事が楽になります。古墳時代は現在のような土木用の重機はなくて、ほとんど人力で土を運んだので、大きな古墳は下の低い土地に造るしかなかったのではないですか」

「おお、鋭い考えだね。古墳の土をどこから運んできたか、当然ながら考えておきたいことだね。その荒張説も上げておこう。つまり、一つの説だけでなく、可能性があるあらゆる説を上げておいて、ていねいに考えていくことが大事だし、それが考古学という学問の姿勢なんだ。

 ただし、高浜の舟塚山古墳や、府中愛宕山古墳、そしてみんなで見学に行った富士見塚古墳は霞ヶ浦に近い台地の上に築造されていたね。だから、台地の上でもみんなで協力して土を運んで盛り上げて、おおきな古墳を造ろうという意思、あるいはモチベーションが働いたと思う。それだけ権力者の力が強かったか、または被葬者がみんなから尊敬される人だったのかもしれない。いずれにしろ、台地上の目立つ大型古墳は、いろいろなことを考えさせてくれるので、興味つきないね。考古学の醍醐味といったところかな」

 野原は柔和な顔で満足気に頷いた。

 健人が続けた。

「荒張君、菅谷さん、野原先生、貴重なご意見、ありがとうございます。これで、文化祭に展示するポスターの中身がかなり見えてきた気がします。下校時間が近づいてきたので、今日、出なかった話題は来週の部活で取り上げます。今日出た案は宿題として、来週までに簡単でいいですから、文章にしてみてください」

 野原が付け加えた。

「ああ、忘れるところだった。今度の日曜日の夜のNHKテレビの特集番組を見逃さないように。大阪の堺市などにある百舌鳥・古市古墳群がなぜ世界遺産に登録されたのか、その理由を特集するらしいんだ。きっと勉強になるよ。あそこには日本最大級の前方後円墳である大仙古墳つまり仁徳天皇陵、それから応神天皇陵と伝わる誉田御廟山古墳があるからね。参考になる情報や考え方が紹介されるかもしれないね」

                    *

 次の水曜日、地歴部の部室には、授業が終わり、清掃活動を済ませた部員たちが集合していた。すでに野原も加わっていた。

健人が少し上気したような口調で野原に言った。

「先生、NHK特集、見ました。おもしろかったです。勉強になりました」

 翔太が目を輝かせていた。

「仁徳天皇陵ってすごいんですね。ドローンで撮影した上空からの映像は迫力がありました」

めぐみも落ち着いた口調で言った。

「私は、海からよく目立つように造られたということが印象に残りました」

野原が頷いた。

「まさにそこだね。当時はすでに大陸や朝鮮半島との交流が盛んに行われていて、外国からの使者が大阪湾から上陸してヤマト王権がある奈良盆地へ向かう途中、大阪湾から、また大和川から上陸してすぐ、巨大古墳が見えるような位置に導いて、当時のヤマトの国の力、技術力を見せつける必要があったという組み立てだったね。だからこそ、大きな古墳を造ったわけだ。

大きな古墳を造る理由づけとして、分かりやすい説になっていたね。かなり説得力があるから、世界遺産登録を審査するユネスコの委員たちを動かしたんだろうね。当時の大阪湾は浪速の潟といいて、内陸に深く入り込んでいたので、波が穏やかな良港だったんだ。葦原が広がる平地が続いていたから見通しが良かったんだろうね。平地に造られた巨大古墳がよく目立ったわけだ」

 健人が意気込んで野原に言った。

「僕もそこが一番大事なことかなと思いました。大阪湾の状況を霞ヶ浦にあてはめてみたんです。霞ヶ浦のそばの大きな古墳は、当時海だった霞ヶ浦を舟に乗って移動する人にとって、よく目立つように霞ヶ浦から近いところに大きな古墳を造る必要があったのではないですか」

「なるほど。では霞ヶ浦を舟で移動する人とは、どんな人たちなんだろうか」

「そこですね。普通、舟を操る技術を持っている人は魚を獲る漁師さんです。でも漁師さんは地元の人だから、古墳が造られたことは知っているはずです。毎日のように古墳を霞ヶ浦から見ていれば、だんだん見慣れた風景になっていきます。

 大きな古墳を見せつける必要があった人たちというのは、僕の考えでは、ヤマト王権から視察とか何かの連絡で、常陸国にやってきた役人たちではないでしょうか。その役人たちが、霞ヶ浦の船の上から大きな前方後円墳を見て、常陸国の人もようやく、ヤマト王権の力に従うようになったと安心したかもしれません。前方後円墳はヤマト文化のシンボルみたいなものですから」

「いいね。芹沢君。鋭い。実にいいね。常陸で、前方後円墳を造ることはヤマトの政治的、文化的影響力を受け入れたしるしというわけだね。当時は丸木舟だけでなく、板を接ぎ合わせた大きな構造船を造る技術はすでにあったんだよ。大陸や朝鮮半島と船で交流していたくらいだからね。特に鉄器の材料にする鉄の原料を輸入していたし、馬をたくさん運んでくる必要もあったんだろうね。だから霞ヶ浦でも構造船が行ったり来たりしていたんだろうね。

ヤマトから役人がやってくる時は、伊勢の大湊から船出して黒潮に乗り、日本列島の沿岸を北上して、銚子から常陸の内海、つまり霞ヶ浦に入ってきたんだね。霞ヶ浦の入り口で鹿島神宮に参拝したあと、常陸の各地を視察したり、さらに勿来、磐城、つまり今の福島県の方に陸路で移動することもあったんだろうね。

鹿島神宮からまた船に乗って、高浜の入江に近づくと、富士見塚古墳、三昧塚古墳、舟塚山古墳が次々に視野に入り、役人たちは安堵したのかもしれないね。しかし、その構造船は、霞ヶ浦では発掘例がないんだ。板はすぐ腐ってしまうし、腐る前に燃料にされたりしたんだろうね。霞ヶ浦では丸木舟さえ、ほとんど発掘例がないんだよ。もしかしたら、水田の泥土の中に埋もれている可能性はあるけどね」

 健人が聞いた。

「先生、当時の常陸の国は、すでに人がたくさん住んでいたんですか」

「今の石岡に常陸国の国府が置かれ、国司が赴任してくるのは奈良時代になってからだが、古墳時代には、すでに水田が広く拓かれ、集落が大きくなり、交易する拠点、つまり市が開かれる場所もあったんだろうね。常陸は暮らしやすく人口が多い豊かな国という評価はすでにヤマト王権に定着して、なんとかこの国を支配下におきたいと、権力者は思うだろうね。

ただし、常陸国の北は蝦夷の土地で、ヤマト王権に従わない人々が住んでいたから、緊張関係にあったと思うよ。奈良時代の国府の石岡には鹿の子遺跡という武器や武具の生産拠点もあったんだよ。それ以前は常陸の国の土着の民というか原住民が、ヤマトタケルノミコトが隊長を務めるヤマトからの派遣軍と戦ったことが常陸国風土記に記録されているくらいだからね。 

常陸の国の民は、最初はヤマトに反抗していたんだね。それが、ようやくヤマトに恭順の姿勢を示して、ヤマト様式の大きな前方後円墳を造るようになったんだから、ヤマトからやってきた役人たちは感無量といったところかな」

「その前方後円墳造りの技術を持っていたのが、ヤマト出身の、『おふ一族』というわけですね」

「その可能性があるね。何しろ、地元の民にとって前方後円墳造りは、今でいう先端技術ということなんだろうね。そして古墳が完成した時に、工事に従事したムラの人々の達成感、成功感はすごかったんだろうね。ムラびとの連帯感も一段と高まったのではないかな。

ところで、霞ヶ浦に距離が近い古墳ほど大きいという芹沢説をどうやって証明したらよいだろうか」

「はい、まず、ある大きさ以上の古墳を、できるだけたくさん、表にしてみたらどうでしょうか」

「うんそうだね。それがオーソドックスな方法だね。来週までに、それをできるだけやってみるか」

「はい、お願いします」

                   *

 翌日、野原は自分の蔵書である専門書に載っている霞ヶ浦周辺の古墳のリストを部員に示した。

「これは、考古学者が研究した千葉県から茨城県北部に位置する古墳のリストだよ。このうちから前方部の端から後円部の端までの長さ、専門用語で墳丘長というんだけど、例えば三十メートル以上の古墳をランダムに選び出してみてほしい。その数は少なくとも五十基くらいあるといいね。古墳の名称と長さだけのデータでよいだろう。調査票は、原票を一枚作り、あとは図書室のコピー機で何枚かコピーすればいいよ」

健人らは、コピーした用紙に、古墳の名称と大きさのデータを書いていった。三人で手分けしたので、二時間ほどでリストが出来上がった。

「先生、出来ました」

「おお、早いね。さてそこからがたいへんだ。霞ヶ浦周辺の地図で各古墳の位置を確認した後、次に湖岸からの距離を割り出そう。どうしたらいいと思う。芹沢君」

「はい。地図上で湖岸から古墳までの距離を物差しで測って、それに地図の縮尺を掛け算すれば、実際の距離が計算できるはずです。国土地理院の二万五千分の一地形図で、湖岸から古墳まで二センチメートルとすれば、二万五千を掛けると、えーと、スマホのアプリを使うと、あ、出ました。五百メートルです。先生、三昧塚古墳はちょうどそのくらいですよね」

「よーし。その調子で、他の古墳も計算してみたまえ。ただし、地図上で古墳の位置が特定しにくい場合もあるので、慎重にね。来週までにできればいいんじゃないかな。文化祭までにまだ一か月もあるからね」

「はい」

 健人たちは野原に相談しながら、数日かけてリストを増やしていった。

                   *

 一週間かけて約五十基の古墳のリストが出来上がった。それを満足気に見つめていた野原が言った。

「みんな、よく頑張ったね。データは正確であることが一番大事だ。データが正確ならば、そこから言えることの信頼性が増すんだよ。さあ、次ぎは、大きい古墳は霞ヶ浦に近い場所に造られているという芹沢説の信頼性の検証だね。それには、パソコンの力を借りればいいんだ。正確な手書きの表をパソコンに入力する。その時、エクセルという表計算ソフトを使うんだね。

エクセルはそんなに難しくない。まず慣れることだね。僕のパソコンで入力してみよう。まず、日本語入力で、ひらがなで『こふんめいしょう』とキーボードでローマ字入力してエンターキーを押して漢字に変換する。ほらできた。次に右隣りのセルにマウスでカーソルを移動して『おおきさ』と入力して漢字変換、さらに次ぎのセルに『かすみがうらからのきょり』と入力して漢字変換。簡単だね。みんな若くて頭脳が柔軟だから、すぐ憶えるよ。

芹沢君やってみて。椅子に座って。次に古墳名称のセルの下のセルに『ふじみづかこふん』と入力して、エンターキーで漢字変換。うん、その調子。次に、大きさのセルの下のセルにカーソルを移動したら、数字をいれるんだけど、その前に入力モードバーを半角英数字にしてから、数字を入力だ。そう、いいよ。それから、『霞ヶ浦からの距離』の下のセルにカーソルを移動してから、数字を入力。よし、できた。その調子で続けてごらん。ある程度慣れたら、荒張君と菅谷さんに交替して、入力を覚えてもらおう。さあ、続けて」

「はい」と応じて健人は作業を続けた。キー入力は、スマホの操作で慣れていたので、簡単にできた。五基ほどの古墳のデータの入力を済ませると、翔太に交替した。翔太もゆっくりデータを入力していった。やはり五基分の入力を終えると、めぐみに替わった。めぐみもそれほどとまどうことなく、入力をやり終えた。

「ローマ字入力はそんなに難しくありません。すぐ慣れました」

「そう、よかったね。入力する古墳データはまだ、残っているから、三人で少しずつやっておいて。ゆっくりと確実にね。僕は、職員室で他の先生と三十分ほど、打合せがあるから」

 そう言い残すと野原は部室を出ていった。

 また部員たちは、交替で入力作業を続けた。

 三十分を少し過ぎた頃、野原が戻ってきた。

「どうだった。どれどれ」

と言いつつ、野原はパソコンの画面を覗き込んだ。

「おお、五十基全部、打ち込んでくれたんだね。若い人の能力はすばらしいね。今日はそこまでにしておこう。来週は、このデータ入力が正確かどうか、お互いに読み合わせ、パソコン画面を確認することから始めよう。それが済んだら、いよいよグラフをパソコンで描いてみよう。

昔、つまり僕が若い頃は、グラフは手書きで方眼紙に描いたものだけど、今はパソコンであっという間にきれいに描けるから便利だよ。方眼紙を使うのも勉強になっていいんだが、何せ時間がかかることが難点なんだよね。じゃ、部長。今日のところは解散ということでいいかな」

「はい、了解です」

                    *

 次の水曜日、定時に部室に集まった三人は、野原を待った。そこへパソコンを入れたバッグを提げて野原が現れた。

「やあ、遅れてごめん。さて、今日は先週、入力したデータが正確かどうか確認することから始めよう。まず、パソコンに電源をつないで、エクセルを立ち上げてと」

独り言を言いながら野原は慣れた動作で、画面を開いた、そこには、先週入力したデータが現れていた。

「じゃ、芹沢君。原票のリストを上から順に読み上げていって。荒張君と菅谷さんは二人で画面を見て、読み上げた通りに入力されているかどうか、確認して」

 健人は紙に書かれた古墳データを上からゆっくり読み上げていった。

「富士見塚古墳。大きさ八八メートル、湖岸からの距離六○○メートル」

「はい、間違いありません」

「そう。その調子。続けて」

健人が四番目の古墳の名称を読み上げた時、めぐみが気づいた。

「古墳の名称が違っていませんか」

「え、違ってたかな。ごんげんやまこふんと言ったんだけど」

「先生、この漢字ですけど、ごんげんやまと読むんですか」

「ああ、そうそう、権現山と書いてごんげんやまと読むのは間違ってないよ。若い人にはちょっと難しいかもね。でもそれでいいんだよ。確認になるからね」

「すみません。先輩続けてください」

「オーケー」

 健人はそのまま続けて、十基分を確認した。

「じゃ交替して、荒張君が読み上げて。僕と菅谷さんが画面で確認するから」

「はい。では」

 翔太は、次々に早口で読み上げていった。少し進んだところで、芹沢が待ったをかけた。

「荒張君。もっとゆっくり読んで。こっちの確認が間に合わないよ。画面の数字は細かいから」

野原が言った。

「ああ、そうだ。パソコンの画面は拡大することができるんだ。今、百パーセントの大きさの画面だけど、例えば百二十五パーセントに指定すると文字が大きくなる」

「文字の拡大はスマホの方が便利ですね」

「ああ、なるほど、みんなはスマホで慣れているんだよね」

「では続けます。十五番目の大生西4号墳、大きさ63メートル、湖岸からの距離約1800メートル」

「はい、合っています」

「その調子」

 三人は、三十分ほどで、先週入力した古墳データが正確であることを確認した。

「先生、これで間違いありません」

「はい、ごくろうさん。確認作業は大事なプロセスだから、今後同じような作業をする時も手を抜かずに、めんどうでも複数の人で、読み合わせでやらなければならないことだよ」

「はい」三人はそれぞれ声に出して言った。

野原はおもむろに三人の顔を見た。

「さて、これからグラフを描いてみよう。まずグラフの出来上がりの想像図を思い描くことにしよう。ここに白紙のコピー用紙があるね。これにそれぞれ、手書きでいいから自分のイメージのグラフを描いてみてくれるかな。芹沢説を上手に表現できるグラフだね。まず、芹沢君、どうだね」

「はい、では、横軸に古墳の名前、縦軸に古墳の大きさ、または湖岸からの距離を棒グラフで示せばいいと思います。こんなふうに」

健人はラフスケッチで、古墳の名称の上に二本の棒グラフを並べて描いてみた。

これで、大きな古墳は湖岸からの距離が短い傾向があることを示せると思います」

「なるほど、しかし、古墳の数が多いと傾向をつかむのが難しいね」

「確かに」

「実は、別々の現象を表す二種類の数値に関係があるかどうかを示すグラフに、相関図というのがあるんだね。この場合なら、古墳の大きさと湖岸からの距離だ。だから例えば、横軸に湖岸からの距離、縦軸に古墳の大きさをとり、それぞれの古墳のデータをプロットしていくんだ。そうすると、大きな古墳は湖岸に近いところに築かれ、小さな古墳は湖岸から遠いところにも築かれているという芹沢説を検証できるかもしれない。

それをパソコンでエクセルにやらせてみよう。この場合、古墳の名称は解析データに入れないので、単純に二種類の数値データだけを対象にするんだね。だからこんなふうに表の範囲をマウスで指定し、次にグラフのデザインを指定する。いろいろなグラフのサンプルが表示されるから、相関図のグラフを選んでクリックすればよい。ほら、相関図が描けた。どうだね、芹沢君」

「わあ、すごいですね。古墳の大きさと湖岸からの距離の関係が分ります。墳丘長100メートル以上の大きい古墳は霞ヶ浦から近い場所に築かれています。そして50メートルから100メートルの中くらいの古墳それ以下の小さい古墳は、湖岸からの距離にあまり関係なく、いろいろな場所に造られている気がします。中くらいの古墳は霞ヶ浦から遠い場所にも造られています」

 翔太とめぐみも画面にくぎ付けになった」

「先輩、すごーい。野原先生。これで芹沢説は確定ですか」

「特に大きい古墳は湖岸に近い場所に造られているということは言えそうだけど、ではなぜそうなのかは、まだまだこれからの研究課題だろうね」

「なんか、ミステリー小説みたい」

「推理考古学って言えるのかな」

野原はニコニコして言った。

「考古学自体が謎解きの学問だから、おもしろいんだよ」

「野原先生って、ポアロみたい」

「アガサ・クリスティのエルキュール・ポアロかい。それは光栄だねえ。あっはは」

 野原は相好を崩して大笑いした。健人たち、三名の部員はそんな野原を尊敬のまなざしで見つめた。

                   *

 十一月三日、行方高校の文化祭の日になった。校門には「行方高校文化祭へようこそ」と大書された横看板が飾りつけられ、朝から地元の人、保護者、他校の生徒、近くの中学生らが次々にアーチをくぐった。

 体育館では、演劇部の公演、ブラスバンド部の演奏、弁論大会などが次々に催された。

理科室では、生物部が霞ヶ浦のプランクトンを顕微鏡で観察するコーナーを設け、化学部や物理部が、それぞれおもしろい理科実験を披露した。文系の部活動は各教室を使って発表された。文芸部は詩、俳句、短歌、エッセイ、短編小説作品をパネル展示で発表した。書道部は、県の書道展での入賞作品を掲示し、袴姿で、大きな書道用紙に大きな毛筆でダイナミックに書を書く書道パフォーマンスを披露して喝采を浴びた。美術部は、今秋の県高校美術展の入賞作品を掲示し、ミロのビーナスの石膏像や花瓶の花などをスケッチする体験コーナーを設定した。

 構内の中庭では、地域おこし研究会がテントを張って、地元の名産品であるサツマイモスーツの試食即売会を行って、人気を集めた。

 地歴部は、図書館に近い、一番奥まった教室を借りた。パネルを使って、過年度の先輩部員たちが残したポスターを展示した。入り口に近いコーナーで、芹沢らの最新の研究成果をポスター二枚にまとめて展示した。

 『歴史ミステリー 霞ヶ浦のそばに大型古墳が築かれた秘密は?』

とポスター上部に大きい活字で打ち出したポスターは、地図、写真、グラフを分かりやすくレイアウトし、それぞれ説明文を張り付けたものだった。三名の部員が最後の二週間、毎日放課後に部室に集まって工夫しながら作成したものだった。野原も時間を見つけては部員に助言した。

 しかし、場所が奥まっているせいか、地歴部の発表コーナーには、興味を示して来場する人がなかなか来なかった。

 健人が、くやしそうに言った。

「やっぱり、地域の歴史に、興味がある人はいないのかなあ」

 落胆している健人を見て、翔太とめぐみが言った。

「先輩、ぼくらがチラシ配りと呼び込みに行ってきます」

 二人は、チラシの束を抱え、校門、体育館、中庭、教室への導入口で、声を張り上げて、「行方高校地歴部は、地元の古墳のミステリーを発表しています。ぜひ、一○五教室へおいでくださーい」と呼びかけながら、チラシを配った。

 二十分で三十枚ほどのチラシを配り終え、二人が一○五教室へ戻ると、数人の来場者がポスターを囲んで、芹沢の説明に聴き入っていた。二人は顔を見合わせ、ハイタッチした。

「やったね」

 健人は額に汗を浮かべながら、数人の聴衆を前に、野原から借りた指示棒を手に、地図を説明した。

「霞ヶ浦の近くには、小さいものを含めると数百基もの古墳が点在しています。ある程度まとまって古墳群を形成しているところもあります。そのうち、中規模以上の大きさの古墳の位置をこの地図上に赤丸シールを貼って示しました。特に大きい古墳は大きい赤丸シールを貼っています。

 この地図をよく見てください。大きな古墳が霞ヶ浦の近くに多いことがお分かりいただけるかと思います。それで発表のテーマは、なぜ大型古墳は霞ヶ浦の近くに多いのかについて考えてみることにしました」

 いつの間にか野原も聴衆の後ろで、芹沢の説明を聞いていた。

「まず霞ヶ浦のそばの代表的な大型古墳を紹介します」

 健人は、ポスターに貼りつけてある舟塚山古墳、富士見塚古墳、三昧塚古墳の写真をはじめとして大型古墳のいくつかについて、大きさ、場所、主な出土品などについて手元のメモを見ながら説明した。続けて、前方後円墳の墳形の特徴、奈良、大阪方面の大型古墳及びヤマト王権との関係について話をした。

健人は「専門的なことは、野原先生に聞いてください」と言って、聴衆の笑いを誘った。

「次に大型古墳が霞ヶ浦のそばに多い理由について、僕らなりに推理してみました」

と健人は話を続けた。聴衆は次の話を待った。

健人は、部員と野原教諭との意見交換で出た意見を紹介した。第一に霞ヶ浦の平地に近い集落や水田のそばに造って、いつでもお参りしやすいこと、第二に台地上よりも低地の方が、台地から土取りをして下に運ぶので工事しやすいこと、第三に霞ヶ浦を舟で進む人たちに目立つように、低地に造ったことなどの説を紹介した。

 聴衆の一人から質問が出た。気難しそうな初老の男性だった。

「それらの説のうち、君はどの説が一番確からしいと思うかね」

予想していた質問なので、健人は澱みなく答えた。

「はい、僕としては、三番目の説がおもしろいと思いました。ヤマト王権から常陸の国の様子を視察にきた役人が、鹿島神宮を経由して船で行方の沿岸から高浜入に入ってきて、まわりを眺めて、まず左側に富士見塚古墳を見ます。それからしばらくすると右側に三昧塚古墳が見えてきます。さらに高浜入の正面に舟塚山古墳が見えるはずです。ヤマトの役人はそれらを見て、常陸の国もようやくヤマトのまつりごとや文化を受け入れてくれたことを確認して安心したのではないでしょうか。また、地元の人たちも古墳を見せることで、自分たちがヤマトに従っている気持ちを示すことができたので、ホッとしたかもしれません」

 それを聞いていた質問者の男性が柔和な表情になって言った。

「なるほど、おもしろいね。とてもユニークでいきいきした解説だったよ。高校生としてはたいしたものだね」

 この男性の質問を皮切りに他の聴衆からも次々に質問が続いた。

 それらの質問は、なぜ前方後円の墳形をしているのか、どんな人が葬られているのか、古墳からどんなものが発掘されているのか、盗掘された古墳はあるのか、畿内の前方後円墳との関係は、どんな人たちが築造作業を行ったのか、作業に協力した人々は報酬を得たのか、設計図のようなものはあったのか、古墳は被葬者が亡くなってから築造されたのか、それとも被葬者が亡くなる前に築造されたのか、古墳の大きさと築造された時期との関係は調べたのか、埴輪の役割は何か、古墳時代が終わるころに古墳が造られなくなるのはなぜか、など専門的な質問も相次いで寄せられた。

 それらの質問に、健人、翔太、めぐみが分担し、答えられる範囲で丁寧に対応したが、難しい質問には野原が答えた。いつの間にか前部長の羽生麻衣も現れて議論の輪に加わった。ポスターの前では議論の輪がいくつも出来た。

 ポスター説明に、予定していた午前中の二時間があっという間に過ぎた。昼食後、翔太とめぐみは、再度のチラシ配布に各会場をまわった。午後も、午前中と同じくらいの来場者が地歴部の展示コーナーに来てくれた。

 来場者は皆、満足した表情で会場を後にした。部員たちは、ポスターを剥がし、展示用ボードを片付けた。椅子、机を配置すると、会場は教室に戻った。五つの椅子を丸い形に並べ、さっそく反省会が開かれた。野原と羽生も参加した。健人が麻衣に礼を述べた。

「羽生先輩、今日はどうもありがとうございました。質問への対応でも助けていただき、ありがたかったです」

「私は、ちょっと助言しただけよ。ちょうど、私が今勉強している古墳の副葬品や円筒埴輪、形象埴輪についての質問をした人がいたので、黙っているわけにもいかないような気がしたの」

「埴輪や副葬品のことはまだ詳しく勉強していなかったので、助かりました。それから、入部したいという人がいました。一年生の男子です。次の部活動に出席してくれるそうです」

 翔太とめぐみが、顔を見合わせて喜んだ。

 野原は、予想していたよりも関心を持ってくれた人が多かったことに触れた。

「今日、来てくれた人は何人くらいかな」

来場者名簿を手に持って、めぐみが言った。

「名簿に記入してくれた人は三十人くらいですが、記入しなかった人も含めると、午前と午後を合わせて、五十人を超えていると思います」

「先生、荒張君と菅谷さんは、呼び込みとチラシ配りもやってくれたんです」

「それはご苦労さんだったね。いい経験になっただろう」

「はい、地元の人も来てくれたみたいです」

「そう。地元の人が地域の歴史に関心を持ってくれる機会になったことは間違いないね。それに芹沢部長を中心に説明役を務めたことは、よい勉強と経験になったね。他人に分かりやすく説明することは、これからますます大事になってくると思うよ。大学入試の筆記試験でも、論理的に文章を組み立てているかが、評価の基準になるからね。ああ、そうだ、羽生君。M大学の推薦入試に向けて、準備はどうかね」

「はい、お陰様で。今、提出するレポートを書いているんですが、もう少しで完成です。年内に内申書と一緒に提出して、来年はじめに面接試験があり、その後で、合否の結果発表です」

「そうか、羽生君はしっかり準備しているから大丈夫と思うけど、頑張ってくれよ。後輩も後に続くからね」

「先輩、頑張ってください」健人らが声をかけた。

「ありがとう。後輩のみんなも頑張ってくれているし、応援してくれているから、背中を押していただいている気がします。特に、部長の芹沢君が古墳の研究と地歴部の運営にしっかり取り組んでくれているので、安心して受験の準備ができるのよ」

「先輩の期待を裏切らないように、頑張ってるだけっす」

「うん、それでいいのよ。それが地歴部の伝統を受け継ぐことなのよ。ねえ、先生」

「そういうことだ。よかった。よかった」

 野原は健人の肩を叩きながら大きく肯いた。

「ところで、今日は来場者からたくさんの質問をもらったね。どんな質問があったか記録しておくといいね。古墳について、一般の人たちがどんなことに関心があるのか、どんなことを疑問に思うのか。いいデータがとれたようなものだよ。アンケートを実施したのと同じだね。それをもとに、僕たちがこれから研究を進める上で、ヒントをもらったことになるね。

 古墳を研究することは、実に奥が深いと僕は考えているんだ。古墳時代は、文字はなくとも未開社会ではなく、言わば文明社会なんだよ。死者をどのように葬るかは、当時の社会の文化、思想、死生観、さらには政治的な背景までをも反映してくると思う。死者が社会の中でどのような立場にあり、評価されていたか、遺族への配慮はどうだったのか。、葬送後の地域社会はどのように続いていくのか、それに何度か言ったように、ヤマト王権との関係性などが、古墳を研究していると見えてくるんだよ。

芹沢君の問題提起、つまり、霞ヶ浦のそばに大きな古墳が築かれたのはなぜかというテーマを追求したことで、ずいぶん勉強になったね。

 それは、古代エジプトのピラミッド、古代中国の秦の始皇帝陵の調査研究によって、多くのことが分ってきたことに通じるよ。だから古墳を研究することは、偏ったマニアの研究ではなくて、人間とは何か、社会とは何かを改めて追及していることになるんだよ。だから君たちは、自信をもって地歴部の活動に取り組んでほしいね」

「はい、分かりました」

 健人たち部員は眼を輝かせて肯いた。

                    了 

                   

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