涙の向こうの大きな湖

 土浦市の霞ヶ浦総合公園から、霞ヶ浦が見えた。霞ヶ浦は広々として豊かな水を湛えていた。公園の一角にオランダ式の風車が、ゆっくりと回っていた。すぐ近くに二階建ての洋館風のネーチャーセンターが建っていた。傍らには、数本のポプラの樹が植栽され、今では大樹となって、水郷の代表的な景観を形づくっていた。水生植物園には木道が整備され、散策する市民の姿があった。教師に引率された小学生たちが、にぎやかに会話しながら植物を観察していた。葦原では、オオヨシキリが賑やかに囀っていた。葦原の中には、ハンノキやジャヤナギなどの樹木が茂り、野鳥の隠れ場となっていた。五月半ばの霞ヶ浦は、梅雨入りを前にして瑞々しい薄緑色に囲まれ、浅葱色の空に覆われていた。

孫娘の紗江に押された車椅子で、久し振りに霞ヶ浦を見に来た雨宮貞子は、柔和な表情だった。

貞子が独り言のように言った。

「霞ヶ浦は遠目にはきれいだねえ。嫁に来た頃と同じね」

紗江が不思議そうに尋ねた。

「おばあちゃんが土浦にお嫁に来た頃って、五十年以上前だよね。その頃はきれいだったのかなあ。今は水が汚れて、きれいじゃないよね」

「そりゃ、水は変わったさ。あの頃は、この公園は整備されていなかったし、土浦駅前のビルもないから、駅舎から霞ヶ浦が見えたんだよ。お嫁に来た頃は、終戦後十年以上経っていたけど、みんなの暮らしは質素だった。土浦は空襲を受けなかったんだけど、駅前から木造の古い家がひしめくように軒を並べていた。でも霞ヶ浦の水はきれいで、夏になると子どもらが泳いでいたんだよ」

 紗江はまだ腑に落ちない様子だった。

「今は霞ヶ浦の水は汚れて、夏にはアオコが出ることもあるし、泳ぐ人はいないよね。それでも、遠目には変わっていないわけ?」

「遠目に見れば、それほど変わらないよ。でも、水の近くに寄れば、大違いだよ。水が濁っているし、魚が死んで浮いていたり、ゴミが散らばっていたりだろ。土浦の町の人も、霞ヶ浦を見に行くことはあまりないしね。でも町の人が霞ヶ浦に関心が薄いのは昔からだね。土浦は、霞ヶ浦の水運で栄えた町なんだけど、今の人はそれを忘れているからね。もっと、もっと、地元の人は霞ヶ浦を大切にしてほしいね」

「おばあちゃんは、この五十年くらいの霞ヶ浦の変わり方を、見てきたわけだね」

「まあ、そうだね。でも昔のことは忘れてしまったことも多いね」

紗江は目を輝かせた。

「ねえ、おばあちゃん。おばあちゃんの子どもの頃やお嫁さんに来たころのお話、聞かせて。私、大学の文学部の四年生でしょ。卒業論文が必修なの。普通は一人の作家の作品をじっくりと読んで、作品を生みだした作家の人生や文体や執筆過程などを調べて、分析して論文にする人が多いの。でも私は自分で小説を書いてみたいの。それで先生に相談したら、創作はいい勉強になるから、小説に挑戦してみなさいって言われたの」

貞子は、目を細めて孫娘を見つめた。

「おや、小説ねえ。それはたいへんだ。ぜひ芥川賞をとっておくれ。最近は若い女子大生が受賞してるわね」

「初めての小説で芥川賞は無理よ。でも、先生がおっしゃるには、背伸びせず、素材を集めるために、まず家族の聞き取りから始めたらどうかって。とくにお年寄りは、誰でも自分史が書けるくらい、重くて曲がりくねった人生を歩んできているから、それを掘り起こして材料にすれば、よい小説が書けるんだって。今まで、おばあちゃんから昔のことを少し聞いたことがあったけど、おもしろかった。おばあちゃんの人生って、小説になりそうじゃない?」

「おやおや、小説のヒロインになるのかい?やめておくれよ。私の人生なんて、特別なことは何もないよ。みんなといっしょに苦労して、がんばって生きてきただけよ」

「おばあちゃん、それをもっと話してみてよ。おばあちゃんは東京の下町生まれでしょ。子どもの頃はどんな暮らしだったの?」

貞子は少し考え、視線を霞ヶ浦の湖面に向けた。

「そうだね。ずうーと、心にしまいこんでいた話もあるしね。話しているうちに思い出すこともあるかもしれないね。紗江ちゃんのために、少しずつ話してみようかね」

 紗江は眼を輝かせた。

「やったー。おばあちゃん。ありがとう。じゃあ、明日からでも、家の居間で、お話聞いてもいいかな?」

「ああ、いいよ。それはそうと、もう昼近くで日差しが強くなってきたし、風も出てきたようだ。そろそろ帰ろうか」

 公園の水生植物園の葦の葉が風にそよいでいた。紗江も頬に風を感じ始めていた。霞ヶ浦には漣が出て、波頭がキラキラ輝いた。

「そうだね。じゃあ、車に戻るよ」

 紗江は車椅子を押して駐車場に戻り、祖母を軽ワゴン車の助手席に座らせた後、後部の荷台に車椅子を収納した。

                      *

 次の日の午後、貞子と紗江は、日当たりが良い居間のテーブルに座った。居間に続く縁側からは、石蕗や羊歯が植えられた小さな庭が眺められた。数年前まで、貞子の体が丈夫だった頃は、暇を見ては雑草を抜いたり、気に入った草花を植えたりして手入れしていたが、今は少し荒れてきていた。

「庭の手入れをしたいけど、足腰が弱ってしまったからねえ。残念だけど」

「お父さんが言ってたわ。近いうちに庭師さんを呼んで手入れしてもらうんだって」

「庭師を呼んだら、お金がかかるね。それに、気に入るように手入れしてもらうのはたいへんだよ」

「お父さんは、患者さんの診療で忙しいし、お母さんも病院の事務や地域の女性団体の活動で時間がとれないみたい」

 紗江は、テーブルの上に小型の録音機とノートを用意した。貞子は少し緊張気味で体を固くしていた。

「さあ、おばあちゃん。準備ができたわよ。えへへ、なんだか、プロのインタビューアーみたい。ちょっと緊張するな。でもおばあちゃんは、リラックスしてよ」

「インタビューなんて、生まれて初めてだよ。でも、孫娘のためだからね。協力するよ」

「ありがとう、おばあちゃん。じゃあ、スタートするよ」

紗江は録音機のボタンを押した。

「おばあちゃん。おばあちゃんが生まれたころのお話、聞きたいな。おばあちゃんはどこで生まれたの?」

「そうだねえ。あたしが生まれたのは、東京都の、今の江東区の小名木川沿いで、町工場をやっていた家なんだよ。小名木川っていうのはねえ、江戸時代に掘られた運河なんだよ。江戸、明治、大正、昭和と、たくさんの舟が行ったり来たり。茨城、栃木、群馬、千葉の米、醤油、酒、茶、それから薪なんかも舟で運ばれて、利根川、江戸川、中川から小名木川を通って、隅田川に入って、日本橋、蔵前で荷揚げされたのさ」

「おばあちゃん、その調子」

「そうかい。じゃ続けるよ。江東区の大島、深川の本所、木場、洲崎、月島、佃島あたりは江戸時代の築地、つまり埋め立て地なんだよ。だから台風で高潮が来ると、水浸しになったものさ。波除け不動さんがあるくらいだからね。

 木場は近くだから、よく遊びに行った。木場というのは、運河で運ばれてきた大きな丸太の材木を集めて、水に浮かべてたくさん貯めておくところだよ。江戸の昔からあるんだよ。江戸は火事が多かったから、大火があると、急に材木の需要が高まるのね。

 木場では、川並という職人さんが法被を着て、鳶口を持って、川に浮かんだ大きな丸太の上で作業していたさ。器用に丸太から丸太に飛び乗って、丸太を集めては陸揚げして、製材所で加工するのよ。製材所では、大きな丸い鋸が、ゴーっていうすごい音を立てながら、廻っていて、子ども心にも怖かった。

 深川のお祭りになると、川並さんたちは、いい声で木遣り甚句を歌っていたものよ。歌い終わると見物の人たちは拍手喝采だった。

 須崎には女郎屋さんが何軒もあった。昼間は二回の窓から女郎さんたちが顔を出して、赤い襦袢姿で下を通る男たちをからかっていた」

 紗江は、女郎屋が分からない様子で首を傾げた。

「女郎というのはね、男たちを相手に、体を売る仕事をする女たちのこと。東北地方の貧しい農家出身の娘たちが、そんな仕事をしていたの。その頃は、誰も不思議に思わなかった。戦後も赤線といって、残っていたんだけど、女性の国会議員さんたちが頑張って、売春防止法を制定して、そんな仕事は禁止になったんだよ」

「そうなんだ。その頃は、女性はたいへんだったね」紗江は、やや辛そうに語る祖母を見て、しんみりした。

 貞子は気を取り直して続けた。

「佃島や月島は、もともとは漁師町なんだよ。今は、もんじゃ焼きで有名になったけど、その頃は、漁船がたくさん並んでいた。東京湾に接していて、埋め立て地が多いんだよ。だから、石川島とか越中島とか、大島とか、島がつく地名が今でも残ってるでしょう。

 あたしは、昭和十年に生まれたんだよ。実家は金属加工の下請けの町工場だったよ。毎日、ガシャン、ガシャンという機械の音が響いていたんだ。小名木川沿いにはセメント工場とか、化学工場とかいろいろな工場があった。そうそう精糖工場もあったね。白砂糖を作る工場だよ。いろいろな工場の排水がみんな川に流されるから、小名木川はいつも真っ黒で臭かった。

 あの頃は父親も母親も、朝から晩まで働いていたよ。商店街と銭湯があって、夕方は賑わったねえ。夕方になるとどこの家でも七輪やかまどで煮炊きをするから、風がない日は、その煙が立ち込めて、もうもうとしてた。近所には職工さんが住んでいて、子どもたちがたくさんいて、路地でチャンバラや缶蹴りなんかして遊んだもんだよ。なつかしいねえ」

 紗江は、頃合いに何度もうなずいた。

「昭和初期のノスタルジーっていう感じね」

「でも、あたしが物心ついたころから世の中がおかしくなったのさ。あたしが六歳の師走に太平洋戦争が始まったんだ。実家の工場は何かの機械の部品を作っていたんだけど、父親の技術を見込まれて、そのうち軍用機の部品を作るようになった。戦争が始まって、最初の頃は日本の軍隊が連戦連勝で、注文がどんどん来て忙しかったんだけど、あたしが九歳になるころには、ほそぼそとした仕事しか来なくなった。でも子どものことだから、そんなこと大して気にも止めなかったんだよ。  

そのうち、空襲警報が毎日のように続くようになって、両親は子どものことを考えて、あたしたち姉妹を疎開させたんだよ。その頃、妹の早苗も六歳になっていたね。疎開先は水戸の先の御前山村ってとこだよ。母方の遠い親戚を頼ったんだね。はじめて御前山に行った日の事は今でも憶えているよ。お母ちゃんが付き添って送ってくれたの。

水戸の手前の赤塚という駅で降りて、一輌だけの車輌がトコトコ走っている鉄道に乗り換えて行ったんだよ。茨鉄線と言っていたね。そのうち、那珂川が見えてきた。きれいな川でね。妹と二人、窓から景色を見て、歓声を上げた。それまで小名木川のドブ川しか見たことがなかったからね」

「ふうん。赤塚駅からねえ。そんな鉄道があったなんて全然知らなかった」

「若い人は知らないだろうねえ。疎開先は農家だったから、食べ物には困らなかったんだけど、転校先の小学校では最初、いじめられたわね。でもあたしは勝気だったから、東京の下町言葉でまくしたてたの。

『べらんめい、こちとら、東京は深川の生まれよ。富岡八幡様の手水場の水で産湯をつかった、ちゃきちゃきの江戸っ子よ。江戸っ子をなめちゃいけねえぜ』ってぐあいね。

悪童たちはあっけに取られたみたい。それからは、地元の子たちと仲良くなれた。でも今思い出すと、田舎の男の子たちだから、東京から来た女の子にちょっかいだして、からかってたのね。私を好きだった子もいたみたいよ」

 紗江はくすくす笑った。

「ふふ。おばあちゃんて、子どもの頃からお転婆の片鱗を見せていたのね」

「自分とちょっと違うからって、からかったり、いじめちゃいけないわね。そんなこと何十年も忘れていたのに、だんだん思い出してきた。話してみることって大事ねえ。不思議なくらいよ。

那珂川の川原ではよく遊んだものよ。那珂川は鮎釣りで有名だけど、戦時中だから鮎釣りの人は少なかった。子どもたちはカジカ捕りをして遊んだのね。カジカってわかる?」

「わかるわ。ハゼみたいな魚でしょ」

「そうそう。私も初めてカジカを捕ったときは、本当にドキドキして嬉しかった。男の子が手製の網を貸してくれたの。大きなカジカを三匹も捕ったわ。それを疎開先の家に持ち帰ったら、その頃貴重だったゴマ油で揚げてくれた。貞子が獲ったのだから貞子が食べなさいって。それが本当においしかった。早苗と分け合って食べたのよ」

「わお、ワイルド。すごーい」

「那珂川の水は、とてもきれいだった。川底の小石の一つ一つがはっきり見えたわね。カジカもよく見えたよ。夏になると、濡れるのも構わず女の子も水遊びしたよ。水着なんてないから、着の身、着のままよ。モンペをはいていたと思うけど、水から上がって、広い川原で遊んでいるうちに、すぐ乾いたんだよ」

「学校の勉強はどうだったの?」

「戦時中だからね。物がなくて辛いこともあったけど、東京に較べたら、田舎の学校は、のんびりしてた。でも昭和二十年の三月十日、東京の下町がB29の空襲を受けて焼け野原になったって、御前山村まで伝わってきた。焼夷弾で焼かれて、恐ろしい火事になって、熱風に追われて、みんな小名木川や隅田川に飛び込んで溺れた人もいたのよ。おじいちゃん、おばあちゃんは逃げ遅れて死んじゃったって、後から聞いたの。

明治生まれのおばあちゃんは、私たち姉妹を深川のお不動様や亀戸の天神様、それから富岡八幡様にも初詣やお祭りの度に連れていってくれた。飴を買ってくれたり、お汁粉を食べさせてくれたり。深川めしも食べさせてくれた。深川めしっていうのはね、丼のご飯にあさりの卵とじがのっているの。深川丼ともいうけれど、それはおいしいのよ。当時の卵はぜいたく品だったのよ。もう一度食べたいねえ。やさしいおばあちゃんだったから、空襲で亡くなったって聞いた時は本当に悲しくって、わんわん泣いたわねえ。

 その年の八月十五日、終戦になったけど、次の年の春まで、あたし達姉妹は疎開先にいたんだよ。春になって那珂川の河原の柳の樹が芽吹く頃、お母ちゃんが迎えにきてくれて、東京に戻ってバラックのような家でしばらく暮らしたの。学校も焼けたけど一部の校舎が残っていたので、授業が始まったの。天気が良い日は、青空教室で勉強したよ」

「なあに、青空教室って?」

「青空教室っていうのはね、校庭に机や椅子を持ち出して、屋外でやる授業のことよ。その次の年、かたちばかりの卒業式があって、新制中学校に入ったのね。まだ表通りは進駐軍のジープが走りまわっていた。中学校を卒業して、戦前は下町の名門女学校だった地元の新制女子高校に入ったの。あのころの同級生はなつかしいよ。今では亡くなってしまった方も多いけど、希望に満ちた花の女子高生だったからね。

学校にはバスと電車で通ったけど、学校の帰り、錦糸町の繁華街に寄って映画を観たり、両国駅前で買い食いしたり。時には少し遠出をして有楽町から銀座へ出たり、神保町の喫茶店へ行ったり。ゆっくりだけど、戦後の復興が始まって、東京に少しずつ活気が戻ってきたのよ。 

実家の金属加工の仕事も再開したわね。お父ちゃんが借金して旋盤とか工作機械を少しずつ入れて、従業員を一人、二人と増やしていった。地方から上京してきた若い人たちだった。みんな、作業服が油まみれで、真っ黒になって働いていたね。お母ちゃんはそんな従業員たちの世話をやきながら、経理の仕事をしていた。有限会社にした時には従業員は五人になっていたよ。若い人は住み込みや近くの安アパートで暮らしていたの。あたしや妹はみんなのアイドルだったのよ。まあ、『下町の太陽』ってとこかしら」

「知ってる、倍賞千恵子ね」

「おや、よく知ってるね」

「うん、フーテンの寅さんの妹役で映画に出た人よね」

「そうそう、さくらさんね。あの倍賞さんほどきれいじゃないけどね。倍賞さんは声もきれいよね。

『下町の太陽』っていう映画も作られたけど、その主題歌を、きれいな声で歌ってた。『下町の太陽』の話になったところで、今日はここまでにしない? ちょっと疲れちゃった」

貞子は息が切れてきたようだった。

「そうね。ごめんなさい。おばあちゃん。話が面白いから、つい聴き入っちゃった。今、お茶を淹れるわ」

「ありがとう。紗江ちゃん。台所の冷蔵庫にいただき物の羊羹が入っているから、切っておくれ」

 紗江は台所に立って、ポットの湯でお茶を淹れ、羊羹を厚めに切った。

「はい。お茶が入ったわ。羊羹も」

貞子は、爪楊枝で羊羹を口に入れて味わった。

「おいしいね。羊羹はこのくらい厚い方がおいしいのよね。薄い羊羹は食べた気がしないわ。甘い羊羹には濃茶がよく合うね」

「でしょう。孫娘としては、おばあちゃんの好みはしっかり把握させていただいております」

「あたしはいい孫娘を持って幸せだよ」

 紗江は、嬉しそうに微笑んだ。

「おばあちゃん、ありがとう。ところで、次のインタビューはいつにする?」

「そうだね。一週間後くらいで、どう? それまでに話すことを考えておくよ」

「オーケー。その間、大学の先生に報告しておくわ。一回目のインタビューは順調でしたって」

                      *

一週間後、貞子と紗江は再び、居間のテーブルの椅子に座っていた。

「卒業創作を指導してくれている柳田先生に、報告したの。先生は励ましてくれたけど、話し手から話を引き出すことは、とても難しいと仰っていたわ」

「そうね。でも紗江ちゃんは、とても上手よ。あたしの話を頷きながら真剣に聞いてくれるから、話し甲斐があるよ。あたしの方も、紗江ちゃんに、この機会に話しておきたいと思うようになった。この一週間、いろいろ考えたんだけど、語り部の役割ってとても大切なんじゃないかって、思ったのよ。あたしに孫娘がいて本当によかった」

「うふふ。なんか、日本昔ばなしの雰囲気かな。おばあちゃん、市原悦子さんみたい。じゃ。おばあちゃん、始めていい?」

「いいよ。そうだねえ。今回は高校を卒業した後の話からだったね。高校を卒業したら、看護師を目指して、江東区医師会の看護学校に入ったのね。白衣の天使に憧れたからね。それに、独り立ちして、一生食べていくには、資格をとることだって思ったの」

「看護学校って、勉強がたいへんなんでしょう?」

「それはそうよ。人間の命を扱う、責任がとても重い仕事につく人を養成する学校だから、厳しかったねえ。それまで身内では医療に係わる人がいなかったから、雰囲気になれるまでがたいへんだった。でも、同級生の中にはあたしみたいに、あまり裕福じゃない家の娘が多かったから、すぐに打ち解けて何でも話せる友達ができた。地方から出てきた静かなおとなしい子もいたね。その人たちと励ましあって何とか勉強を続けられたのかな」

「授業料とか学費は大丈夫だったの?」

「あたしは、奨学金をもらえたのよ。医師会立の看護学校だから、希望すれば成績優秀者には奨学金が支給されたの。卒業して国家試験を受けて、正看護師の資格を取って、区内の病院に就職すれば返還免除っていう条件がついていたけどね」

 紗江は祖母を改めて尊敬のまなざしで見た。

「やっぱり、おばあちゃんは頑張り屋さんだったのね」

「あたしのお父さんもお母さんも頑張っていたからね。そんな両親を見て育ったからかしらね。そうして卒業して国家試験も無事通って、江南労災病院に就職したのよ。江南労災病院は、区内の大きな企業が出資して協同で作った病院でね。そのころは町工場の労働環境が悪かった。安全管理も不十分。生産第一で、労働者は使い捨てみたいなものだったね。地方から出てきた若い工員さんが多かった。機械に巻き込まれて大怪我をして担ぎ込まれたり、有毒ガスを吸って意識不明になって運び込まれる患者が後を絶たなかった。

工場内は空気が悪いでしょ。慢性の呼吸器疾患、気管支炎や肺炎、肺結核にかかる人も多かった。化学物質を吸い込んでしまって、肺、腎臓、胆嚢、肝臓を患う人もいたわね。それぞれの患者さんを医師が診察して、診断書を書いて、労災認定するんだよ。医師の仕事もたいへんだったねえ。労災認定されれば、治療費の補助が出たの。

高度経済成長が始まって、そのころの東京は、大気汚染でスモッグが発生したり、隅田川、神田川、日本橋川、小名木川、中川、多摩川も汚染がひどかった。江東区はもともと、大企業、中小企業だけでなく、下請けの零細工場が多い下町だから、衛生環境、労働環境は悪かったの。入院患者が多かったので、私たち看護師の夜勤も多かった。若かったから務められた気がするわね。それでも、治療の甲斐あって退院する若い工員さんを、担当した病院職員一同で見送る時が一番嬉しかったわね」

紗江が話題をふった。

「楽しかったことは?」

「そうね。歌声喫茶が賑わったころだから、たまの休日に看護師仲間と、そういうところに行って、みんなで歌ったわねえ」

「どんな歌?」

「ロシア民謡ね。カチューシャ、赤いサラファン、トロイカとかね。そうそう、吉永小百合とマヒナスターズの『寒い朝』もよく歌ったねえ」

「今も歌える?」

「たぶん。でも声が出るかしら。こんな歌よ」

貞子はゆっくりと歌い始めた。紗江はじっと聴き入った。一番の歌詞を歌いきった貞子は、ほっと息を吐いた。紗江は思わず拍手した。

「おばあちゃん。すごーい。きれいな歌ね」

「歌うのは何十年ぶりかしらね、この歌。よく憶えていたものだわねえ。自分でもびっくりした。でも歌の力って偉大ね。この歳になっても憶えているなんて」

「歌声喫茶っていうのがあったって、テレビの番組で紹介していたのを見たことがあるけど、おばあちゃんも行ってたんだね」

「そうよ。男の人たちも来ていてね。どこかの町工場の工員さんとか、学生帽に学生服の学生さんとか。町工場でアルバイトしている学生さんもいた。グループで来ている人たちが多かったわね。あたしたちもグループだから、喫茶店でコーヒー一杯で粘って、ドキドキしながら話し合うのが楽しかった」

「どんな話をしたの?」

「話の内容はあまり憶えていないけどねえ。たぶん、どんな仕事をしてるのとか、映画俳優は誰が好きとか、聞いたかもしれない。でも話の内容よりも、同じ年頃の男の人たちと話すことが楽しかったのね」

「素敵な出会いとか?」

「それは、なかったね。看護師仲間は身持ちが固いし、気晴らしに行っていただけだったから。あ、思い出したわ。とても色白の美人の仲間がいたんだけど、その人は新潟出身でね。同郷の学生さんと相思相愛の仲になってね。その学生さんが卒業すると同時に新潟に帰った人がいたわね。あたしたちは羨ましくて、しばらく話題にしたものよ」

「ふーん。おばあちゃんの青春時代ね」

「東京は、アメリカ文化がどんどん入ってきたから、若い人たちは、映画やジャズやファッションでアメリカナイズされていったの。それでも真面目な人は、歌声喫茶、新劇の演劇公演、絵画の展覧会などへ行ったものよ。労音とか労演とか、労働組合の文化活動ね。そうそう組合運動も盛んだった。私たちも医療労組で待遇改善と賃上げ要求のデモに参加したこともあったわねえ」

 紗江は眼を丸くして驚いた。

「えー。おばあちゃん。デモに参加したこともあるの。初めて聞いた」

「そう。看護師の制服姿でね、プラカードを掲げて、拳を突き上げたんだよ。アンポ反対、給料上げろってね。アンポって何だかよくわからなかったけどね。労働組合の役員さんたちが言うのをまねしただけ。そんなふうに仕事と人生を楽しみながら教養を身につけて、生活のバランスをとって、三年ほど勤めたら、同じ病院の勤務医からプロポーズされちゃったのよ」

「やった。それが、おじいちゃんね?」

「そう、亡くなったおじいちゃん。雨宮よ。今のイケメンとはとても言えないけど、とても真面目な人だったねえ。あたしは当分結婚しないつもりだったんだけど、何回か誘われてデートを重ねるうちに、心が少しずつ動いてしまったんだよ。女心は弱いっていうのかねえ。

 雨宮は内科医で、あたしは外科病棟担当だった。最初は仕事の話をしていたんだけど、雨宮はアメリカの医学がいかに進歩しているか、日本がいかに遅れているか、自分もアメリカに留学して最新の医学を勉強したいとか、熱く語ってくれるので、だんだんあたしも惹かれていったのね。

それに、雨宮の出身地が土浦だったので、あたしも茨城県の御前山村に疎開していた話をしたら、茨城弁の話題で盛り上がったこともあったんだよ。―ごじゃっぺーとか、―つっぺるーとか、―しみじみするーとか、―かえって、かえってーとか、いやどうもーとか。二人で大笑いしたのよ。それでいつのまにか気が合うようになって、プロポーズを受けちゃったのよ」

「えー、私もわからない茨城弁もあるよ。かえって、かえってって、どういう意味なの」

「かえってかえって、は、どういたしましてっていう意味よ。茨城のおじさんやおばさんはよく使うわね。今の若い人はもう使わないでしょうね」

「へーえ、でもデートの話題に、医学の話とか茨城弁の話とか、あまりロマンチックじゃないわね」

 紗江がからかった。

「まあね。相手が堅物だったからね。あたしはちゃきちゃきの江戸っ子だから、はっきりものを言う人が好きなんだけど、雨宮なりに朴訥に話すのにだんだん慣れていったのよ。まあ、人柄が良かったからねえ。休日には歌舞伎座に誘われたり、銀座の画廊に洋画の個展を見に行ったこともあった。あたしは、東京の街が好きだったんだよ。雨宮も、それなりに楽しんでいたみたい。何しろ、勤務医の仕事はストレスが多いから、いい息抜きになったんじゃないかねえ。

 それで二年ほどお付き合いして、ささやかな結婚式を挙げたのよ。病院関係者と両家の親戚縁者だけのね。あ、看護学校時代の友達も来てくれたわね。新婚旅行は当時、お決まりの熱海温泉だったねえ。今みたいに海外旅行なんて考えたこともなかった。結婚してからは、空襲で焼け残った同潤会アパートで暮らしたのね。同潤会アパートって知ってる? ほら、『東京物語』っていう映画で、原節子さんが演じた、きれいな未亡人の女性が住んでいたアパートよ」

「いいえ、初めて聞いたわ。『東京物語』っていう映画も観たことないの」

「そうよね、若い人は知らないだろうね。当時、東京の庶民にとって、同潤会アパートで暮らすのは憧れだったんだよ。都市ガス、水洗トイレが完備していたからね。とってもハイカラだった。

同じ職場だから、雨宮も理解があって、家事をできるだけ手伝ってくれた。幸せな新婚生活だったねえ。そのうち、長男が生まれたので、同潤会アパートに因んで、潤一と名づけたのよ。それがあなたのお父さん。よく夜泣きする赤ん坊だった」

 それを聞いて、紗江は噴き出した。

「えー、お父さんの名前って、アパート名から来てるの? おかしい。あはは」

「笑うことないでしょ。潤はいい漢字なんだから。潤沢という言葉もあるでしょ」

「それはそうだけど、命名のきっかけがアパートだったなんて。お父さんは知ってるの?」

「潤一には言ったことはないね」

「本人が知ったら、複雑な気持ちでしょうね」

「じゃ、当分秘密ね。その同潤会アパートに三年住んだ頃、土浦の雨宮病院の院長をしていた義父が過労から病を得て、急死してしまったの。それで、あたしたち家族は東京を引き上げて土浦に来たんだよ。雨宮は、本当はアメリカに留学して、あちらの病院で働きたかったんだけどね。雨宮にとっては、父親の病院を継ぐために戻ったということね。土浦の雨宮病院は個人病院で、紗江ちゃんが知ってのとおり、内科と小児科の外来専門ね。

その頃の土浦市は茨城県南の中心の街で、昔の城下町で商業都市だから、周辺の町や村からたくさんの人が土浦に集まったのね。そのころ、デパートが五つくらいあったわね。デパートの屋上にはかならず小さな遊園地があったし、子どもたちはデパートの食堂でお子様ランチを食べるのが楽しみだったのよ。それが今は、駅前商店街はシャッター通りになって、さびれて、デパートは一つも無いんだからね。嘆かわしいねえ。まあ、さすがに今の市長さんの時代になって、市役所が駅前に移転して、駅周辺は少し賑やかになってきたけどね」

「え、昔はデパートが五つもあったの?」

「ええ、駅前通りのアーケード商店街は、日曜日には東京の銀座なみの賑わいだった。映画館も五つくらいあったかしら。

うちの病院も、患者さんがひきもきらずで、あたしは婦長役だから、本当に忙しかった。そのうち、若い看護師さんを二名、医療事務員を一人雇って、やっと少しは楽になったけどね。

でも、子育てや家事もやりながらだからね。もう夢中だった。文化的な活動をやる余裕なんてなかったし、当時の土浦にはそんなサークルもなかったわねえ。たまに東京に出ることもできなかった。東京のコンサートや絵画展に行きたくてしかたがなかったけど、とてもとても無理よ。

生活習慣の違いから、お姑さん、つまりあなたのひいおばあちゃんから、怒られた時は悲しいやら、悔しいやらで、とうとう、東京の実家に帰ろうと、土浦駅まで来てしまったことがあったわね。でも、駅舎から、涙の向こうに大きな湖、霞ヶ浦がかすんで見えたら、少し気持ちが落ちついてきてね。白い帆引船もたくさん浮かんでいた。そして、こう思ったの。―東京とひきかえに、こんな大きな湖を手に入れたのだから、もう少しがんばってみようーってね。まあ、霞ヶ浦に励まされた格好だったね。だから霞ヶ浦には感謝してるよ」

貞子がそこまで話したところで紗江は録音機をオフにした。

「オーケー。さあ、霞ヶ浦の話になってきたところで、今日はここまでにしましょう。おばあちゃんは気持ちが若いから、話し始めると止まらなくなって、疲れが残ると困るわ」

「ありがとう。お言葉に甘えて、そうさせていただくね」

「じゃ、お茶淹れるね。スィーツは、茨城の定番、干し芋が残っていたわね」

 その時、紗江の父、潤一が白衣姿で居間に入ってきた、首には聴診器をかけていた。

「ああ、午後の診察が一段落したので休憩だ。紗江、お父さんもお茶、もらおうかな。おや、録音機なんか持ち出して、お袋から何か話を聞いてるの?」

「そうよ、お父さんの子どもの頃の話。泣き虫だったって、おばあちゃん、言ってたわよ」

「え、それは大昔のことだよ。父親の権威が台無しになるから、お母さん、紗江に変なこと教えないでくれよ」

「やっぱり、そうなんだ。自分から白状したわ。実はね、お父さん、おばあちゃんに自分史を語ってもらっていたの。ファミリー・ヒストリーね。小説の材料にするのよ」

貞子は孫娘の肩を持って言った。

「紗江ちゃんは、大学の卒業論文替わりに、小説を書いてみるそうよ。面白いじゃない?」

 潤一は、当惑した顔で言った。

「小説はしょせん作り話だろう。事実の方がもっと面白いはずだよ。事実は小説より奇なりっていうからね」

紗江も負けずに言った。

「だから、おばあちゃんに、これまでの人生を話してもらっているのよ。それを素材にして小説にするから、全くの作り話じゃないわ。あ、お茶淹れるね」

 潤一は、紗江の論理に根負けした。

「そうか。まあ、いいけど。僕も登場するのかい。その小説に?」

「まだわからないわ。面白いエピソードがあったら、小説に書いてもいいわね」

「それは、あたしの思い出話の展開次第ってこと」

 貞子は若い娘のように、肩をすくめて悪戯っぽく笑った。

                        *

 一週間後、貞子は紗江に言った。

「今日は、また、霞ヶ浦の傍の公園に連れてって。霞ヶ浦の話から始めるからね」

「いいわよ。梅雨の晴れ間で日差しが強そうだから、日傘と帽子は必要ね」

 公園の駐車場で軽ワゴン車を降り、車椅子に乗った貞子は、霞ヶ浦がよく見える広場の端に連れてきてもらった。

貞子が湖面を見つめた。

「ここがよさそうね」

 貞子は白い日除け帽を被り、紗江は日傘を祖母に差しかけた。録音機を車椅子の後ろの取っ手にかけ、スイッチをオンにした。

 霞ヶ浦は葦原の向こうに、穏やかで広大な水面を見せていた。湖上には白い綿をちぎったような雲が、浮かんでいた。

「確かに霞ヶ浦は遠目にはきれいなのよね。おばあちゃんが土浦に来て、辛かった頃の霞ヶ浦はどんなだったの?」

「あたしは、江東区の小名木川の汚れた水を見ながら育ったのよ。それに比べたら、その頃の霞ヶ浦の水はずっときれいだった。まだ遊泳場がいくつもあって、夏になると町内会で浮島の遊泳場に、土浦港から大きな遊覧船に乗って行ったんだよ。遊覧船は、さつき丸っていったかしらね。きれいな白い船だった。

 浮島は遠浅の砂浜でね。何百人もの人が泳いだり、ボート遊びしたり、砂浜で甲羅干ししたり。本当に海の海水浴場とおんなじだよ。潤一は、海に来たと思って、はしゃいで大喜びで、水辺で遊んでいたよ」

「えー。可笑しい。お父さん、霞ヶ浦を海だと思っていたなんて」

「まだ、潤一が十歳になる前だからね。あれから五十年以上経ってしまったわね。それから間も無く、霞ヶ浦の水は汚れ始めて、アオコが出るようになったの。あっという間だった。ある年にはアオコで霞ヶ浦全体が覆われてしまって、養殖場の鯉がたくさん死んだこともあったわねえ。そのころは高度経済成長の時代で、生活水準が高くなって、洗濯機が普及して、それから、風呂や台所の排水も川を通じて霞ヶ浦に入ったの。

 生活排水だけでなく、工場や田んぼの排水、それから蓮田や養豚場の排水も霞ヶ浦に入ったのよ。蓮田では、たくさん肥料を入れていたの。市街地では、下水道の整備が追いつかなかった。みんなは便利で快適な暮らしを求めて、それぞれ仕事に、家庭生活に頑張ったけれど、様々な排水が霞ヶ浦に集まることは、あまり考えなかったねえ。台所の流しに排水を流して、目の前から見えなくなれば、もう忘れちゃうのよね。

そのうち、霞ヶ浦から取る水道水がカビ臭かったり、アオコ臭かったりして、とても飲めなくなったの。特に赤ちゃんに粉ミルクを飲ませる若いお母さんが心配したのね。結局、霞ヶ浦はしっぺがえしをしたのね、地域の人間社会に。まあ、今だから言えることかもしれないけど、因果応報っていうことね。水道水の水源は、霞ヶ浦しかないのに、その霞ヶ浦を大事にしなかったのね」

「でも、それから県や県民は霞ヶ浦の環境問題に真剣に取り組むようになったんでしょ?」

「そうよ。私たち住民にとって、いい勉強というか、教訓になったのね。失敗から学ぶのが人間ね。いろいろと県の条例を作ったり、下水道を普及させたり、肥料を使い過ぎないようにしたりね。家庭排水にも気を使ったのよ。合成洗剤をできるだけ使わずに、粉せっけんを使う運動を起こしたりね。

 霞ヶ浦の周辺部は、農地や養豚場、養鶏場が多いのよね。農地のうち、蓮田ではたくさん肥料を使うのよ。稲の水田の三倍以上も肥料を使うのよ。肥料は豚糞や鶏糞が多かったの。ようやく最近は肥料のやり過ぎに注意するようになったわね。茨城県南部、中央部は養豚農家も多いのね。豚糞は周辺に堀った素掘りの穴に貯めていることが多かったの。それが、大雨が降ると、近くの川に流れ出したのね。養鶏場も同じね。紗江ちゃんは、豚や鶏の餌はどこから来ると思う?」

「えー。考えたこともなかったけど。農家が契約栽培している餌用の穀物かな」

「いいえ、ほとんどは輸入飼料なの。カナダ、アメリカ、中国、南米などから輸入した餌なの。つまり、外国から、家畜の餌のかたちで、過剰の窒素やりんが霞ヶ浦流域に運ばれてきて、一部は、豚肉や鶏肉、卵になるけど、残りは家畜の体を通って、排泄されて、近くの農地に肥料として施されるの。つまり、結局、雨が降って、川の水や地下水になって、肥料分が霞ヶ浦に集まり、湖水が富栄養化するという仕組みなのよ」

「なるほど、言われてみればそうね」

「そんなこと、学校では教わらないでしょ。そうそう、茨城大学農学部の先生の研究では、水田では、適正に肥料をやるので、霞ヶ浦を汚染する割合は少ないらしいの。私たちの活動に協力してくれた先生はそう、仰ってた。でも、畑の野菜栽培では、肥料をたくさん使う傾向があるそうよ。

畑の肥料では、ハクサイ、レタス、コマツナ、ホウレンソウなど葉物野菜は、出荷直前まで青々していなければ売り物にならないので、肥料をたくさんやるわけね。それが雨で流れ出したり、地下水を汚染する。

 そんな茨城県民が生産した野菜、レンコン、米、豚肉、鶏肉、卵を消費するのは、東京はじめ首都圏住民でしょう。ところが、首都圏の人は、自分たちの食糧を生産するために、霞ヶ浦の水が汚れることに、全然気が付いていないでしょ。考えたこともないでしょ。それが、大きな問題ね」

「ふーん。そうなんだ」

「土浦市内を流れる桜川、花室川、備前川、新川、境川は、当時はゴミだらけで本当に汚かったのよ。川をゴミ捨て場にするのが常識だった時代ね。桜川が増水した時には、古畳を流す人もいたの。ひどい場合は、汲み取りしたし尿を桶に入れて、舟に積んで、霞ヶ浦の沖合に行って、流したこともあったそうよ。そういう舟を町の人はダラ舟と言ったそうよ」

「うわあ、汚い」

「そう言うけど、そのころは、し尿は下肥と言って、近隣の農家が野菜用の肥料として引き取ったものよ。だから、汚いという感覚はなかったの。それは、姑さん、つまり、あなたのひいおばあちゃんから聞いた話だけどね。そういえば、戦後間もなくまで、東京湾でも、おわい舟が出て、下町の家庭のし尿を海に流していたけどね。その後、バキュームカーが汲み取りに来るようになり、今は都市部では、下水道が整備されたわけ。

ところで、今でも土浦の新川べりには、家庭ゴミの置き場が多いでしょう。新川にゴミを捨てていた時代の名残りなのよ。あたしが土浦に来た頃には、土浦城のお堀から続く川口川はほとんど埋め立てられていたんだけど、川口川もゴミ捨て場だったのよ。市街地の真ん中を流れる川口川は、商店街や住宅から無処理で放流される生活排水で汚れ、ゴミがひどくて、臭くて、埋め立てるしか方法がなかったそうよ。そんな川が行き着く先が霞ヶ浦なのよ。

霞ヶ浦は大きな湖だからね。いったん汚れてしまったら、きれいにするのは簡単じゃないからね。でも私は、東京の隅田川や多摩川や小名木川が、下水道の普及や都民の努力できれいになったことを知っているから、霞ヶ浦もいつかきれいになると思ってるんだよ。

東京都民と霞ヶ浦周辺の市町村の住民が使う水道水や下水処理水の放流先の違いを考えてごらんなさい。東京都民は、水道原水を利根川、江戸川、荒川、多摩川の上流や中流に頼っているわね。多摩地区では地下水に頼っているところもある。それらの水質は比較的いいわね。その水を洗濯、トイレ、台所で使う。もちろん飲料水や調理の水にも使う。使った水は下水処理場で処理されて、東京湾に入るのよ。東京湾は太平洋に続く内湾だし、海水だから、都市用水として再度取水することはないでしょ。では、土浦市やつくば市の都市用水はどこからくるか、わかるでしょ。紗江ちゃん?」

「ええ、霞ヶ浦からね」

「そのとおり、じゃ、私たちが使った水は、下水処理場や合併処理浄化槽などで処理されるわね。農村部では農業集落排水処理施設も稼働してる。それらの処理施設で処理された水はどこへいくの?」

「やはり、霞ヶ浦よね」

「そう、だから、霞ヶ浦の湖水は、湖と流域で循環してるの。私たち住民が使うたびに霞ヶ浦の水は汚れて、リサイクルされてるわけね。農業用水も工業用水も同じね。もちろん、雨水も降るけれど、霞ヶ浦流域の年間平均降雨水量は、千二百ミリくらいだから、日本でも、瀬戸内地方と同じくらいの少雨地方なのよ。茨城県民もお役人もそのことに気が付いていないのよ。嘆かわしいわね」

「確かに、瀬戸内式気候は学校で勉強するけど、茨城県の降雨量が少ないことは習わないわね」

「とにかく、上水道の水源が霞ヶ浦なのよ。そして、使い捨てた下水は、下水処理場などで処理されるけれど、下水処理水の水質は、窒素やリンの濃度でみると、霞ヶ浦の水質よりも三倍くらい高いのね。霞ヶ浦の富栄養化の改善が困難であることが分るでしょ」

「霞ヶ浦の水がぐるぐる回っているだけなのね。よく考えてみると、恐いわね」

紗江は、貞子たちの市民活動の原点が分る気がしてきた。

貞子が続けた。

「そう。こういう地域は日本でも他にはないわね。だから、いろいろな女性たちの集まりや市民活動の場で、霞ヶ浦を大切にしましょうって訴えてきたのよ。同じ考えの人たちと環境を守る市民団体も作ったのよ。その市民団体は今では、会員が増えて、活発に活動を続けているよ。

県や市にも、アンケート結果を突き付けたり、いろいろな方法で働きかけてきたのよ。でも当時の公務員は、私たちを敬遠してた。女性たちが難しい水問題に取り組むなんて、とんでもない、という態度だったよ。私たちを、面倒なことを持ち込む、今で言うクレーマーとしか見ていなかった。

憲法に民主主義が謳われているのに、県庁や市役所職員は市民の意見や要望を大事にする姿勢が足りなかったのよ。公務員とはずいぶんやりあったものよ。今でも思い出すと、ムカムカするね。

それから学生さんや子どもたちと、水質調査を毎年やったのよ。その結果をパンフレットにして配ったり、全国的な集会で発表したり。お金を集めるのもたいへんだった。長い時間がかかったわ。でも、ようやく今では、霞ヶ浦の水がだいぶよくなって、アオコが出ることもほとんどなくなったでしょう?」

紗江は、今まで、霞ヶ浦の市民運動について、よく知らなかったことが恥ずかしかった。祖母の話を聞いて、改めて、貞子たちが起こした市民運動の成果に感激した。

「ふーん。霞ヶ浦が少しずつきれいになってきたのは、おばあちゃんたちの活動があったからなのね。今までも少し聞いたことがあったけど、あらためて、まとめて聞くとすごいね。おばあちゃんは楽天的っていうのかな。いつも希望と目標を持ってきたのね」

「希望・・・。そう。希望というか展望が大事よね。それは単なる夢じゃないの。根拠がない夢ではいけないわ。希望を実現するには、市民一人ひとりが展望と計画を持って、確かな対策を少しずつ進めて、協力して一歩一歩努力することが肝心よ。市民活動も患者さんの治療と同じね」

 梅雨の晴れ間も束の間、雲がかかり始め、日差しがさえぎられ、湿った風が吹いてきた。

紗江が敏感に天気の変化を感じとった。

「おばあちゃん、また雨になりそうね」

「そうだね。そういう自然の変化を注意深く観察して、受け入れることも大事だよ。人間は自分たちのことばかり考えて、自然を人間に従わせようとしてきた。自然を利用してきた。その結果が霞ヶ浦をはじめ、水の問題に集約されると思うよ。水はいろいろなものを溶かしこむからね。幸い、今は霞ヶ浦を大事にすることが市民や行政の常識になってきたし、霞ヶ浦の研究をする専門家も多くなった。ありがたいことだね」

「それも、おばあちゃんたちが、頑張って霞ヶ浦の運動を続けてきたから、周りの人や行政を動かしたのね。おばあちゃんが東京の下町育ちだから、いつも明るく、土浦の地元の人たちとの付き合いを大事にしながら、市民運動を進めてきたことも大きいかもしれないね」

貞子は肯いた。

「そうだね。そのことはそれほど意識してこなかったけど、結果としては良かったかもね。それに何より、霞ヶ浦への恩返しのようなものなの。霞ヶ浦が私を励ましてくれたし、ここで頑張るしかないんだと決意させてくれたんだよ。それから、私がもともとはよそ者だったから、霞ヶ浦の環境問題に気が付いたのかもしれない。

地元で生まれ育った人にとって、霞ヶ浦は、ものごころついた時からあるもので、よくしていこうという発想がまずないのね。自分の両親は、良かれ悪しかれ、親として認めるしかないのと同じかもしれない。自分の両親を変えようなんて思わないでしょ」

「それはそうかもしれない」

紗江の頬の皮膚が湿り気を感じていた。霞ヶ浦の上空を見上げると、いつの間にか、灰色の雲が広がり、少し厚くなってきたようだ。

「さあ、空気が湿ってきたのがわかるわ。雨になるかもしれないね。おうちに戻りましょう」

二人は、車に乗り込んだ。家へ帰る途中、紗江は運転しながら言った。

「おばあちゃん。おかげで、いいインタビューができたわ。これをもとに、小説を書き始めてみようと思うの。ルポルタージュにしようかって思ったんだけど、大学の先生に相談したら、それもいいけど、私のファンタジーも入れて、ふくらましてはどうかって、言ってくれたの。まだ、どうふくらませるか、分からないけど、少し私の想像とか、こうなったらいいなとか・・・を入れてみるかもしれない。とにかく、書き始めてみることにするわ。書きながら、私の思いも入れていきたいの。だから、インタビューは、とりあえずお仕舞いにしていいでしょう?」

「ああ、もちろんいいよ。また聞きたいことがあったら、いつでも言っておくれ。喜んでお話するから。小説、がんばりなさい」

「ありがとう。おばあちゃん」

紗江と貞子の車は古い市街地の狭い道を抜け、雨宮医院の看板を掲げた自宅に着いた。

                      *

 紗江は夏から秋にかけて、小説執筆に専念した。貞子に、聞き漏らしたことを話してもらったり、時代背景の記録を確かめるために、地域の図書館にも通った。図書館には、貞子たちの団体の機関紙のバックナンバーが揃っていた。霞ヶ浦に関する茨城県の資料や大学の研究者らの論文も参考にした。様々な統計資料にも目を通し、年代や数値の正確さを期した。文体を何度も練り直し、読みやすくした。最後は祖母をはじめ、家族の前で朗読して、文体のリズムを整えた。

その年の暮れ、紗江は小説の習作を完成させ、指導教授の柳田に提出した。

一週間程して、教授室に呼ばれた紗江を見て、柳田は満足気だった。

「雨宮さん。なかなかいい作品に仕上がったね。戦前、戦中、戦後、そして平成・令和の時代を、その時代の波にもまれながら、地域の人々とともに生き抜いてきた女性の一生がいきいきと描けていたね。ところどころにユーモアもあって、楽しく読ませてもらったよ。卒業作品としてはこれで十分だ。

 ところで、年明けにこれを、若手作家の登竜門である文芸雑誌の新人賞に応募してみてはどうかね。十分期待できると思うよ。これまでも、我がW大学文学部は、作家、小説家、エッセイスト、脚本家、詩人を輩出している。君もその列に加わることを目指したまえ」

「はい。自信はありませんが、祖母がいつも、『希望を持ちなさい、希望を持って努力すれば道は拓ける』と言ってくれますから、頑張って応募してみようと思います」

柳田は肯いた。

「ぜひ挑戦してみたまえ。文芸新人賞は応募数が多くて狭き門だ。主催する出版社は、話題性がある売れそうな作品に賞を出す傾向があるから、地味な作品は不利だけど可能性はあるよ。ただし、入賞しても作家はなかなか食えないから、就職活動もしっかりやりたまえ。出版社の編集部なら、教え子の、先輩の卒業生がいるから、紹介状を書いてあげられるよ」

「はい、ありがとうございます。卒業までにあまり時間がありませんが、頑張ります」

 紗江は丁寧に一礼して、教授室を辞した。

                        *

その年のクリスマス・イブの夕方。紗江の家族は、車で霞ヶ浦総合公園に向かった。車は雨宮潤一の運転で、妻の郁子、祖母の貞子、そして紗江が同乗していた。

 その日、雨宮医院は診療を定時に切り上げ、看護師や医療事務スタッフを帰宅させ、土浦市の「水郷桜イルミネーション」を一家で見に行くことにしたのだった。「水郷桜イルミネーション」は今年で四回目だが、霞ヶ浦総合公園で行われ、霞ヶ浦の湖畔らしい電飾のデザインで、新聞やテレビでも紹介され、地域の話題になっていた。

 数日前、テレビの地域版ニュースを見た貞子が、見に行きたいと言い出した。潤一はクリスマス・イブに合わせて、母の願いを叶えたいと思った。

 イルミネーションは、家族の予想以上に印象的だった。車から降りた家族は、車椅子に乗った貞子とともに、懐中電灯で足元を照らしながら、ゆっくり進んだ。

見物に来ている市民がたくさんいた。

紗江が感激して言った。

「おばあちゃん、見て。きれいよ。幻想的ってこういうのをいうのね」

貞子も感激していた。

「連れてきてもらって良かったよ。天国みたいだわね。天国は、まだ行ったことはないけどね」

 郁子は、日頃の病院事務の仕事から解放されて、夢の世界にいるような気がした。

「今夜、夢に出てきそうだわ」

 日頃、医師という職業柄、いつも冷静な潤一もつられて言った。

「眼の網膜に焼きつくような光景だね」

 イルミネーションは、大きなオランダ風車の羽根にまで取り付けられ、ゆっくり回転していた。オランダ風車に続く緩やかな坂道や階段にも小さなLED電球が明滅していた。植え込みは霞ヶ浦の波を思わせる青色に彩られ、白い帆引船の輪郭がやはり電球で縁取られて浮かび上がっていた。湿地には、大きな紅白のハスの花が水に浮かぶようにLED電球でレイアウトされていた。

 貞子は誰に言うともなく、呟いた。 

「本当に天国みたいだね。先立った人たちを思い出すよ。あたし達姉妹を育てながら、小名木川の傍で工場を経営して忙しかった両親、それから雨宮の両親。あたしのつれあい。みんなあの世に行って、私を待ってる。あの世がこんなにきれいなら、何も怖くないわね。

この霞ヶ浦湖畔の町へ嫁いで来て、今は後悔してないよ。霞ヶ浦も少しずつきれいになっているし、このイルミネーションを用意してくれた人たちの気持ちが痛いほど分かるわね。みんな、霞ヶ浦を大切にする気持ちがようやく出てきたんだね。

このあいだは世界湖沼会議が霞ヶ浦で開かれたしねえ。世界中からたくさんの湖沼の環境問題の専門家が霞ヶ浦を見にきてくれた。本当によかった。頑張ってきた甲斐があった。あたしは東京で生まれたけれど、霞ヶ浦湖畔のこの町であの世へ行くのも悪くはないわね。みんなありがとうね・・・」

 貞子の頬に一筋、涙がつたった。イルミネーションが滲んだ。

                      了

コメント